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天正遣欧少年使節と音楽 [音楽]

1543年(天文12年)、数人のポルトガル人を乗せた中国船が九州南方の種子島に漂着した。
ヨーロッパ人の最初の来日であり、ポルトガルにとっては日本の発見なのである。

島主の種子島時堯(ときたか、1528-1579)はポルトガル人がもっていた鉄砲(火縄銃)を
買い求め、家臣にその使用法と製造法を学ばせた。これを契機としてポルトガル人は毎年
九州の諸都市に来航し、日本との貿易を行った。

またスペイン人も1584年(天正12年)肥前の平戸に来航し、日本との貿易を開始した。
スペイン人・ポルトガル人のことを南蛮人と呼び、その船を南蛮船、商取引を南蛮貿易と呼んだ。

ポルトガル船は、イエズス会(キリスト教の一会派)の布教を認めた大名領の港に入港したため、
大名は貿易を望んで宣教師を保護するとともに布教に協力し、なかには洗礼を受ける大名も
あった(キリシタン大名)。

そのうち、大友義鎮(宗麟、洗礼名フランシスコ、1530-1587)有馬晴信(洗礼名プロタジオ、のちジョアン、1567-1612)
大村純忠(ドン=バルトロメオ、1533-1587)3大名は、イエズス会宣教師ヴァリニャーノ(1539-1606)
勧めにより、1582年(天正10年)、セミナリオ(イエズス会の中等教育機関、長崎県南島原市有馬町に当時所在)
卒業生から選んだ次の4名の少年(12~14歳)を使節として数名の随員と共にローマ教皇のもとに派遣した。
★アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano、1539年2月15日 - 1606年1月20日)は、キリシタン時代の
日本を訪れたイエズス会員、カトリック教会の司祭。イエズス会東インド管区の巡察師として活躍した。

①正使:伊東マンショ(1569?-1612)大友宗麟の名代として。
②正使:千々石(ちじわ)ミゲル(1570- ? )有馬晴信・大村純忠の名代として。
③副使:中浦ジュリアン(1570 ?- 1633)
④副使:原マルチノ(1568 ?- 1629)

4名の少年使節は1582年2月20日 長崎を出帆、マカオ、ゴア(インド西海岸)を経て、
リスボン(ポルトガル)に到着、その後マドリード(スペイン)、アリカンテ(スペインの港)-
リヴォルノ(イタリアの港)、フィレンツェを経て1585年3月22日夜ローマに到着するのである。

ローマへの往路で特筆すべきイベントは次の通りである。

①1584年8月10日 (天正12年旧暦7月5日)ポルトガルの港であり首都であるリスボンに到着。
  サン・ロッケ教会が宿舎となる。リスボン近郊にあるシントラ宮殿に招かれ、ポルトガル副王
  アルベルト・アウストリアに謁見。
  ★アルベルト副王:Albrecht VII. von Österreichはスペイン・ポルトガル国王フェリペ2世の妹マリアとのちの神聖ローマ皇帝
  マクシミリアン2世の五男で、伯父のフェリーぺ2世よりポルトガルの統轄を委託されていた。
  のちになってスペイン領ネーデルラントの総督を務めた。
  ★サン・ロッケ教会:Igreja de São Roque イエズス会が建設した教会。現存する。
  ★シントラ宮殿(:Palácio Nacional de Sintra) - 14世紀に国王ジョアン1世によって建てられた夏の離宮。現存する。
  
②1584年11月25日(天正12年旧暦10月23日) スペインの首都マドリードでスペイン・ポルトガル国王
  フェリペ2世に歓待される。
  ★フェリペ2世別号:シチリア王、ポルトガル王(1580年 - 1598年)、ナポリ王、スペイン領ネーデルラント統治者、ミラノ公
  
③1585年3月2日 リヴォルノ港着・ピサにあるトスカーナ大公宮殿に宿泊。
  宮殿ではこの日の夜、歓迎舞踏会が催された。伊東マンショはトスカーナ大公妃ビアンカ・
  カッペッロ(1548-87)と踊ったとの記録がある。
  ★トスカーナ大公:フランチェスコ1世(在位:1574年 - 1587年)、メディチ家

④1585年3月7日(天正13年旧暦2月6日) フィレンツェに到着。メディチ家による歓迎舞踏会に出席。

少年使節の歓迎舞踏会では当時の宮廷舞踊として流行っていた①アルマンド(仏:Allemande),
②パヴァーヌ(仏:Pavane)、③サラバンダ(伊:Sarabanda)などが踊られたものと思われる。

少年使節はローマに到着した翌日、1585年の翌日3月23日教皇グレゴリオ(グレゴリウス)13世
謁見した。
★グレゴリウス13世:Gregorius XIII,1502年1月7日 - 1585年4月10日、ローマ教皇(在位,1572年 - 1585年)。
ずれが累積していたユリウス暦を廃し、グレゴリオ暦とよばれる新暦を採用したことでも有名。

ところが謁見した教皇グレゴリオ13世が4月10日薨去し同月25日シスト(シクストゥス)5世
教皇に選出され、少年使節は選出の翌日26日新教皇に謁見し、5月1日の新教皇の戴冠式に参列した。
★シクストゥス5世:Sixtus V,1520年12月13日 - 1590年8月27日、(在位,1585年 - 1590年)。

新教皇が選出された翌日に謁見出来たのはバチカンとしていかに使節を重要視し、
歓待していたかが伺えるのである。



JapaneseEmbassy.jpg
画像左上:中浦ジュリアン、左下:原マルチノ、上段中央:メスキータ神父 右上:伊東マンショ、右下:千々石ミゲル
★メスキータ神父:Padre Diego de Mesquita(随員の一人、通訳)
天正遣欧少年使節の来訪を伝える印刷物、           (京都大学図書館蔵)      (クリック拡大)

この印刷物はゴシック体の古典ドイツ語で書かれており判読困難ながら、
中央下段にある本文の冒頭から次が読み取れる。

『諸王を代理・代表し、1585年3月23日、Mancius(マンショ), Julianus(ジュリアン)、
Marrinus(マルチノ)、Michael(ミゲル)と称する日本より派遣された4名の少年を歓迎』

かくして少年使節はローマには1585年3月22日より同年6月3日まで約70日間滞在し、
帰国の途につくのである。復路は次の通りである。

ローマ(1585年6月3日発)-ボローニャーヴェネツィアーバドヴァーヴィチェンツァーミラノー
ジェノバ(出帆)-バルセロナ入港(スペイン)-モンソン-リスボン(ポルトガル、1586年
4月13日出帆。帰路につく。)-モザンビクーゴア(インド)-マカオー1590年6月23日マカオ出帆ー
同年7月21日長崎着。

復路における特記事項は次の通り;

①1585年6月28日ヴェネツィア共和国元首(ドージェ)ニコロ・ダ・ポンテ Nicolo da Ponte(1578年-
  1585年)に謁見。

②1585年7月9日 パドヴァ訪問/ヴィチェンツァ到着 夜、オリンピコ劇場での演奏会へ。
  ★オリンピコ劇場(Teatro Olimpico)は同年3月3日開場したばかり。現存する世界最古の劇場。

③1585年9月14日モンソン(スペイン)到着、スペイン・ポルトガル国王フェリペ2世と再会


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出典:長崎県大村市観光振興課

④1587年5月29日(天正15年旧暦4月23日) インドのゴアに到着。ヴァリニャーノに再会。
  コレジオ(学院)において原マルティノがヴァリニャーノに対し謝意表明演説を行った。
  同月、長崎でキリシタン大名大村純忠が死去。

⑤1587年6月 豊後においてキリシタン大名大友宗麟が死去。

⑥1587年7月 豊臣秀吉によるバテレン(宣教師)追放令発布。

使節は1588年8月11日マカオに到着したのであるが、上述の伴天連追放令が発布された
ことより、許可なくして日本に入国(帰国)出来なくなり約2年間マカオに滞在することとなった。

ようやく使節は1590年6月23日マカオを出帆し同年7月21日(天正18年旧暦6月20日)長崎
帰港した。約8.5年前4人は12~14歳の時に長崎を出帆し、はるばるローマを訪問、
帰国した時には20歳を過ぎていたのである。

そして翌年1591年3月3日(天正19年閏1月8日) 聚楽第において豊臣秀吉に謁見し、欧州事情を
披瀝すると共に、持ち帰った楽器を用い西洋音楽を演奏するのである(後述)。

          ☆☆☆☆☆☆            ☆☆☆☆☆☆

天正遣欧使節が持ち帰った楽器は次の5種類である。
★使節が持ち帰った楽器そのものの画像ではなく、あくまで参考画像。


1.クラヴィチェンバロ(伊: Clavicembalo):
  独:Cembalo, 英:ハープシコード(Harpsichord)、仏:クラヴサン(Clavecin) 
Klavecimbel-it.jpg
★鍵盤を用いて弦をプレクトラムで弾いて発音する楽器で、撥弦楽器(はつげんがっき)、または
  鍵盤楽器の一種に分類される。
★チェンバロは西ヨーロッパ圏において中世末期には開発されていたと考えられ、16世紀には
  イタリアのクラヴィチェンバロ製作家が弦にかかる張力の弱い、軽い楽器を作っていた。
★今日では、ルネサンス・バロック期の音楽をいわゆる古楽の形式で演奏する際には
  ヒストリカルチェンバロを用いるのが一般化し、オペラのレチタティーヴォ・セッコの伴奏の他、
  ルネサンスのダンス音楽やバロック音楽を演奏する際の通奏低音などで、古楽器として活躍している。


2.クラヴィコード
  英:Clavichord, 伊:Clavicordo, 独:Clavichord, 仏:Clavicorde
Clavicorde_Lépante.JPG
★クラヴィコードは14世紀頃に発明され、1840年代まで製作されつづけた。
★18世紀中葉から主としてドイツ語圏の国々、スカンジナビア半島およびイベリア半島において全盛期を迎えた。
★1400年ごろから1800年ごろにかけて、チェンバロ、ピアノおよびオルガンのために書かれた音楽の多くはクラヴィコードによって
  演奏することが可能であり、また実際に演奏されていた。
★家庭用の楽器として多くの音楽家に愛用され、例えばヨハン・ゼバスティアン・バッハの子であるC.P.E.バッハはクラヴィコードの
  熱心な支持者だった。また、F.J. ハイドンのソナタのいくつかも、当時のドイツ・オーストリアで製作されていた比較的大型の
  クラヴィコードで演奏されたと考えられる。


3.アルパ(伊Arpa)
  英:harp、独:Harfe、仏:harpe
harp.jpg
★楽器用法としては弦楽器に属し、弓を使わずにもっぱらはじいて音を出すため、撥弦楽器に分類される。
★日本語では竪琴(たてごと)と呼ばれる楽器群に含まれる。最も古い楽器の一つで、同種の楽器は世界各地に分布している。


4.ヴィオラ・ダ・ガンバ(伊:Viola da gamba)
  英語では「ヴァイオル」(viol)、仏語では「ヴィオール」(viole)、独語では「ガンベ」(Gambe)と呼ばれる。
Cello&viol.jpg    Jean-Marc_Nattier_003.jpg
★16~18世紀にヨーロッパで用いられた擦弦楽器。
★イタリア語の「ヴィオラ・ダ・ガンバ」は「脚のヴィオラ」の意味で、楽器を脚で支えることに由来する。これに対して
  「ヴィオラ・ダ・ブラッチョ」(=腕のヴィオラ)と呼ばれたのがヴァイオリン属。
  この場合の「ヴィオラ」は一般的に擦弦楽器を意味する。ヴィオラ・ダ・ガンバはヴァイオリン属(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)
  よりも歴史がやや古く、外観がヴァイオリン属に似ていること、また18世紀後半にいったん完全に廃れてしまったことから、
  しばしばヴァイオリン属の前身楽器と誤解されるが、両者は異なる系統である。
★ヴァイオリン属に比べると音量が小さいヴィオラ・ダ・ガンバは、劇場や野外での演奏には適さず、もっぱら宮廷や上流市民の
  家庭における室内楽、および教会音楽で用いられた。
★市民社会の成熟に伴って音楽演奏の場が大規模な公開演奏会場に移ると、リコーダー、リュート、チェンバロなどと同様に
  使用されなくなったが、19世紀末以来の古楽復興運動により復活した。


5.リュート(伊:Liuto)
  英:Lute
ReinassanceLute.jpg
★撥弦楽器の一種で、主に中世からバロック期にかけてヨーロッパで用いられた古楽器群の総称。
  ひとまとめにしてリュート属とも呼ばれるこれらの楽器群には時代や目的によってさまざまな形態のものがある。
★アラビア起源の楽器が中世にヨーロッパに伝来し独自に発達し、リュートの原型となったと考えられている。
  よく似た外見で現代もアラビア文化圏で用いられている楽器であるウード (oud) と同じ起源をもつとされ、
  また日本や中国の琵琶とも祖先を同じくする。
  リュートやウードの名前は「木」を意味するアラビア語の"al‘ud"(アル・ウード)に由来するとされてきた。
★すでにサーサーン朝ペルシアにおいて、原型となる楽器が用いられていた。滴型の本体と後ろに折れたヘッドを特徴とし、
  基本的にリュートと同じ形をしている。四弦で、小さな撥を用いていたようである。「バルバット」と呼称されていたらしく、
  これが西伝してリュートになったといわれる。一方、東伝したものは後漢の頃中国に入り、最初「胡琴」と呼ばれたが、
  ウイグル語からの音訳で「琵琶」となったらしい。奈良時代に日本にもたらされた。
★リュートがヨーロッパに最初に現れたのは中世で、十字軍によって中東からもたらされたとか、スペインのイスラム教徒と
  キリスト教徒の分裂を横断して運ばれたなどの説がある。
★ルネサンス末期に、フィレンツェのメディチ家宮廷のカメラータでいわゆるモノディ様式が誕生し、伴奏楽器として
  新たなタイプのリュートがつくられるようになった。
  フィレンツェのカメラータでは、古代ギリシアの音楽の復興をその目的として活動していたが、古代ギリシアのリラ(lyre)に
  相当する楽器としてキタローネ(テオルボ)がつくられた。
  これはバスリュートのような大きなボディーのリュートのネックに長い竿状の拡張ネックをとりつけ、そこに長い弦を
  付加したもので、バスリュートよりも低く強い低音を実現させている。このような超低音はモノディの劇的な感情表現に効果的であった。

        ☆☆☆☆☆         ☆☆☆☆☆         ☆☆☆☆☆

天正遣欧使節が帰国後、豊臣秀吉に御前演奏をした曲
★四重奏が演奏されたが、曲名は記録されていないのであくまでも推測の域を出ない。

曲名:『千々の悲しみ』"Mille regrets"
作曲者:ジョスカン・デ・プレ"Josquin des Prés”
★ジョスカン・デ・プレ:フランス人 1450/55年 - 1521年8月27日、盛期ルネサンス時代の作曲家、声楽家。フランドル楽派
本名はジョスカン・ルブロアット(Jossequin Lebloitte )。

この曲「千々の悲しみ」はスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)が好んだため、
皇帝の歌」として、まずスペインで爆発的に流行し、その後ローマを含む全ヨーロッパで流行った。
★カール5世(Karl V,1500年2月24日 - 1558年9月21日)は、スペイン・ハプスブルク家出身の 神聖ローマ帝国皇帝
(在位:1519年 - 1556年)。スペイン王としてはカルロス1世(Carlos I, 在位:1516年 - 1556年)。
カール5世は1500年にフランドル(現在のベルギー)のガン(ヘント)で生まれ、1517年まで ネーデルラントで育ったので
当初母国語としてはフランス語(及びドイツ語)で、スペイン語は殆ど話せなかったがスペイン王として戴冠してから勉強し
極めて流暢に話せる様になった。
当時のヨーロッパから新大陸に広がる広大な領土をたくみに統治した有能な君主であり、後になって(1814年から1815年にかけて)
宮廷画家ゴヤが想像画(エッチング)「カルロス5世、バリャドリード闘牛場で、槍で牡牛を突く」を描いている。

カール5世は1556年に、ドイツ皇帝を弟のフェルジナンドに、スペイン王を長男のフィリップ
(フェリーぺ)に譲って帝位を退いたが、その二年後に没した。スペイン王となったフィリップは
フェリーペ二世と稱した。

少年使節が謁見したのはこのフェリーペ二世であるが、カール五世が退位してから約30年が経過
しても、尚且つ皇帝の歌「千々の悲しみ」は歌われ続けていたのである。

少年使節はヨーロッパから持ち帰った楽器を用い、秀吉にこの曲を披露したと考えられている。
★曲名については記録が残っておらず、中世・ルネッサンス音楽の権威である皆川達夫氏の推測では あるが、
その可能性は非常に高いとされている。

少年使節が日本を出帆して4ヶ月後の天正10年6月2日(1582年6月21日)「本能寺の変」が
起こり織田信長が自害し、豊臣秀吉の時代が始まった。
★織田信長:天文3年5月12日(1534年6月23日)ー天正10年6月2日(1582年6月21日)
★豊臣秀吉:天文6年2月6日(1537年3月17日)ー慶長3年8月18日(1598年9月18日)生年は天文5年1月1日(1536年2月2日)とも伝わる。

はじめは秀吉も信長同様、キリスト教に対して好意的だったが、秀吉はキリスト教に疑惑を
持ちはじめ、その考えを変えつつあった。

少年使節は帰国の翌年、1591年3月3日(天正19年閏1月8日)聚楽第で秀吉に謁見、「千々の悲しみ」を
御前演奏したが、それには秀吉のキリスト教に対する考えを翻させる意図があったといわれている。

彼等が演奏したのは四重奏で、使用した楽器は①アルパ(小さいハープ)、②クラヴォ(クラヴィコルド
鍵盤楽器)、③ラウテ(リュート)、④レべカ(ヴィオラ・ダ・ガンバ=ヴィオール)であったとされている。
秀吉は三度もアンコールをしたという。
★秀吉は4名に対し仕官を勧めたが、全員共、司祭になることを決心していたことより、秀吉の申し出でを断るのである。
又、秀吉もキリスト教に対する考えは変えなかった。

千々の悲しみ

左側女性奏者の楽器:リュート         右側男性奏者の楽器:ビオラ・ダ・ガンバ

Mille regrets de vous abandonner
Et d'elonger votre face amoureuse.
J'ai si grand deuil et peine douloureuse
Qu'on me verra bref mes jours deffiner.

千々の悲しみ、それはあなたを見捨て、
そして愛しいあなたから遠く離れること、
私の悲嘆と苦しみはあまりにも大きく、
私の命はあとほんの数日しかもたない様に見えることでしょう。

          ☆☆☆☆☆☆☆          ☆☆☆☆☆☆☆

天正遣欧使節は織田信長よりローマ法皇への献上品(屏風)を携えて行ったわけだが
日本帰国の3年前に豊臣秀吉によってバテレン(宣教師)追放令が発布され、キリスト教の
布教や改宗の弾圧という事態に直面したのである。そして、時代は1600年(慶長5年)「関が原の戦い」に
大勝した徳川家康1542-1616)に移り、徳川幕府による更なるキリシタン迫害によって、
希望に燃えて帰国した使節4名は8.5年にわたる訪欧の旅で得た知識・経験を十二分に発揮
出来ぬまま、病死(伊東マンショ)、棄教(千々石ミゲル)、殉教(中浦ジュリアン)、国外追放(原マルチノ)
といった生涯を送ることになるのである。
★徳川幕府による迫害:1612年(慶長17年)「禁教令」を発布。同年伊東マンショ病死。1614年300名余をマニラとマカオに追放。
1622年(元和8年)長崎で55名の宣教師・信徒を処刑(元和の大殉教)

千々の悲しみ」は吉利支丹を弾圧・迫害される彼ら4人の深い悲しみと真情を
秀吉に対し披瀝しているかの様に思えるのである。



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アヨアン・イゴカー

>聚楽第において豊臣秀吉に謁見し、欧州事情を披瀝すると共に、持ち帰った楽器を用い西洋音楽を演奏するのである

当時の旅行記、体験談と言うのは、現在と比較にならないほど新知識として価値があったのでしょうね。
ビオラ・ダ・ガンバの音量が小さいと言うのは知りませんでした。バイオリン族は小さくてもより大きな音がでるような構造になっているのですね?

大変興味深く、拝読いたしました。
by アヨアン・イゴカー (2009-11-13 09:35) 

nekotaro

最初からしばらくは話に着いていけましたが、
さすがに奥深くなっていき・・・
ズンズンと読んで、ついに楽器登場!!
リュートだけは知ってましたねぇ(^_^)v

それにしても、
こうして戦国から江戸時代を見渡すと、
日本人もたいしたもんですね。。。
感心しました!!
by nekotaro (2009-11-13 12:21) 

Cecilia

「千々の悲しみ」・・・アマデウスさんの記事を拝見させていただいて以前記事にもしましたCDを思い出しましたがそれにもありました!!
「空想~安土城御前演奏会~信長公御所望の南蛮音楽・王のパヴァーヌ」というCDです。
http://santa-cecilia.blog.so-net.ne.jp/2008-10-11
by Cecilia (2009-11-13 14:13) 

kakasisannpo

シントラの王宮は二つの大きな煙突を持つ宮殿でした
つい先ごろ、行ってきました
良くここまで日本から、やって来たものですね。
by kakasisannpo (2009-11-13 14:24) 

アマデウス

アヨアン・イゴカーさん!こんにちは~☆
ビオラ・ダ・ガンバとバイオリン属との関係はご了解の通りです。
冗長なる記事をお読み頂いた上でのコメントありがとうございます!
by アマデウス (2009-11-13 22:19) 

アマデウス

nekotaroさん!こんにちは~☆
いつの時代でも偉大な先駆者が現れるものですね。
なが~い記事をお読み頂いてのコメントありがとうございます☆
by アマデウス (2009-11-13 22:23) 

アマデウス

Ceciliaさん!こんにちは~☆
コメントと記事のご紹介を頂きありがとうございます!
それにしてもCeciliaさんの記事が広範囲に渡っているのには今更ながら
驚きです☆記事にある曲もゆっくり聴かせて頂きます☆
by アマデウス (2009-11-13 22:28) 

アマデウス

kakasisannpoさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
そういえば先日「ベトナム旅行記」の中間で「ちょっぴりポルトガル」の美しい画像を拝見しました☆ということは近々「ポルトガル旅行記」がはじまるわけですね。楽しみです☆ところでリスボンの「焼き鰯」が食べたくなってきました~☆

by アマデウス (2009-11-13 22:35) 

pegasas

信長さんが生きていたらこの少年達の人生も日本も
変わっていたでしょうね~良かったかか悪かったかは
わかりませんが・・少年使節の折角の知識や経験も
生かされず残念でしたね。歴史は残酷で哀しいものですね。
by pegasas (2009-11-14 11:12) 

アマデウス

pegasasさん!こんにちは~☆
いつもコメントありがとうございます!
4人の少年達は秀吉に謁見の後「司祭」になって隠れ切支丹として活動をしたわけですが、信長が没したのが48歳の時、彼が後20年生きていればと敢えて仮定すれば日本は。。。う~ん。。。

by アマデウス (2009-11-14 12:58) 

LittleMy

私は、邦人オペラでジュリアンの少年時代を演じました。とても懐かしく、記事を読ませていただきました。
by LittleMy (2009-11-16 18:01) 

アマデウス

LittleMyさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
LittleMyさんの中浦ジュリアンの少年時代、聴いてみたいです☆

by アマデウス (2009-11-20 06:07) 

黄昏の線路

種子島へは数年前に訪れたことありますよ。
火縄銃とか島の歴史が色々展示されてたのを思い出しました。
「千々の悲しみ」は、上のお話とともに、
悲しみが心にジ-ンと伝わってきますね。
by 黄昏の線路 (2009-11-21 03:31) 

アマデウス

黄昏の線路さん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
黄昏の線路さんの記事「種子島から宇宙へ」拝見しました☆
http://myexpresstrip.blog.so-net.ne.jp/2008-03-16
海を眺める「鉄砲のオブジェと時堯の像」と「種子島宇宙センター」;まさに「歴史」と「未来」の島ですね☆
by アマデウス (2009-11-21 08:25) 

モッズパンツ

戦国時代ファンとしては、天正遣欧少年使節はスゴーク興味があるお話でトテーモ勉強になりました。音楽家でもあったのですねー。w (^ω^)b
伊達政宗が送った慶長遣欧使節や、江戸時代の漂流者であるジョン万次郎や大黒屋光太夫など、当時海外へ行った人々のお話は面白いですよね。当人達は非常に大変だったとは思いますが。w (´∀`)ノ

(^ー^)ノシ
by モッズパンツ (2009-11-23 14:28) 

アマデウス

モッズパンツさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
日本を出帆(或いは遭難)してから帰国するまでが大体次のとおりですから
スゴーク&トテーモ長い旅ですよね。当人達は本当に大変だったと思います☆
①天正遣欧少年使節:8.5年
②慶長遣欧使節:7年
③大黒屋光太夫:10年
④ジョン万次郎:10年

by アマデウス (2009-11-24 11:34) 

xin

アマデウスさん、興味深く拝見させていただきました!

若い頃、この題材の音教で九州各地を廻ったのを想い出しました。
この後長崎を除き、ペリー来航まで西洋音楽は日本に入らなかった訳ですから少年たちの辿った運命も含め時代の無情を感じます。

ところで、持帰った五種の楽器や、四重奏の楽器編成など出典がありましたら教えていただきたいのですがお願い出来ませんか?

ずうずうしくて申訳ありません。
by xin (2010-03-13 22:01) 

アマデウス

xin さん!ご訪問ありがとうございます!
コメント頂きながら気ずくのが遅れ回答遅延しましたことお詫びします☆
出展を記入したメモ帳が手元にありませんので、次にコンタクトの上お問い合わせ願います☆
長崎県文化振興課 ながさき歴史発見・発信プロジェクト 長崎市江戸町2-13 電話:095-895-2764 info@tabinaga.jp
by アマデウス (2010-03-15 07:22) 

NO NAME

非常に興味深い、ありがとう
by NO NAME (2011-09-05 20:42) 

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