SSブログ

モーツァルトの西方大旅行④(フランドルとオランダ) [モーツァルト]

モーツァルト一家は約1年3ヶ月にわたって滞在したロンドンを1765年7月24日に発ち、
カンタベリーを経てドーヴァに着き再び英仏海峡を渡り、8月1日にカレーに戻り、ここから、
フランドル(現在のベルギー)を経由してオランダに向かうのである。
神童モーツァルト9歳であった。

このオランダへの旅はレオポルトの当初の計画には含まれていなかったのであるが、
在英国オランダ大使より、デン・ハーグのオランニエ公ヴィレム5世夫妻よりの強い訪問要請が
伝達され、これを受けてモーツァルト一家はフランドル経由オランダへの旅に出発したのである。

★オランニエ公ヴィレム5世:オランダ総督 Willem V, 1748-1807、当時18歳

リルでヴォルフガングとレオポルトが病(悪性の風邪?)に倒れるという
ハプニングもあったが、一家は無事ヘント経由、アントウェルペンに到着している。

★アントウェルペン(オランダ語: Antwerpen/フランス語: Anvers/ 英語: Antwerp)は現在はベルギーの
フランデレン地域・アントウェルペン州の州都で、ベルギー第2の都市

ヘントアントワープ(アントヴェルペ)についてレオポルトはザルツブルクのハーゲナウアー氏に
次の通り手紙で語っている。

ヘントは大きいけれど人口は多くない町です。ヴォルフガングは、午後、
聖ベルナルド修道院の新しい大オルガンを弾きました。

アントヴェルペには、日曜日だったので二日滞在しました。
ヴォルフガングが大聖堂の大オルガンを弾きました。。。(中略)

≪。。。ここではなかんずく、まこと選り抜きの絵画のことをお話しすべきでしょう。
アントヴェルペはことさらそうした土地です。私どもは教会という教会を走りまわりました。
私は当地とブリュッセルでほどたくさんの白大理石に黒大理石、それにおびただしい
すぐれた絵画、なかでもリューベンスのものにお目にかかったことはいちどもありません。
とりわけアントヴェルペの大聖堂の『十字架よりの降下』はリューベンスの作品ですが、
想像力のすべてを凌駕しています。
デン・ハーク、1765年9月19日 レオポルトよりザルツブルクのローレンツ・ハーゲナウアー宛書簡/モーツァルト書簡全集

★ピーテル・パウル・ルーベンス:Peter Paul Rubens, 1577年6月28日 - 1640年5月30日、バロック期のフランドルの画家
及び外交官。「ルーベンス」はドイツ語読みで、オランダ語では「リューベンス」と発音する。



キリスト降下.jpg
十字架よりの降下(キリスト降下)1611-14年 420,5 × 320 cm
ピーテル・パウル・ルーベンス作
アントウェルペン大聖堂                       クリック拡大

★関連記事
外交官画家ルーベンス

アントワープ(アントヴェルペ)を後にした一家は、ロッテルダムを経て1765年9月10日、
デン・ハーグに到着したのである。

レオポルトはデン・ハークよりザルツブルクのハーゲナウアー宛の書簡にオランダの印象を次の
通り語っている。

≪。。。オランダの都会の清潔さ(これは私たちの多くにとっては極端すぎるものに見えます)が
私にはたいへん気に入っていること、それに私がロッテルダムの広場で有名な「ロッテルダムの
エラスムス」の彫像を眺めてたいへん満足だったことだけ、かきとめておきさえすれば十分です。≫

ザルツブルク大学で哲学を学んだレオポルドにとっては、エラスムスの彫像に実際に接し、
感激もひとしおであった。レオポルトは知る由もないが、日本には1600年にエラスムス像
もたらされているのである。

★デジデリウス・エラスムス:Desiderius Erasmus, 1467年?10月27日 - 1536年7月12日、ネーデルラント出身の
司祭、人文主義者、神学者。出身地から「ロッテルダムのエラスムス」とも呼ばれる。『痴愚神礼讃』、『自由意志論』、
『校訂版 新約聖書』、『ヒエロニムス全集』など。


Rotterdam_standbeeld_Erasmus.jpg               resize0049.jpg
エラスムスのブロンズ像  1622年   ロッテルダム                    エラスムス立像 木像1598年 
                                        高さ(台座を含む)121cm  東京国立博物館蔵 


エラスムス立像(東京国立博物館蔵)について:
1600年3月16日、豊後国(現大分県)に約300トンのオランダの商船リーフデ号(蘭:De Liefde 「愛」)が漂着した。
この商船の旧名はエラスムス号であった。同船には、徳川家康の外交顧問として有名なウィリアム・アダムス
(三浦按針)やヤン・ヨーステン(耶揚子。現在の東京都中央区八重洲の地名は彼にちなむ)も乗っていた。
同船の船尾には、エラスムス木像が船の守護神的に取り付けられていた。
この像は、貨狄(かてき)像(「貨狄観音」とも)の名で栃木県佐野市の龍江院という寺にまつられていたが、
昭和5年(1930年))国の重要文化財に指定され、東京国立博物館に寄託されている。高さ105cm、頭にかぶり物をし、
右手には巻物を持つ。 巻物の第1行には「ER(AS)MVS」、第2行には「R(OT)TE(RDA)M1598」とある。尚、
リーフデ号は日本に初めて到着したオランダ船となり、ウィリアム・アダムスは来日した最初のイギリス人となった。


閑話休題。デン・ハーグでは、一家を招待してくれたオランニエ公ヴィレム5世の宮廷を訪問し
翌1766年1月22日には演奏会を催した。

神童モーツァルト(当時9歳)デン・ハーグ滞在中、1765年12月、「交響曲変ロ長調」K.22を作曲し、
翌年、1766年、「交響曲ト長調」K.Anh.221/45aを作曲したとされいる。K.22はホルンによって
彩りされ、ロンドンで極めて親しくなったヨハン・クリスティアン・バッハのクラヴィーア協奏曲の
影響を受けている。

★K.Anh221/45a:旧ランバッハ交響曲。リンツ郊外ランバッハにあるベネディクト派修道院に1769年1月
一宿一飯のお礼としてモーツァルトより寄贈された。
  

交響曲(第5番)変ロ長調 K.22 第一楽章 アレグロ
アカデミー室内管弦楽団 Academy of St. Martin in the Field
指揮:サー・ネヴィル・マリナー Sir Neville Marriner



デン・ハーグで10歳の誕生日を迎えたモーツァルトはヴィレム5世の即位祝典用に管弦楽の
ための混成曲「ガリマティアス・ムジクム(音楽のおしゃべり)」K.32を作曲した。
この曲は1766年3月7日から12日まで続いた祝典のうちのいずれかの日に食卓音楽として
演奏されたものと思われる。

このほか、「クラヴィーアとヴァイオリンのための六つのソナタ」K.26-K.31を作曲した。
この六つのソナタは「作品IV」としてオランダのフンメル社より出版され、オランニエ公妃に献呈された。

デン・ハーグを発った一行はアントヴェルペ、ブリュッセルなどを経てフランスに入り、パリでは
ヴェルサイユ再訪を果たしている。フランス国王には通算3度謁見し、御前演奏を行ったことになる。

この後一行はリヨンなどに立ち寄り、スイスのジュネーヴローザンスチューリヒ等を歴訪し、
各地で演奏会を開いた。それから一行はドイツに入り、アウクスブルク、ミュンヘンを経由して
1766年11月29日、3年半ぶりにザルツブルクに帰郷した。

7歳で「西方への大旅行」に出発した神童モーツァルトは各地で一流の音楽家と交流し、彼らの
音楽を吸収しつつ学才を磨き、また一流の芸術にも触れて感性を高め、優れた音楽家である
父レオポルトも驚嘆するほどの成長をとげ、10歳と10ヶ月で故郷に戻ったのである。     


関連記事
レクイエム
モーツァルト生誕254周年
モーツァルトの馬車の旅
モーツァルトの西方大旅行①(パリ)
モーツァルトの西方大旅行②(ロンドン①)
モーツァルトの西方大旅行③(ロンドン②)
猫とモーツァルト
モーツァルトの2度目のウィーン旅行
モーツァルトの第1回イタリア旅行(その1)
モーツァルトの第1回イタリア旅行(その2)
モーツァルトの第2回イタリア旅行
モーツァルトの第3回イタリア旅行
モーツァルトの3度目のウィーン旅行
ザルツブルクのモーツァルト17-18歳(1773-74年)
モーツァルトのミュンヘン旅行≪「偽の女庭師」作曲・上演の旅≫
ザルツブルクのモーツァルト19歳(1775年)
ザルツブルクのモーツァルト20歳(1776年)
ザルツブルクのモーツァルト21歳(求職の旅へ)
犬とモーツァルト
モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅①(マンハイム①)
モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅②(マンハイム②)
モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅③(パリ)
ザルツブルクのモーツァルト23歳(1779年)
モーツァルト24歳・ザルツブルク在住最後の年(1780年)
モーツァルトのミュンヘン旅行(「イドメネオ」作曲と上演の旅)
モーツァルト25歳の独立とウィーン時代の幕開け(1781年)
モーツァルト26歳の結婚と「後宮からの誘拐」(ウィーン②1782年)モーツァルト27歳・演奏会の成功とザルツブルク里帰り(ウィーン③1783年)
ピアノ・ソナタ(第13番)変ロ長調 と動物たち(1783年ザルツブルクの帰途立ち寄ったリンツ関連) 
モーツァルト28歳・演奏活動絶頂期(ウィーン④1784年)
モーツァルトと小鳥たち (クラビーア協奏曲(第17番)ト長調(K.453)第三楽章の主題を歌うムクドリモーツァルト)
父レオポルト、絶頂期のモーツァルト29歳を訪問(ウィーン⑤1785年)
モーツァルト30歳・「劇場支配人」と「フィガロの結婚」(ウィーン⑥1786年)
フィガロの結婚(その1)序曲+第一幕第一景第一曲
モーツァルト31歳・父レオポルトの死と「ドン・ジョヴァンニ」(ウィーン⑦1787年)
ドン・ジョヴァンニ(その1)
モーツァルト33歳・プロイセン(北ドイツ)への旅(ウィーン⑨1789年)
モーツァルト34歳・「コシ・ファン・トゥッテ」(ウィーン⑩1790年)
モーツァルト35歳前半・「皇帝ティートの慈悲」(ウィーン⑪1791年前半)
モーツァルト35歳後半「魔笛」と「レクイエム」(ウィーン⑫1791年後半)



nice!(50)  コメント(18)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 50

コメント 18

バロックが好き

明るくて晴れ晴れとした気持ちのいい曲ですね♪
デン・ハーグ・・・・安城市にあるデン・パークに行ってきました^^;。
10歳!まだ、普通の子供だったら思う事もうまく言葉に出来ないのに
音楽でこんなに素晴らしい表現が出来るなんて
神童としか言いようがないですね。
by バロックが好き (2010-04-15 12:33) 

whitered

こんにちは。ルーベンスの絵画、構図といい色彩といい見事ですね。幼い時分に父親に連れられての大旅行は、大変だったと思います。でも、それ以上に、実物教育や偉大な音楽家との出会いなど、旅自体が英才教育だったのかもしれませんね。
by whitered (2010-04-15 13:41) 

Esther

モーツァルトのお父さんの見たエラスムスの像と同じものなのですね?
それが日本にあるということは....日本についての情報も入っていたわけですよね?
このエラスムスの像...上野にあるんですよね?気がつきませんでした。すごい、すごい。
by Esther (2010-04-15 14:40) 

kontenten

カンタベリーって地名だったのですね^^;Aアセアセ
ラグビー好きな奥さんに着せられているシャツが
ニュージーランドのカンタベリー社製なんです(><)。
by kontenten (2010-04-15 14:42) 

バロックが好き

今晩は☆
まだ、当分ガラスペンを使ってゆとりある暮らしが
出来そうにないのですが・・・・
↴ギャラリートネリコさんの所でガラスペンやインクの紹介が
↓あったので。。。。
http://blog.livedoor.jp/tonellico_staff/archives/51058569.html
PC苦手でうまくアドレスがコピーできなかったんですが。。。
御参考までに・・・。

by バロックが好き (2010-04-15 21:41) 

アマデウス

バロックが好き さん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
表現についてですがモーツァルトが22歳の時に次の様に父親に語っています☆
「ぼくは詩を書くことはできません。詩人ではないからです。ぼくは、巧みに描きわけて影や光を表現することはできません。画家ではないからです。そればかりかぼくは、ほのめかしや身ぶり手真似でぼくの感情や考えをあらわすこともできません。ぼくは踊り手ではありませんから。でも、音でならそれができます。ぼくは音楽家ですから。」
by アマデウス (2010-04-16 06:26) 

アマデウス

whiteredさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
ご指摘の通り、まさに旅そのものが楽才を高める為の最良の手段であったわけですよね☆そして旅こそが父レオポルトがモーツァルトに施した英才教育だったのですね☆
by アマデウス (2010-04-16 06:42) 

アマデウス

Estherさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
左側画像「エラスムスのブロンズ像」がモーツァルト一家が1765年ロッテルダムで見た像です。右側画像「エラスムス立像(木像)」が1600年に日本に到来した像で、この木像はモーツァルト一家は見ていませが、上野の東京国立博物館にありますので、モーツァルト一家に成り代わりご覧になって下さい☆
by アマデウス (2010-04-16 06:56) 

アマデウス

kontentenさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
ご指摘の通りCanterburyは英国国教会の総本山(カンタベリー大聖堂)のある約15万人程の歴史ある都市ですよね☆ニュージーランドのCanterbury地区の名もここから来たのですね☆カンタベリー社製のラグビー関連衣料品等は世界的に有名ですね!さすが。。。

by アマデウス (2010-04-16 07:10) 

アマデウス

バロックが好き さん!こんにちは~☆
わざわざアドバイス頂きありがとうございます!
アクセスさせて頂きました。ガラスペン自体の品質によって書きやすいかどうかが大きく左右される様ですね☆30色のインクの品揃えとはすごいですね(◎ー◎;) 
by アマデウス (2010-04-16 07:15) 

LittleMy

旅と一流に触れるというのが、彼をますます成長させていったんですね!
by LittleMy (2010-04-16 08:54) 

アマデウス

LittleMyさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
ご指摘の通り、旅を通じて一流の音楽を吸収しつつ成長したのですね。22歳の時マンハイムから父親にだした手紙で次の通り語っています;
≪。。。ご存知の通り、ぼくはどんな種類のどんな様式の作曲でも、かなりうまくとりいれたり模倣したりできますからね。。。≫
少なくとも22歳の時には、モーツァルトはあらゆるテクニックをマスターし18世紀ヨーロッパのほぼすべての音楽に精通することになったといえるでしょうね。

by アマデウス (2010-04-17 06:28) 

nekotaro

また違ったアプローチでモーツァルトのスゴさを伝えて下さい!
とっても面白い、興味深い、勉強になる・・・ふむふむ。
楽しみにしています(^^)/
by nekotaro (2010-04-17 20:23) 

アマデウス

nekotaroさん!こんにちは~☆
いつもお付き合い頂いてのコメントありがとうございます(☆▽☆)
これからも宜しくお願いします☆

by アマデウス (2010-04-17 22:53) 

モッズパンツ

1600年といえば、関ヶ原の合戦があった年ですね。そんな大昔にエラスムス立像は日本にやって来たのですね。すごいなー。w (^ω^)b

3年半の演奏旅行で、モーツァルトは心身並びに音楽家としても一回り大きくなったのでしょうね。w
(´∀`)ノ

お茶とサンドイッチとおにぎりを持って、演奏旅行に行くよw
   ∧_∧             __    ,.-、 
  (・∀・,,)     旦~    /|||   (,,■)
  O┬O )□─| ̄ ̄ ̄|─| ̄ ̄ ̄|─| ̄ ̄ ̄|
  ◎┴し'-◎  ̄◎ ̄    ̄◎ ̄   ̄◎ ̄ ~ ~
by モッズパンツ (2010-04-19 00:54) 

アマデウス

モッズパンツさん!こんにちは~☆
今回も楽しいAAでのコメントありがとうございます☆( /^ω^)/♪
まさに関が原の合戦の半年前位に三本マストの帆船「リーフデ号(旧名エラスムス号)」でエラスムス立像は日本にやってきたのですね☆
モーツァルトは3年半の旅行で飛躍的進歩を遂げています!交響曲や宗教曲も作曲するまでに成長しており、10歳でもう立派な作曲家ですよね☆
by アマデウス (2010-04-19 08:38) 

塩

コメントをいただきありがとうございました。
お返事にならないお返事はコメントをいただいた私のブログ欄に書かせていただきました。
なお、私は友人たちと弦楽四重奏ができた(学生の音楽会でも演奏)のが唯一のヴァイオリンの思い出で、お恥ずかしいかぎりです。
by (2010-04-22 10:03) 

アマデウス

Dr.塩 こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
弦楽四重奏、素晴らしい青春時代の思い出ですね☆
敬意を表して、近々モーツァルトの弦楽四重奏をとりあげたいと思います☆
by アマデウス (2010-04-23 08:51) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。