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モーツァルトの第3回イタリア旅行 [モーツァルト]

モーツァルト父子が第2回イタリア(ミラノ)旅行よりザルツブルクに帰郷した翌日、
1771年12月16日ザルツブルク大司教シュラッテンバッハ伯ジークムント3世
74歳で逝去した。

★シュラッテンバッハ伯ジークムント3世:Siegmund III. Graf von Schrattenbach 在位1753年 - 1771年。
モーツァルト父子の楽才を認め、なにかと便宜を与えた。

1772年3月14日後任大司教にはコロレド伯ヒエロニュムス(当時39歳)が選ばれ、4月29日に
ザルツブルク入場の儀式が挙行された。新大司教着任祝典に際し、モーツァルト
劇的セレナータ≪シピオーネの夢" Il sogno di Scipione" ≫(K.126)を用意し、
演奏会形式で上演したとされている(但し、上演されたという確証はのこされていない)

★コロレド伯ヒエロニュムス:Hieronymus Graf von Colloredo 1732-1812。
★シピオーネの夢:台本はメタスタージオ。原作は共和政ローマ期の文人キケロ(紀元前106年 - 紀元前43年)の
「スキピオの夢」。シピオーネはカルタゴを征服したローマの武将である。紀元前2世紀頃、ローマ軍司令官の
シピオーネ(T)の夢に貞節の女神コスタンツァ(S)と幸運の女神フォルトゥーナ(S)が現れ結婚をせまる。
シピオーネがコスタンツァを選ぶとフォルトゥーナが怒り狂い嵐を起こす。。。そしてシピオーネは目覚め、
夢は教訓であったことに気がつく。

モーツァルト(当時16歳)は新大司教により、8月21日付で有給(年給150フローリン)の宮廷楽師長
任命された。これは第1回のイタリア旅行に出る前に無給の宮廷楽師長に前大司教より任命されたが、
イタリアよりの帰国後は同じ肩書きで有給に切り替えることが公文書にて約されており、その約束が
新大司教により果たされたものである。

★宮廷楽師長はコンサート・マスターであり、楽長、副楽長(父レオポルト)に次ぐ三番目の役職。宮廷楽団全体を
統率・指揮する首席奏者(モーツァルトの場合は首席ヴァイオリン奏者)。
★副楽長の父レオポルトの年給(諸手当込み)は当時354フローリンであった。

★第三回イタリア旅行に出発するまでの約10ヶ月のザルツブルク滞在中に、9曲の交響曲≪ハ長調(第9番)K.73,イ長調
(第14番)K.114, ト長調(第15番)K.124, ハ長調(第16番)K.128, ト長調(第17番)K.129、ヘ長調(第18番)K.130,
変ホ長調(第19番)K.132,ニ長調(第20番)K.133, イ長調(第21番)K.134)のほか≪リタニア≫変ロ長調(K.125)、
レジナ・チェリ”Regina Coeli”≫変ロ長調(K.127)を含む教会音楽や数曲のディヴェルティメント(ニ長調 K.136/125a,
変ロ長調K.137/125b, ヘ長調K.138/125c、ニ長調K.131)などを作曲している。

         ★★★★★         ★★★★★         ★★★★ ★

1772年10月24日、16歳のモーツァルトミラノ謝肉祭用オペラ作曲・演奏指導の為、第3回目の
イタリア旅行に父レオポルトと共に旅立ち、今回もインスブルック、トレント、ロヴェレート、ヴェローナを
経由し、11月4日にミラノに到着した。

第1回イタリア旅行中に依頼された今回のミラノの謝肉祭用オペラは≪ルーチョ・シッラ
”Lucio Silla” 3幕の音楽劇である。台本はミラノの若い劇場付詩人ジョヴァンニ・デ・ガメッラ
(メタスタージョが補筆)によるものであった。

このオペラは二年前の≪ポントの王、ミトリダーテ≫と同様、謝肉祭シーズンの第一オペラであり、
メインとなる第二オペラにはパイジェッロの≪モンゴルのシスマーノ≫が同じガメッラの台本で
予定されていた。

★ミラノでは謝肉祭シーズンに2曲の新作オペラが上演されることになっており、シーズン幕開けに上演されるのが
第一オペラであり、第二オペラがいわばシーズンのメインで第二オペラは有名なベテラン作曲家に任されていた。

台本配役表は予め夏頃にはザルツブルクに送られていたと思われるので、モーツァルトはオペラの
全体構成やレチタティーヴォの作曲はミラノ到着前にある程度準備していたものと思われる。


ルーチョ・シッラについて
ルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクス(ラテン語: Lucius Cornelius Sulla Felix、 紀元前138年 - 紀元前78年)は、
共和政ローマ期の軍人・政治家。単にスッラと呼ばれることが多い。イタリア語ではルーチョ・シッラとなる。
スッラは二度ローマへ自らの軍を率いて侵入し、最終的に独裁官(ディクタトル)に就任、領土を拡大したローマを
治める寡頭制政府としての機能を失いかけていた元老院体制の改革を行った。しかしこの改革は強力な独裁官の
権限をもって反対勢力を一網打尽に粛清するという方法も含んでいたために多くの血が流れる事となった。
一連の改革を終えたスッラは無期限の独裁官を辞任し、引退後は政界との関わりを絶ち、ローマから離れた
別荘にて余生を送った。元老院主導の寡頭政を維持するのがスッラの改革の目的であったため、改革をなしえた以上は
自らは退いて元老院に政権を譲るのは当然の帰結であった。


Hieronymus_Graf_von_Colloredo_01-1.jpg       Sulla_Glyptothek_Munich.jpg     
コロレド伯ヒエロニュムス,ザルツブルク大司教                   スッラ(シッラ)の頭像 
ザルツブルク博物館蔵                            ミュンヘン、グリュプトテーク(古代彫刻美術館)蔵                                                   
★グリュプトテーク (Glyptothek) は、ドイツのミュンヘンにある古代彫刻専門の美術館である。
同じミュンヘン市内にあるアルテ・ピナコテーク(旧絵画館)と同様、バイエルン国王・ルートヴィヒ1世(在位1825年-
1848年)が設立した美術館である。「グリュプトテーク」はギリシャ語で「彫刻館」の意。
アルテ・ピナコテーク(1836年開館)より若干早く、1830年に開館した。

主要歌手たちのミラノ到着が遅れたり、タイトル・ロールテノール歌手重病になり
歌手の変更を余儀なくされ、アリアの数を減らすなどといったトラブルもあったが、なんとか
12月24日劇場総練習(Prova generale)、そして26日初演にこぎつけることができた。

初演では、急遽起用せざるを得なかった二流のテノール歌手の経験不足による演技過剰で
客の失笑を買い、これに狼狽したプリマ・ドンナ(ソプラノ)も本領を発揮できなかったなど
ハプニングもあったが、結果的には喝采を浴び、大成功をおさめるのである。

登場人物
ルーチョ・シッラ(独裁執政官):テノール
ジューニア≪カーヨ・マリーオ(カイウス・マリウス)の娘で、チェチーリオの許婚:ソプラノ(プリマ・ドンナ)
チェチーリオ(追放された元老院議員):(ソプラノ・カストラート、プリモ・ウォーモ)
ルーチョ・チンナ(ローマの貴族。チェチェーリオの友人でルーチョ・シッラの隠れた敵):ソプラノ
チェーリア(ルーチョ・シッラの妹:ソプラノ
アウフィディオ(護民官、ルーチョ・シッラの友人):テノール

あらすじ
時は紀元前のローマ。 ローマの独裁執政官シッラは、友人の元老院議員チェチーリオをローマから追放したばかりか、
彼の許婚で、共和政ローマ末期の軍人で政治家の故ガイウス・ マリウス(紀元前157年 - 紀元前86年)の娘ジューニアに
思いを寄せ、彼女に自分のものになるように迫るが拒絶される。チェチーリオは密かにローマに戻り、許婚のジューニアと再会を果たす。 
一方シッラの妹チェーリアとチェチーリオの友人チンナとは、相思相愛の関係にある。シッラの腹心であるはずのチンナは
シッラの暗殺を企てていたのである。シッラは友である護民官アウフィーディオに、元老院とローマ市民に諮ってジューニアと
正式に結婚すべきだと忠告され、それを実行しようとするがジューニアは恋人と父親の敵と結婚なぞ出来ないと拒絶する。
死を選ぼうとしたジューニアをチェチーリオが現れ制止する。
シッラはジューニアとチェチーリオを捕らえるが、妹チェーリアの説得もあり、シッラはチェチーリオを赦し、陰謀を告白した
チンナをも放免して、それぞれの結婚を許す。そしてシッラは独裁執政官を辞任し、人々はシッラの徳を称えるのである。

≪。。。ヴォルフガングは彼女の主要アリアを、新しくて、まったくびっくりするくらいむずかしい
パッセージをつけて作りました。彼女はこのアリアをみんなが驚嘆するにちがいないくらい、
すばらしく歌います。。。≫
ミラノ、1772年12月12日付、レオポルトよりザルツブルクの妻、アンナ・マリア宛書簡。 モーツァルト書簡全集

彼女とはプリマ・ドンナ(ジューニア役)のデ・アミーチス夫人(ソプラノ)のことで、主要アリアとは第11曲
ああ、いとしいひとのおそろしい危険を思うと」”Ah se il crudel periglio del caro bel rammento”。


「ああ、おそろしい危険を」Ah se il crudel periglio
アーリーン・オジェー Arleen Auger(ジューニア)
レオポルド・ハーガー指揮
ザルツブルク・モーツアルテウム管弦楽団

愛しい人の恐ろしい危険を思うと身も心も凍りつく。友情が当てに
出来ないのであれば、誰が助けてくれるのであろうか。。。 



このオペラの上演回数は26回にも及ぶのである。レオポルトはザルツブルクの妻アンナ・マリアに
次の様に語っている。
≪オペラは、おかげさまで、ものすごくうまくいっていて、劇場は毎日びっくりするほど満員
です。ふつう第一オペラは特別の喝采を博さないかぎり、あまりたくさんの人はやって
きません。毎日アリアはアンコールされ、しかもオペラは初日以後、連日続演され、
毎日毎日いっそうの喝采を得ています。≫
ミラノ、1773年1月9日レオポルトよりザルツブルクの妻宛書簡           

モーツァルト父子は前回(第2回イタリア旅行)のミラノでの「ポント王、ミトリダーテの時も
そうであったが、今回もミラノ宮廷に召抱えられることを期待して「ルーチョ・シッラ」上演
終了後もミラノに留まり続けたのである。

また、フィレンツェ(トスカーナ大公国の首都)のレオポルト大公(ミラノのフェルディナント大公の兄)
にも書面で宮廷音楽家としての採用を請願したのであるが、どちらも不成功に終わっている。
★この理由については次回記事にて

ミラノ或いはフィレンツェでの宮廷音楽家への道は開けず、やむなくミラノを後にし、1773年3月13日
ザルツブルクに帰郷した。青年音楽家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、17歳であった。


★全6曲の弦楽四重奏曲、いわゆるミラノ四重奏曲は今回の第3回イタリア(ミラノ)旅行中に完成された。
弦楽四重奏曲第2番 ニ長調 K.155 (134a)/第3番 ト長調 K.156 (134b)/第4番 ハ長調 K.157
弦楽四重奏曲5番 ヘ長調 K.158/第6番 変ロ長調 K.159/第7番 変ホ長調 K.160 (159a)

★「ルーチョ・シッラ」の上演中モーツァルトはチェチーリオ役の18世紀有数のカストラート歌手ヴェナンツィオ・
ラウッツィーニ(Venanzio Rauzzini,1746~1810)のために美しいソプラノオーケストラのためのモテット
≪踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ「エクスルターテ・ユビラーテ」”Exsultate, jubilate"≫ (K.165)を作曲し、
1773年1月17日、ミラノのテアチノ派教会においてラウッツィーニがソプラノ独唱を受け持ち初演された。3楽章よりなり、
ソプラノ独唱が管弦楽と協奏する、いわばソプラノ協奏曲である。特に第三楽章≪アレルヤ”Alleluia”≫によって名高い。

モテット「エクスルターテ・ユビラーテ」(K.165)より
第三楽章、ヴィヴァーチェ、ヘ長調、≪アレルヤ
バーバラ・ボニーBarbara Bonney(ソプラノ)              弦楽四重奏曲(第5番)へ長調 K.158 第一楽章アレグロ
        


かくして合計3回通算旅行期間約2年(1回目が約1年4ヶ月、2回目と3回目はそれぞれ約4ヶ月)にわたる音楽的には
極めて実り豊かなイタリア旅行を完了したのである。オペラをはじめ、数曲の交響曲、弦楽四重奏曲や
ディヴェルティメント、そしてオラトリオ、モテットなどの教会音楽などこの時期の作品には
イタリア旅行を通じて吸収した様々な成果があらわされているのである。

また、イタリア旅行において14歳から17歳にかけて3曲ものオペラをミラノで作曲・上演した
貴重な経験は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト楽才にさらなる磨きをかけ、
その後の作品に反映されて行くのである。



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whitered

おはようございます。いつもながら、モーツァルトの並々ならぬ才能に驚きます。音楽的才能もさることながら、歴史だとか古典などに通じていないと、すぐれたオペラなど書けませんね。それだけ、勉学にも励んでいたということでしょうか。
by whitered (2010-05-20 08:24) 

バロックが好き

おはようございます♪
才能があってもなかなか宮廷音楽家には、
なれないんですね。。。
欠員が無かったのか?
ギャラが高額すぎて支払えないのか??
裏工作が必要なのか???
音楽で食べて行くのは、大変なんですね。
by バロックが好き (2010-05-20 10:04) 

アマデウス

whiteredさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
ご指摘の通り、勉学にも励んでいました☆イタリアにあってはイタリア語の本を読むなど非常に勤勉家でもあったわけです☆「天分+勤勉+集中力+吸収・把握力+応用力+根気+向上心」を兼ね備えていたと言えると思います☆
by アマデウス (2010-05-21 06:10) 

アマデウス

バロックが好き さん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
いろいろ考えて頂きましたが、なが~くなりますので、答えは次回記事までお待ち下さい☆ご指摘の「欠員がない」というのはその後マンハイムやミュンヘンの宮廷の言い訳に使われています☆「裏工作が必要なのか???」というコメント。。。そこまで考えて頂きありがとうございます☆♪ヽ(^-^ )
by アマデウス (2010-05-21 06:26) 

LittleMy

「ベトゥーリア」、本当によくご存知なんですね!

アレルヤ、青島さんの演出で若い頃うごめいたことがあります♪
by LittleMy (2010-05-24 11:19) 

pegasas

イタリアの3回の旅行ですっかり青年になりましたが、まだ未成年ですね。150フローリーは年給として高いのでしょうか?アレルヤは良く聴きますが、とても良い曲ですね。お父さんはモーツアルトを宮廷音楽家にしたかったのでしょうかね。モーツアルトにとってはならなくて良かったのでは?いつも素晴らしい曲を聴かせて頂いて有難うございます。楽しみにしています♪
by pegasas (2010-05-24 23:09) 

モッズパンツ

16歳のモーツァルトが、宮廷楽師長に任命されるというのも凄いですよね。今でいえばエリート官僚ですよね。お父さんは副楽長だったのですね。給料はモーツァルトの2倍以上なのですね。父親の威厳を守れましたね。w (^ω^)b
二人とも一応官職に付いているのに、しょっちゅう演奏旅行に行っちゃってますよね。w (´∀`)ノ

(^ー^)ノシ
by モッズパンツ (2010-05-25 00:50) 

アマデウス

LittleMyさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
「アレルヤ」は歌っておられるだろうと思っていました☆LittleMyさんの「アレルヤ」いつの日か聴かせて頂きたいです☆
by アマデウス (2010-05-25 06:17) 

アマデウス

pegasasさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
当時の年給150フローリンは現在の円価換算約150万円になる様です。モーツァルトの16歳という年齢と父親も雇用しているというのが大司教の立場、モーツァルトは自分の才能を考えれば少ない報酬であると考えていました。ザルツブルク宮廷楽団の中では決して薄給とは言えない額ではありますが。当時の音楽家は宮廷或いは裕福な貴族に雇用されており、独立したフリーの音楽家というのは存在していなかったわけですから、父親としては安定した音楽的にやりがいのある宮廷による雇用を望んでいたわけです☆
by アマデウス (2010-05-25 06:30) 

アマデウス

モッズパンツさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
前大司教は宮廷楽団員の才能を伸ばす為に主としてイタリアへの留学制度を設けた様な大司教であったので、モーツァルト父子の休暇取得も相当大目にみたわけですが、新大司教コロレド伯は規則に厳しいイタリア人音楽家偏重の人物であっただけに、ご指摘の通り≪モーツァルト父子がしょっちゅう休暇をとり演奏旅行に出かけ、さらに休暇を勝手に延長するとは許しがたい!≫と考えていました☆従い、数年先の1777年マンハイムからパリへのモーツァルトの旅行時はモーツァルトは辞表を提出、退職し、父親は同行できず母親が同行することになったのです☆
by アマデウス (2010-05-25 06:48) 

nekotaro

年給150フローリンが気になって、
質問しようと思ったら書いてありました(笑)。

なるほど。お金よりもやりがいですか。
父親の判断はとにかく的確ですね。
”この父なしにこの天才なし”
というカンジもします(^o^)
by nekotaro (2010-05-26 10:32) 

アマデウス

nekotaroさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
父親はなんとかモーツァルトをオペラの本場イタリア(ハプスブルク家所領であるミラノ又はフィレンツェ)の宮廷に就職させたかったのですね☆モーツァルト自身もザルツブルクから音楽の中心地(イタリア又はウィーン或いはミュンヘン)の宮廷に雇われたいという気持ちをつのらせてくるのです☆
by アマデウス (2010-05-27 10:30) 

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