モーツァルトの3度目のウィーン旅行 [モーツァルト]
モーツァルトの第2回目のイタリア(ミラノ)旅行において、フェルディナント大公(ミラノ総督)の
婚姻式典でオペラ「アルバのアスカーニョ」を作曲・上演、大成功を収め、第3回目のイタリア(ミラノ)
旅行でも、謝肉祭用オペラ「ルーチョ・シッラ」が連日続演されるなど称賛を得たモーツァルト父子は
当然フェルディナント大公よりヴォルフガングの宮廷音楽家としての採用について声がかかる
ものと期待していたのである。実際、「アルバのアスカーニョ」の成功に際し、フェルディナント大公
よりその可能性をほのめかす話があったのである。
フェルディナント大公としてはミラノ宮廷によるモーツァルトの雇用を考え、母堂であるウィーンの
ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアに相談したのであるが、マリア・テレジアよりはアスカーニョの
最後の上演から約1.5ヶ月後位に次の返事(1771年12月12日付)が届いていたのである。
≪あなたは若いザルツブルク人を自分のために雇うのを求めていますね。私にはどうしてだか
解らないし、あなたが作曲家とか無用の人間を必要としているとは信じられません。けれど、
もしそれがあなたを喜ばせることになるのなら、私は邪魔をしたくはないのです。あなたに無用な
人間を養わないように、そして決してあなたの元で働くようなこうした人たちに肩書きなど
与えてはなりません。乞食のように世の中を渡り歩いているような人たちは、奉公人たちに
悪影響を及ぼすことになります。彼はそのうえ大家族です。≫ モーツァルト書簡全集
女帝マリア・テレジアは四男のフェルディナントがミラノの総督としてうまく統率出来るかどうかを
非常に心配しており、総督としてスタートしたばかりの時期にこういう雇用は見合わせるべきである
との考えに立ってのアドバイスかとも思われるが、モーツァルト父子はこういった事情は知る由もなく、
ミラノ宮廷による採用を期待していたのである。
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
第3回目のイタリア旅行、即ちミラノの謝肉祭における「ルーチョ・シッラ」上演の旅より
1773年3月13日にザルツブルクに帰郷したモーツァルト父子は早くも4ヶ月後の1773年7月14日
ザルツブルクを発ち、ウィーンに向かうのである。約4年半ぶり3回目のウィーン訪問である。
ウィーンに発つ3ヶ月前(イタリア旅行から帰郷して1ヶ月後)の4月14日にモーツァルトは
初のヴァイオリン協奏曲(第1番)変ロ長調(K.207)を作曲している(本記事末尾に音源)。
★モーツァルトは全5曲のヴァイオリン協奏曲を作曲したが、これらの曲はザルツブルクの宮廷楽団をバックに自分自身
あるいは同僚のブルネッティが独奏するために作曲されたと考えられている。ヴァイオリン協奏曲(第1番)変ロ長調は
散失したトランペット協奏曲K647cを除けば、モーツァルトが遺した最初の協奏曲である。
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
今回の旅の目的は、ウィーン宮廷への求職活動であった。8月5日に女帝マリア・テレジアに
拝謁したが、その結果についてレオポルトはザルツブルクの妻に8月12日付の手紙で、「皇太后は
わたしたちにとても好意をお持ちでした。でもそれですべてでした。帰ってからおまえに直接
話をしましょう。。。」と語っているのである。
★謁見はラクセンブルク城館で行われたとされている。
★ウィーン宮廷楽長のフローリアン・レオポルト・ガスマン(1729-1774)が重病に陥ったことから、後任人事が
おこなわれるとの判断をし、ヴォルフガング採用の可能性を追求したものと思われる。ガスマンは翌年1月20日に
死亡し、ボンノが宮廷楽長に、サリエリがイタリア・オペラ楽長兼宮廷作曲家に任命された。
★ジュセッペ・ボンノ: Giuseppe Bonno (1711 – 1788) イタリア系ウィーン生れ
★アントニオ・サリエリ:Antonio Salieri (1750 – 1825) イタリア、ヴェネツィア生れ
★8月12日にはザルツブルクの大司教コロレード伯が女帝マリア・テレジアを表敬訪問している。大司教はジールンドルフ
(ウィーンの北方)の城館に居住する父親を訪問していた。
シェーンブルン宮殿 銅版画 カール・シュッツ作 1783年
モーツァルト(当時17歳)は今回ウィーン滞在中に次の様な作品を作曲している。
①6曲の弦楽四重奏曲(K.168-173)いわゆる≪ウィーン四重奏曲≫
②クラヴィーアのための「サリエリの主題による変奏曲(K.180/173c)
③セレナード二長調(K.185/167a)"Antretter" メヌエットを二つ含む7楽章構成。
④ゲブラー男爵の依頼により同男爵の作品である戯曲(英雄劇)「エジプトの王、ターモス
”Thamos König in Ägypten"」のための2つの合唱と5つの幕間音楽(173d)。
★ゲブラー男爵:トピアス・フィリップ・ゲブラー(Tobias Philipp Freiherr von Gebler 1726-86)。枢密院顧問官であり
同時にボヘミア宮廷宮内庁副長官の地位にあった。この戯曲をプラハとドレスデンから1773年に出版したが、劇場での
上演を計画し、その為の付随音楽をモーツァルトに依頼した。
★173dは1774年4月4日ウィーンのケルトナートール劇場にて初演された。この時の楽譜は残されていない。
これらの曲はその後1779年に旅回りのベームの一座がザルツブルクを訪れた際、新たにモーツァルトが書き直し、
現在の曲(K.345/336a)となっている。
エジプトの神殿を舞台にしたこの戯曲、「エジプトの王、ターモス」は、「魔笛」の題材との
共通性を持つものである。
戯曲(英雄劇)『エジプトの王ターモス』のための合唱と幕間音楽K.345(336a)より,
第1曲:僧侶たちと太陽の乙女たちの合唱 -
「太陽よ、夜は退いた"Schon weichet dir, Sonne"」
太陽よ、光の敵手たる夜は退いた。。。
アントニオ・サリエーリ作曲のオペラ「ヴェネツィアの市
”La fiera di Venezia”の第二幕フィナーレのアリア
「我がいとしのアドーネ」の主題による
6つの変奏曲 ト長調 (K.180/173c)
Sechs Variationen in G über ”Mio caro Adone“ ヴァイオリン協奏曲(第1番)変ロ長調 K.207
aus dem Finale (II. Akt) der Oper ”La fiera di 第3楽章プレスト
Venezia“(Antonio Salieri) K. 180 (173c) アンネ=ゾフィ・ムターAnne-Sophie Mutter
演奏:Christoph Berner カメラータ・ザルツブルクCamerata Salzburg
モーツァルトの最初のバイオリン協奏曲
(ザルツブルクにて1773年4月14日作曲)
宮廷楽団関係者への働きかけも奏功せず、9月24日、親子は約2ヶ月にわたるウィーン滞在を切り上げ、
ザルツブルクへの帰郷の途についたのである。
女帝マリア・テレジアがヴォルフガングの採用を疎んだのは、次の様な理由からではないだろうか。
①父親レオポルトはザルツブルクの宮廷副楽長でありながら、常に宮廷楽師長である息子と共に
旅をしており、職務怠慢ではないのか。更にはザルツブルク大司教という雇用主がありながら
ミラノやフィレンツェなどで就職活動までしており忠誠心に欠けるのではないか。いずれにせよ
組織に属する雇用人としては好ましくない。
②皇帝(女帝の長男、神聖ローマ皇帝・ヨーゼフ2世)に直接「経緯報告書」を提出し、モーツァルトが
作曲したオペラ(ラ・フィンタ・センプリーチェ)を劇場側が不採用(キャンセル)とした事態並びに
その作曲代金の支払いを直訴してきた(第2回目のウィーン旅行ご参照)。
宮廷と劇場の関係を理解せず直訴する態度は遺憾である。
③緊縮財政のおりから、楽才はありとしても不要不急の採用はすべきではない。
女帝健在であるかぎり、ウィーンはもとよりミラノ或いはフィレンツェといったハプスブルク家所領の
宮廷での採用の可能性は、はじめからなかったということになる。
レオポルトは女帝マリア・テレジアへの今回8月の謁見を通じて、ハプスブルク宮廷による
ヴォルフガング採用の可能性はないことを感じ取ったと思われ、ウィーン訪問はこの3回目を
最後として、ヴォルフガングの求職活動をミュンヘン、マンハイム、パリに軌道修正して
行くのである。
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モーツァルトの西方大旅行①(パリ)
モーツァルトの西方大旅行②(ロンドン①)
モーツァルトの西方大旅行③(ロンドン②)
猫とモーツァルト
モーツァルトの西方大旅行④(フランドルとオランダ)
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ザルツブルクのモーツァルト17-18歳(1773-74年)
モーツァルトのミュンヘン旅行≪「偽の女庭師」作曲・上演の旅≫
ザルツブルクのモーツァルト19歳(1775年)
ザルツブルクのモーツァルト20歳(1776年)
ザルツブルクのモーツァルト21歳(求職の旅へ)
犬とモーツァルト
モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅①(マンハイム①)
モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅②(マンハイム②)
モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅③(パリ)
ザルツブルクのモーツァルト23歳(1779年)
モーツァルト24歳・ザルツブルク在住最後の年(1780年)
モーツァルトのミュンヘン旅行(「イドメネオ」作曲と上演の旅)
モーツァルト25歳の独立とウィーン時代の幕開け(1781年)
モーツァルト26歳の結婚と「後宮からの誘拐」(ウィーン②1782年)モーツァルト27歳・演奏会の成功とザルツブルク里帰り(ウィーン③1783年)
ピアノ・ソナタ(第13番)変ロ長調 と動物たち(1783年ザルツブルクの帰途立ち寄ったリンツ関連)
モーツァルト28歳・演奏活動絶頂期(ウィーン④1784年)
モーツァルトと小鳥たち (クラビーア協奏曲(第17番)ト長調(K.453)第三楽章の主題を歌うムクドリとモーツァルト)
父レオポルト、絶頂期のモーツァルト29歳を訪問(ウィーン⑤1785年)
モーツァルト30歳・「劇場支配人」と「フィガロの結婚」(ウィーン⑥1786年)
フィガロの結婚(その1)序曲+第一幕第一景第一曲
モーツァルト31歳・父レオポルトの死と「ドン・ジョヴァンニ」(ウィーン⑦1787年)
ドン・ジョヴァンニ(その1)
モーツァルト32歳・三大交響曲とブフベルク書簡(ウィーン⑧1788年)
モーツァルト33歳・プロイセン(北ドイツ)への旅(ウィーン⑨1789年)
モーツァルト34歳・「コシ・ファン・トゥッテ」(ウィーン⑩1790年)
モーツァルト35歳前半・「皇帝ティートの慈悲」(ウィーン⑪1791年前半)
モーツァルト35歳後半「魔笛」と「レクイエム」(ウィーン⑫1791年後半)
婚姻式典でオペラ「アルバのアスカーニョ」を作曲・上演、大成功を収め、第3回目のイタリア(ミラノ)
旅行でも、謝肉祭用オペラ「ルーチョ・シッラ」が連日続演されるなど称賛を得たモーツァルト父子は
当然フェルディナント大公よりヴォルフガングの宮廷音楽家としての採用について声がかかる
ものと期待していたのである。実際、「アルバのアスカーニョ」の成功に際し、フェルディナント大公
よりその可能性をほのめかす話があったのである。
フェルディナント大公としてはミラノ宮廷によるモーツァルトの雇用を考え、母堂であるウィーンの
ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアに相談したのであるが、マリア・テレジアよりはアスカーニョの
最後の上演から約1.5ヶ月後位に次の返事(1771年12月12日付)が届いていたのである。
≪あなたは若いザルツブルク人を自分のために雇うのを求めていますね。私にはどうしてだか
解らないし、あなたが作曲家とか無用の人間を必要としているとは信じられません。けれど、
もしそれがあなたを喜ばせることになるのなら、私は邪魔をしたくはないのです。あなたに無用な
人間を養わないように、そして決してあなたの元で働くようなこうした人たちに肩書きなど
与えてはなりません。乞食のように世の中を渡り歩いているような人たちは、奉公人たちに
悪影響を及ぼすことになります。彼はそのうえ大家族です。≫ モーツァルト書簡全集
女帝マリア・テレジアは四男のフェルディナントがミラノの総督としてうまく統率出来るかどうかを
非常に心配しており、総督としてスタートしたばかりの時期にこういう雇用は見合わせるべきである
との考えに立ってのアドバイスかとも思われるが、モーツァルト父子はこういった事情は知る由もなく、
ミラノ宮廷による採用を期待していたのである。
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
第3回目のイタリア旅行、即ちミラノの謝肉祭における「ルーチョ・シッラ」上演の旅より
1773年3月13日にザルツブルクに帰郷したモーツァルト父子は早くも4ヶ月後の1773年7月14日
ザルツブルクを発ち、ウィーンに向かうのである。約4年半ぶり3回目のウィーン訪問である。
ウィーンに発つ3ヶ月前(イタリア旅行から帰郷して1ヶ月後)の4月14日にモーツァルトは
初のヴァイオリン協奏曲(第1番)変ロ長調(K.207)を作曲している(本記事末尾に音源)。
★モーツァルトは全5曲のヴァイオリン協奏曲を作曲したが、これらの曲はザルツブルクの宮廷楽団をバックに自分自身
あるいは同僚のブルネッティが独奏するために作曲されたと考えられている。ヴァイオリン協奏曲(第1番)変ロ長調は
散失したトランペット協奏曲K647cを除けば、モーツァルトが遺した最初の協奏曲である。
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
今回の旅の目的は、ウィーン宮廷への求職活動であった。8月5日に女帝マリア・テレジアに
拝謁したが、その結果についてレオポルトはザルツブルクの妻に8月12日付の手紙で、「皇太后は
わたしたちにとても好意をお持ちでした。でもそれですべてでした。帰ってからおまえに直接
話をしましょう。。。」と語っているのである。
★謁見はラクセンブルク城館で行われたとされている。
★ウィーン宮廷楽長のフローリアン・レオポルト・ガスマン(1729-1774)が重病に陥ったことから、後任人事が
おこなわれるとの判断をし、ヴォルフガング採用の可能性を追求したものと思われる。ガスマンは翌年1月20日に
死亡し、ボンノが宮廷楽長に、サリエリがイタリア・オペラ楽長兼宮廷作曲家に任命された。
★ジュセッペ・ボンノ: Giuseppe Bonno (1711 – 1788) イタリア系ウィーン生れ
★アントニオ・サリエリ:Antonio Salieri (1750 – 1825) イタリア、ヴェネツィア生れ
★8月12日にはザルツブルクの大司教コロレード伯が女帝マリア・テレジアを表敬訪問している。大司教はジールンドルフ
(ウィーンの北方)の城館に居住する父親を訪問していた。
シェーンブルン宮殿 銅版画 カール・シュッツ作 1783年
モーツァルト(当時17歳)は今回ウィーン滞在中に次の様な作品を作曲している。
①6曲の弦楽四重奏曲(K.168-173)いわゆる≪ウィーン四重奏曲≫
②クラヴィーアのための「サリエリの主題による変奏曲(K.180/173c)
③セレナード二長調(K.185/167a)"Antretter" メヌエットを二つ含む7楽章構成。
④ゲブラー男爵の依頼により同男爵の作品である戯曲(英雄劇)「エジプトの王、ターモス
”Thamos König in Ägypten"」のための2つの合唱と5つの幕間音楽(173d)。
★ゲブラー男爵:トピアス・フィリップ・ゲブラー(Tobias Philipp Freiherr von Gebler 1726-86)。枢密院顧問官であり
同時にボヘミア宮廷宮内庁副長官の地位にあった。この戯曲をプラハとドレスデンから1773年に出版したが、劇場での
上演を計画し、その為の付随音楽をモーツァルトに依頼した。
★173dは1774年4月4日ウィーンのケルトナートール劇場にて初演された。この時の楽譜は残されていない。
これらの曲はその後1779年に旅回りのベームの一座がザルツブルクを訪れた際、新たにモーツァルトが書き直し、
現在の曲(K.345/336a)となっている。
エジプトの神殿を舞台にしたこの戯曲、「エジプトの王、ターモス」は、「魔笛」の題材との
共通性を持つものである。
戯曲(英雄劇)『エジプトの王ターモス』のための合唱と幕間音楽K.345(336a)より,
第1曲:僧侶たちと太陽の乙女たちの合唱 -
「太陽よ、夜は退いた"Schon weichet dir, Sonne"」
太陽よ、光の敵手たる夜は退いた。。。
アントニオ・サリエーリ作曲のオペラ「ヴェネツィアの市
”La fiera di Venezia”の第二幕フィナーレのアリア
「我がいとしのアドーネ」の主題による
6つの変奏曲 ト長調 (K.180/173c)
Sechs Variationen in G über ”Mio caro Adone“ ヴァイオリン協奏曲(第1番)変ロ長調 K.207
aus dem Finale (II. Akt) der Oper ”La fiera di 第3楽章プレスト
Venezia“(Antonio Salieri) K. 180 (173c) アンネ=ゾフィ・ムターAnne-Sophie Mutter
演奏:Christoph Berner カメラータ・ザルツブルクCamerata Salzburg
モーツァルトの最初のバイオリン協奏曲
(ザルツブルクにて1773年4月14日作曲)
宮廷楽団関係者への働きかけも奏功せず、9月24日、親子は約2ヶ月にわたるウィーン滞在を切り上げ、
ザルツブルクへの帰郷の途についたのである。
女帝マリア・テレジアがヴォルフガングの採用を疎んだのは、次の様な理由からではないだろうか。
①父親レオポルトはザルツブルクの宮廷副楽長でありながら、常に宮廷楽師長である息子と共に
旅をしており、職務怠慢ではないのか。更にはザルツブルク大司教という雇用主がありながら
ミラノやフィレンツェなどで就職活動までしており忠誠心に欠けるのではないか。いずれにせよ
組織に属する雇用人としては好ましくない。
②皇帝(女帝の長男、神聖ローマ皇帝・ヨーゼフ2世)に直接「経緯報告書」を提出し、モーツァルトが
作曲したオペラ(ラ・フィンタ・センプリーチェ)を劇場側が不採用(キャンセル)とした事態並びに
その作曲代金の支払いを直訴してきた(第2回目のウィーン旅行ご参照)。
宮廷と劇場の関係を理解せず直訴する態度は遺憾である。
③緊縮財政のおりから、楽才はありとしても不要不急の採用はすべきではない。
女帝健在であるかぎり、ウィーンはもとよりミラノ或いはフィレンツェといったハプスブルク家所領の
宮廷での採用の可能性は、はじめからなかったということになる。
レオポルトは女帝マリア・テレジアへの今回8月の謁見を通じて、ハプスブルク宮廷による
ヴォルフガング採用の可能性はないことを感じ取ったと思われ、ウィーン訪問はこの3回目を
最後として、ヴォルフガングの求職活動をミュンヘン、マンハイム、パリに軌道修正して
行くのである。
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モーツァルト26歳の結婚と「後宮からの誘拐」(ウィーン②1782年)モーツァルト27歳・演奏会の成功とザルツブルク里帰り(ウィーン③1783年)
ピアノ・ソナタ(第13番)変ロ長調 と動物たち(1783年ザルツブルクの帰途立ち寄ったリンツ関連)
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ドン・ジョヴァンニ(その1)
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モーツァルト33歳・プロイセン(北ドイツ)への旅(ウィーン⑨1789年)
モーツァルト34歳・「コシ・ファン・トゥッテ」(ウィーン⑩1790年)
モーツァルト35歳前半・「皇帝ティートの慈悲」(ウィーン⑪1791年前半)
モーツァルト35歳後半「魔笛」と「レクイエム」(ウィーン⑫1791年後半)
おはようございます♪
職務怠慢、忠誠心の欠如・・・。
時代さえ違えばきっと引っ張りだこですよね。。。
先日TVでもやってましたが、
「天才」と言われる子供の親はみな
お父さんが子供について結構面倒を見て
仕事より子供っていうお家が多いようですね。
モーツァルトのお父さんはそのハシリですね^^。
by バロックが好き (2010-05-27 08:14)
こんばんは。マリア・テレジアは、なかなか厳しい眼をもっていますね。ハプスブルグ帝国を治めようとするものは、自分だけの興味・関心で動かず、臣下や召使の感情まで考えに入れていたのですね。レオポルトは、逆に女帝の人柄などを考慮に入れていなかったようですね。
by whitered (2010-05-27 21:50)
バロックが好き さん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
★現代であれば独立した「モーツァルト音楽事務所」を開設し、有能な専属マネージャーを採用し世界的な活動を展開するでしょうね☆
★モーツァルトの父親レオポルトは典型的な「教育パパ」であったと言えるでしょうね☆レオポルト自身が18世紀後半の理性的且つ知的な音楽家であり、音楽学習は単なる技術の取得ではなく幅広い知識の裏づけと、シャープな感受性を磨くことで十全なものとなるとの信念のもと息子ヴォルフガングに学習の場を与えたわけですね☆
by アマデウス (2010-05-28 06:17)
whiteredさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
ご指摘の通りマリア・テレジア(1717-1780)はハプスブルク家約700年の歴史のおいて唯一の同家の女性宗主となり「女帝」という称号も正式に認められた人物ですよね★
23歳で女帝となり家庭にあっては16人の子供を産み、女帝としては即位後すぐにハンガリー議会に乗り込み3万の兵士と多額の軍資金の提供を約させ、7年戦争(1756-63)ではプロイセンのフリードリヒ二世を殆ど屈伏させるまでに戦い、その強力な手腕を列強に認めさせていますね★終生緊縮財政をとり、ハプスブルク家の財政を立て直しています★音楽を愛してはいましたが、先行するのは「国家統治」であり、その遂行のために音楽政策は制限と縮小の方向に舵をとったわけですね★
by アマデウス (2010-05-28 06:31)
「エジプトの王、ターモス」このような曲があるんですね。
面白かったです。勉強になりました!
by LittleMy (2010-06-01 17:05)
LittleMyさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
LittleMyさんがDameとKnabeをされた「魔笛」K620の第二幕フィナーレのザラストロ+コーラスで≪太陽の光明が夜を追い払い”Die Strahlen der Sonne vertreiben die Nacht"≫を彷彿させますよね☆古代エジプトの太陽崇拝を題材にしているからでしょうね☆
by アマデウス (2010-06-02 06:36)
マリア・テレジアから、何だかもの凄く嫌われちゃってますよね。モーツァルト親子、可哀想。でも、言っていることもよく分かるし。w (´・ω・`)カワイソス
(^ー^)ノシ
by モッズパンツ (2010-06-06 15:38)
モッズパンツさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
マリア・テレジアは表面的には優しく対応してくれたわけですが、女帝としての立場からは極めてクールな判断をしていたということになりますね☆モーツァルトだけというわけにもいかず、結局家族全員の面倒をみることになるとの危惧もあったのでしょうね☆
by アマデウス (2010-06-07 08:19)