ザルツブルクのモーツァルト20歳(1776年) [モーツァルト]
モーツァルト(当時20歳)のザルツブルクでの生活は公務としては、宮廷楽師長としての
大聖堂での教会音楽の演奏、大司教宮廷での各種行事における演奏、宮廷が催す晩餐会での
食卓音楽(ターフェルムジーク)としてのディヴェルティメントなどの演奏と、それらに必要な
楽曲を作ることであった。
★ミヒャエル・ハイドン(当時39歳)が第一楽師長であり、モーツァルトは次席楽師長兼第一バイオリン奏者
宮廷楽団はベネディクト会の大学の講堂(大学劇場)で学期末に行われていた「学校劇」と
呼ばれる歌と劇あるいは踊りに学生と児童も参加する「音楽劇」の作曲と演奏も担当していた。
★学校劇はミヒャエル・ハイドンなどモーツァルト以外の宮廷作曲家が担当していた。
又、同大学の各課程修了を祝し、教師達に学生が感謝の意を表す為のセレナード
(フィナール・ムジーク)の作曲と演奏も受け持っていた。
★フィナール・ムジーク(最終音楽):例えばセレナード 二長調 K.204(213a) 1775年8月作曲。
私生活面では親しい貴族や名家の友人の誕生日や霊名祝日を祝う為の音楽そして結婚式
祝賀用の音楽(セレナータ)或いは貴族や名家の家族が趣味として弾いているクラヴィーアの
ための楽曲を作曲をしたりしていた。その他、市内外の教会の礼拝に毎日出かけ、友人同士で
奏楽をしたり、ダンスやカード、射的、ケーゲルシュタット(九柱戯。当時のボーリングの様な遊び)
などに興じたり、仮面舞踏会にでかけたりといった日常であった。又、モーツァルト一家はペットに
「ピンペス」という名の雌犬(フォックステリア種)や小鳥(カナリア、シジュウカラ、鳩)を飼っており、
しばしば旅先と家族間の手紙で「ピンペス嬢はお元気ですか?」とか「ピンペルルと散歩に出かけた」
「小鳥たちは元気ですか」などと言及されている。動物好きのモーツァルトは馬も大好きで
宮廷の厩舎にもよく遊びに行くのである。
ザルツブルクは当時人口1万6千人ほどで、中世以来ローマ教皇によって任命される大司教が
支配する大司教領という独立した宗教国家の首都であった。
ザルツ”Salz”(塩)+ブルク”Burg”(城砦)=Salzburg(塩の城砦)の名前が示す通り、周辺の
塩坑から産出する岩塩の集散地であるが故に財政的にも豊かな町であった。
★当時のハプスブルク帝国の首都ウィーンの人口は約20万人、隣国バイエルン選帝侯領の首府ミュンヘンが約3万人、
ブダペスト:5万人、プラハ:8万人、パリ:60万人、ロンドン:86万人 であった。
モーツァルトそして父レオポルトにとっては、風光明媚なザルツブルクの平穏な生活は、音楽的には
刺激のない、単調な毎日の繰り返しとしか思えなかったのである。
ザルツブルクにいては、本当にやりたいこと即ちオペラの作曲の機会はなく、このままでは才能を
うずもらせてしまうのではないかと将来のことを考えると憂鬱になっていた。 又、大司教コロレド伯は
イタリア人音楽家偏重の姿勢を崩さず、楽長にはイタリア人を雇い、モーツァルトの才能をあまり認めず、
単なる使用人としての扱いであり、モーツァルトの不満は鬱積していた。さらに大司教コロレド伯は
大聖堂の行事の簡素化を図り、教会音楽などの時間短縮を命じたのである。
モーツァルトはこういったザルツブルクでの満たされぬ思いをボローニャのマルティーニ神父宛て
1776年9月4日付の書簡で次の様に訴えているのである。
★この内容は前記事(ミュンヘン旅行)末尾に記載したオッフェルトリウム≪ミセリコルディアス・ドミニ≫を送付し意見を求めたと同じ
書簡に書かれたものであり、父レオポルトが本文を書き、モーツァルトが署名している。
≪当地では音楽はまことに恵まれぬ命運にあります。。。劇場については歌手が不足しており、
うまく行っておらず、カストラートもおりません。。。私は室内用と教会用の曲を書くのを楽しんで
おります。。。私の父は大司教聖堂の楽長でありますが、父はすでに36年も当宮廷に仕えて
おりまして、ここの大司教が年配者を理解することもできず、また、望みもしないのを知って
おりますので、宮廷での仕事をせずに、自分の好きな研究の文献に没頭しております。。。
私どもの教会音楽は、イタリアのそれとは大いに異なっているばかりか、いっそうそれが強まり、
キリエ、グローリア、クレード、ソナタ、アレビストラ、オッフェルトリオ、あるいはモテット、サンクトゥス、
それにアニュス・デイを含むミサ、さらにもっとも荘厳なミサですら、大司教ご自身がじきじきに
とりおこないますときには、一番長くてさえ45分以上にわたって続いてはならないのです。それに
あらゆる楽器ー軍隊用トランペット、ティンパニ等を伴ったミサ曲であることが要求されます。。。≫ モーツァルト書簡全集
青春の苦悩ありとはいいながら、この時期1775年3月から1777年9月(マンハイム・パリ旅行に
出発)までの2年半で約66曲を作曲しているのである。
★66曲の主たる曲数:宗教曲17曲、ディヴェルティメントとセレナード14曲、ヴァイオリン協奏曲5曲(他にロンドと
アダージョの2曲)、クラヴィーア協奏曲4曲(第6番~9番)、オペラ1曲(牧人の王K.208)、コンサート・アリア7曲など。
ミラベル宮(大司教の夏の居城)の庭園からの展望。大聖堂の鐘楼と円蓋、その上方にホーエンザルツブルク城を望む。
1776年に20歳のモーツァルトによって作曲されたのは主として次の様な楽曲である。
1月:クラヴィーア協奏曲(第6番)変ロ長調(K.238)及びセレナード 二長調
≪セレナータ・ノットゥルナ≫(K.239)を作曲。
★K238はザルツブルクの音楽会でモーツァルト自身、あるいは姉のナンネルが演奏するために作曲されたと
考えられている。このK.238(第6番)とK.242(第7番)、K246(第8番)、K271(第9番)、更にK.175(第5番)と
1799年の初めに作曲されたザルツブルク時代の最後を飾る変ホ長調(第10番)K.365(2台用)を加えた6曲が
≪ザルツブルク時代のクラヴィーア協奏曲≫として一つのグループを構成するとみなされている。
★セレナード 二長調K.239が≪セレナータ・ノットゥルナ(夜のセレナーデ)≫と呼ばれるのは自筆楽譜に
父レオポルトがそう記載しているからである。おそらくこの年の謝肉祭に演奏されたと考えられている。
2月:3台のクラヴィーアのための協奏曲(第4番)へ長調(K.242) ≪ロードロン協奏曲≫
ロードロン伯爵夫人(アントニア)と二人の令嬢(アロイジアとジュゼッピーナ)のために作曲。
4月:クラヴィーア協奏曲(第8番)ハ長調(K.246) ≪リュッツォウ協奏曲≫
ホーエン・ザルツブルク城塞司令官ヨハン・ゴットフリート・リュッツォウ伯爵の夫人アントーニア(Antonia
Czernin Lützow,1730~80)のために書かれた。
7月:セレナード ニ長調(K.250/248b) ≪ハフナーセレナード≫
富豪ハフナー家の先代(ジームクント・ハフナー、元ザルツブルク市長)の娘、マリア・エリザベトの
婚礼前夜祭のために作曲。
★1782年モーツアルトは2代目のジームクント2世が貴族に叙せられることになり、その祝典の為、交響曲
(第35番)二長調≪ハフナー≫K.385を作曲するのである。
8月:ピアノ三重奏曲変ロ長調(ディヴェルティメント)K.254を作曲。
モーツァルトはこの曲を後の「マンハイム・パリ旅行」での演奏曲目に加えており、自信作であったことが窺える。
教会音楽としてはミサ曲(ハ長調K.257≪クレード・ミサ≫など)、リタニア(変ホ長調K.243)、
教会ソナタなどと宮廷用のディヴェルティメント数曲(変ロ長調K.240、変ホ長調K.252, ハ長調K.188
二長調K.251)などを作曲している。
セレナード ニ長調 K.239
「セレナータ・ノットゥルナ」第三楽章ロンドーアレグレット セレナード 二長調 K.250(248b)
The English Concert 「ハフナー・セレナード」第四楽章 ロンド
指揮:アンドルー・マンゼ Andrew Manze ヤッシャ・ハイフェッツ Jascha Heifetz
原曲楽器構成:フルート2、ファゴット2、ホルン2、ヴァイオリン2部、
ヴィオラ2部、バス
クラヴィーア三重奏曲 変ロ長調 K.254 クラヴィーア協奏曲(第8番)ハ長調 K.246
第二楽章 アダージョ ≪リュッツォウ協奏曲≫第一楽章 アレグロ・アペルト
楽器構成:クラヴィーア、ヴァイオリン、チェロ クリスティアン・ツァハリアスChristian Zacharias
自筆譜には「ディヴェルティメント」と記載されている。
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宮廷楽団はベネディクト会の大学の講堂(大学劇場)で学期末に行われていた「学校劇」と
呼ばれる歌と劇あるいは踊りに学生と児童も参加する「音楽劇」の作曲と演奏も担当していた。
★学校劇はミヒャエル・ハイドンなどモーツァルト以外の宮廷作曲家が担当していた。
又、同大学の各課程修了を祝し、教師達に学生が感謝の意を表す為のセレナード
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★フィナール・ムジーク(最終音楽):例えばセレナード 二長調 K.204(213a) 1775年8月作曲。
私生活面では親しい貴族や名家の友人の誕生日や霊名祝日を祝う為の音楽そして結婚式
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奏楽をしたり、ダンスやカード、射的、ケーゲルシュタット(九柱戯。当時のボーリングの様な遊び)
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「ピンペス」という名の雌犬(フォックステリア種)や小鳥(カナリア、シジュウカラ、鳩)を飼っており、
しばしば旅先と家族間の手紙で「ピンペス嬢はお元気ですか?」とか「ピンペルルと散歩に出かけた」
「小鳥たちは元気ですか」などと言及されている。動物好きのモーツァルトは馬も大好きで
宮廷の厩舎にもよく遊びに行くのである。
ザルツブルクは当時人口1万6千人ほどで、中世以来ローマ教皇によって任命される大司教が
支配する大司教領という独立した宗教国家の首都であった。
ザルツ”Salz”(塩)+ブルク”Burg”(城砦)=Salzburg(塩の城砦)の名前が示す通り、周辺の
塩坑から産出する岩塩の集散地であるが故に財政的にも豊かな町であった。
★当時のハプスブルク帝国の首都ウィーンの人口は約20万人、隣国バイエルン選帝侯領の首府ミュンヘンが約3万人、
ブダペスト:5万人、プラハ:8万人、パリ:60万人、ロンドン:86万人 であった。
モーツァルトそして父レオポルトにとっては、風光明媚なザルツブルクの平穏な生活は、音楽的には
刺激のない、単調な毎日の繰り返しとしか思えなかったのである。
ザルツブルクにいては、本当にやりたいこと即ちオペラの作曲の機会はなく、このままでは才能を
うずもらせてしまうのではないかと将来のことを考えると憂鬱になっていた。 又、大司教コロレド伯は
イタリア人音楽家偏重の姿勢を崩さず、楽長にはイタリア人を雇い、モーツァルトの才能をあまり認めず、
単なる使用人としての扱いであり、モーツァルトの不満は鬱積していた。さらに大司教コロレド伯は
大聖堂の行事の簡素化を図り、教会音楽などの時間短縮を命じたのである。
モーツァルトはこういったザルツブルクでの満たされぬ思いをボローニャのマルティーニ神父宛て
1776年9月4日付の書簡で次の様に訴えているのである。
★この内容は前記事(ミュンヘン旅行)末尾に記載したオッフェルトリウム≪ミセリコルディアス・ドミニ≫を送付し意見を求めたと同じ
書簡に書かれたものであり、父レオポルトが本文を書き、モーツァルトが署名している。
≪当地では音楽はまことに恵まれぬ命運にあります。。。劇場については歌手が不足しており、
うまく行っておらず、カストラートもおりません。。。私は室内用と教会用の曲を書くのを楽しんで
おります。。。私の父は大司教聖堂の楽長でありますが、父はすでに36年も当宮廷に仕えて
おりまして、ここの大司教が年配者を理解することもできず、また、望みもしないのを知って
おりますので、宮廷での仕事をせずに、自分の好きな研究の文献に没頭しております。。。
私どもの教会音楽は、イタリアのそれとは大いに異なっているばかりか、いっそうそれが強まり、
キリエ、グローリア、クレード、ソナタ、アレビストラ、オッフェルトリオ、あるいはモテット、サンクトゥス、
それにアニュス・デイを含むミサ、さらにもっとも荘厳なミサですら、大司教ご自身がじきじきに
とりおこないますときには、一番長くてさえ45分以上にわたって続いてはならないのです。それに
あらゆる楽器ー軍隊用トランペット、ティンパニ等を伴ったミサ曲であることが要求されます。。。≫ モーツァルト書簡全集
青春の苦悩ありとはいいながら、この時期1775年3月から1777年9月(マンハイム・パリ旅行に
出発)までの2年半で約66曲を作曲しているのである。
★66曲の主たる曲数:宗教曲17曲、ディヴェルティメントとセレナード14曲、ヴァイオリン協奏曲5曲(他にロンドと
アダージョの2曲)、クラヴィーア協奏曲4曲(第6番~9番)、オペラ1曲(牧人の王K.208)、コンサート・アリア7曲など。
ミラベル宮(大司教の夏の居城)の庭園からの展望。大聖堂の鐘楼と円蓋、その上方にホーエンザルツブルク城を望む。
1776年に20歳のモーツァルトによって作曲されたのは主として次の様な楽曲である。
1月:クラヴィーア協奏曲(第6番)変ロ長調(K.238)及びセレナード 二長調
≪セレナータ・ノットゥルナ≫(K.239)を作曲。
★K238はザルツブルクの音楽会でモーツァルト自身、あるいは姉のナンネルが演奏するために作曲されたと
考えられている。このK.238(第6番)とK.242(第7番)、K246(第8番)、K271(第9番)、更にK.175(第5番)と
1799年の初めに作曲されたザルツブルク時代の最後を飾る変ホ長調(第10番)K.365(2台用)を加えた6曲が
≪ザルツブルク時代のクラヴィーア協奏曲≫として一つのグループを構成するとみなされている。
★セレナード 二長調K.239が≪セレナータ・ノットゥルナ(夜のセレナーデ)≫と呼ばれるのは自筆楽譜に
父レオポルトがそう記載しているからである。おそらくこの年の謝肉祭に演奏されたと考えられている。
2月:3台のクラヴィーアのための協奏曲(第4番)へ長調(K.242) ≪ロードロン協奏曲≫
ロードロン伯爵夫人(アントニア)と二人の令嬢(アロイジアとジュゼッピーナ)のために作曲。
4月:クラヴィーア協奏曲(第8番)ハ長調(K.246) ≪リュッツォウ協奏曲≫
ホーエン・ザルツブルク城塞司令官ヨハン・ゴットフリート・リュッツォウ伯爵の夫人アントーニア(Antonia
Czernin Lützow,1730~80)のために書かれた。
7月:セレナード ニ長調(K.250/248b) ≪ハフナーセレナード≫
富豪ハフナー家の先代(ジームクント・ハフナー、元ザルツブルク市長)の娘、マリア・エリザベトの
婚礼前夜祭のために作曲。
★1782年モーツアルトは2代目のジームクント2世が貴族に叙せられることになり、その祝典の為、交響曲
(第35番)二長調≪ハフナー≫K.385を作曲するのである。
8月:ピアノ三重奏曲変ロ長調(ディヴェルティメント)K.254を作曲。
モーツァルトはこの曲を後の「マンハイム・パリ旅行」での演奏曲目に加えており、自信作であったことが窺える。
教会音楽としてはミサ曲(ハ長調K.257≪クレード・ミサ≫など)、リタニア(変ホ長調K.243)、
教会ソナタなどと宮廷用のディヴェルティメント数曲(変ロ長調K.240、変ホ長調K.252, ハ長調K.188
二長調K.251)などを作曲している。
セレナード ニ長調 K.239
「セレナータ・ノットゥルナ」第三楽章ロンドーアレグレット セレナード 二長調 K.250(248b)
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指揮:アンドルー・マンゼ Andrew Manze ヤッシャ・ハイフェッツ Jascha Heifetz
原曲楽器構成:フルート2、ファゴット2、ホルン2、ヴァイオリン2部、
ヴィオラ2部、バス
クラヴィーア三重奏曲 変ロ長調 K.254 クラヴィーア協奏曲(第8番)ハ長調 K.246
第二楽章 アダージョ ≪リュッツォウ協奏曲≫第一楽章 アレグロ・アペルト
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自筆譜には「ディヴェルティメント」と記載されている。
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ハイフェッツのこの動画はじめてです。モーツァルトの曲ではありませんでしたが、若い時に劇映画に出演していて何回も見た記憶があります。
愛犬ピンペルルの名前なども思い出して、懐かしく拝見しました。
いつもありがとうございます。
by 塩 (2010-06-24 08:03)
おはようございます♪
K254とてもいいですね♪
by バロックが好き (2010-06-24 09:36)
おはようございます。モーツァルトもいよいよ20歳ですね。ザルツブルクでは、あまり音楽の出番がなかったようですね。それが、各国の訪問のきっかけにもなって、名前が知られることになったのかもしれませんね。いつの世にも人より先んじている人には、世の中が冷淡?ですね。キリエという形式のミサ曲をよく耳にしますが、どんな意味合いがあるのでしょうか?
by whitered (2010-06-24 09:56)
Dr.塩!こんにちは~☆
こちらこそいつもありがとうございます!
ハイフェッツが出演している映画「カーネギーホール」を一度観たいと思いながら果たせておりません☆何回もご覧になったとは素晴らしいですね☆
by アマデウス (2010-06-25 06:39)
バロックが好き さん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
K254はヴァイオリンとクラヴィーアが対等に扱われた、20歳のモーツァルトの自信作の一つとされていますね☆
by アマデウス (2010-06-25 06:46)
whiteredさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
ミサ曲冒頭に次の通り、「キリエ」=「主」=「キリスト」が歌われます。
”Kyrie eleison, Christe eleison, Kyrie eleison"
(キリエ エレイソン、クリステ エレイソン、キリエ エレイソン)
「主よ 憐れみたまえ、キリスト 憐れみたまえ、主よ 憐れみたまえ」
以上の通りミサ曲での「キリエ」というのは「主=キリスト」への「憐れみの賛歌」なのです☆
尚、「キリエ。。。」はギリシャ語のラテン語読みで、当時のミサ曲はこの箇所以外はすべてラテン語です☆
by アマデウス (2010-06-25 06:54)
こんばんわ。モーツアルトは20歳ですね。ザルツブルグではあまり
満足のいく活躍は出来なかったのですね。先日テレビの再放送で
アマデウスを見ましたが、改めて25番ト短調やピアノコンチェルトの
20番、レクイエムなど聴き直しました。結婚してからのモーツアルト
が可哀想でしたね。今日のハフナーの演奏をしているヤッシャ・ハイフェッツ素晴らしかったですね。とても懐かしく拝聴させて頂きました。
by pegasas (2010-06-29 21:35)
pegasasさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
「アマデウス」の再放送ご覧になったのですね☆
選曲も時代考証も素晴らしい映画ですよね☆
交響曲25番ト短調(K183)第一楽章から始まり(最初のジャ~ン♪という不気味な和音はドン・ジョヴァンニの序曲ですが)エンドロールには感動的なピアノ協奏曲第20番ニ短調(K466)第二楽章が流れましたね☆
by アマデウス (2010-06-30 06:46)
モーツァルトは動物が好きだったのですね。
>劇場については歌手が不足しており、
うまく行っておらず、カストラートもおりません。。。
この部分が非常に気になりました。
by Cecilia (2010-06-30 11:03)
モーツァルトが本当にやりたいオペラの作曲の機会はなくとも、公私ともに作曲関係はけっこう忙しかったのでしょうね。w (^ω^)b
ザルツブルクは岩塩の集散地となっていた町なのですね。当時のザルツブルクの人口は1万6000人で、ロンドンは86万人だったのですね。江戸は18世紀初頭には人口が100万人を超えていたそうですが、やっぱり世界一だったのですね。w (´∀`)ノ
(^ー^)ノシ
by モッズパンツ (2010-06-30 22:15)
Ceciliaさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
1年ほど前に出来た劇場ですからある面無理もないかも知れませんね☆
カストラートはモーツァルトが1777年9月マンハイムとパリ旅行に出かけた後で一人宮廷に雇用されていますが、劇場は主として旅回りの一座に貸し出されています☆
by アマデウス (2010-07-01 07:38)
モッズパンツさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
ご指摘の通り、当時の江戸の人口は100万人を越えており、世界一であったとされていますね☆最も当時は国勢調査があったわけでもなくあくまで推定値ではありますが。。。
by アマデウス (2010-07-01 07:45)