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モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅①(マンハイム①) [モーツァルト]

宮廷楽団(宮廷楽師長兼第一ヴァイオリン奏者)を辞職した21歳のモーツァルトは母親の
アンナ・マリア(当時56歳)と共に1777年9月23日、ザルツブルクを後にし、翌24日
ミュンヘンに到着した。ミュンヘン滞在は今回で通算5回目となる。

ザルツブルクの宮仕えから解放され嬉しさで元気一杯、前途洋洋たる思いのモーツァルトが、
レオポルトと約束した今回の旅の目的は「立派な定職をさがすこと、もしそれがうまく
ゆかなければ大きな収入のある大都会に行くこと」であった。(この目的はレオポルトがモーツァルトに
宛てた1778年2月12日付の手紙で再確認されている。)

ミュンヘンでは宮廷劇場総監督ゼーアウ伯爵などの要人経由バイエルン選帝侯マクシミリアン3世への
謁見を依頼したが遅々として進まず、ようやく9月30日になって謁見がかなったが、「生憎、空席がない
との理由で雇用の件はあっさり断られてしまった。

★選帝侯としては隣国であるザルツブルクの大司教に与えられた宮廷楽師長の職を辞したモーツァルトを即座に
雇用するわけには行かないと、大司教との友好関係をも考慮したものと思われる。又、選帝侯はイタリア音楽家偏重でもあった。

モーツァルトと母のアンナ・マリアはやむなくミュンヘンを10月11日に発ち、同日夜9時、
父レオポルトの故郷アウクスブルクに到着した。

翌日12日にクラヴィーア製作者ヨハン・アンドレアス・シュタインを訪れ、シュタイン製の
フォルテ・ピアノを試奏させてもらった。その素晴らしさにすっかり魅了されたモーツァルトは、
ザルツブルクの父レオポルト宛ての手紙(1777年10月17日付)で、シュタイン製フォルテ・ピアノ
ダンパーがずっとよくきき」、「音がいつでも一様で」、「エスケープメント」がついており、
膝ペダルも良く出来ており」このフォルテ・ピアノでソナタ6曲(ニ長調のデュルニッツ・ソナタを含む6曲)
弾くと「比較にならないほどよく響く」と絶賛しているのである。

★ヨハン・アンドレアス・シュタイン:Johann Andreas Stein (1728-92), モーツァルト一家が「西方への大旅行」の往路
アウクスブルクに立ち寄った際(1763年6月)、旅行用クラヴィーアを彼から一台購入している。「ウイーン式アクション・ピアノ
(フォルテ・ピアノ)」の案出者である。シュタイン製フォルテ・ピアノの当時の価格は一台約300フローリン。
★シュタインとは当時8歳半になる彼の自慢の娘、マリア・アンナ(愛称ナネッテ)のピアノ演奏について「演奏論」を
展開し、シュタインも殆どの点で同意するのである。その後、この娘ナネッテはウィーンでも指折りのピアノ製作者である
シュトライヒァと結婚し、二人で一流ピアノメーカーであるシュタイン社を創設し、ベートーヴェンも同社のピアノを愛用するのである。
★ソナタ6曲:1775年ミュンヘンで作曲した6曲のクラヴィーア・ソナタ:第1番ハ長調(K.279/189d)、第2番ヘ長調(K.280/189e)、
第3番変ロ長調(K.281/189f)、第4番変ホ長調(K.282/189g)、第5番ト長調(K.283/289h)、第6番二長調(K.284/205b)『デュルニッツ』 

アウクスブルクには宮廷はなく就職活動はしていないが、伯父の家を訪問し、そこで2歳年少の従妹で
当時19歳のマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトと出会い、たちまち意気投合し、モーツァルトは
彼女を「ベーズレ(小さな従妹ちゃん)」と呼び、父宛の10月17日の手紙に「ぼくらのベーズレは、
美しくて、賢く、愛らしくて、如才がなく陽気です。本当にぼくら二人はすっかり気が合っています。
その上彼女は少しばかりお茶目さんです。ぼくらはみんなを二人してからかっては楽しんでいます。
と報告している。

天真爛漫、おどけてふざけるのが大好きなモーツァルトは恰好の相棒を見つけ、駄洒落、語呂合わせ、
悪口、それにお尻とかウ●コとかオナラとかスカトロジーもおりまぜ二人は大いにふざけて楽しんだのである。
アウクスブルクをあとにしてからもモーツァルトは旅先から、陽気な糞尿譚的(スカトロジー)書簡を
ベーズレに書き送るのである。(これら書簡が「ベーズレ書簡」と呼ばれている。)

★ベーズレ書簡:18世紀当時極めて親しい間柄にある者同士ではスカトロジーを冗談の種にして笑い転げるといった
習慣があったことより、モーツァルトのスカトロジー書簡をもって下品であるとか人格を疑うとかの批判は適切ではなく、
当時の風俗習慣、現代との常識の相違なども十分考慮する必要がある。モーツァルトがウィーン時代に書いた
カノンにもスカトロジーが表現されるが、モーツァルトの天真爛漫さの表れとして受け止めるべきであろう。

宮廷もなく就職活動も出来ないアウクスブルクに腰を落ち着けるわけには行かない。
モーツァルト母子は10月26日にアウクスブルクを発ち、10月30日に今回の旅の最大の目的地である
マンハイムに到着した。

ライン川ネッカー川が合流する交通の要所として栄えたマンハイムブファルツ選帝侯
カール・テオドールの宮廷所在地である。マンハイム宮廷楽団は当時ヨーロッパ随一との評判であった。
モーツァルトは1777年11月4日付の父レオポルト宛の手紙に「オーケストラは実に素晴らしく、
強力です。左右両側にヴァイオリン10ないし11、ヴィオラ4、オーボエ2、フルート2にクラリネット2、
ホルン2、チェロ4、ファゴット4にコントラバス4、それにトランペットとティンパニです。それで快い
演奏をやります」と語り、すっかり魅了されているのである。
宮廷楽団を中心にオペラ、バレエ、演劇が盛んに上演されており、ここマンハイムの宮廷は
モーツァルトにとってはまさに理想郷、最善の就職先であったと言えよう。

モーツァルトはマンハイム到着後、すぐに宮廷楽団の器楽音楽監督のクリスティアン・カンナビヒ
楽長イグナツ・ホルツバウアー(1711-1783)といったマンハイム楽派の指導者たちに会いに行き、
宮廷音楽総監督ルイ・アウレル・ザヴィオーリ伯爵を紹介された。これが奏功し、祝賀行事の
一環として11月6日に催された大音楽会で、クラヴィーア協奏曲とソナタの演奏を披露し、
選帝侯から直接、お褒めの言葉をもらうことができた。

★クリスティアン・カンナビヒ:Christian Cannabich, 1731- 1798マンハイム生まれ。マンハイム楽派の創設者(宮廷楽団楽長)である
ヨハン・シュターミッツ(1717-57)に師事。15歳の時にマンハイムの宮廷楽団に入団。22歳でローマに留学、ヨメルリ(Niccolò Jommelli,
1714-74)に学んだとされている。シュターミッツの後任楽長を経て音楽監督。

他方、モーツァルトは、才能ある駆け出しソプラノ歌手にすっかり心を奪われる。
彼女の名はアロイジア・ヴェーバー。マンハイムの宮廷でバス歌手並びに写譜係として
生計を立てていたフランツ・フリードリン・ヴェーバーの次女、16歳である。

★アロイジア・ヴェーバー:フランツ・フリードリン・ヴェーバー(1760頃-1839)の4人の娘の次女で駆lけ出し歌手として、
すでに宮廷で歌い、選帝侯にも気に入られていた。「魔弾の射手」の作曲家カール・マリア・フォン・ヴェーバー
(1786-1826)はフリードリン・ヴェーバーの甥にあたり、アロイジアとはいとこ同士という関係になる。


Marianne_Thekla_Mozart.jpg     AloysiaWeber.jpg       
マリア・アンナ・テークラ・モーツアルト(1758 - 1841)         アロイジア・ヴェーバー(1760-1830)
愛称:ベーズレ             鉛筆画


モーツァルトアロイジアに声楽やピアノの指導をするとともに、彼女のためにレチタティーボとアリア
アルカンドロよ、私は告白するー私は知らぬ、このやさしい愛情がどこからやってくるのか?
(K.294)を作曲するのである。

★このアリアは1778年3月12日マンハイム出発を2日後に控えたモーツァルトのための送別演奏会がカンナビヒ邸で催された際、
アロイジアによって披露された。彼女はオペラ「牧人の王」(K.208)のアリア≪穏やかな空気と晴れた日々≫なども歌っている。

アロイジア以外にもモーツァルトはマンハイムの選帝侯の家族や同地で親しくなった貴族や名家
の女性そして宮廷音楽家の娘などに次の様な楽曲を作曲したのである。

①≪ロンド≫(K.284f):この曲は散逸したが、選帝侯の娘カロリーネ・ルイーゼのために作曲した。

クラヴィーア・ソナタ:ハ長調(K.309/284b):
  マンハイム宮廷器楽音楽監督であるクリスティアン・カンナビヒの「とても愛らしくクラヴィーアを
  弾く娘さん」(この様にモーツァルトは父に手紙で語っている)の当時15歳のローザのために書かれた。
  ★第二楽章アンダンテはローザ嬢の性格描写なのである。

クラヴィーア・ソナタ二長調(K.311/284c):
  フライジンガー(Freysinger)という家の二人の娘(Juliana 22歳)とJosepha(17歳)のために
  作曲されたと考えられている。詳細と音源については「犬とモーツァルト」ご参照。

5曲のヴァイオリン・ソナタ:ハ長調(K296), ト長調(K.301/293a)、変ホ長調(K.302/293b), 
  ハ長調(K.303/293c),ホ長調(K.304/300c)
  ★この最後の曲(K.304)はマンハイムで着手され、パリで完成した可能性もある。
  ★K301、K302,K303、K.304はパリで作曲するイ長調(K.305/293d)、二長調(K.306/300i)の2曲を加えパリで「作品 I 」として
  シベール社から出版するのである。パリよりの帰路再度立ち寄るミュンヘンで、バイエルン選帝侯に就任したばかりの
  カール・テォドールの妃エリザベト・マリアの許に参上し、この「作品 I 」を献呈することになる。
  ★ヴァイオリン・ソナタハ長調(K.296)はモーツァルトと母がマンハイム滞在中寄宿した宮中顧問官
  ゼーラリウスの当時15歳の娘、テレーザ・ピエロンに与えた。この娘にモーツァルトはクラヴィーアを
  教えている。モーツァルトはピエロン嬢のことを「僕たちのところの女の精」と評し、その可憐さを
  称えている。
  尚、このソナタK.296は「作品 I 」には入れず、1781年11月ウィーンにて 「作品 II 」の第2番として
  出版されるのである。尚、「作品 II 」はウィーンにおけるクラヴィーアの女性弟子ヨーゼファ・アウエルンハンマー
  (Josepha Auernhammer 1758-1820)に献呈された。内容はK.296とK.376~380の6曲で「アウエルンハンマー・ソナタ」の
  愛称で親しまれている。

二曲のフランス語歌曲:アリエット≪鳥たちよ、毎年≫(K.307/284d)と≪さびしく暗い森で
  (K.308/295b);
  宮廷楽団フルート奏者ヨハン・バブティスト・ヴェンドリング(1723-1797)とマンハイムの宮廷歌手で
  あった妻ド ロテアの娘エリーザベト・アウグステ(愛称グストゥル)のために書かれた。


レチタティーヴォとコンサート・アリア
アルカンドロよ、私は知らぬ、
このやさしい愛情がどこからやってくるのか?≫K.294         アリエット≪鳥たちよ、毎年≫(K.307/284d)
”Alcandro, lo confesso...Non sò, d'onde viene''          Oiseaux, si tous les ans
ナタリー・デセイ Natalie Dessay                     チェチーリア・バルトリ Cecilia Bartoli 
     
ピエートロ・メタスタージョの『オリンピアーデ』              鳥たちよ、毎年冬には去ってゆく。
第3幕第6場より                           一年中恋ができる様に花の季節を
                                   探しに行くのだ。

ヴァイオリン・ソナタ ハ長調 K.296                ピアノ・ソナタ ハ長調 K.309(284b)
第二楽章 アンダンテ・ソステヌート                   第一楽章 アレグロ・コン・スピーリト
                                    クリストフ・エッシェンバッハ Christoph Eschenbach
              
     
筆譜のタイトル:テレーゼ・「ピエロン」のために。
ピアノ:オイゲン・ダルベール(Eugen d'Albert (1864 -1932年)         
ヴァイオリン:Andreas Weissgerber
1923年録音                                


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バロックが好き

おはようございます♪
のだめにも「べーズレ」ちゃんの手紙が出て来ましたね。
時代背景としてそういうおふざけがあったのですね。
勉強になりました。
K.296とても女性的な優しいきれいな曲ですね。
聴いていると心穏やかな優しい気持ちになります。
by バロックが好き (2010-07-15 09:12) 

whitered

おはようございます。モーツァルトの就活もなかなか大変ですね。この頃、フォルテピアノがもう出来ていたのですね。スカトロジー初めて聞きました。貴族の言葉遊びと子どもの好きなおふざけをすることで、息抜きになったのでしょうね。
by whitered (2010-07-15 10:02) 

アマデウス

バロックが好き さん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
K.296第2楽章はまったくバロックが好きさんのコメントの通り、のどかで優しい曲ですよね☆
1781年ウィーンでのデビュー出版(作品「II 」にこのソナタを含めているということはモーツァルトの自信作でもあったということでしょうね☆尚第一主題は幼年時代(8~9歳)、ロンドンで非常に親しくなったヨハン・クリスティアン・バッハのアリア「甘きそよ風」”Dolci Auretti"に基づいているとされています(私はこのアリア聴いたことはありませんが)☆

by アマデウス (2010-07-16 06:24) 

アマデウス

whiteredさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
モーツァルトの希望は「楽長」ということですから、イタリア音楽家全盛の時代で楽長はイタリア人が殆ど(イタリア人を楽長にしていることがひとつのステータス・シンボルとも言える時代)でしたから、若いモーツァルトがいくらイタリアで勉強済みとはいっても楽長として採用されるのは非常に難しいですよね☆
by アマデウス (2010-07-16 06:37) 

Esther

初期の6曲のソナタはいずれも可愛らしいなかにも深いものがあって、モーツァルトらしさが感じられます。K.280第2楽章、MIDI UPしましたが、モーツァルトさんの演奏をじかに聴いてみたいものです。きっと気さくで、オモシロい方だったのでしょうね〜。
by Esther (2010-07-16 07:31) 

塩

ムターとエッセンバツハのそれぞれのソナタを仕事場の机の上で聴かせていただき、感謝しています。今日1日心地よく仕事ができそうです。
この後再度流させていただきます。
by (2010-07-16 09:42) 

トラの父

モーツアルトのような音楽家にとって,公募やオーディションの無い当時,移動のために相当の費用を注ぎ込んでする求職活動はずいぶんリスキーなものだったんだと改めて思いました.
自分の作品を世に知らしめるための,出版物などの媒体の流通も未だ範囲が限られていたのでしょうか.

ともあれ,必ずしも楽ではない旅の中にあって,創作や経験の蓄積を(スカトロ・ジョークとともに)意欲的に積み重ねたのだから,月並みですけど普通の人じゃなかったんですね...
by トラの父 (2010-07-16 20:54) 

モッズパンツ

やはり一度脱藩してしまうと、仕官の道が狭くなりますね。w (^ω^)b
モーツァルトがスカトロジー好きとは驚きました。w (ノ∀`)アチャー

    / ̄|   人
    |  |  (__) イェ~ィ!
    |  | (___) ウンコッコー!
  ,―    \( ・∀・)
 | ___)   |  ノ
 | ___)   |)_)
 | ___)   |
 ヽ__)_/

(^ー^)ノシ
by モッズパンツ (2010-07-16 22:14) 

アマデウス

Estherさん!こんにちは~☆
K.280第2楽章アダージョ へ短調MIDI聴かせて頂きました☆
シチリアーノをうまくとらえられモーツァルトとの対話を楽しまれていますね☆
これからもモーツァルト弾きながらお楽しみ下さい☆
by アマデウス (2010-07-17 06:16) 

アマデウス

Dr.塩!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
私もオフィスではバイオリンやピアノ・ソナタをBGMに流していることが多いです☆歯科治療の場合などはモーツァルトを聴くことを条件に治療してもらっています☆
by アマデウス (2010-07-17 06:24) 

アマデウス

トラの父さん!こんにちは~☆
ご訪問&コメントありがとうございます!
楽譜は自費出版で殆どが王侯貴族への献呈用でした(もっとも献呈するとその謝礼は貰えたわけですが)★ウィーン時代の約10年では楽譜を出版社から出版し収入を得てはいますが、音楽を嗜む層はまだまだ限定されており、楽譜販売で生計をたて得る状況にはありませんでした☆旅行を通じて各地の音楽や一流の音楽家と交流し楽才を高め曲想を豊かなものにしていったわけですよね☆
by アマデウス (2010-07-17 06:39) 

アマデウス

モッズパンツさん!こんにちは~☆
モーツァルトのベーズレ書簡(スカトロジー書簡)をお読みになった様なAA
ですね★当時のモーツァルトがこのAAを見たらわが意を得たり。。。と大喜び
でしょうね★スカトロAAコメントありがとうございます★∩。∩

by アマデウス (2010-07-17 06:45) 

LittleMy

何冊かモーツァルト関連の書籍は所持していますが、アマデウス様のブログが一番ためになって、わかりやすくて、おもしろいなぁと日々楽しんでいます。
by LittleMy (2010-07-18 14:07) 

アマデウス

LittleMyさん!こんにちは~☆
大変張り合いのでる嬉しいコメントを頂きありがとうございます☆
いつもお付き合い頂き改めて感謝致します☆<(_ _)>


by アマデウス (2010-07-19 07:15) 

アヨアン・イゴカー

>シュタイン製フォルテ・ピアノは
「ダンパーがずっとよくきき」、「音がいつでも一様で」、「エスケープメント」がついており、
「膝ペダルも良く出来ており」

膝ペダルなるものが付いていたのですね、当時の過渡期のピアノは。
by アヨアン・イゴカー (2010-07-19 17:44) 

アマデウス

アヨアン・イゴカーさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
当時のフォルテ・ピアノには「足ペダル」ではなく「膝ペダル」がついていたのですね☆音域も5オクターヴ以下で、ベートーヴェンの晩年のと比べると1オクターヴは狭かった様です☆
by アマデウス (2010-07-20 06:31) 

pegasas

マンハイムは従妹ちゃんや美しいアロイジアなどに
囲まれて楽しい時を過ごしたのですね。作曲も進んだ
のでしょうね。就活は難しいようですが。
by pegasas (2010-07-27 10:16) 

アマデウス

pegasasさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
当時ヨーロッパ随一とされていたマンハイム宮廷楽団と親しく付き合えることはモーツァルトにとってこの上ない喜びであったと思われます☆それに加え美しい女性達。。。pegasasさんのコメントの通り、楽しい時を過ごしたと言えるでしょうね☆

by アマデウス (2010-07-28 07:20) 

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