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モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅③(パリ) [モーツァルト]

モーツァルト(22歳)母アンナ・マリア(57歳)は1778年3月14日にマンハイムを発ち、
9日後の23日にパリに到着した。

西方大旅行」でパリを訪問した時、拝謁、御前演奏をしたのはルイ15世であったが、
パリは今やルイ16世の時代になっていた。ルイ16世のモーツァルトが6歳の時、ウィーン
シェーンブルン宮殿で「僕と結婚しよう」と言ったとされている1歳年長のマリア・アントニア
フランス王妃(仏名:マリー・アントワネット)であったが、今回の青年モーツァルトの約6ヶ月のパリ
滞在中に謁見する機会はなかった。

ザルツブルクの父レオポルトは、「西方大旅行」でパリ滞在時非常に世話になった
グリム男爵に、息子をよろしくとの書簡を発信していたが、同男爵は7歳のモーツァルトの
才能には夢中になったが、22歳になったモーツァルトには特に珍しさ、新しさを感じないのか、
かなり冷淡な態度を示した。もっとも当時パリは財政状態が悪化し、グリム男爵のような貴族
でも「30年来の生活苦」に喘いでおり、音楽どころではなかったということも考えられる。
★グリムは、「フランス・オペラ」と「イタリア・オペラ」の優劣をめぐる論争(いわゆる「グルック=ピッチンニ論争」)でパリの聴衆が
二派に分裂しており、その狭間でモーツァルトが成功するのは非常に難しいとも判断していたのである。
(1778年7月27日付グリムよりレオポルト宛書簡)

パリでの就職活動もそんな簡単なものではなかった。唯一もたらされた就職口はヴェルサイユ宮殿
オルガン奏者の職であったが、ザルツブルクの父レオポルトには「年俸は少ないし、一年の半分も
束縛され、パリで活躍も出来ない」と説明し、この職を断ってしまうのである。

モーツァルトがパリで最高の喜びを得たのは6月18日、コンセール・スピリチュエルが催した
チュイルリー宮のスイスの間で交響曲ニ長調「パリ」K.297が演奏され、大喝采を博した時である。
≪。。。僕はもううれしくって、シンフォニーが終わるとすぐにパレ・ロワイヤルに行って、おいしい
アイスクリームを食べ、願をかけていたロザリオの祈りを唱えて、家へ帰りました。。。≫
★しかしこの喜びは後述するごとく父や姉の心配と悲しみを少しでも和らげる為に語ることになるのである。

モーツァルトの母アンナ・マリアはパリに到着後、過酷な旅がこたえたのであろう体調を崩していた。
知人も限られており、薄暗い宿の一室でモーツァルトの帰りを待つ寂しい生活に耐えていた。彼女は
パリで早くモーツァルトが成功し、レオポルトとナンネルがすぐにもパリに来て家族みんなが
一緒に生活出来る様になること≫を神に祈り、ただひたすら寂しさに耐えていたのである。

アンナ・マリアは1778年6月12日ザルツブルクの夫レオポルトに語りかけた。
≪いとしいかた。。。あなたがたがお元気なことを知ってうれしいです。
私もヴォルフガングもおかげさまで元気です。きのう私、瀉血をしてもらいましたので、
今日はあまりたくさん書けません。。。(中略)
ごきげんよう。お二人ともお元気で。あなたがたに幾千回もキスし、あなたの忠実な妻の
モツァルティーンです。もう終わりにします。腕と眼が痛むのです。≫

この手紙がアンナ・マリアがザルツブルクの夫と娘のナンネルに書いた最後の手紙となった。
6月19日病床に伏した彼女は様態が悪化し、意識不明のまま1778年7月3日夜の10時21分
最愛の息子に看取られ57歳でこの世を去ったのである。アンナ・マリアは最後の時を迎えるに際し、
うわごとを言っていたが、モーツァルトが成功し、家族みんなが一同に会し得た喜びを
語っていたのであろうか。。。

★アンナ・マリアは体調が弱っていたにも拘わらず、瀉血(血を抜くこと)療法を受けたのである。当時この瀉血は
一般に広く行われており、かなり大量の血を抜きそれによって造血作用を促すという現代医学では考えられない
治療であった。おそらくこの瀉血療法が致命的となったと思われる。

モーツァルトは最愛の母を亡くした3日夜半から4日にかけて、自分も母と一緒に死んでしまいたいほどの
悲しみをこらえながら父と姉ナンネルに手紙をしたためるのである。
その手紙にはすでに母が亡くなったことは伏せ、まず「重態である」と記した上で、「交響曲パリ
の成功の模様を語り、そして末尾にはこう語るのである。≪では、ごきげんよう。。。愛するお母さんは
全能の神の御手の中にあります。もしぼくが望むように、なお余命を与えてくだささるなら、神の
恩寵に感謝しましょう。でも、みもとに召されるなら、ぼくらの不安や、絶望はすべて無用です。
神のなさることに理由がないわけはないのですから。。。≫
まずは父と姉に母の死に対する心構えをさせようとするのである。

この手紙のすぐあと、4日の朝2時頃にザルツブルクの親友ブリンガー牧師に「ぼくの母はもういない!
神にめされたのだ。」と母が亡くなったことを告げ、「父と姉には重体であるとしか連絡しておらず、
両人に心構えをさせて欲しい。」と依頼するのである。

★ザルツブルクでモーツァルトよりの「母が重態である」との手紙を受け取った父レオポルトとナンネルは母が既に
この世を去ったことを感知するのである。その夜レオポルトを訪問したブリンガー牧師より真実を告げられたのである。
★モーツァルトが母の死をレオポルトとナンネルに伝えたのは母の死から6日が経過した7月9日付の手紙であった。

妻もこの世を去り、パリでの就職も旨く行きそうにないと判断したレオポルトはモーツァルトを早急に
ザルツブルクに帰郷させ再度宮廷楽団で働ける様大司教に懇願し、モーツァルト帰郷後は
宮廷オルガン奏者に任命するとの内諾を得たのである(1777年よりオルガン奏者に空席があった)

レオポルトはパリのモーツァルトに帰郷を指示し、あの手この手で帰郷を促すのである。
モーツァルトは当初躊躇していたが、父の執拗な説得にある面根負けし、パリを去ることを
受け入れたのである。グリム男爵としては厄介払いが出来るとの気持ちが大きかったのであろう
早急に馬車の手配をし、モーツァルトを半ば強制的に駅馬車に乗せたのである。


Tuileries.jpg
『パリのチュイルリー宮』 1778年6月18日、スイスの間でモーツァルトの交響曲ニ長調「パリ」K.297が演奏され、
大成功を収めた。この宮殿は1564年カトリーヌ・ドゥ・メディシスの命で建設が開始され1572年王妃の命で中断、 
アンリ4世が1608年に完成させた。宮殿は1871年5月、パリ・コミューヌにより焼失した。 


約6ヶ月程の滞在となったパリでモーツァルトは次の様な作品を仕上げたのである。
★これらの作品の他、コンセール・スピリチュエルのために「フルート、オーボエ、ホルン、ファゴットのための
協奏交響曲K.Anh.9(297B)を書いたが、上演されないまま楽譜も失われてしまうという事態もあった。

パントマイム≪レ・プチ・リアン≫のためのバレー音楽 K.Anh.10(299b):
  旧知のオペラ座の振付師、ジャン・ジョルジュ・ノヴェールの依頼により作曲。このバレエは、ピッチーニの
  『偽りの双子の娘”Le finte gemelle"』の幕間に上演された。尚、モーツァルトはノヴェールの娘のヴィクトワール・ジュナミー
  Victoire Jenamyのために≪クラヴィーア協奏曲(第9番)変ホ長調≫(K.271)を今回の求職の旅に出る前(21歳の時)に作曲している。

交響曲 二長調 (第31番) ≪パリ≫K.297:
  この頃のパリではオーケストラの迫力ある多彩な響きに人気があり、モーツァルトが大編成オーケストラと管楽器パートを
  念頭において作曲した華麗な大交響曲である。初演時のオーケストラは57名であったとされている。
  .
フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K.299
  旧知のグリム男爵の紹介でド・ギーヌ侯爵と知り合い、その令嬢に作曲を教えた。ド・ギーヌ侯爵は「たぐいまれな
  フルートの名手」であった。令嬢は「ハープを見事に弾いた」(1778年5月14日付)のである。この侯爵の依頼をうけて
  K.299を作曲した。

ヴァイオリン・ソナタ 二長調 K.306(300I)
  「作品 I 」の第6番。曲集中の唯一の3楽章作品。(I:アレグロ・コン・スピーリト、II:アンダンテ・カンタービレ、III:アレグレット)

クラヴィーア・ソナタ イ短調 K.310
  作曲時期は1778年の初夏であろうとされている。 
  第8番であり、新全集では第9番である。「仮借ない暗黒に満ち」た「本当に悲劇的なソナタ」(アインシュタイン)とも評される
  この曲は母の死(7月3日)を反映した作品であるとしばしば解釈される。フォルテ・ピアノの精華ともいうべき作品である。

⑥マンハイムで手がけたヴァイオリン・ソナタ ホ短調 K.304を完成させている。

レチタティーヴォとアリア(シェーナ)≪テッサーリアの民よ/不滅の神々よ、私は求めはしない≫
  'Popoli di Tessaglia...Io non chiedo,eterni Dei" (K.316)K.316
  アロイジア・ヴェーバーに贈るためにパリで書き始め、1779年1月8日ミュンヘンで完成。
  ★ラニエーリ・デ・カルザビージ(Ranieri de Calzabigi 1714~95)の『アルチェステ Alceste』第1幕第2場より。
  ★このアリアでモーツァルトは一番高い声 High Gを使っている。因みにモーツァルトが使った二番目に高い声は≪魔笛≫
  第二幕の夜の女王のアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」”Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen” の
  High F である。
  ★アリア「不滅の神々よ、私は求めはしない」:Io non chiedo, eterni Dei/tutto il ciel per me sereno/ma il mio
  duol consoli almeno/qualche raggio di pieta./Non comprende i mali miei/ne il terror, che empie il petto/
  chi di moglie il vivo affetto/chi di madre il cor non ha.不滅の神々よ,私は求めはしない、/空がすべて私のために
  晴れよとは。/だけど、せめて、この苦しみを/いくらかの憐みの光が慰めてくれますよう。/私の不幸は解らないでしょう、/
  私の胸にいっぱいの恐怖もまた/妻としての深い愛情を知らぬ者や/母の心を持たぬ者には。


フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K.299         交響曲 二長調(第31番)≪パリ≫K.297
第2楽章 アンダンティーノ                       第一楽章アレグロ・アッサイ
          
                                 フライブルク・バロック管弦楽団 Freiburger Barockorcheste                                          指揮:ゴットフリート・フォン・デア・ゴルツ Gottfried von der Goltz



クラヴィーア・ソナタ イ短調 K.310              レチタティーヴォとアリア(シェーナ)≪テッサーリアの民よ
第一楽章アレグロ・マエストソ                     不滅の神々よ、私は求めはしない≫K.316
スヴャトスラフ・リヒテル Sviatoslav Richter            ナタリー・デセイ Natalie Dessay
                                                    パリで書き始め、1779年1月8日ミュンヘンにて完成。

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1778年9月16日パリを発ったモーツァルトはまっすぐミュンヘン経由ザルツブルクには向かわず、
まず、マンハイムに立ち寄り、その後ミュンヘンに向かうのである。ミュンヘンでは愛する
アロイジアとその一家を訪問したのであるが、アロイジアは冷たくモーツァルトに接し、
初めての失恋を経験するのである。モーツァルトは1時間ほど泣き続けたという。

★当時18歳のアロイジアはミュンヘンのドイツ劇場との専属契約を600フローリンで調印し、父親も400フローリンでミュンヘンの
宮廷楽団に勤めることになり一家がミュンヘンに移住していた。父親はモーツァルトの能力を評価し、好感を抱いていたことより、
恐らく母親がアロイジアに定職のないモーツァルトを相手にするなと諭したのではないかとも思われる。

父レオポルトと姉のナンネルに会えるのは非常に嬉しいが、またもやあの大司教のもとで
宮廷楽団勤務が始まるのかと考えると憂鬱になるモーツァルトは結局ミュンヘンで越年し
アウクスブルクから呼び寄せた従妹のベーズレとミュンヘンで過ごした上で1779年1月15日
やっとザルツブルクに帰郷したのである。1777年9月にザルツブルクを発ってから約1年と
4ヶ月が経過していた。従妹のベーズレことマリア・アンナ・テークラはモーツァルトの願いに
応じ、ザルツブルクを訪問し、約2ヶ月程モーツァルトの家に逗留したのである。



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mikoto

こんにちは、色々読ませて頂くと人間としてのモーツアルトが浮き彫りになって来て
実在感を増しますね。
今回は4曲とも聞かせていただきました。
クラヴィーア・ソナタが一般的モーツアルトを感じさせていいですね。
個人的にはフルートとハープのための協奏曲が素敵な絵と共に楽しめて
響きも爽やかで好きです^^
by mikoto (2010-07-29 09:02) 

塩

いつも迫力ある内容とご選曲に敬服しています。
パリでの母の死と、その知らせを父と姉への配慮したこと、いつもじんと胸にきます。
瀉血に対するご意見全く同感です。モーツァルト自身も亡くなる前に瀉血を
受けましたね。当時の治療法としては仕方なかったといえ、瀉血しなかったらもう少し死期が伸びたのではとのご推察、私もそう思えてなりません。
by (2010-07-29 09:43) 

トラの父

パリ交響曲初演の後,初夏のパリで食べたアイスクリームは美味しかったでしょうね.私も食べたくなりました.

お母さんが亡くなった時の家族への配慮などは,自分自身の悲しみをさておいて,他者の悲しみに真っ先に共感しなければできない振る舞いであったろうと思います.
お父さんやお姉さんが悲しむことを,ヴォルフガングは悲しんだのでしょうから.


協奏交響曲K.Anh.9(297B)もこの間,ひさびさLPで聴きました.
そういえば,あの曲もパリで書かれていたんですね.

by トラの父 (2010-07-30 00:39) 

アマデウス

mikotoさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
K.299はフルートとハープという非常に珍しい取り合わせで、特に 第2楽章は管弦楽が弦だけとなり、mikotoさんのコメントの通り、 フルートとハープの美しさが際立っていますよね★ 

by アマデウス (2010-07-30 06:13) 

アマデウス

Dr.塩!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
嬉しいお言葉、大変励みになります☆
母アンナ・マリアもモーツァルトも瀉血が死を早めたという点、どちらも後世の人たちが作り上げた記念碑はあっても本当の意味でのお墓(遺骨)がないという点も似ていますね☆ご承知の通り、アンナ・マリアはパリのサン=トゥスタシュ教会で葬儀が行われ、その付属墓地に埋葬された様ですが、墓地がその後破棄されており、遺骨が行方不明になっていますね★せめて遺骨だけでもザルツブルクの家族と一緒にしてあげたかったですよね★合掌

by アマデウス (2010-07-30 06:16) 

アマデウス

トラの父 さん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
ご指摘の通りフルート、オーボエ、ホルン、ファゴットのための協奏交響曲もパリで作曲していますが、この曲については次の通りである点ご承知の通りです★
①ケッヘル第6版(1964年)ではK.Anh.9=K.297Bとして消失した作品とされている。
②新全集(1980年)ではモーツァルトの伝記を書き遺したヤーン(1813~69)の遺品から見つかった写譜(フルートの代わりにクラリネットを用いた編成版)はK.297b=K.Anh.C14.01とし偽作としている★
トラの父 さんはフルートがお好きなので、恐らくお聴きになっているのはコンピュータを使って復元したとされているマリナー指揮アカデミー版(Philips、1983、フルート使用)かなと想像しております★
by アマデウス (2010-07-30 06:23) 

whitered

おはようございます。なかなか思うように就活ができなかったモーツァルトに追い討ちをかけるように、お母さんの死、失恋があったのですね。「交響曲パリ」には、パリに対して、あこがれと執着があったことが感じられます。しかし、マイナスの心境をうまくカバーする方法(ベーズレに会い、行動を共にする)も心得ていますね。
by whitered (2010-07-30 08:12) 

LittleMy

「テッサーリアの民よ」この曲って、本当にすごいですよね。
by LittleMy (2010-07-30 09:30) 

アマデウス

whiteredさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
ご指摘の通り、ベーズレと明るく冗談や語呂合わせ更にはスカトロ談義をして
気分転換を図らんとしたのでしょうね★ザルツブルクでの再度の宮仕えの憂鬱を紛らわせ、且つ、明朗・快活であった母の代役としてベーズレをザルツブルクに誘った気持ちが解りますよね★
by アマデウス (2010-07-31 06:03) 

アマデウス

LittleMyさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
G1からG3までに及ぶ音域のアリアに長大なレチタティーヴォ・アコムパニャートは愛するアロイジアの持てる才能をすべて引き出すべく作曲したのでしょうね★アロイジアは晩年≪なぜモーツァルトのプロポーズを受けなかったのか。。。なにを考えていたのか、わからない。バカだったわ。人生後悔することばかり。。。≫と語っていますよ★

by アマデウス (2010-07-31 06:07) 

モッズパンツ

パリでモーツァルトのお母さん亡くなっちゃったのですね。 (´・ω・`)カワイソス
結局ザルツブルクに帰郷するわけですが、やはりどこへ行っても就職活動は大変だったのですね。ガンガレ、モーツァルト。w (´∀`)ノ

(^ー^)ノシ
by モッズパンツ (2010-08-01 22:02) 

アマデウス

モッズパンツさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
就職活動は失敗に終わり、母は亡くすは、失恋はするはでザルツブルクに帰郷したわけですが、音楽的には各地で一流音楽家や楽団と交流し、非常に有意義な旅行でもあったわけです★ザルツブルクに帰郷してから数々の名曲を作曲することになりますよ☆

by アマデウス (2010-08-02 06:13) 

pegasas

天才も大人になるとあまり珍しがられなくなるのですね。
お母さんも失くして就活もうまくいかず、可哀想なモーツアルト。
でもパリ交響曲は明るくてモーツアルトらしい曲で、私の好きな
曲の一つです。モーツアルトは神様が良い曲を作らせるために
地上に使わされた神の使い?だったのでしょうね。
by pegasas (2010-08-07 16:23) 

アマデウス

pegasasさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
モーツァルトは思想や感情が初めにありきではなく、そういったことを意識する以前に音楽が心に浮かんだのでしょうね☆モーツァルトの音楽が純粋で透明なのはミューズがそう仕向けたからと言うことでしょうか。。。☆

by アマデウス (2010-08-08 06:36) 

アヨアン・イゴカー

このイ短調のピアノソナタ好きです。
by アヨアン・イゴカー (2010-08-08 13:20) 

アマデウス

アヨアン・イゴカーさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
イ短調のピアノ・ソナタお好きなことがわかり嬉しいです☆

by アマデウス (2010-08-09 06:41) 

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