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ザルツブルクのモーツァルト23歳(1779年) [モーツァルト]

23回目の誕生日をあと12日で迎えんとする1779年1月15日マンハイムとパリ求職の旅より
ザルツブルクに戻ったモーツアルトは1777年12月22日に急死したアドゥルガッサーの後任として年俸
450フローリンで宮廷オルガン奏者に任命されたのであるが、任命されるには辞令交付請願書
大司教に提出する必要があった。(請願書提出後は直ちに、1月7日付で辞令が交付されている。)

  高貴にして慈悲深き大司教猊下!
  神聖ローマ帝国の領主大司教猊下!
  国王にしてご主君様!

  猊下におかせられましては、カイエターン・アドゥルガッサーの逝去後、かたじけなくも、小生を
猊下の楽員としてお取立て下さいました。したがいまして、小生を猊下の宮廷オルガン奏者として
御発令下さいますよう、まことに恐れながらお願いもうしあげます

                                     ヴォルフガング・アマデー・モーツァルト

★アントン・カイエターン・アドゥルガッサー:Anton Cajetan Adlgasser 1729-77年12月22日。オルガン奏者にして
すぐれた対位法作曲家であり、モーツァルト一家とは家族ぐるみの付き合いであった。アドゥルガッサーの年俸は
450フローリンであったので、大司教はその年俸をそのままモーツァルトに支給することにしたのである。

この辞令交付請願書は署名にいたるまですべて父レオポルトによって書かれている。レオポルト
としてもさすがにこの請願書をモーツァルトに書かせるのは酷であり、無理強いすると「宮廷には
雇用してもらわなくて結構」としてやっと連れ戻したザルツブルクを飛び出して行きかねないと
考えたものであろう。又、レオポルトは、大司教がかなり柔軟性を示し、モーツァルトの要望を
受け入れたとのニュアンスの説明の手紙をモーツァルトに出していたことにもよるであろう。

レオポルトが上記の通り考えざるを得ないほどモーツァルトは大司教、宮廷楽団、ザルツブルクを
嫌っていたのであるが、その理由はモーツァルトのいくつかの手紙から把握することが出来る。

ザルツブルクの父レオポルト宛て(パリ、1778年7月9日)
≪。。。ああ、もし楽団(注:ザルツブルクの楽団のこと)がマンハイムののように人選されていたらなあ!
(中略)あの楽団(注:マンハイム宮廷楽団)では、服従が絶対です!カンナビヒが絶対権をにぎっていて、
あそこではすべてが真剣に行われています。(中略)礼儀作法を心得、みだしなみがよく、
居酒屋へ行っても大酒をくらったりしません。しかし、ザルツブルクではそうはいきません。
君主がお父さんかぼくを信頼して、ぼくらにあらゆる権力を与えてくれたら別ですが。常に楽団には
権力が必要不可欠です。≫

ザルツブルクの親友ヨーゼフ・ブリンガー師宛(パリ、1778年8月7日)
≪。。。最愛の友よ、僕にとってどんなにザルツブルクが嫌悪すべきところか、あなたにはおわかり
でしょう!(中略)ザルツブルクはぼくの才能に向いた土地ではない!第一に、音楽にかかわる人
たちがまったく尊敬されていないこと。第二に、なにも聴くものがありません。劇場もなければ、
オペラハウスもありません!もし本当にオペラを上演しようとしても、一体だれが歌えるのでしょうか?
この5,6年間、ザルツブルクの管弦楽団はいつも無用の長物、余計な連中でいっぱいでした。。。≫
★1775年ザルツブルクに宮廷劇場が誕生しているが、その公演は旅回りの劇団(シカネーダーやベーム一座など)に委ねられた為、
モーツァルトなど地元の作曲家たちの出番はなかった。詳細は「ザルツブルクのモーツァルト19歳(1775年)」ご参照。

ザルツブルクの父レオポルト宛(マンハイム、1778年11月12日付)
≪。。。大司教がもしかするとぼくが戻らないのではないかと案じ、もっとよい給料を与えようと決心する
ように、大いに、強く話して下さい。(中略)大司教はぼくをザルツブルクの奴隷とするのに、どんなに
支払っても充分ということはありえません!あなたにあえると思うとよろこびにあふれるのを感じます。
しかし、あの乞食宮廷にふたたび仕えるかと思うと、まったく腹立たしさと不安を感じます。大司教が
ぼくに対して、以前やっていたような、偉ぶった態度を演じようとすることは許されません。奴の鼻を
明かすことだって、なきにしもあらず!たやすいことですよ。そして、あなたもぼくのよろこびを分かち
合ってくれると確信しています。≫

父レオポルト宛(マンハイム、1778年12月3日付)
≪。。。ああ!ぼくらもクラリネットを持てたらなあ!シンフォニーが、フルートとオーボエとクラリネットを
伴ったらどんなにすばらしい効果をあげるか、ご想像になれないでしょう。ぼくは大司教との最初の
謁見で、たくさんの新情報を伝え、多分なんらかの提案もしてみるつもりです。ああ、大司教が望み
さえすれば、ぼくたちのところの楽団は見違えるほど洗練され、よりよくなるでしょうに。。。≫

父レオポルト宛(ミュンヘン、1779年1月8日)
≪最愛のお父さん、あなたが以前よりもぼくを理解してくれていることがわかったので、
(ザルツブルクではなくて)あなたのもとにかえるのをいまや心から喜んでいます。
ぼくの名誉にかけて誓って言いますが、ぼくはザルツブルクとその住民たち(ぼくの言うのは
生まれながらのザルツブルク出身の連中たち)にもうがまんできません。彼らの語り口、
生活ぶりがまったく耐えがたいのです。(中略)
信じて下さい。ぼくがあなたと愛するお姉さんをふたたび抱擁することを熱望して燃えているのを。
ただし、これがザルツブルクでなかったらなあ!でも、ザルツブルクへ向かわないことには会えない
わけですから、よろこんで行きます。≫                          (モーツアルト書簡全集)

かくしてモーツァルトは1779年1月14日又は15日にミュンヘンを発ちザルツブルクに帰郷したのである。
ザルツブルクには親友や支援者もいることでもあり、最後の方の手紙は帰国がだんだん迫り、
ミュンヘンやマンハイムでの就職の思い断ち切れず、ザルツブルクに対する険悪感をいささか誇張して
記述しているとも思われるが、大司教宮廷楽団などはいつでも辞めてやるとの気構えをも
感じさせるのである。

とは言え、モーツァルトがこの時期ザルツブルクで作曲した作品は名曲ぞろいなのである。
『マンハイムとパリ求職の旅』は就職活動の失敗、パリでは母を亡くし、ミュンヘンでは最愛の
アロイジアにはふられるといった苦悩の旅であったわけだが、音楽的にはフォルテ・ピアノとの出会い、
マンハイム楽団(楽派)やパリにおける一流の音楽家達との交流などにより、極めて実り多き旅でも
あったことがうかがえる。

★モーツァルトが失恋した相手であるアロイジア・ヴェーバーはこの年1779年9月ウィーンの宮廷劇場と契約し、
これに伴い家族総出でウィーンに移住している。


Schloss Hellbrunn.jpg
ヘルブルン宮の噴水庭園にある『宴のテーブル』と名付けられたびっくり噴水
(各椅子の中央から噴水が飛び出す。)

★ヘルブルン宮:1613年から19年にかけて当時のザルツブルク大司教マルク・ジッティヒ・フォン・ホーエンエムスが
作らせた噴水細工に満ちた離宮。

モーツァルトは文字通りオルガンの名手で、オルガンの即興演奏家としても桁外れの存在で
あった。彼は子供のときからピアニストとしてだけでなく、ヴァイオリニストオルガニストとしても
高い評価を受けていた。オルガンについてみれば、8歳の時の「西方大旅行」で、バッキンガム宮殿
における国王ジョージ3世シャーロット王妃への御前演奏でも国王のオルガンを弾き絶賛を
博したことが思い出される。
★モーツァルトはヴィオリストでもあり、個人演奏会ではしばしば好んでヴィオラ・パートを受け持っている。

この年1779年、モーツァルト(23歳)は次の様な主たる作品を含め24曲を作曲している。
★24曲には紛失したものや断片も含まれる。

クラヴィーア協奏曲(第10番)変ホ長調K.365:
  正確な作曲時期は不明ながら多分年初に作曲されたと考えられおり、ザルツブルク時代最後のピアノ協奏曲である。
  おそらくピアノの名手であった姉ナンネルとの共演用に作曲されたのであろう。
  ★本作品の完成時期を1775年から77年の間とする説もある。
  ★この作品についてはモーツァルト24歳・ザルツブルク在住最後の年(1780年)ご参照

ミサ曲 ハ長調 ≪戴冠式ミサ ”Kronungs messe”≫ K.317
  3月27日完成し、同年4月4日又は5日にザルツブルク大聖堂にて初演。
  戴冠式の呼称はザルツブルク近郊のバロック様式のマリア・ブライン教会のために作曲されたという説とザルツブルクの
  司教座聖堂のためであるとする説があるが、マリア・ブライン教会の聖母マリアの戴冠を記念する荘厳ミサが毎年
  捧げられていたことよりこの教会のために書かれたのではないかと思われる。

交響曲(第32番)ト短調(序曲)K.318並びに交響曲(第33番)変ロ長調K.319
  第32番K.318はジングシュピール「ツァイーデ」の序曲ではないかとしている(アインシュタイン)。その他1779年に
  ザルツブルクで興行していたベーム一座の出し物用の序曲ではないかとか色々説あり。
  ★K.319の楽器構成はオーボエ2、ファゴット2、ホルン2、ヴァイオリン2部、ヴィオラ2部、バス。小さい構成の楽団でも
  演奏できる作品である。

セレナード ニ長調 K.320 「ポスト・ホルン・セレナード」
  このセレナーデは第6楽章(第2メヌエット)の第2トリオでポストホルン”Posthorn” (郵便馬車のホルン)が用いられていることから
  ポストホルン・セレナーデ」と呼ばれている。詳細並びに音源は「モーツァルトの馬車の旅」ご参照。
  
ディヴェルティメント 二長調 K.334 「ロビニヒ
  この年か翌年1780にザルツブルクの名門貴族の「ロビニヒ家」のために書いたとされている。息子のジームクント(1760~1823)が
  1780年7月ザルツブルク大学の法科の最終試験を終えた際のフィナール・ムジークであるとする説がある。

ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K.364(320d)
  マンハイムやパリで流行していた新しいジャンルである協奏交響曲にモーツァルトは多大の関心を示し、帰国してから
  半年後の1997年初秋頃にこの協奏交響曲を書いた。この曲が現存する唯一の完成された協奏交響曲である。
  尚、パリで「フルート、オーボエ、ホルン、ファゴットのための協奏交響曲K.Anh.9(297B)を書いたが、上演されないまま
  楽譜も失われてしまったという経緯がある。

⑦2幕のジングシュピール「ツァーイデ”Zaide"(後宮”Das Serail)」K.344(336b)
  このジングシュピールは序曲も作曲されておらず、又、各曲をつなぐ台詞が書き込まれておらず、未完に終わっている。
  作曲の時期は1779年から1780年にかけてなので、この作品についてはモーツァルト24歳・ザルツブルク在住最後の年(1780年)
  ご参照。


ミサ曲 ハ長調 (『戴冠式ミサKrönungsmesse』)        ディヴェルティメント 二長調 K.334 「ロビニヒ」
K.317 VI.アニュス・ディ 変ホ長調 アンダンテ・ソステヌート       第3楽章 メヌエット 二長調
キャスリーン・バトル Kathleen Battle
ヘルベルト・フォン・カラヤン Herbert von Karajan         
ウィーン・フィル Wiener philharmoniker             
          
ソプラノ独唱が歌いだす清らかな旋律は『フィガロの結婚』の
伯爵夫人のアリア 「どこにあるの美しい時は
"Dove sono i bei momenti" にほとんどそのまま用い、
伯爵夫人の穢れなき楽しかった日々を想い起こさせるのである。


ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K.364(320d)
第一楽章 アレグロ・マエストーソ
Vlin:マクシム・アレクサンドロヴィチ・ヴェンゲーロフ Maxim Aleksandrovich Vengerov
Vla::ユーリー・バシュメトYuri Bashmet      1/2     2/2
     



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LittleMy

多彩な才能ですね。
しかも、一ヶ月に2曲以上は作曲していることになるだなんて・・・

改めて「天才」だと思います。
歴史にもしはありませんが、もしアロイジアと結婚していたら超絶技巧な曲がもっとうまれていたのかもしれませんよね。
by LittleMy (2010-08-05 08:39) 

塩

バトル、カラヤン、ウィンフィルの伯爵夫人のアリアですっかり良い心持になりました。選曲と画像(演奏)の選択など大変でしょうが、ありがたく思います。朝聞くモーツァルトはまた素晴らしいものです。
ザルツブルクを嫌っていたモーツァルトの心情も改めて解ります。このザルツブルクを今世界中の大勢の人が訪れているのも、モーツァルトりためなので、ある種皮肉ですね。ヘルブルン宮には私も2度ばかり参りました。
2度目は噴水の水も避けられるようになりました(笑)。
by (2010-08-05 09:49) 

whitered

夢破れて、山河あり・・・とうとうモーツァルトは、ザルツブルクに帰ることになったのですね。それにしてもこの年は多くの曲を創っていますね。クラリネットやフルートなどの金管、木管楽器が、この頃のザルツブルクの宮廷楽団には、まだ用いられてなかったのは驚きです。
by whitered (2010-08-05 09:50) 

mikoto

伯爵夫人のアリア、いかにも楽しげで美しく、
心弾む日々な感じが良く解りますね^^
ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調
滑らかなヴァイオリンの共演が美しい曲ですね~
作曲と言う観点から見直してみると改めてすごい人だな~と思います☆
by mikoto (2010-08-05 10:11) 

みうさぎ

音楽は心を軽くして
洗い流して くれる~
美しい音色にうっとりです^^
by みうさぎ (2010-08-05 11:28) 

バロックが好き

どれも、素敵な曲で
とても癒されました♪

モーツアルトってホントに
凄い才能にあふれていたんですね。
ウィーンフィルやベルリンフィル
現地で生で聴いてみたいです。
by バロックが好き (2010-08-05 12:58) 

Cecilia

私の大好きなマキシム・ヴェンゲーロフ様を発見!
あとでじっくり視聴します。


by Cecilia (2010-08-05 19:53) 

トラの父

この頃から.K.334やK.364のような少し陰影を帯びた曲が書かれるようになったのですね.

大学生の頃,K.334の第1楽章を初めて聴いた時,「喜遊曲」という呼び名から受ける印象とは少し違うものを感じたことを覚えています.
そしてその後も,日々送る生活での節々に,リセットのためこの曲を聴きました.


追伸: 私が聴いたK.297bはクラリネット版(ベーム/ベルリンフィル)でした.フルート版も機会があれば聴いてみたいと思います.
ご教示ありがとうございました.

by トラの父 (2010-08-05 23:29) 

アマデウス

LittleMyさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
モーツァルトはアロイジアに失恋、彼女が結婚してからも、ウィーンでの彼のオペラ(後宮よりの誘拐でのコンスタンツェ役、ドン・ジョヴァンニのウィーン初演でのドンナ・アンナ役)や演奏会に起用して行きます★
又、失恋した後もコンサート・アリアを彼女のために書き、モーツァルトの生涯で8曲を彼女の為に作曲するんですよ★

by アマデウス (2010-08-06 07:19) 

アマデウス

Dr.塩!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
モーツァルトの生涯を振り返ると、ザルツブルクとモーツァルトは結局切っても切れない関係であり、モーツァルトはザルツブルクに生まれるべくして生まれたということですよね☆
ヘルブルン宮の噴水の水が避けられるようになってはじめてモーツァルティアンとして認定されるということになりそうですね(笑)☆

by アマデウス (2010-08-06 07:23) 

アマデウス

whiteredさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
ザルツブルクの宮廷楽団はそういった面では時代の先端を行く一流の楽団ではなかったということになりますね★また、一流の楽団にしようとの意欲も当時の大司教にはなく、あくまで典礼や儀式における演奏が出来、夕食会に彩りを添えることが出来れば必要にして十分であるとの考えであったということがモーツァルトの手紙などからうかがえますよね☆

by アマデウス (2010-08-06 07:26) 

アマデウス

mikotoさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
「協奏交響曲」すごいジャンル名ですよね☆
協奏曲と交響曲どちらもすごいジャンルを一緒にするとは。。。
さすがモーツァルトですよね☆

by アマデウス (2010-08-06 07:28) 

アマデウス

みうさぎさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
まさにご指摘の通り、音楽は楽しみ、癒されるためにあるんですよね☆

by アマデウス (2010-08-06 07:36) 

アマデウス

バロックが好きさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
癒し効果があったようで嬉しいです☆
ウィーンフィルやベルリンフィルを現地で生で聴ける日が来ますよう~に☆
by アマデウス (2010-08-06 07:40) 

アマデウス

Ceciliaさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
ヴェンゲーロフがお好きな気持ちが非常に良く伝わってきました☆
あとでゆっくりお聴き下さいね☆
by アマデウス (2010-08-06 07:43) 

アマデウス

トラの父さん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
ディヴェルティメント ニ長調 K.334(320b)も思い出の曲なんですね☆
ご指摘の通り、マンハイムとパリ求職の旅に出る前とその後ではモーツァルトの精神面でも音楽面でもスケールが大きくなっていますよね★例えば同じディヴェルティメントでも旅に出る直前の変ロ長調K.287とK.334とを比べるとスケール面での成長がわかりますよね★
フルート、オーボエ、ホルン、ファゴットのための協奏交響曲変ホ長調
K,Anh.9(297B)の第三楽章アンダンティーノ・コン・ヴァリアツィオーニは次のURLでお聴きになれます★
(これはK.297b/Anh.C14.01ノクラリネット・パートをフルート用に編曲したもので★ところどころカットされ4~5分程度短縮されてはいますが。。。)
http://www.youtube.com/watch?v=mee6DG98Lyo

by アマデウス (2010-08-06 07:49) 

まっちゃん

本題と関係なくて済みません。(^^;)
人が座っている時に本当に水を出しちゃったんですかね〜
by まっちゃん (2010-08-06 09:39) 

アマデウス

まっちゃんさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
当時の大司教はゲストを招いて本当に椅子から噴水を出し、
ゲストと共に大笑いをしていたそうです★夏の離宮ですから、
水を出しても特に問題はなかったのでしょうね★全部で9席
左右各4席、真ん中に大司教が座った椅子があり、この大司教の
椅子は噴水が出ない様になっていました☆
by アマデウス (2010-08-07 07:26) 

pegasas

色々あってもザルツブルグでは素晴らしい曲を沢山書いて
いるのですね。戴冠ミサ曲の優しいソプラノ曲と合唱はうっとり
としてしまいますね。ヴァイオリンとヴィオラの曲も又メヌエットも
モーツアルトらしい生き生きとして明るくて、幸せを感じますね。
モーツアルトは聴いている人皆に幸せを振りまいているのかも
知れませんね。
by pegasas (2010-08-07 17:24) 

アマデウス

pegasasさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
モーツァルトの音楽は聴き手に至福を与えてくれますよね☆
モーツァルトは悲しい時も苦しい時も常に心に天国を求め天国が音楽となって
迸ったからでしょうね☆
by アマデウス (2010-08-08 06:19) 

Esther

モーツァルト、オルガニストとしてもかなりの腕前だったわけですね〜。
K.613などもバロック調のフレーズが数多く出てきますし、トリルやターンなど、装飾音も多く、ピアノで弾くよりはチェンバロとかむしろオルガンなどで弾いた方がいいような感じさえします。オランダのピアニストRonald Brautigamの演奏などはまさに、そんな感じです。
こちらから視聴できます。

http://translate.googleusercontent.com/translate_c?hl=ja&sl=en&u=http://www.bis.se/naxos.php%3FaID%3DBIS-CD-1266-67&prev=/search%3Fq%3DRonald%2BBrautigam%26hl%3Dja%26client%3Dsafari%26rls%3Den%26prmd%3Divno&rurl=translate.google.co.jp&twu=1&usg=ALkJrhhfzRXjqO8Kl8FEne94wD0Z5nDc7Q
by Esther (2010-08-08 07:41) 

アヨアン・イゴカー

>シンフォニーが、フルートとオーボエとクラリネットを
伴ったらどんなにすばらしい効果をあげるか、ご想像になれないでしょう

新しい音色の喜びですね。
by アヨアン・イゴカー (2010-08-08 13:29) 

アマデウス

Estherさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
ご紹介頂いたBrautigamと手持ちのIngrid HaeblerのK.613 8var.in Fを聴いてみました☆
①8つの変奏曲にしては演奏時間が15分強となが~いと思ったら各変奏曲の冒頭に原曲の前奏が毎回出てくるんですね★
②聴き手としては第8変奏が最も面白いです★
③弾き手にしてみればK.613はモーツァルトのクラヴィーア、フォルテ・ピアノにおけるあらゆる技巧が網羅されており、かなり手強い変奏曲ではないでしょうか★
④尚、原曲(≪愚かな庭師”Der dumme Gärtner"≫第2幕より庭師のリート「女ほど素敵なものはない”Ein Weib ist das herrlichste Ding」は当時のポピュラーソングと言える程流行った曲であったそうですね★モーツァルトがこの変奏曲を書き遺した背景の一端がわかりますよね★

by アマデウス (2010-08-09 06:28) 

アマデウス

アヨアン・イゴカーさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
モーツァルトは旅行の都度新たな息吹を吸収し、新たなジャンルを切り開いていったのですよね☆
by アマデウス (2010-08-09 06:36) 

モッズパンツ

ザルツブルクの大司教はモーツァルトに大変嫌われておりますね。w (^ω^)b
それにしても、モーツァルトの方も就職活動がうまくいっていないのに、ずいぶんとお偉くなっちゃってますね。でも、その自信に充ち溢れている姿がモーツァルトっぽいですね。w (´∀`)ノ

(^ー^)ノシ
by モッズパンツ (2010-08-09 22:04) 

アマデウス

モッズパンツさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
大司教はモーツァルトを従僕として扱い(当時はそれがある面当然のことではあったわけですが)、モーツァルトは「大司教はモーツァルトを一流の音楽家として扱うべき」であり、「イタリアから二流・三流の音楽家を大司教が高給で雇い、楽長に起用したり、オペラを書かせたりすべきではなく、モーツァルトという一流のオペラ作曲家に委ねるべき」との気持ちを強く持っていたわけで、大司教に対する嫌悪感がますます強まって行くわけですね☆
by アマデウス (2010-08-10 06:10) 

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