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モーツァルト25歳の独立とウィーン時代の幕開け(1781年) [モーツァルト]

ウィーン滞在中の大司教コロレド伯よりウィーンに直行せよとの指示を受けたモーツァルト(25歳)は
ミュンヘンを1781年3月12日駅馬車で出発、途中で小型乗合馬車に乗り換え5日目の3月16日朝9時に
ウィーンに到着した。宿泊先は大司教の伯父カール・コロレド伯爵邸である「ドイツ騎士団の館」である。
★「ドイツ騎士団の館(ドイツチェス・ハウス)は大司教と従者の宿泊先であった。

到着した日の午後4時に開催された大司教主催の音楽会で、主たる来賓である貴族たちに演奏を
行った。

ウィーンにおいても大司教に対する不満はますますつのり父レオポルト宛ての3月17日付の手紙を
はじめとして、それ以降ことあるごとに大司教に対する不満を書き連ねるのである。

「食事は料理人たちと一緒にとることになっており、召使と同じ扱いであり、ザルツブルクと
同じである。」「個人的活動(演奏会)」を行うことを許可してくれない。部下が稼ぐことを好まない。」
「一所懸命作曲をしてもなんら特別報酬もくれない。」「演奏会に出れないので皇帝(ヨーゼフ2世)と
出遭うチャンスを逃した。」

ついにザルツブルクへの帰郷命令をめぐり運命の日、5月9日、大司教と決裂の日が来た。
1781年5月9日付の手紙でモーツァルトは父レオポルトに報告するのである。

≪。。。ぼくが奴(注:大司教のこと)のところへ入って行くと、まずこうでした。大司教「ところでお若いの、
いつ発つのだ?」 ぼく「今夜、発つつもりでしたが、座席がもう一杯でした。」すると一気にまくしたてた
のです。おまえみたいなだらしない若僧は見たことがない。(中略) ぼくのことを「ろくでなし、がき」と
呼び、「ばか」呼ばわりしました。ああ、とても全部は書きたくありません。ついにぼくは、血が煮えくり
返ってきて、言ってやりました。「では猊下はわたしにご不満なんですね?」 「なんだ、きさまはわしを
脅かす気か?ばかもん、ああ、ばかもん!ドアはあそこだ、分かるか、こんな哀れな小僧っ子に、もう
用はない」 とうとうぼくも言いました。「ぼくももう、あんたに用はありませんね」 「さあ、出て行け」
そこでぼくは、部屋を出ながら「これが最後です。あした、文書で届けます。」≫ 

モーツァルトは大司教との決裂の模様を再現する形で父レオポルトに報告するとともに
次の様に付言するのである。

≪ぼくの名誉は、ぼくにとって何ものにも優るものです。≫≪ぼくのことは心配しないで下さい。当地での
ぼくのことには確実な自信があるので、なんら理由がなくても辞職していたでしょう。≫≪ぼくの幸運は
今やっと始まるのですから。そしてぼくの幸運はあなたの幸運でもあると思います。≫

事態に仰天した父レオポルトよりはモーツァルトを翻意させようと種々説得を試みるのであるが、
退職とウィーン定住の意思は堅く、自分を支持せず、弱腰な父に対して次の通り言い放つのである。

≪。。。あなたの手紙には、ただの一行もぼくの父親を見出せないのです!たしかに父親ではあるかも
知れませんが、でも自分自身の名誉と子どもたちの名誉を気づかう最上の父親、愛情に溢れた
父親ではありません。一言でいえば、ぼくのお父さんではありません。≫        (5月19日付)

その後大司教の侍従であるアルコ伯爵よりの呼び出しもあり、数度会談を重ねたが、結局
アルコ伯爵まで怒らせてしまい、≪戸口から追い出し、お尻に足蹴をくれたというわけです。(中略)
ぼくは三通の陳情書(注:辞職願)を作り、それを五回提出しましたが、そのたびごとに突っ返され
ました。(中略)この陳情書のおかげで、ぼくは世にも見事なやり口で職務を解雇されました。≫
                         (1781年6月9日付父レオポルト宛モーツァルトの手紙  モーツァルト書簡全集)

かくしてモーツァルト反抗と反乱は終わり、ザルツブルク宮廷と決別すると同時に、父レオポルトから
精神的にも独立し、ウィーン時代の幕開けとなったのである。

モーツァルトはフリーランスの音楽家をめざしているわけではなく、ウィーン宮廷音楽家として
採用されることを目指すのである。このためには皇帝ヨーゼフ2世に認められる必要があり、その手段
としては、ヨーゼフ2世が当時推進していたドイツ語オペラ(ジングシュピール)の作曲を
することであると考えていた。

モーツァルトがウィーンで生計を立てるために行ったことは次の通りである。

①クラヴィーア教師
ウィーンでの最初の弟子となったルムベーケ伯爵夫人や、裕福な出版業者の妻フォン・トラットナー夫人、さらには
モーツァルトがその才能を高く評価したヨゼファ・バルバラ・アウエルンハンマー嬢(1758-1820)があげられる。
②演奏会の開催
この年は11月23日に弟子のアウエルンハンマー邸で催された私的な音楽会があげられる。演奏会は大規模な
公開演奏会あるいは貴族や富豪の邸宅で催される私的演奏会にわかれるが、いずれも大きな収入源になるのである。
③楽譜の出版
まずウィーンのアルタリア社から1781年末に「作品II 」としてヴァイオリン・ソナタ集(全6曲)≪アウエルンハンマー・ソナタ≫,
K.296 K.376 - 380を出版した。
④オペラの作曲
オペラの作曲はもっともまとまった収入となるわけだが、この年1871年の6月頃にはウィーン宮廷劇場監督
オルシーニ=ローゼンベルク伯爵より作曲を頼まれ、7月30日には台本作者のゴットリーブ・シュテファニーよりジングシュピール
(ドイツ語オペラ)≪後宮からの誘拐≫の台本を受け取り8月22日には第一幕を完成させている(全曲完成は翌年
1782年5月となり7月16日ブルク劇場で初演)。
★≪後宮からの誘拐≫K.384についての詳細は次回記事にて取り上げる予定。

モーツァルトが失恋した相手のアロイジア・ヴェーバーとその一家はアロイジアが1779年9月ウィーンの
ブルク劇場と専属契約を結んだので一家でミュンヘンよりウィーンに移住していた。父親のフリードリンは
1779年10月23日ウィーンで卒中で世を去り、アロイジアは1780年10月31日ウィーン宮廷俳優の
ヨハン・ヨーゼフ・ランゲと結婚していた。母のツェツィーリアはウィーンで下宿屋を開きアロイジア
以外の3人の娘達(長女のヨゼファ、三女のコンスタンツェ、末娘ゾフィー)を養っていた。

モーツァルトはウィーン到着後かなり早い時期にアロイジア(ランゲ夫人)及びヴェーバー家と再会し、
大司教との決裂の約1週間前(5月初旬)にはドイツ館からヴェーバー家下宿人として移り住んで
いたのである。

モーツァルトとヴェーバー家の三女コンスタンツェの間で愛が芽生え始めたのは恐らく7月頃のことかと
思われ、モーツァルトは父レオポルトに対し、それとなく結婚したいという思いを洩らしていたのであるが、
ついに12月15日付父宛の手紙で彼女との結婚の意向を明確に表明した。父レオポルトとしては、
大司教との決裂をなんとか乗り越えたと思えば今度は懸念していた通りヴェーバー家の娘との結婚を
持ち出され困惑極まりなしといったところであった。これ以降翌年1782年8月4日ウィーンの
聖シュテファン大聖堂で行われる結婚式までモーツァルトは父レオポルトに結婚に対する同意を
求め続けることになる。


 
18世紀のウイーン-1.jpg
ベルヴェデーレ宮から望むウィーンの情景 
ベルナルド・ベロット作 1758年 136×214cm ウィーン美術史美術館蔵
★Bernardo Bellotto: (1720 -1780)イタリア(ヴェネツィア)生まれの景観画家。伯父である大画家カナレット
(ジョヴァンニ・アントニオ・カナル)に弟子入りし絵画を学ぶ。1758年、オーストリア・ハプスブルク家君主である女帝
マリア・テレジアの誘いを受けウィーンに滞在、その後ミュンヘンを訪問した。本作品はマリア・テレジアの要請による。


  音楽的には大司教との決裂以前の4月3日音楽芸術家協会コンサートで、モーツァルトは初めて
ウィーンの聴衆の前に作曲家、演奏家としてデビューし、広く聴衆の喝采を博したのである。
モーツァルトは父レオポルトに次の通り語っている。(4月4日付手紙)
≪。。。拍手が鳴り止まなかったので、ぼくは初めからもう一度弾き直さなくてはなりませんでした。
(中略)確かにここは(注:ウィーンのこと)、すばらしいところで、ぼくの仕事に世界一あっています。≫

★皇帝ヨーゼフ2世が臨席していたとされている。指揮者は当時ウィーン宮廷楽長であったジュッセッぺ・ボンノで
大編成のオーケストラはモーツァルトの交響曲を披露している。交響曲は(第31番)ニ長調「パリ」K.297/300a
但し(第34番)ハ長調(K.338)であるとする説もある。モーツァルトはクラヴィーア独奏で「セビリャの理髪師」からのロマンス
私はランドール」による12の変奏曲 変ホ長調」K.354/299aを演奏している。

音楽面でのこの年最後のトピックスは12月24日皇帝ヨーゼフ2世の御前演奏として行われた
ウィーン来訪中のイタリア人音楽家ムツィオ・クレメンティとの競演であった。結果はモーツァルトの
完全な勝利となったが、皇帝には、ウィーン宮廷のイタリア人音楽家モーツァルトを認めさせようという
魂胆があったのではとも思えるのである。

★ムツィオ・クレメンティ:Muzio Filippo Vincenzo Francesco Saverio Clementi, 1752年1月23日 - 1832年3月10日、
ローマに生れ、イギリスで没した作曲家・ピアニスト・教師・編集者・出版業者・楽器製造業者。


                                   ヴァイオリン・ソナタ ト短調 K.379(373a)
                                    第一楽章アダージョ
ヴァイオリンのためのロンド ハ長調 K.373            レイチェル・ポジャー Rachel Podger, violin
アイザック・スターンIsaac Stern                   ゲーリー・クーパーGary Cooper, fortepiano
     
4月8日大司教主催の音楽会で演奏された。(作曲は4月2日)    「作品II 」≪アウエルンハンマー・ソナタ≫の第5曲


2台のクラヴィーアのためのソナタ 二長調 K.448(375a)    ヴァイオリン・ソナタ ヘ長調 K.377(374e)
第一楽章アレグロ・コン・スピーリト                   第一楽章 アレグロ
ダニエル・バレンボイムDaniel Barenboim &           アルテュール・グリュミオーArthur Grumiaux, violin
ラン・ランLang Lang                          ワルター・クリーンWalter Klien, piano
     
作曲時期:1781年11月(推定)。初演:11月23日ウィーンの      「作品 II 」の第3曲(注:第1曲 K.376 (K.374d)
アウエルンハンマー邸の演奏会。モーツァルトがセコンド、         へ長調で書かれている。)
弟子のアウエルンハンマー嬢がプリモを弾いている。
モーツァルトは1784年6月13日にも弟子の
バルバラ・プロイヤー嬢とこの作品を演奏している。

         ★★★★★         ★★★★★         ★★★★★
   
オペラ「後宮からの誘拐」の作曲も8月22日には第一幕を完成させ、父レオポルトには次の様にオペラの
表現美学と創作理念について語るのである。

≪。。。人間がこんなに激しく怒ると、あらゆる秩序や節度を越えて、我を忘れてしまうからで、音楽も
同様に我を忘れなくてはなりません。しかし、激情というものは、それが烈しくあろうとなかろうと、
けっして嫌悪感を催すほどに表現されてはいけません。そして音楽は、どんなに恐ろしい場面でも、
けっして耳障りであってはならず、やはり楽しませなくてはなりません。つまり、つねに音楽で
あることが必要です。≫(1781年9月26日付書簡)

≪。。。オペラでは、詩は音楽の従順な娘でなくてはいけません。イタリアの喜歌劇がなぜいたる
ところで受けるのか?ひどい台本にもかかわらず!パリでさえもそうです。ぼく自身、それについて
目撃しています。オペラでは音楽が完全に支配していて、そのためにすべてを忘れさせるからです。
それだけにいっそう、オペラは作品の構想がうまく構成されていなくてはなりません。(中略)
作曲者の全体の構想をぶちこわすような言葉や詩句が挿入されたりしなければ、必ずよろこばれる
でしょう。≫ (1781年10月13日付書簡)

★「後宮からの誘拐」全曲完成は翌年1782年5月となり7月16日ブルク劇場で初演された。当初は1781年9月の
パウル・ペトロヴィッチ大公(のちのロシア皇帝)の来訪に合わせて初演する予定であったが、大公の来訪が延期に
なったり、詳細は不明ながら、初演を阻止せんとの陰謀による遅延も生じている。

この時期モーツァルトは演奏会で自分自身がクラヴィーア奏者として独奏するため、あるいは、
弟子の演奏用に次の様な変奏曲を書いたのである。

クラヴィーアとヴァイオリンのための変奏曲
「羊飼いの娘セリーヌ」によるクラヴィーアとヴァイオリンのための12の変奏曲 ト長調 K.359 
作曲時期:6月頃
「ああ、私は恋人を失くした」によるクラヴィーアとヴァイオリンのための6つの変奏曲 ト短調
作曲時期:初夏

クラヴィーアのための変奏曲 作曲時期:1781年6月(推定)
グレトリーのオペラ「サムニウム人の結婚”Les Mariages Samnites」の合唱曲「愛の神 Dieu d'amour」による8つの変奏曲
へ長調 K.352(374c)

クラヴィーアのための変奏曲として1781/1782頃作曲されたと推定されている次の作品がある。
「きれいなフランソワーズ」によるクラヴィーアのための12の変奏曲 変ホ長調
「ああ、お母さん、あなたに申しましょう ”Ah vous dirai-je, Maman”」による12の変奏曲ハ長調.K.265(300e)
1781/1782頃作曲されたと推定されている(出版は1785年)。1778年、パリに滞在していたモーツァルトがこの曲を
書いたという説もあったが1781/1782頃の作曲と推定されるに至った。主題は娘が母に恋する人のことを打ち明ける
シャンソンに由来する。1770年代には変奏曲主題としてパリで最も愛好された旋律であった。
:この変奏曲の主題は1806年の英国の詩人ジェーン・テイラー(Jane Taylor)の英語詩”The Star"の替え歌
"Twinkle Twinkle, Little Star"が童謡として世界的に広まり、日本にも導入され、「キラキラ星」の童謡の名で
きらきら星変奏曲」としても知られることとなった。

ヴァルター・ギーゼキング:
Walter Gieseking
(1895 - 1956)



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whitered

おはようございます。25才にして、とうとう大司教と決裂することになりましたね。この頃は音楽家の地位が上がる前夜だったのでしょうか。もう少し開かれた都市の音楽家の待遇を見ているから、見下したような大司教のあつかいに我慢がならなかったのでしょうね。モーツァルトは、礼節を守りながらも、主張を曲げませんでしたね。
by whitered (2010-08-26 08:44) 

塩

いつも大変な力作を読ませていただき、また曲を聞かせていただきありがとうございます。
大司教に対するモーツァルトの怒りをまた改めて感じました。
当時ミュンヘンからウィーンまでの5日間の馬車の旅は、いまでは考えられませんが、言い尽くされているように当時の旅は大変だったでしょう。
べロッテのウィーンの情景も良い資料ですね。
(私のブログのところにも、少し書かせていただきました)
by (2010-08-26 09:52) 

LittleMy

いつもながら、本当に勉強になります。
ありがとうございます。
by LittleMy (2010-08-26 11:15) 

mikoto

こんにちは
モーツアルトの人生をたどる旅、興味深く毎回読ませて頂いています。
ウィーンで解放され自分の望む人生を歩み始めて
これから何が待っているのか続きも楽しみにしています♪

ヴァイオリン・ソナタ ト短調
清らかに響く音色にしばし暑さを忘れました!
「キラキラ星」
確かに編曲の連なる旋律はモーツアルトを感じさせますね~
そういう説もうなづけます☆
お見舞いコメントも、ありがとうございました^^
by mikoto (2010-08-26 14:45) 

アマデウス

whiteredさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
モーツァルトはウィーンでは貴族達から鄭重に扱われた様ですが、この時代ウィーンでもフリーランスの音楽家というのはまだ存在しておらず、宮廷や貴族に雇われている状況でした☆

by アマデウス (2010-08-27 06:23) 

アマデウス

Dr.塩!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
現在なら鉄道でもミュンヘンーウィーン間なら4時間程のところを丸4日間もかけての馬車の旅ですから、大変厳しい旅だったでしょうね☆馬車に揺られ続けて5日目の朝9時に到着し、その日の午後4時には演奏をしたとは驚きです☆



by アマデウス (2010-08-27 06:34) 

アマデウス

LittleMyさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
楽しんで頂ければ嬉しいです☆

by アマデウス (2010-08-27 06:36) 

アマデウス

mikotoさん!こんにちは~☆
体調調整中にもかかわらずコメントを頂きありがとうございます!
楽しんで頂いている様で嬉しいかぎりです☆
くれぐれもご自愛下さい☆

by アマデウス (2010-08-27 06:39) 

トラの父

ウィーン時代の幕開けの前に,どうしてもあの「足蹴」の場面を通過しなければならないのですね.
その前にはお母さんを亡くしたり失恋したりで,モーツアルトはなかなかの苦労人であったように思えます.

ヴァイオリンのためのロンド ハ長調 K.373  を聴かせていただきました.
こじんまりとした美しい曲ですが,大司教にはどう聞こえたのでしょう.
by トラの父 (2010-08-27 22:29) 

pegasas

ついにモーツアルトはウイーンでで独立出来ましたね。
でも司教との喧嘩別れやら、お父さんにもひどい事を
云わなければ成らなかったし、男としては親から独立
するための儀式だったのかも知れませんね。
映画アマデウスはこの頃からのものでしょうか?ヴェーバー家
とはご縁があったのですね。きらきら星は優しい中に楽しさがあり
リズムもいいしモーツアルトらしい曲ですね。私も楽しくなりました!
by pegasas (2010-08-31 14:22) 

アマデウス

トラの父さん!こんにちは~☆
旅行中であったため、レス遅れ申し訳けありません☆
いつもご訪問頂きコメントありがとうございます!
大司教はなまじっかヴァイオリンが弾けたためにモーツァルトの音楽については「批評、批判」が先行していた様です☆モーツァルトからしてみれば、こういった大司教のモーツァルトの音楽に対する反応も大司教への反発の原因であったと思われます☆

by アマデウス (2010-09-01 06:26) 

アマデウス

pegasasさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
ご指摘の通り、映画「アマデウス」はモーツァルトのウィーンでの幕開け(1781年初頭)から最後の年(1791年12月6日葬儀)までの時代をとりあげたものでしたね☆次回記事では映画にも登場したドイツ語オペラ(ジングシュピール)「後宮からの誘拐」を取り上げますよ☆それにしても映画の選曲は素晴らしいですよね☆

by アマデウス (2010-09-01 06:43) 

モッズパンツ

不満イパーイのモーツァルト~w
遂にやっちゃいましたね。w (^ω^)b
コンスタンツェは元カノの妹なんですね。w

モーツァルトはウィーンで、一人の独立した大人の男としても、更に脱皮しましたね。w (´∀`)ノ

(^ー^)ノシ
by モッズパンツ (2010-09-05 16:49) 

アマデウス

モッズパンツさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
ついに脱サラしちゃいましたよ★当時の音楽家は王室あるいは富豪貴族のサラリーマン音楽家ばかりですから、モーツァルトはフリーの音楽家という誰も試みたことのない生き方を選んだわけです★とは言え、いつかはウィーン宮廷(皇帝ヨーゼフ2世)に採用してもらうという希望はもっていたわけですが★いずれにせよ、作曲家あるいはクラヴィーア演奏家としての自己の能力に絶対の自信をもった上での行動ですよね★

by アマデウス (2010-09-06 07:22) 

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