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モーツァルト26歳の結婚と「後宮からの誘拐」(ウィーン②1782年) [モーツァルト]

前年1781年よりウィーン定住を開始したモーツァルトは、ウィーンで初めての新年(1782年)を迎え、
1月27日26歳の誕生日を祝ったのである。

フリーの音楽家として生活の糧を得るための方策も少しづつ軌道に乗り始め、ブルク劇場用の
ジングシュピール「後宮からの誘拐」の作曲にも精魂傾けていた。このドイツ語オペラのあらすじは
後述の通り、「コンスタンツェ」という名の女性をその恋人が後宮から救い出そうとするストーリーであり、
偶然とは言えモーツァルトの彼女と同名なのである。

ヴェーバー家の三女で妻となるコンスタンツェについてモーツァルトは次の通り父レオポルト
説明している。(1781年12月15日付書簡)

≪。。。彼女はブスではありませんが、けっして美人とは言えません。およそ彼女の美しさは、その
小さな黒い目と、すらりとした体つきにあります。機知はありませんが、妻として、母親としての
務めを果たせるだけの常識は充分に備えています。彼女に浪費癖などありません。それは真っ赤な
うそです。それどころか質素な身なりに慣れています。(中略)家計も心得ているし、世にも優しい
心をもっています。≫

レオポルトからみればコンスタンツェの母ツェツィリアの罠にはまったとしか思えなかったのであろう、
コンスタンツェとの結婚には否定的な意見を述べていたことは確かである。
★レオポルトのこの種複数の手紙は現存しておらず、恐らくコンスタンツェ(或いは彼女の意向を受けて彼女の再婚相手でモーツァルトの
伝記を書いたニッセン)がモーツァルト没後破棄したのであろうとされている。

この頃のモーツァルトの生活につき5歳年上の姉、ナンネルに次の様に語っている。(1782年2月13日付書簡)
≪ぼくはいつも6時までにもう髪を整えて、7時までにすっかり身支度をすませます。それから
9時まで作曲をします。9時から1時まで、レッスンをします。それから昼食をとりますが、どこかに
招かれたとき、たとえば今日明日のようにツィヒー伯爵やトゥーン伯爵夫人のところでは、2時か3時に
なります。夕方、5時か6時までは仕事ができません。そして、そのあとも演奏会で妨げられることが
よくあります。もしそういうことがなければ9時まで作曲します。それから、ぼくのいとしいコンスタンツェの
ところへ行きます。(中略)家に帰るのは10時半か11時です。
さらに夜は1時まで作曲にペンを走らせることもあるが、6時には起床すると付け加えるのである。

元外交官で当時宮廷図書館長であったヴァン・スヴィーテン男爵の知遇を得たモーツァルトは、
男爵が外交官時代、特に最後の赴任地であったベルリンで収集したバッハの楽譜とロンドンで
収集したヘンデルの楽譜をもとに毎日曜日に宮廷図書館内にある男爵の自宅で催す私的音楽会に
参加し、第1回イタリア旅行の際、ボローニャのマルティーニ師から厳格対位法を学んだモーツァルトは
バッハヘンデルフーガ作品に集中的に触れる機会を得たのである。一般に「バッハ・ヘンデル体験」と
呼ばれているが、次の様に父レオポルトに語っている。

≪。。。ぼくは毎日曜日、12時に、ヴァン・スヴィーテン男爵のところへ行きます。そこではヘンデルと
バッハ以外は何も演奏されません。ぼくはいま、バッハのフーガを集めています。セヴァスティアンの
作品だけでなく、エマヌエルやフリーデマン・バッハのも含めてです。それからヘンデルのも。(中略)
イギリスのバッハ(注:ヨハン・クリスティアン・バッハ)が亡くなったことはもうご存知ですね?音楽界に
とってなんという損失でしょう。≫

F.J.ハイドンが1781年「ロシア四重奏曲」op.33(全6曲)の作曲を完成し、この年1782年4月ウィーンの
アルタリア社から出版している。これ以前の1781年12月には筆写譜による予約販売を開始した。
★弦楽四重奏曲は約10年前に作曲した作品20から途絶えていたが「全く新しい特別の方法で作曲され」発表されたのであった。

モーツァルトのウィーン定住をまっていたかの様に発表されたハイドンの「ロシア四重奏曲」には
モーツァルトも非常に感銘を受け、彼としても約10年ぶりに1782年から1785年にかけて
弦楽四重奏曲(全6曲)」所謂「ハイドン四重奏曲」K.387,421(417b), 428(421b),458,464,465
をこの年26歳から30歳直前までに書き上げ、ハイドンに献呈することになるのである。
★モーツアルトの前作の弦楽四重奏曲は1773年に作曲した「ウィーン四重奏曲」(全6曲。K.168~173)であった。
★1782年12月に完成した「ハイドン四重奏曲(第1曲)ト長調 K.387の終楽章モルト・アレグロ(フーガ・フィナーレ)には
バッハ体験」が活かされているのである。

7月16日「後宮からの誘拐」がブルク劇場皇帝ヨーゼフ2世臨席のもと初演され、大成功を収めた。
★初演の成功を伝える父レオポルト宛の手紙は失われているが、このジングシュピールは1782年には合計12回、
翌83年には3回、いずれもブルク劇場で上演されたあと、さらにウィーンで27回(殆どがケルントナートーア劇場)
モーツァルトの生前に上演されている。ウィーン初演直後の1782年秋にはプラハ初演が行われ、83年には4都市
(ワルシャワ、ボン、フランクフルト・アム・マイン、ライプツィヒ)、84には5都市(マンハイム、カールスルーエ、ケルン、
ザルツブルク、シュヴェート)、85年から89年の間には約25都市で初演されるという人気を博したのである。

モーツァルトは父レオポルトに何度もコンスタンツェとの結婚に同意して欲しいと書き続けるので
あるがついに8月4日、レオポルトの同意が得られないまま、ウィーンの司教座大聖堂
シュテファン教会コンスタンツェ・ヴェーバー結婚式を挙げたのである。モーツァルトは
レオポルトに式の模様を次の様に語るのである。(1782年8月7日付書簡)

≪。。。ぼくらふたりが結ばれたとき、妻もぼくも、ともに泣き出してしまいました。出席者はみんな、
司祭さんまでがそれに感動して、涙を流しました。(中略)披露宴はすべてヴァルトシュテッテン男爵夫人が
用意してくれた夜食で行われましたが、それは本当に、男爵風というより王侯にふさわしいものでした。。。≫
モーツァルトは父レオポルトよりの結婚に同意する旨の書簡を挙式の翌日受けとったのである。



Costanze_Mozart_by_Lange_1782.jpg     Portrait-Of-Mozart at the piano.jpg
コンスタンツェ・モーツァルト(旧姓ヴェーバー、20歳)          ピアノに向かうモーツァルト(27歳) 
1782年                                 未完の肖像画 1783年        

★いずれの肖像画もコンスタンツェの姉アロイジアの夫である(モーツァルトの義兄)ヨーゼフ・ランゲ(Joseph Lange、
1751- 1831、俳優、アマチュア画家)によって描かれた。尚、この肖像画が描かれた時期をモーツァルトが30歳を
越えてからであるとする説もある。
★モーツァルトの未完の肖像画について小林秀雄は「創元」昭和21年12月号に発表した「モオツァルト」で次の様に述べている。
≪僕はその頃、モオツァルトの未完成の肖像画の写真を一枚もっていて、大事にしていた。それは、巧みな絵ではないが、
美しい女の様な顔で、何か恐ろしく不幸な感情が現れている奇妙な絵であった。(中略)人間は、人前で、こんな顔が
出来るものではない。(中略)ト短調シンフォニイは、時々こんな顔をしなければならない人物から生まれたものに間違いはない、
僕はそう信じた。≫
 
         ★★★★★         ★★★★★         ★★★★★

三幕のジングシュピール(ドイツ語歌芝居)「後宮からの誘拐」
”Die Entführung aus dem Serail” K.384

★邦題は「後宮からの逃走」としているケースが多々見受けられる。原題”Die Entführung”は
英語でも”The abduction"と訳されており、日本語では「誘拐」となる。

原作:
クリストフ・フリードリヒ・ブレッツナーの台本「ベルモンテとコンスタンツェ又は後宮からの誘拐
台本ゴットリープ・シュテファーニェが原作を改作したものによる。

背景など
神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の依頼により製作され、1782年7月16日、ウィーンのブルク劇場で初演された。ブルク劇場で
ドイツ語オペラを成功させるという、皇帝の長年の望みを果たすものであった。それ以前にこの劇場で成功したドイツ語オペラは、
外国語作品の模倣や翻訳によるものだけだったのである。
このオペラは、ジングシュピール(ドイツ語歌芝居)と呼ばれるジャンルに属する。劇はセリフによって進行し、
レチタティーヴォを欠いている。

あらすじ
18世紀、スペインのキリスト教徒の貴族ベルモンテの許婚コンスタンツェ、その侍女ブロンデ((ペドリッロの恋人でもある)
及びベルモンテの従僕ペドリッロの3人は海賊に誘拐されトルコに売られ、太守セリムの後宮に軟禁されている。ベルモンテは、
太守セリムの後宮にコンスタンツェ他2名を救出にやってくる。ペドリッロは後宮の番人オスミンに睡眠薬入りのワインをすすめ、
オスミンが眠っている間に、ベルモンテとコンスタンツェはやっと再会し、皆で脱走を企てるが、目を覚ましたオスミンに捕まり、
処刑されそうになる。さらにべルモンテの父は太守の生涯の敵であったことが判明するが、太守は「不正に対して善行をもって
報いる」と延べ、4人を放免し祖国スペインに送り返すと宣言する。トルコ近衛兵たちの「太守セリム万歳!」の合唱で幕
(第3幕フィナーレ)となる。

初演時の配役表
コンスタンツェ:カテリーナ・カヴァリエーリ(ソプラノ)
ブロンデ:テレーゼ・タイバー(ソプラノ)
ベルモント:ヨハン・ヴァレンティーン・アーダムベルガー(テノール)
ペドリロ:ヨハン・エルンスト・ダウアー(テノール)
オスミン:ヨハン・イグナーツ・ルートヴィヒ・フィッシャー(バス)
太守セリム:ドミニク・ヤウツ(俳優で歌う場面はない)
★この配役はその後コンスタンツェ役アロイジア・ランゲとなり、ベルモント役とペロリド役も替わるのである。


序曲
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団                  第2幕コンスタンツェのアリア「どんな苦難がまっていても
The London Philharmonic Orchestra               ”Martern aller Arten”
指揮:グスタフ・クーンGustav Kuhn                  コンスタンツェ:ヴァレリー・マスターソンValerie Masterson
     
                                   コンスタンツェは太守セリムの求愛を拒み、
                                   どんな苦痛にも屈しないと歌う。


第2幕ブロンデ(S)のアリア「何というよろこび             第3幕オスミンのアリア「それかちどきをあげろ
"Welche Wonne, welche Lust"                  ”O wie will ich triumphieren”
ブロンデ:パトリツィア・チョーフィ Patrizia Ciofi               オスミン:クルト・モル Kurt Moll
     
オーボエ協奏曲ハ長調(K.314/285d)第三楽章 ロンドー     モーツァルトがつかった最も低い声Low Dがこの曲に出てくる。
アレグロの第一主題と酷似している。                 
ペドリッロは恋人のブロンデに会い、ベルモンテが来て           4人は逃亡しようとしたが異変に気づいたオスミンに
逃亡の用意をしていることを伝える。ブロンデはその喜びを歌う。      囚われる。オスミンは得意満面で歌う。


映画「アマデウス」より
「後宮からの誘拐」3幕フィナーレ、トルコ兵の合唱
太守セリム万歳!”Bassa Selim lebe lange”」

★指揮をする得意満面のモーツァルト、観劇するヨーゼフ二世
バルコニー席(balkon)から観劇する小太りのウィーン宮廷楽団楽長
ジュゼッペ・ボンノ(1710-88)、楽師長アントニオ・サリエリ(1750-1825)、ソプラノ歌手(コンスタンツェを歌った)
カヴァリエーリ(Catharina Cavalieri 1760-1801,サリエリの愛人)などが登場しているブルク劇場での初演の場面である。
(実際の撮影はプラハのスタヴォフスケ劇場で行われた。)

     ★★★★★         ★★★★★         ★★★★★

1782年7月、元ザルツブルク市長の息子のジームクント・ハフナーが貴族に叙せられることになり、
その祝賀のための曲を書く様にとの依頼を父レオポルトより受け、多忙を極めていたため遅れは
したが、8月7日にすべて完成した。曲自体は行進曲を冒頭にもち、4楽章より多い形態の
セレナード」形式である。翌年1783年3月23日にブルク劇場で行われた演奏会用に交響曲
として(行進曲を削除、フルートとクラリネットを追加)書き改めたのである。

この年、自分の予約演奏会用にクラヴィーア協奏曲3曲を作曲している。次の作品である。
①クラヴィーア協奏曲(第11番)へ長調K.413(387a) 
②クラヴィーア協奏曲(第12番)イ長調K.414(385p)
③クラヴィーア協奏曲(第13番)ハ長調K.415(387b) 初演は1783年3月
★作曲順は12番、11番、13番の順で12番は新婚早々の秋に作曲、その他の曲は年末までに完成した。
★これら3つの協奏曲は管弦楽抜きの弦四部でも演奏できるように作曲されており、ただちに出版が計画された最初の協奏曲である。
但し、実際に出版されたのは1785年であった(アルタリア社により出版)。
★その他クラヴィーア協奏曲楽章(ロンド)イ長調K.386も10月に作曲している。


交響曲(第35番)二長調 「ハフナー」K.385            クラヴィーア協奏曲(第12番)イ長調K.414(385p)
第四楽章 プレスト                          第一楽章 アレグロ
ウィーン・フィルWiener Philharmoniker              ウラディーミル・アシュケナージVladimir Ashkenazy
指揮:カール・ベーム Karl Böhm                   The Royal Philarmonic Orchestra
     
第一主題には作曲時期が近い「後宮からの誘拐」の
オスミンのアリアと良く似たヴァイオリンのユニゾンの
旋律を置いている。

         ★★★★★         ★★★★★         ★★★★★

前述の「バッハ・ヘンデル体験」に刺激されたモーツァルトは1782年から翌年1783年にかけて
フーガ作品を集中的に作曲しており、多数の断片も遺されているが、現存する完全な作品としては
次が挙げられる。尚、皇帝ヨーゼフ2世もフーガ好きで知られていた。
クラヴィーアのためのプレリュードとフーガ ハ長調 K.394(383a) 1782年4月作曲。
2台のクラヴィーアのためのフーガ ハ短調 K.426 1783年12月29日作曲
5つの4声フーガ K.405 編曲時期:1782年
  バッハの「平均律クラヴィーア曲集第2巻」を弦楽四重奏曲用に編曲。

この年1782年にモーツァルトが出演した演奏会として確認されているのは次の通りである。
1.公開演奏会(劇場における演奏会)
  ①11月3日に弟子のアウエルンハンマー嬢がケルントナート劇場で開催した演奏会。
  ②野外演奏会として5月26日にアウガルテンで行われた第一回「愛好者演奏会」
    ★皇帝ヨーゼフ2世が1775年にアウガルテンの庭園を一般市民に開放し、そこで夏場に音楽会が開かれていた。
2.私的音楽会(主として貴族や富豪の邸宅で催される私的な音楽会)
  ①1782年12月4日にガリツィン侯爵邸での音楽会
  ②1782年12月14日トゥーン伯爵夫人邸
  ③1782年12月28日自宅(借家)にて小音楽会

その他記録に残されてはいないが多数の音楽会、演奏会でクラヴィーアを演奏したものと思われる。
かくして、1782年は音楽的にはモーツァルトの生前での大ヒット作となったドイツ語オペラ(ジングシュピール)
後宮からの誘拐」の作曲と上演、「バッハ・ヘンデル体験」「各種演奏会でのクラヴィーア演奏
作曲」、さらには「クラヴィーア教師」を精力的にこなし、私生活面ではコンスタンツェ
新婚家庭を築き、ウィーンでの音楽家としての活動の基礎固めを行った重要な年となったのである。



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LittleMy

オスミンのアリア、初めて聴いたときは本当にびっくりしました。
「後宮」久しぶりに、DVDがみたくなりました!
by LittleMy (2010-09-02 08:57) 

whitered

おはようございます。1782年は、モーツァルトにとって、活動、私生活ともに飛躍の年になりましたね。26歳というと、もう親の許可がなくても結婚できる年ですものね。そろそろ、モーツァルトはレオポルドの考え方とは違うのを実感していたのでしょうね。
by whitered (2010-09-02 09:33) 

mikoto

こんにちは^^「後宮からの誘拐」舞台セットが見事でみとれました。
最後は映画からの引用だったのでセツトの質がかなり落ちますねー
オペラだと誰が作ったとかの見方が判らないので素敵ですが
どこがモーツァルトの特徴か私には判れませんでした^^;
結婚してこれからどうなっ行くのか、悲劇がどこまで迫っているのか
続きが気になります。
by mikoto (2010-09-02 10:47) 

バロックが好き

こんにちは。
最近PCで音楽を聴いたりすると
調子が悪くなるので
せっかくアマデウスさんが用意して下さったのに
聴けれなくて残念です。。。
小林英雄さんの話など
とても興味深く読ませていただきました。
by バロックが好き (2010-09-02 14:33) 

塩

いろいろとご高配ありがたく感謝するばかりです。
「後宮からの誘拐」 ザルツブルクの祝祭劇場の横の席から見たことを今懐かしく思っています。年はちがいますが「魔笛」2回、本当に強く印象に残っています。ハ単調ミサは感激感激でした。
お話参考にりました。モーツァルト沢山持ち込みます。
by (2010-09-02 17:37) 

アマデウス

LittleMyさん!
コメントありがとうございます☆
素晴らしいアリアも鏤めてあり、本当に楽しめるオペラですよね☆

by アマデウス (2010-09-02 22:58) 

アマデウス

whiteredさん!
コメントありがとうございます☆
まさにご指摘の通り、保守的な音楽家である父レオポルトにとってはモーツァルトのフリーの音楽家としての活動・生活は信じられない面があったと思われます★結婚承諾も結局根負けしてやむなくその旨手紙を書いたというところでしょうね☆
by アマデウス (2010-09-02 23:04) 

アマデウス

mikotoさん!
コメントありがとうございます☆
モーツァルトはこの時期26歳で35歳(36歳直前)で亡くなっていますのであますところあと約9年の残された人生ということになりますが、引き続きお付き合い下さいね☆
by アマデウス (2010-09-02 23:10) 

アマデウス

バロックが好きさん!
コメントありがとうございます☆
一瞬調子が悪くなるのはバロックが好きさんご本人かと思いましたが、調子が悪くなるのはPCなのですよね☆写真を沢山撮られているのでPCのメモリーが少なくなってきているのかな。。。などと想像していますが☆
by アマデウス (2010-09-02 23:16) 

アマデウス

Dr.塩!
休暇前の何かとご多忙の折、ご鄭重なコメントを頂き恐縮しております☆
モーツァルトに纏わる楽しい光景を思い出されつつモーツァルトの音楽三昧で是非とも楽しい休暇となりますよう祈念しております☆ブログ早期再開を鶴首しております☆


by アマデウス (2010-09-02 23:43) 

トラの父

映画「アマデウス」のシーンを懐かしく拝見しました.

この映画が封切りされた頃もモーツアルト・ブームが湧き起こり,テレビでモーツアルトを題材とした長時間ドラマが放映されたりした記憶があります.
また,いろいろな機会に,さまざまな著名人がモーツアルティアンであることが分かったりしました.

クラヴィーア協奏曲(第12番)イ長調K.414から,モーツアルトがウィーンで味わっている開放感や幸福感が伝わってくるようです.
by トラの父 (2010-09-03 22:19) 

pegasas

映画「アマデウス」のモーツアルトがいきいきと指揮をしていますね。
結婚してからの充実した年月ですが、忙しい毎日で今のサラリーマンの
過労死だったのかも知れませんね。もう少し奥さんの気配りが必要だった
のかも知れませんね。映画でも食事の場面がなく、いつも飲んでいましたね。

by pegasas (2010-09-03 23:29) 

アマデウス

トラの父さん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
映画「アマデウス」アカデミー賞の作品賞、監督賞、主演男優賞など8部門を受賞していますが、モーツァルトが生きていれば完全に「作曲賞」ですよね★指揮者サー・ネヴィル・マリナーの選曲も抜群ですね!

by アマデウス (2010-09-04 06:39) 

アマデウス

pegasasさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
モーツァルトの死因についてはご承知の通り多数の説がありますが、最後の年となった1791年は確かに猛烈に働いていますね☆他方妻のコンスタンツェを当時から温泉保養地として有名なバーデンに何度も保養に行かせていました☆栄養が偏ってしまってリューマチを悪化させたのも死因の一つかも知れませんね☆
by アマデウス (2010-09-04 06:46) 

mwainfo

ご多忙中いつもお寄りいただき感謝します。
by mwainfo (2010-09-05 10:23) 

モッズパンツ

もう20年以上前だと思いますが、週刊モーニングに「マドモアゼル モーツァルト」という作品が掲載されておりまして、実はアマデウスは女性であるという設定で、コンスタンツェとの関係が複雑であったような気がします。w (ノ∀`)アチャー

(^ー^)ノシ
by モッズパンツ (2010-09-05 16:58) 

アマデウス

mwainfoさん!こんにちは~☆
こちらこそいつもご訪問頂きありがとうございます!
これからも宜しくお願い致します☆
by アマデウス (2010-09-06 06:29) 

アマデウス

モッズパンツさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
丁度1991年はモーツァルト没後200年の年で、この頃、世界中で色んな出版や催しが行われましたね★「マドモアゼル モーツァルト」は読んだことはありませんが、なんだか面白そうな題材ですね★モーツァルトの5歳年長の姉ナンネルは素晴らしいピアニストであったわけですが、女性ということもあり父レオポルトもピアノ教師にしかさせなかったわけです★レオポルトはナンネルが男であれば。。。と思うこともあったでしょうね★
by アマデウス (2010-09-06 06:40) 

バーバリーブルーレーベル

匿名なのに、私には誰だか分かる・・・(^_^;)ありがとう。。。
by バーバリーブルーレーベル (2013-07-30 15:10) 

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