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モーツァルト30歳・「劇場支配人」と「フィガロの結婚」(ウィーン⑥1786年) [モーツァルト]

前年1785年秋頃から「フィガロの結婚」の作曲に精力的に取り組んでいたモーツァルトに、皇帝ヨーゼフ2世より一幕のドイツ語喜劇「劇場支配人”Der Schauspieldirektor"」の台本が渡され、この喜劇の作曲をする様にとの依頼があった。

モーツァルトは「フィガロの結婚」を中断し、直ちに作曲にとりかかり、2月3日には「劇場支配人」の作曲を完了し、2月7日、シェーンブルン宮殿オランジュリー(熱帯植物用の大温室)で初演された。この初演は皇帝の義理の弟にあたるハプスブルク帝国(オーストリア)領南ネーデルランド(現在のベルギー)総督アルベルト公(ザクセン=テッシェン公)の来訪を祝して催された歓迎の宴で上演されたのである。
★アルベルト公:皇帝ヨーゼフ2世の妹マリア・クリスティーナの夫。

熱帯植物の木々と花の下に食卓が並び、オランジュリーの一角には舞台が設けられ、ここで「劇場支配人」が上演されたのである。他方、この上演が終わると別の一角に設けられた舞台でアントニオ・サリエリがこの宴のために作曲したイタリア語の一幕の音楽劇「はじめに音楽、次に言葉 "Prima la Musica e poi le Parole"」が上演された。
★この2つの演目は、その後2月11日、18日、25日の三日間にわたり、ケルントナートーア劇場で公開されている。

4月29日、オペラ・ブッファの大作「フィガロの結婚」が完成をみた。イタリア勢の上演阻止の各種陰謀もあったが、最終的に皇帝ヨーゼフ2世上演許可も取得し、5月1日、ブルク劇場モーツァルト自身の指揮により初演されたのである。

フィガロ」の上演が行われている間、劇場は観客で満杯となり、アリアだけではなく重唱までも喝采に応えてアンコールされた為、上演時間が非常に長くなり、これを憂慮した皇帝の指示により「アリア以外の曲のアンコールは禁止する」との通達が出された程、見事な成功を収めたのであった。

この成功を報告するモーツァルトから父レオポルト宛の手紙は失われているが、5月18日付のレオポルト(在ザルツブルク)から娘のナンネル(在ザンクト・ギルゲン)宛の手紙には次の通り記述されている。
《おまえの弟のオペラの再演(注:5月3日)では5曲が、それに再々演(注:5月8日)では7曲がアンコールされたが、そのなかで小二重唱曲は三回も歌わざるをえなかったのです。》

★ここで言及している小二重唱曲(Duettino)とは恐らく第3幕の伯爵夫人とスザンナの小二重唱曲「手紙の二重唱」”Sull' aria...(そよ風によせる...)のことであろうと思われる。因に、小二重唱曲は第一幕で3曲、第二幕で1曲、第3幕で1曲がおかれている。

フィガロの結婚」の台本を書いたロレンツォ・ダ・ポンテ(Lorenzo Da Ponte, 1749年3月10日 - 1838年8月1日)は、イタリアのヴェネト州でユダヤ人の家系に生まれた。元の名前はエマヌエーレ・コネリアーノ(Emanuele Conegliano)であったが14歳の時に一家がキリスト教に改宗した。そしてこの時、洗礼を行った司教ロレンツォ・ダ・ポンテの名前を名乗ることとなった。ダ・ポンテはのちに聖職に就き、ヴェネツィアで暮らした後、30歳の時(1779年)にウィーンに移住し、アントニオ・サリエリの口利きによって皇帝ヨーゼフ2世に宮廷詩人としての職を与えられた。
ダ・ポンテは、『フィガロの結婚』K.492(原作ボーマルシェ)の他、1787年『ドン・ジョヴァンニ』K.527、1790年『コシ・ファン・トゥッテ』K.588の台本を書くことになる。 尚、1783年モーツァルトの作曲が未完(序曲と4曲のみ作曲)で終わっている2幕のオペラ・ブッファ「騙された花婿 "Lo sposo deluso"」(K.430/424a)の作詞者もダ・ポンテであろうと推定されている。

モーツァルトは3年前、1783年5月7日付父レオポルト宛の書簡でダ・ポンテに関し次の通り言及しており、この頃から付き合いがあったのである。
≪当地には、ダ・ポンテ師とかいう詩人がいます。この人は、作品を劇場用に書き直す仕事を山ほどかかえています。サリエリのために、まったく新しい台本を義務として書かなくてはならず、それに 2ヶ月はかかるでしょう。そのあと、ぼくのために新しい台本を書いてくれると約束しました。≫

この年10月18日には三男が誕生し、ヨハン・トーマス・レオポルトと命名されたが、11月15日に痙攣性窒息で亡くなってしまった。わずか1ヶ月の命であった。この子供は聖マルクス墓地に埋葬された。

11月には当時ウィーンに在住していた英国人音楽家に誘われたのであろう、英国旅行を計画し、父レオポルトにカール・トーマス(当時2歳)と生まれたばかりの三男(上記死亡前の話)の二人の子供を預かって貰えないかと打診し、レオポルトはモーツァルトに対し、しっかりした書面での作曲報酬に関わる契約もなしに訪英することは極めてリスクが高い点も指摘し、この申し入れをきっぱり断っているのである。

★英国人音楽家とはフィガロの初演でスザンナ役となったナンシー・ストーラス(1765−1817)とその兄で作曲家のスティーヴン・ストーラス、1785年からモーツァルトに指事していた作曲家のトーマス・アットウッド(1765−1838)、フィガロの初演歌手であるアイルランド人の(マイケル・ケリー(1762−1826)の4名であり、この4人は翌1787年初頭に英国に帰国する予定になっており、モーツァルトは彼らに同行しようと考えたのであろう。

この年にも連続演奏会が計画され、その都度新作のクラヴィーア協奏曲が作曲されてはいるが、演奏会の回数は1784年、1785年に比べると減少しており、最終的に、ロンドン行きは断念しているわけではあるが、モーツァルトはウィーンでの先行きに不安を感じ、ロンドンで一旗揚げようと考えたのであろうか。

他方、ボヘミアの首都プラハのノスティツ劇場(現在のエステート劇場=スタヴォフスケ劇場)で12月「フィガロの結婚」が上演され大評判となった。その結果、モーツァルトプラハの識者愛好家協会よりプラハへの招聘状を受け取り、翌年1787年早々プラハ訪問を決断したのである。


DSC02068-1.JPG
ミヒャエル広場とブルク劇場(右側中央の低い建物)

「劇場支配人」”Der Schauspieldirektor"K.486
全1幕10場から構成され、序曲のほかは、第7場と第8場にアリア、第9場に三重唱、そして10場(終幕)に四重唱と4曲がつけられているのみであり、6場までは演劇という変わった構成であるが、広義の意味から「オペラ」として扱われている。曲数は少ないがどの曲も当時のモーツァルトのみずみずしい技巧をあますところなくあらわにしている。

台本作者:
「後宮からの誘拐」の台本を準備(編作)したゴットリープ・シュテファニー(1741-1800)が書きおろした。

曲目と演奏者:
序曲は約4分。全曲は約30分。
序曲(プレスト ハ長調)
第1曲 アリエッタ「別れの時の鐘は鳴り」"Schon schlägt die Abschiedstunde" :③
第2曲 ロンド「若者よ、喜んで!」"Bester Jüngling!"④
第3曲 三重唱「私がプリマ・ドンナよ!」"Ich bin die erste Sängerin!" ②③④
第4曲 ヴォードヴィル(四重唱)「芸術家は誰も栄光を追求する」”Jeder Kunstler Strebt Nach Ehre” ①②③④

登場人物と初演当時の配役:
劇場支配人:フランク台本作者のシュテファニー
銀行家アイラー:ブロツクマン
俳優ブッフ①:ランゲ(モーツアルトの義兄、コンスタンツェの姉アロイージアの夫。宮廷俳優)B
俳優ヘルツ:ヴァイドマン
女優プファイル夫人:サッコ
女優クローネ夫人:アダムベルガー夫人
女優フォーゲルザンク夫人:シュテファニー夫人
歌手フォーゲルザンク②:アダムベルガー(当時著名なテノール歌手)T
女流歌手ヘルツ夫人③:ランゲ夫人(アロイージア)S
女流歌手ジルバークラング嬢④:カタリーナ・カヴァリエーリ(「後宮からの誘拐」の初演にもコンスタンツェを演じたウィーンの花形歌手)S

なお、歌手、女流歌手と俳優ブッフの4人(①―④)だけが歌い、他の登場人物は音楽そのものには関係なく、
6場までの芝居を行う。

★上演当日、カスティ作詞、サリエリ作曲のイタリア語オペラ・ブッファ「はじめに音楽、次に言葉」が上演されており、ドイツとイタリアの音楽劇を同時に観劇しようという趣向であった。
★2月11日、18日、25日にケルントナートーア劇場で公開されているが、3回上演されたのみで終り、モーツァルトの死後になって、多くの改作上演が試みられている。

あらすじ:
劇場支配人は宮廷から興行権を取得したので、まずはオーディションを行なおうとしている。 喜劇役者のブッフ(「滑稽」を意味する)氏と演目や配役について打ち合わせをしていると、興行のスポンサーである銀行家がやって来て、自分のお気に入りの女優を推薦する。当の女優も姿をみせて売り込みのために芝居を演じる。次に悲劇女優の夫人と俳優のヘルツ氏も売り込みに来て、二人でドラマの一部を演じる。最後に有名な女優フォーゲルザング夫人もやって来て、ブッフ(滑稽)氏を相手に得意芸を披露する。今度は歌手たちが売り込みにやって来る。まず現れるのはヘルツ(心)夫人で、ヘルツ夫人はその名の通りアリエッタを心をこめて歌い興業主を大いに満足させる。そして、次にジルバークラング(銀の響き)嬢が現れて、銀の鈴をころがすような声を披露する。最後にテノールのフォーゲルザング(鳥の声)氏も登場するが、彼はヘルツ夫人とジルバークラング嬢のプリマ・ドンナ争いに巻きこまれてしまう。しかし、事態は一転、「芸術のために調和が大切であり、力を合わせよう」と四重唱で歌い終幕となる。

1幕の音楽付き喜劇                         劇場支配人 Der Schauspieldirektor」K.486より
劇場支配人 Der Schauspieldirektor」K.486           ジルバークラング嬢のアリア
序曲                                 若者よ、喜んで!Bester Jüngling!
ロッテルダム合奏団 The Rotterdam Ensemble.           アンドレア・ロスト Andrea Rost(ソプラノ)
     

         ★★★★★     ★★★★★     ★★★★★

394px-Mozart_libretto_figaro_1786.jpg
5月1日にブルク劇場モーツァルト本人の指揮により「フィガロの結婚」が初演された。このオペラ・ブッファについては末尾記載の特集記事をご参照。このオペラについての当時の周辺状況は次の通りである。
1)フランスの劇作家カロン・ド・ボーマルシェの書いた風刺的な戯曲で正式な題名は『狂おしき一日、あるいはフィガロの結婚』(La Folle journée, ou le Mariage de Figaro)。この戯曲は1784年にパリで初演されフランス革命前夜の知識人・民衆に、戯曲の痛烈な旧体制批判が大いにアピールし、大評判となった。尚、戯曲は3部作からなっており①「セビリアの理髪師」②「フィガロの結婚」③「罪の母」という構成である。 2)ジョヴァンニ・パイジエッロ(Giovanni Paisiello, 1740年5月9日 - 1816年6月5日)が《セヴィリアの理髪師 Il Barbiere di Siviglia》のオペラ化を完成させ、このオペラの人気はヨーロッパ中を席巻した。1782年にはウィーンでも上演され大評判となった。1816年(パイジエッロの没年)にジョアキーノ・ロッシーニが、パイジエッロと同じ台本に曲付けし、パイジエッロを凌いでしまったという経緯がある。 3)ウィーンでも戯曲「フィガロの結婚」を上演すべしとの声があがっていたが、皇帝は「体制批判、革命促進につながる」としてこの上演を禁じた。因に、シカネーダーが上演許可を求めたが、これを却下している。 モーツァルトはこういった経緯を承知の上で、「フィガロの結婚」のオペラ化ダ・ポンテと共に推進したのである。
左画像は1786年12月プラハ初演時のリブレット(台本)。タイトルは”Le nozze di Figaro, o sia la folle giornata”「フィガロの結婚、あるいは、狂おしき一日」となっている。


フィガロの結婚特集記事
フィガロの結婚(その1)序曲+第一幕第一景第一曲
フィガロの結婚(その2)第一幕
フィガロの結婚(その3) 第二幕
フィガロの結婚(その4)第三幕
フィガロの結婚(その5) 第四幕(終幕)

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この年前半に作曲された主たる楽曲は次の通りである。(括弧内は完成月日)
① クラヴィーアのためのロンド ニ長調 K.485 (1月10日)
② クラヴィーア協奏曲(第23番)イ長調 K.488 (3月 2日)
クラヴィーア協奏曲(第24番)ハ短調 K.491 (3月24日)
クラヴィーア四重奏曲 変ホ長調 K.493  (6月3日)
ホルン協奏曲(第4番)変ホ長調 K.495 (6月26日)
★4月7日ブルク劇場で大音楽会が開催されており、ここで新作(3月24日)の「クラヴィーア協奏曲(第24番)ハ短調が演奏されたのであろう。
★ホルン協奏曲(第4番)変ホ長調 K.495はモーツァルトの親友であり、ホルンの名手のヨーゼフ・イグナーツ・ロイトゲーブの為に書かれた傑作である。


クラヴィーアのためのロンド ニ長調 K.485            クラヴィーア協奏曲(第23番)イ長調 K. 488
ウラディミール・サモイロヴィチ・ホロヴィッツ               第一楽章 アレグロ
Vladimir Samoilovich Horowitz                 ゾルターン・コチシュ Zoltán Kocsis
     
                                   指揮:イエジ・ビエロフラーヴェク Jirí Behlohlávek
                                   ヴィルトゥオージ・ディ・プラハ(室内楽団)
                                   Virtuosi di Praga (Chamber Orchestra)


この年、後半には次の様な作品が生まれている。

①「クラヴィーア三重奏曲変ホ長調K.498《ケーゲルシュタット・トリオ(Kegelstatt Trio)》
8月5日作曲。通常クラヴィーア三重奏曲はクラヴィーア、ヴァイオリン、チェロという編成が一般的だが、この《ケーゲルシュタット・トリオ(Kegelstatt Trio)》と呼ばれる作品は、クラヴィーア、クラリネット、ヴィオラという楽器で演奏される。変わった編成ではあるが、モーツァルトが親しくしていたジャカン家で行われる音楽の集まりのために作曲され、そのジャカン家の娘フランツィスカがクラヴィーアを、アントン・シュタードラーがクラリネットを、そしてヴィオラをモーツァルトが受け持って演奏されたと伝えられている。ケーゲルシュタット(「九柱戯」)はボーリングの様な当時の遊びでモーツアァルトの自筆譜に「この遊びをしながら」と記載されていることより「ケーゲルシュタット・トリオ」と呼ばれる様になった。

弦楽四重奏曲(第20番)ニ長調 K.499 「ホフマイスター」
8月19日作曲。1ヶ月後にはこの曲のみ単独でホフマイスターより出版されたことからこの愛称で呼ばれている。

クラヴィーア三重奏曲 変ロ長調 K.502
11月18日完成。モーツァルトは13曲のクラヴィーア三重奏曲を遺しているが、この作品は、1788年7月に完成するハ長調K.548と並び最高峰を飾る一作である。

クラヴィーア協奏曲(第25番)ハ長調(K.503) 
12月4日完成。この年の冬のシーズン(クリスマス前の4週間から始まる待降節)に全4回の演奏会をトラットナー館で開催しており、この演奏会用に作曲されたものであるとされている。

1784年に6曲ものクラヴィーア協奏曲を作曲し、演奏会をはなばなしく飾ったクラヴィーア協奏曲も1785年には
3曲、そしてこの年86年にも3曲が作曲されたのであるが、この第25番以降は1788年までクラヴィーア協奏曲は作曲が中断するのである。これはとりもなおさず、演奏会開催が激減したことを反映しているのである。
★クラヴィーア協奏曲は1788年2月に第26番(ニ長調K.537)が作曲され、そしてモーツァルト最後の年1791年1月の第27番(変ロ長調K.595)が最後のクラヴィーア協奏曲となるのである。

交響曲(第38番)ニ長調「プラハ」(K.504)
12月6日の日付で「自作目録」に記載された久々の交響曲である。この年の待降節(クリスマス前の4週間)に開かれた演奏会のために書かれたのであろうとされている。モーツァルトはこの交響曲を翌年プラハで、1月22日の「フィガロ」上演に先立ち、19日に開かれた演奏会で初演したことより「プラハ」の愛称がつけられた。

弦楽四重奏曲(第20番)ニ長調 K.499          交響曲(第38番)ニ長調「プラハ」K.504
「ホフマイスター」第一楽章 アレグレット                  第一楽章アダージョ/アレグロ
モザイク弦楽四重奏団 Quatuor Mosaiques             チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
     
                                   指揮:マンフレッド・ホーネック Manfred Honeck
                                   Czech Philharmonic Orchestra

★交響曲(第38番)ニ長調「プラハ」K.504の演奏画像(YouTube)の劇場は、プラハに1781年から1783年にかけて建設されたエステート劇場"The Estates Theatre"(チェコ語ではStavovske divadlo=スタヴォフスケ劇場)であり、モーツァルトの時代にはノスティツ劇場(ノスティツ伯爵の所有であったことによる)と呼ばれていた。この劇場でモーツァルトは交響曲「プラハ」を初演し、「フィガロの結婚」や「ドン・ジョヴァンニ」のプラハ初演が行われたのである。この劇場は第二次世界大戦後の共産主義ー社会主義政権の時代にはチェコ演劇界の大立役者であるヨーゼフ・カイエターン・ティル(1808-56)の名を冠し、「ティル劇場」と呼ばれたが、1992年12月「スタヴォフスケ劇場(エステート劇場)」の呼称に戻されたという経緯がある。尚、映画「アマデウス」の劇場シーン撮影にはこの劇場が使用されている。



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コメント 18

whitered

おはようございます。モーツァルトいよいよ30歳、『フィガロの結婚』が完成した年ですね。私が始めて生で観たオペラです。ダ・ポンテの名前は知っていましたが、カロン・ド・ポーマルシェの名前は知りませんでした。革新的な劇作家だったのですね。革命的な要素があるということで、上演するにあたって、ヨーゼフ二世が保守的な人々に袖を引かれてたのですね。サリエリさんとのライバル関係?がいよいよ熾烈化しそうですね。「プラハ」はなかなか重厚な曲で、それ以前の交響曲とは趣がちがうように思うのですが。モーツァルトの三男は可哀想でしたね。
by whitered (2010-09-30 11:20) 

バロックが好き

こんばんは☆
いつも、詳しく色々教えていただきありがとうございます♪
4曲とも聴かせていただきました♪
ヨーロッパの、伝統と格式のある会場で
こういった音楽を聴いてみたいです♡
バルコニー席が良いな・・・。
弦楽4重奏曲が好きです♪
アンドレア・ロスト さん素敵ですね♡
by バロックが好き (2010-09-30 21:08) 

トラの父

後世の者はモーツアルトのどの曲も聴こうと思えば聴くことができますが,やはりこの晩年にさしかかった時期での聴衆離れには心が痛みます.
プラハが彼を暖かく迎えてくれたのは,救いですね.

クラヴィーア協奏曲(第23番)イ長調 K. 488は,私のリストからはどうしても落とすことのできない曲です.あの,所々に散りばめられたクラヴィーアのモノローグや木管のつぶやきを耳にしてから,手放すことができなくなりました.


「劇場支配人 Der Schauspieldirektor」K.486の序曲も拝聴しました.
おっしゃるとおり,よく手の込んだ音楽で,楽しませていただきました.          

by トラの父 (2010-09-30 22:00) 

mikoto

こんにちは^^
これだけの成功を収めながら新たな場所を開拓しようとしているー
人気商売なお仕事でもあるので永続的に安心ではないのでしょうね・・
しかし本当に精力的で見習いたいと思います~
ビタミンC入りnice!ありがとうございます!うれしかったです^^☆
by mikoto (2010-10-01 10:43) 

アマデウス

whiteredさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!交響曲(第38番)ニ長調「プラハ」K.504の約1.5年後の1788年に所謂三大交響曲(39番変ホ長調、40番ト短調、41番ハ長調「ジュピター」が作曲されるわけですが、ご指摘の通り「プラハ」は重厚且つ劇的な作品でこれを含めて「四大交響曲」としたいですよね☆

by アマデウス (2010-10-01 11:23) 

アマデウス

バロックが好きさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
ヨーロッパの伝統ある劇場で楽しめる日が早く来ると良いですね☆
次回に弦楽五重奏曲も取り上げることになると思いますので、また、聴いてみてくださいね☆
by アマデウス (2010-10-01 11:32) 

アマデウス

トラの父さん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
頂いたコメントで思い出したのですが、1781年6月2日付のモーツァルトから父レオポルト宛の書簡に、モーツァルトを足蹴にしたアルコ伯爵の言葉として以下が引用されています(モーツァルトの辞任をおもいとどまらせようとしての言葉)★
「ウィーンでは、人の名声はほんのわずかしか続かない。初めのうちは、あらゆる賞賛をあつめ、お金も大いに稼げる。。。何ヶ月かたてば、ウィーン人はまた新しいものを望む。」
by アマデウス (2010-10-01 11:45) 

アマデウス

mikotoさん!こんにちは☆
体調不調にもかかわらず、コメントありがとうございます!
聴衆(市場)の好みにあわせて作曲し、それを演奏、更に楽譜の販売と。。。モーツァルトは音楽家でもあり、起業家/企業家として活動したわけですよね★mikotoさんも作品を生み出し、それを販売する、あるいは発注者の希望にあわせ案をねって制作・納入するという点では、モーツァルトと同じですよね★頑張って下さいね☆
by アマデウス (2010-10-01 12:08) 

LittleMy

「劇場支配人」、アリアだけは知っていたのですがこんな風になってたんですね。

「手紙の二重唱」を歌ったら、全幕通してやりたくなってしまいました。
by LittleMy (2010-10-04 09:37) 

pegasas

劇場支配人の序曲とアリアは何度も聴いてしまいました。
モーツアルトらしい明るくて楽しい曲ですね。もう30歳に
なりましたね。色々の悩みも出る頃ですね。
by pegasas (2010-10-04 20:11) 

モッズパンツ

熱帯植物の木々と花、ということは、この頃にはもう観葉植物はブームだったのでしょうか。w (^ω^)b
二人の子供を預かって貰えないかと打診し、レオポルトに申し入れをきっぱり断られて、モーツァルトしょぼーん。やぱーりロンドンが世界の首都だったのかなぁ。w (´∀`)ノ

(^ー^)ノシ
by モッズパンツ (2010-10-04 21:49) 

アマデウス

LittleMyさん!こんにちは☆
伯爵夫人からコメントを頂き嬉しいです☆
「劇場支配人」の台本自体は二流以下でしょうが、モーツァルトの音楽が素晴らしいですよね☆
by アマデウス (2010-10-05 06:46) 

アマデウス

pegasasさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
「劇場支配人」の序曲とアリアお気に召した様で、嬉しいです☆
30歳のモーツァルト、自分ではコントロール出来ない政治・社会情勢も加わり音楽家としての喜びを享受すると共に苦悩も深くなって行く晩年にさしかかりましたね☆
by アマデウス (2010-10-05 06:53) 

アマデウス

モッズパンツさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
コロンブスの新大陸発見後欧州から多数の植物学者が新大陸に渡り、新種の植物を欧州にもたらしました☆ご指摘の通り、欧州の宮廷や王室での観葉植物の栽培は18世紀にブームをむかえています☆因みにキューガーデンズと呼ばれる英国王室植物園(Royal Botanic Gardens)はモーツアルト生誕の3年後、1759年に造園されています☆
by アマデウス (2010-10-05 07:09) 

塩

いつもありがとうございます。
本日は検査続きで少し疲れ、頭の回転も悪くなっています(笑)
改めてまたお邪魔させていただきます。

by (2010-10-05 16:40) 

アマデウス

Dr.塩!こんにちは☆
検査に継ぐ検査でお疲れのところわざわざお越し頂き恐縮です☆
これまで頭も働きずめであったわけですから、たまにはゆっくり回転させ英気を養わせてあげて下さい(笑)




by アマデウス (2010-10-06 06:30) 

アヨアン・イゴカー

ホロヴィッツは、何時見ても凄いですね。あんな手の恰好で、どうしてあんあ綺麗な音がでるのでしょう。不思議です。
by アヨアン・イゴカー (2010-10-11 15:14) 

アマデウス

アヨアン・イゴカーさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
ホロヴィッツの奏法はすごいですね☆本当にスムースな運指で美しい音をだし、まさにピアノを歌わせていますよね★基本的に「のばした指」で弾く奏法は
ショパン風であると聞いたか読んだかしたことがあります☆

by アマデウス (2010-10-13 06:52) 

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