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モーツァルト31歳・父レオポルトの死と「ドン・ジョヴァンニ」(ウィーン⑦1787年) [モーツァルト]

1787年1月8日、モーツァルトは妻のコンスタンツェと数人の友人と共に馬車でウィーンを発ちプラハにむかった。前年12月プラハで「フィガロの結婚」が上演され、大評判となっており、同地の識者愛好家協会の招待に応えてのプラハ訪問である。
★モーツァルト夫妻の同行者は、この旅行の一年後にコンスタンツェの長姉ヨーゼファと結婚するフランツ・デ・パウラ・ホーファ−(1755-96、宮廷楽団ヴァイオリン奏者)とアントーン・パウル・シュタードラー(宮廷楽団クラリネット奏者)を含む5名の友人と従僕のヨーゼフである。

一行は1月11日プラハに到着した。モーツァルトはウィーンの親友ゴットフリート・フォン・ジャカンにプラハでの「フィガロ熱」について次の通り語るのである。(1787年1月15日付書簡)
(舞踏会では)。。。生粋のコントルダンスやドイツ舞曲に編曲したぼくのフィガロの音楽にのって、心から楽しそうに飛び跳ねているのを見て、ぼくはすっかりうれしくなった。なにしろここでは、話題といえば「フィガロ」で持ちきり。弾くのも、吹くのも、歌うのも、そして口笛も「フィガロ」ばかり。「フィガロ」以外 ほかのオペラになんか目もくれないんだ。明けても暮れても「フィガロ」、「フィガロ」。たしかに、ぼくには大変な名誉だよ。》

1月17日モーツァルト夫妻列席のもとで「フィガロの結婚」がノスティツ劇場で上演され、19日にはモーツァルトの公開演奏会が同劇場で開かれた。公開演奏会では前年暮に作曲された交響曲(第38番)ニ長調「プラハ」(K.504)が演奏され、即興演奏3曲を披露している。最後の曲はプラハで大人気のフィガロのアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々”Non più andrai, farfallone amoroso”」の主題による変奏であり、劇場は興奮の渦に包まれたのである。
★ノスティツ劇場:モーツァルトの時代には所有者のノスティツ伯爵の名前からこう呼ばれた。その後スタヴォフスケ劇場となり、第二次世界大戦後の社会主義体制ではティル劇場と名称変更され、1992年12月再度スタヴォフスケ劇場(英名:エステート劇場)に戻され今日に至っている。

演劇興行師ボンディーニから次のシーズンのためのオペラの作曲を依頼され、2月8日「フィガロ」で持ち切りのプラハを発ちウィーンには2月12日頃に戻ったのである。

モーツァルトは「フィガロの結婚」の台本作者ロレンツォ・ダ・ポンテと協議し次回のオペラは「ドン・ジョヴァンニ」を題材とすることを決定し、ダ・ポンテは急ピッチで筆を進め、5月半ばには台本を完成させた。モーツァルトは3月には台本の一部を受け取り直ちに作曲に取りかかった。

ドン・ジョヴァンニ」の作曲を開始したとほぼ時を同じくして、ザルツブルクでは父レオポルトが病に倒れた。これを知らされたモーツァルトレオポルトに4月4日付で自分の死生観を織り込んだ書簡を発信するのである。
《あなたご自身から快方に向かっているという安心の手紙をぼくがどれほど切望しているか、お伝えするまでもないでしょう。常にぼくはあらゆることに最悪を想定することに慣れてはいるのですが。 死は(厳密に言えば)ぼくらの人生の真の最終目標ですから、ぼくはこの数年来、この人間の真の最上の友とすっかり慣れ親しんでしまいました。その結果、死の姿はいつのまにかぼくには少しも恐ろしくなくなったばかりか、大いに心を安め、慰めてくれるものとなりました!そして、死こそぼくらの真の幸福の鍵だと知る機会を与えてくれたことを(ぼくの言う意味はお分かりですね)神に感謝しています。ぼくは(まだ若いとはいえ)ひょっとしたらあすはもうこの世にはいないかもしれないと考えずに床につくことはありません。でも、ぼくを知っている人はだれひとり、ぼくが不機嫌だとか悲しげだとか言えないでしょう。そして、この仕合わせを毎日ぼくは創造主に感謝し、隣人のひとりひとりにもそれが与えられるよう心から祈っています。(中略)ぼくがこの手紙を書いている間にも、あなたが快方に向かわれるよう願い望んでいます。》
★この手紙がモーツァルト父レオポルトに宛てた最後の手紙となったのである。尚、この手紙に記述されている死生観フリーメイソンの思想から来ているとされている。

4月24日、約3年間住んだウィーン中心地にある豪華な借家(フィガロ・ハウス)を明け渡し、ウィーン市壁外の庭付きの借家に引っ越した。次第に経済的圧迫を感じ、家賃の安いところに移り住んだものと思われる。この引っ越しについて父レオポルトにはその理由を説明せず、新しい住所を連絡しているが、レオポルトは5月10日付でザンクト・ギルゲンの娘ナンネル(ゾンネンプール夫人)にモーツァルトの引っ越し先の住所を伝えるとともに引っ越しについては《彼はその理由を私には書いていません。なにひとつです!残念ながら、わたしにはそれが推測できます。》と語っており、この書簡がレオポルトが書いた最後の書簡となったのである。

レオポルトは、ザンクト・ギルゲンから駆けつけた娘のナンネル(ゾンネンブール夫人)の献身的な看病にも拘らず5月28日帰らぬ人となった。享年67歳であった。

6月4日、モーツァルトが約3年間可愛がってきたムクドリが死んだ。モーツァルトはこのムクドリに寄せた哀悼の詩を綴り、数人の友人を葬送行進がしたいからと自宅に招待し、全員で葬送の曲を歌いながら行進した。父レオポルトの死に対するモーツァルト独特の哀悼の表現でもあったのであろう。
★このムクドリと哀悼の詩などについては弊記事「モーツァルトと小鳥たち」をご参照。

4月、ボンの宮廷に仕えていた当時16歳のルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1872)が初めてウィーンを訪れ、二週間程滞在した。この間モーツァルトを訪問したという伝記もあるが、最愛の母マリアの病状悪化の報を受けボンに急遽戻っている。当時のケルン大司教選帝侯マクシミリアン・フランツ(在位:1784年 - 1801年)皇帝ヨーゼフ2世の一番下の弟であり、モーツァルトを高く評価していたこともあり、ケルン宮廷(所在地:ボン)に当時仕えていた少年ベートーヴェンに対し、モーツァルトへの弟子入りを命じた可能性はある(モーツァルトに弟子入りを承諾されたとしているベートーヴェンの伝記作家もいるが、確証があるわけではない)。
★ベートーヴェンのフランドル生まれの祖父も父親もボンのケルン選帝侯の宮廷音楽家であった。

5月中旬頃にダ・ポンテは「ドン・ジョヴァンニ」の台本を完成しており、モーツァルトは序曲と第二幕のフィナーレを含む全体の約三分の一の作曲を仕上げ、10月1日コンスタンツェと共に再びプラハへと旅立ったのである。
プラハ側としてはこのオペラを、皇帝ヨーゼフ2世の姪マリア・テレジアのプラハ訪問の祝賀用に上演したかったのであるが、準備の遅延により、ヨーゼフ2世の指示もあり歓迎の催し物はオペラ「フィガロの結婚」となり、 10月14日モーツァルト本人の指揮によりノスティツ劇場で再演された。
★マリア・テレジアは皇帝ヨーゼフ2世の弟で当時トスカーナ大公であったレオポルト1世の娘。尚、レオポルト1世は1790年皇帝ヨーゼフ2世崩御の後レオポルト2世として神聖ローマ皇帝となる。

プラハ滞在中モーツァルトは旧知のフランツ・クサヴァー・ドゥーシェク夫妻と再会し、自宅やヴァルタヴァ河左岸の丘地にある別荘「ベルトラムカ荘」に招待され、この別荘を「ドン・ジョヴァ二」作曲のために提供してもらった。
★この別荘は現存しており、モーツァルト博物館となっている。

さまざまな事情で予定から半月遅れの10月29日2幕のオペラ・ブッファ(ドランマ・ジョコーソ)罰せられた放蕩者、あるいは、ドン・ジョヴァンニ」”Il dissoluto punito, o sia il Don Giovanni” がノスティツ劇場モーツァルト自身の指揮で初演され、大喝采を博したのである。
モーツァルトは11月4日付の手紙で親友ジャカンに「大変な拍手喝采を受けた」と伝えると共に「きのう、4回目の(しかも上がりはぼくの収入になる)上演が行われた。」と語っている。

かくしてモーツァルト夫妻はプラハ滞在を終え、明確な記録は残されていないが、おそらく11月13日にプラハを発ち、16日にはウィーンに帰着したのである。その前日15日に宮廷音楽家グルックがこの世を去ったのである。このグルックの死を契機として皇帝ヨーゼフ2世は宮廷楽団の再編成に取り組むのである。
★クリストフ・ヴィリバルト・グルック(Christoph Willibald (von) Gluck, 1714年7月2日 - 1787年11月15日)女帝マリア・テレジアの宮廷楽長を務め、35曲程の完成したオペラを作曲し、オペラの改革者として歴史に名を残している。

先ず12月1日付をもってモーツァルトは宮廷音楽家に任命され、年俸800グルテンの支給が決定したのである。1781年モーツァルトがザルツブルク大司教宮廷楽団を退任した時からの念願であったウィーン宮廷への奉職の夢が7年目にしてやっと実現したのである。父レオポルトが存命であればその喜びはいかばかりであったであろうか。
★任命書と辞令には宮廷音楽家と明記されているが、1789年及び91年の「宮廷職員名簿」にはモーツァルトは《皇王室宮廷音楽家》の中の《作曲家》にリスト・アップされている。

12月27日モーツァルトの長女(第4子)テレジア・コンスタンツィア・アーデルハイト・フリーデリケ・マリア・アンナが誕生した。
★しかし、この娘は翌88年6月29日に亡くなってしまうのである。  

政治的にはこの年ロシア帝国のエカチェリーナ大帝の対オスマン帝国(トルコ)戦争(第2次)が始まり、1792年まで続くことになる。オーストリア帝国ロシアとの同盟に基づきロシアを支援すべく、1788年2月、参戦したのである。皇帝ヨーゼフ2世は啓蒙専制君主として、「上からの改革」を通じて身分制社会の構造を切り崩し、均質な国民を創出せんとして貴族勢力の弱体化を図りつつ商工業を発達させ、富国強兵・王権強化を図ったが、その改革の多くは抵抗勢力に阻まれていた。特にハンガリー南ネーデルランドといったハプスブルク(オーストリア)帝国領内で反体制運動が活発化するのである。かような時期にオスマン帝国との戦争が勃発し、貴族はその領地に戻ったり、出征したりするのである。又、戦争により物価が高騰し、ウィーン市民の生活を圧迫するのである。こういった政治・社会情勢にも大きく影響され、モーツァルトの演奏会の開催が次第に困難になって行くのである。


Lorenzo_da_Ponte.jpg     Don Giovanni.jpg     
ロレンツォ・ダ・ポンテ(版画)                    ドン・ジョヴァンニをプラハ初演で歌ったLuigi Bassi
19世紀初頭

★右上の絵は「ドン・ジョヴァンニ」の第二幕でドン・ジョヴァン二(バリトンのルイギ・バッシ)が気に入った女性の窓の下でセレナータ「さあ、来ておくれ、窓辺へ"Deh vieni alla finestra"」 を歌っているシーンを描いたものである(末尾音源ご参照)。尚、ルイギ・バッシLuigi Bassiは「フィガロの結婚」のプラハ初演でアルマヴィヴァ伯爵も歌っている。


この年の主な作品としては次があげられる。

6つのドイツ舞曲 K.509 
2月6日作曲。「フィガロの結婚」で沸き立つプラハで、パハタ伯爵に招待された夕食会の前の1時間で作曲、その日の舞踏に供したとされている。

クラヴィーアのためのロンド イ短調 K.511
3月11日完成。静かな哀愁を帯びた美しい作品。

弦楽五重奏曲 ハ長調 K.515
4月19日作曲。1773年以来15年ぶりの五重奏曲作品。全体で1149小節というモーツァルトの器楽曲中最大規模を有す。

弦楽五重奏曲 ト短調 K.516
5月16日作曲。 アンリ・ゲオンHenri Gheonがその著「モーツァルトとの散歩Promenades avec Mozart.」で《フルート四重奏曲ニ長調K.285第1楽章アレグロは、無二の傑作『弦楽五重奏曲ト短調』K.516の冒頭部アレグロの最高の力感のうちに見出される新しい音を時として響かせている。それはある種の表現しがたい苦悩で、「流れゆく悲しさ”tristesse allante”」、言い換えれば、「爽快な悲しさ”allegre tristesse”」とも言えるテンポの速さと対照をなしている。》と述べ、小林秀雄はその著「モオツァルト」において、ゲオンの言う”tristesse allante”を「疾走する悲しさ」として捉え、弦楽五重奏曲ト短調K.516第一楽章アレグロに適用の上言及し、この作品を一躍有名にした。

音楽の冗談 ヘ長調 K.522
6月14日完成。ユーモラスな曲であるが、1785年には第一楽章のパート譜を書き始めていたとされている。

リート9曲(ウィーンで7曲、プラハで2曲)がこの年作曲されているが、代表作としては次が揚げられる(作曲はいずれも6月24日)。
ラウラに寄せる夕べの想い K.523
クローエに K.524

セレナード ト短調 K.525 「アイネ・クライネ・ナハトムジーク
8月10日作曲。モーツァルトのセレナードの中で最も人気が高い作品。第一楽章アレグロと第二楽章ロマンツェの間にかってはメヌエットとトリオが存在したとされている。第三楽章がメヌエットとトリオだが、もうひとつ楽章としてメヌエットとトリオがあったが、紛失している。

ヴァイオリン・ソナタ イ長調 K.526
8月24日作曲。少年時代にロンドンで親しく接したアーベル(Karl Friedrich Abel)が6月20日に没しており、アーベル追悼の気持ちから、第三楽章のロンド主題をアーベルのソナタ作品に求め作曲したのではないかとされている。モーツァルトの協奏的二重奏ソナタの最高峰を飾る作品である。

ホルン協奏曲(第3番)変ホ長調 K.447
1787年に作曲された作品であるとされているが、月日は不明。4曲のホルン協奏曲中の最高傑作である。


                                   弦楽五重奏曲 ト短調 K.516
セレナード ト長調 K.525                      第一楽章 アレグロ
「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」                アマデウス四重奏団 & セシル・アロノヴィッツ(ヴィオラ)
第一楽章 アレグロ                         Amadeus Quartet with Cecil Aronowitz, viola
                                                    1966年録画版(於ロンドン)     


ヴァイオリン・ソナタ イ長調 K.526
第一楽章 モルト・アレグロ
アルテュール・グリュミオー Arthur Grumiaux(V)          ホルン協奏曲(第3番)変ホ長調 K.447 
クララ・ハスキル Clara Haskill(P)                  第二楽章 ロマンツェ ラルゲット
     

         ★★★★★     ★★★★★     ★★★★★

2幕のオペラ・ブッファ(ドランマ・ジョコーソ)罰せられた放蕩者、あるいは、ドン・ジョヴァンニ」”Il dissoluto punito, o sia il Don Giovanni” K.527:
10月29日プラハ(ノスティツ劇場)初演
ドン・ジョヴァンニ特集記事をご参照。本記事では次をとりあげておきます。

①第2幕ドン・ジョヴァンニが目をつけた女性(ドンナ・エルヴィーラの美しい召使い)の部屋の窓の下で歌うカンツォネッタ(右上版画のシーン)さあ、来ておくれ、窓辺へ」:
★ドン・ジョヴァン二が甘く歌いかける誘惑のセレナータである。結局邪魔が入り誘惑は出来ずに終わるが。

②第2幕フィナーレの「騎士長の場面(ドン・ジョヴァンニ地獄落ちのシーン)
ドン・ジョヴァン二の夕食招待を受け、ドン・ジョヴァン二が刺殺した騎士長の石像が現れ、ドン・ジョヴァン二に悔悛し罪を贖うようにせまる。"Pentiti, cangia vita "(悔い改めよ): "È l'ultimo momento"(最後の機会である).....ドン・ジョヴァン二は欲望に対し妥協せず、それを断念するぐらいであれば死んだ方がましであるとして、騎士長の慈悲を断固として拒絶し、地獄に落ちるのである。

                                   第二幕、ドン・ジョヴァンニ地獄落ちのシーン
第二幕、ドン・ジョヴァンニのカンツォネッタ             ドン・ジョヴァンニ: サムエル・レイミーSamuel Ramey
さあ、来ておくれ、窓辺へ"Deh vieni alla finestra"          騎士長Il Commendatore(石像):クルト・モル Kurt Moll
ドン・ジョヴァンニ: サムエル・レイミーSamuel Ramey        レポレッロ: フェルッチョ・フルラネットFerruccio Furlanetto
     
     


ドン・ジョヴァンニ特集記事
ドン・ジョヴァンニ(その1)
ドン・ジョヴァンニ(その2)
ドン・ジョヴァンニ(その3@オペラの歴史)
ドン・ジョヴァンニ(その4)


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mikoto

こんにちはアマデウスさん
お父様が亡くなり戦争で文化にかける余裕が減り
いよいよ精神的にも経済的にも大変になってきますね。

「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」はいいですよね~
軽やかで明るく元気が出ます^^
「さあ、来ておくれ、窓辺へ」は初めて聞きましたが素敵ですね。
ヨーロッパの方では劇でもこんなシーンがありますがいい声で歌われたら
コロッと恋に落ちそうですよね(笑)

いつも温かいコメントありがとうございます!
続きも楽しみにしています^^
by mikoto (2010-10-07 10:08) 

塩

いつもありがとうございます。
今長いコメントか書けませんが、画面でまた楽しませていただきます。(一部楽しませていただきました) 病室では夜が長く、拝見・拝聴できることは大変ありがたいです。
by (2010-10-07 15:13) 

whitered

こんばんは。レオポルトの死や自分の子どもたちの死、この現実を乗り越えて、創作の道を突き進むには、フリーメイソンの死生観が支えだったのでしょうか。オスマン帝国との戦争などで貴族国家の翳りが見えてきますが、『ドン・ジョバンニ』も時代の影響を受けたのでしょうね。16歳のベートーベンの登場も興味深いです。
by whitered (2010-10-07 20:06) 

アマデウス

mikotoさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
オペラ作曲はまとまった収入にはなるのですが、当時は著作権もなかった時代ですから、作曲者以外の者が指揮・上演をした場合は全く著作権料は入らず、初演分だけの収入しか期待出来ませんでした★生活を維持して行くには「演奏会」を行い、継続的な収入を確保する必要があったわけですが、その演奏会も次第に開催が困難な時代になって行くのです★
by アマデウス (2010-10-08 06:41) 

アマデウス

Dr.塩!こんにちは☆
オペ直後のご訪問、驚くと共に大変嬉しく思います★
ありがとうございます!
無理をなさらずゆっくりご静養下さい☆
by アマデウス (2010-10-08 06:44) 

アマデウス

whiteredさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
ベートーヴェンは今回は2週間程でボンに戻りましたが、モーツァルトが亡くなって約8ヶ月後1792年7月にケルン大司教選帝侯マクシミリアン・フランツの命により再度ウィーンを訪問、ハイドンに弟子入りしていますね☆

by アマデウス (2010-10-08 07:03) 

トラの父

皇帝自らが宮廷楽団の再編に乗り出したことで,モーツアルトも念願のポストを得ることができたのですね.
マリア・テレジアの祝賀用にフィガロが選ばれるなど,皇帝もモーツアルトを随分気に入っていたのでしょうか.

「音楽の冗談 ヘ長調 K.522」は,お父さんが亡くなって1ヶ月も経たないうちに書かれていますが,知らない人が聴いて誰がこの曲をモーツアルトが書いたと思うでしょうか(「冗談」としては相当の仕上がりで,特にこの最終楽章の集結部を聴いたとき,1人で大笑いさせられました).
この曲から間もなく,あのチャーミングで端正なK.525が連なるように作曲されていますが,この2つの曲との関連の無さが逆に興味深いと思います.

by トラの父 (2010-10-08 22:51) 

アマデウス

トラの父さん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
ご指摘の通り、皇帝はモーツァルトを贔屓にしていた様ですね☆モーツァルトがウィーンで独立してすぐに雇えなかった理由は次が考えられます;①ザルツブルク大司教に対する気兼ね②宮廷イタリア人音楽家への配慮③宮廷緊縮財政。
「音楽の冗談」には笑わされますが、同時にさすがうまく取りまとめたものだと感心させられますよね☆

by アマデウス (2010-10-09 06:40) 

バロックが好き

こんばんは☆
とうとうお父さんが無くなってしまったんですね。
でも、念願の宮廷楽団のポストがもらえて良かったですね。
お父さんが存命であれば、どれだけ喜びもひとしおだったことかと思うと
気の毒です。。。
「戦争」に音楽はいつの時代も
(音楽だけではありませんが)
迫害を受けるんですよね。。
「疾走する悲しさ」的確な表現ですね。
モーツアルトならではのべたつきの無い、
晴れやかな悲しさと言う感じです。
また、素敵なのを聴かせて下さいね♫
by バロックが好き (2010-10-09 23:18) 

アマデウス

バロックが好きさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
「晴れやかな悲しさ」とは素晴らしい表現ですね☆ぴったりです!
ゲオンの言う”allegre tristesse”の邦語訳としても的を得ていますね!
「晴れやかな悲しさ」。。。素晴らしいです!
by アマデウス (2010-10-10 06:27) 

モッズパンツ

モーツァルトの死生観がフリーメイソンの思想から来ているということは、モーツァルトは本当にフリーメイソンにどっぷりと浸かっていたのですね。w (^ω^)b
少年ベートーヴェンがモーツァルトに弟子入りしていたとしたら、ベートーヴェンもフリーメイソンに入会した可能性がありますね。w (´∀`)ノ

(^ー^)ノシ
by モッズパンツ (2010-10-10 07:52) 

pegasas

モーツアルトも31歳でりっぱになりましたが、お父さんが
亡くなりましたね。念願の宮廷音楽家にもなれたのに、少し
遅かったですね。モーツアルトの死生観は早死にの予感が
あったのでしょうか、それとも単にフリーメイソンの思想から
でしょうか。少年のベートーベンに会って師弟関係になって
いたかも知れませんね。もう少し長生きして欲しかったですね。
by pegasas (2010-10-10 23:16) 

アマデウス

モッズパンツさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
ベートーヴェンもフリーメイソンであったとする説もありますね☆これはモーツァルトに弟子入りとは別の次元の話です★フリーメイソンのどこかの分団の名簿で確認されているわけではないので、色んな説が入り乱れていますが、フリーメイソンは音楽や芸術を重要視したこともあり、ベートーヴェンもフリーメイソンであったかも知れませんね★因に、ゲーテもフリーメイソンであったとされていますよ★
by アマデウス (2010-10-11 09:48) 

アマデウス

pegasasさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
モーツァルトの死生観はフリーメイソンの思想と次の現実とが合致したからではないかと思います★
①モーツァルト自身しばしば体調を崩し病床についていること★
②母親と自分の子供を亡くしていること★
③モーツァルトの親友(複数)が若くして急死していること★


by アマデウス (2010-10-11 09:57) 

LittleMy

ドンジョバンニ、いいですよね♪
by LittleMy (2010-10-16 10:57) 

アマデウス

LittleMyさん!こんにちは☆
ドン・ジョヴァンニ、いいですね♪
コメントありがとうございます!
by アマデウス (2010-10-17 12:20) 

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