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モーツァルト33歳・プロイセン(北ドイツ)への旅(ウィーン⑨1789年) [モーツァルト]

モーツァルトは4月8日、カール・リヒノフスキー侯爵の誘いを受けて、同侯爵と共に、プロイセン王国(北ドイツ+ポーランド西部)に向けてウィーンを馬車で旅立った。この旅の主要目的はプロイセン王国の首都ベルリンで国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世への謁見にあった。

★カール・リヒノフスキー侯爵(Karl Lichnowky 1756-1814)は後にベートーヴェンの後援者として有名になる人物である。ベートーヴェンが音楽家として致命的な耳の病を発病した一年後頃に発表した(1799年発表。ベートーヴェン29歳)ピアノ・ソナタ第8番ハ短調Op.13『悲愴』は、リヒノフスキー侯爵に献呈されている。
★フリードリヒ・ヴィルヘルム2世:(Friedrich Wilhelm II., 1744年9月25日 - 1797年11月16日)プロイセン王(在位:1786年8月17日 - 1797年11月16日)

前年には演奏会の開催が激減し、この年にも好転の兆しが見えず、経済的にも緊迫していたモーツァルトはフリーメイソンの同士であり音楽に造詣の深いリヒノフスキー侯爵と共にベルリンに行き、音楽愛好家として名を馳せていたプロイセン国王、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に謁見すれば、現状打開策が見つかるかも知れないとの考えもあっての旅なのである。

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン「プロシア四重奏曲」 Op.50(全6曲)を1787年1月から9月にかけて作曲し、同年12月アルタリア社より出版、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に献呈されており、モーツァルトはこれにも刺激を受けていたのではないかとも思われる。
★ウィーン宮廷では前年1788年2月に5歳年上のアントニオ・サリエーリが宮廷楽長に任命されており、モーツァルトの究極的願望であった宮廷楽長への道は遠のいたとの判断もあり、プロイセン王からそれなりの処遇の提示があれば、ウィーン宮廷を辞しプロイセン宮廷に仕えることも選択肢に入れていたのであろう。

4月10日にプラハに到着、その後12日にドレスデンに着いた。ドレスデンではザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世の宮殿で、前年1788年2月に作曲しウィーンでは初演の機会がなかった『クラヴィーア協奏曲ニ長調(K.537)「戴冠式」』を御前演奏している。

4月18日にはドレスデンを発ち、20日にライプツィヒに着き、22日にヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685 - 1750)ゆかりの聖トーマス教会を訪問し、オルガンを奏している。モーツァルトは1782年にヴァン・スヴィーテン男爵のところで集中的にバッハの曲に接した「バッハ体験」を思い出しながらバッハに捧げる曲を弾いたのであろう。この演奏を聴いたバッハの弟子であリ聖トーマス 教会のカントル(音楽監督、トーマスカントル)の当時74歳の老音楽家ヨハン・フリードリヒ・ドーレス(1715−1797年はバッハの再来かと感激したと伝えられている。
バッハはライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(トーマスカントル、独:Thomaskantor)を約13年間(1723-1736)務めている。

4月25日頃にはベルリン近郊のポッダムに到着し、当時はプロイセン国王の夏の離宮であったサンスーシ宮殿に国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が滞在しており、モーツァルトは謁見を申し入れた。国王には謁見できなかったが、王の指示により宮廷音楽総監督ジャン・ピエール・デュポールと面談することとなった。
★ジャン=ピエール・デュポール:(1741-1818) Jean-Pierre Duport フランス出身のチェロの名手。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の皇太子時代にチェロを教えている。

モーツァルトは変奏曲(後述)をデュポールに贈ることによってその印象を良くしようと考えたのであろうが、それが奏功したとは思えない結果ではあった。

リヒノフスキー侯爵がウィーンに戻る必要が生じたため、モーツァルトは同侯爵に付き合いライプツィヒまで戻り、5月12日同地のゲヴァントハウスで演奏会を催している。この演奏会ではプラハからドレスデン経由ライプツィヒにたまたま来ていた古くからの友人でソプラノ歌手のドゥーシェク夫人が2曲のアリアを歌い、モーツァルトは前年に作曲した三大交響曲のうちのいずれかを演奏したとする説がある。

モーツァルトは旅先からウィーンに残してきた妻コンスタンツェに愛情溢れる手紙を度々書いているが、5月16日付の手紙にはこの演奏会は「拍手喝采と名誉の点ではまったくすばらしかったけれど、収入に関しては比較にならないほどお粗末だった。」と語っている。

モーツァルトは5月19日にベルリンに到着した。同日、ベルリン王立劇場で上演された「後宮からの誘拐」に立ち会い、5月26日ベルリン王宮王妃フリーデリーケの御前での演奏を行った。
その後5月28日にベルリンを発ち、ドレスデン、プラハ経由で6月4日にウィーンに帰着した。

プロイセン王国への旅から帰着後7月12日には友人のブフベルクに対し、借金依頼の書簡が出されており、同王国への旅は「収入の面では比較にならないほどお粗末なものであった」ことを裏付けている。

『親愛な、最上の友!尊敬すべき結社盟友よ。
ああ!わたしはいま最悪の敵にも望まないような状況におります。そして、最上の友であり盟友であるあなたにもし見捨てられたら、私は不幸にも、なんの罪もないのに、かわいそうな病気の妻と子供もろとも、破滅してしまいます。。。(中略)このたびの妻の病気のために、どれほど私の稼ぎが妨げられているか、繰り返し申し上げるまでもないでしょう。私の運命は残念ながら、でもウィーンだけのことですが、私には逆風で、いくら稼ごうと思っても稼げません。私は二週間にわたって予約名簿(注:予約演奏会用)をまわしたのですが、そこにはただひとりスヴィーテン(注:ヴァン・スヴィーテン男爵)の名前があるだけです。』
★この関連でブフベルクは150フロリーンを送金している。
★妻のコンスタンツェは足の感染症に悩まされており、その療養と治療のために、主治医のクロセット博士よりウィーン南方の温泉(硫黄泉)療養地バーデンでの湯治を勧められ、モーツァルトはコンスタンツェを遅くとも8月中旬までにはバーデンに湯治に行かせたのである。

8月29日には「フィガロの結婚」がブルク劇場で2年半ぶりに再演され、新キャストによる上演は大成功を収め1791年2月までに計29回も上演されることになった。さらにこの再演成功直後より、ダ・ポンテが台本を書き下ろしたブルク劇場の翌年1790年のシーズン用のオペラ・ブッファ「コシ・ファン・トゥッテ”Così fan tutte"(女はみんなこうしたもの)の作曲を開始したのである。
★ひととおり作曲し終えたモーツァルトは12月31日ハイドンブフベルクを自宅に招いて試演を行った。

11月16日にモーツァルトの第5子(次女)となるアンナ・マリアが誕生したが、生まれてすぐに息を引き取り、健全に育っていたのは、第2子として生まれたカール・トーマスだけであった。

政治的にはロシア帝国との同盟に基づき参戦したオスマン帝国との戦争長期化の様相を呈し、この戦争のため前年1788年に9ヶ月以上にも及ぶセルビア=クロアチア地方のゼムリン"Semlin"に滞留し、同年12月5日ウィーンに帰着した皇帝ヨーゼフ2世は体調を崩し、病床についていた。
ハプスブルク君主領ハンガリーでは、中央政府による国家管理の一元化に対して、啓蒙に感化された特権身分社団による反発、農民反乱が恒常的なものとなりつつあった。又、オーストリア領ネーデルランドでも反乱が勃発する事態となった。
★ネーデルランドは1790年ベルギー合州国として独立を宣言したが、新しい国の指導者達の団結心の欠如のため、あえなくオーストリアに制圧されるのである。

7月14日にフランス王国(国王ルイ16世、王妃マリーアントワネット)では、パリ市の民衆が同市にあるバスティーユ牢獄(当時兵器庫)を襲撃する事件が勃発した。フランス革命がはじまったのである。10月、ルイ16世は国民議会が採択した人権宣言の承認を余儀なくされ、パリのチュイルリー宮殿に家族と共に幽閉された。
★パリのチュイルリー宮: 1778年6月18日、スイスの間でモーツァルト交響曲ニ長調「パリ」K.297が演奏され、大成功を収めた宮殿である。弊記事「モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅③(パリ)」ご参照。
★フランス革命の勃発を受けヨーゼフ2世は翌年1790 年に宗教寛容令を除く殆どすべての絶対主義政策を撤廃することになる。


Brandenburger-Tor-1735-Daniel-Chodowiecki-1764.jpg     Mozart_drawing_Doris_Stock_1789.jpg
古いブランデンブルク門(1764年)                              モーツァルト(33歳)

新しいブランデンブルク門はフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により建築家カール・ゴットハルト・ラングハンスによって
古代ギリシャ風で設計され、1788年から3年間の建設工事を経て1791年8月6日に竣工している。従い、モーツァルトが
ベルリンを訪問した時は新しい門は建設中であり、完成したのはモーツァルトが没した年である。

33歳のモーツァルト:1989年4月16日、ドレスデンにて女流素人画家ドーレス・シュトックにより銀筆で描かれた。現存するモーツァルト最後の肖像画である。


この年1789年のモーツァルトの主な作曲活動は次の通りである。

クラヴィーア・ソナタ(第16番)変ロ長調 K.570 (新全集17番)
2月に作曲されているが、初演の時期や場所など詳細は不明。

6つのドイツ舞曲 K.571
2月21日作曲。謝肉祭シーズンの宮廷舞踏会用に宮廷作曲家の職務として作曲された。快活さの中に繊細さが見受けられる。

J.P.デュポールのメヌエットの主題によるクラヴィーアのための9つの変奏曲 K.573
4月29日ポッダムにて作曲。前述の通り、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世への謁見を申し入れたところ国王の指示により、宮廷楽長のデュポールが面談することになった。そこでモーツァルトは彼の「チェロとバスのためのソナタ 作品4の6」のメヌエットに基づく変奏曲を作り、手土産にしたとされている。

弦楽四重奏曲(第21番)ニ長調 K.575 「プロイセン王セット 第1番」
プロイセンよりの旅から6月4日ウィーンに帰着したモーツァルトが、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に献呈する目的をもって6月中に作曲した作品。6曲よりなるセットにする予定であったが、翌年1790年に第2番変ロ長調と第3番へ長調を作曲しただけで終わっている。これら3曲はモーツァルト昇天後にアルターリアより出版されている。

クラヴィーア・ソナタ(第17番)ニ長調 K.576 (新全集18番)
7月作曲。モーツァルトの完成作品としては最後のソナタ。

『フィガロの結婚』再演のための新しいアリア2曲(7月から8月にかけて作曲)
8月29日よりブルク劇場で再演された「フィガロの結婚」にはスザンナにアドリアーナ・フェッラレーゼ・デル・ベーネ、伯爵夫人にはカテリーナ・カヴァリエリを起用し、次の2曲の新しいアリアが作曲された。
「あなたを愛している人の望みどおり"Al desio di chi t'adora"」K.577
スザンナの第4幕第28曲のアリア「さあ、おいで、遅れないで”Deh vieni non tardar"」の代替アリアとして作曲。フェッラレーゼの声の特徴が良く出るようにこのアリアを作曲したものとされている。
「私の胸は喜びにおどるの“Un moto di gioia mi sento"」K.579
同じくスザンナ役のフェッラレーゼの声の特徴を引き出すために作曲された。第2幕第2景第13曲の「おいでなさい.....膝をついて”Venite inginocchiatevi"」の代わりのアリアであるとする説と、代替ではなく第3幕冒頭に挿入されたとする説がある。

クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581 
9月29日完成。モーツァルトの友人でフリーメイソンでもあったクラリネットの名手アントン・シュタードラー (Anton Stadler 1753-1812) のために書かれ、12月22日にブルク劇場で開かれたウィーン音楽芸術家協会の年金基金のための演奏会で初演された。「シュタードラー五重奏曲」の通称が用いられている。晩年の室内楽の最高傑作であり、管楽器と弦のための室内楽の頂点に立つ作品でもある。

舞曲(K.585-K.587)
12月には宮廷作曲家としての職務より、これら舞曲も作曲されている。


J.P.デュポールのメヌエットの主題によるクラヴィーアの        弦楽四重奏曲(第21番)ニ長調 K.575
ための9つの変奏曲 ニ長調 K.573                   「プロイセン王四重奏曲 第1番」
クララ・ハスキル Clara Haskil                      第一楽章 アレグレット
     
1956年ブザンソン(Besançon)リサイタル              グァルネリ弦楽四重奏団 Guarneri String Quartet


クラヴィーア・ソナタ(第17番/新全集第18番)ニ長調        クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581
K.576 第一楽章 アレグロ                       第二楽章 ラルゲット
イングリット・ヘブラー Ingrid Haebler                ザビーネ・マイヤー Sabine Meyer(クラリネット)
     
                                  ハーゲン弦楽四重奏団 Hagen Quartett


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whitered

こんにちは。いよいよ33歳ですね。王侯貴族の社会がだんだん衰退していく時期なのですね。モーツァルトにとっても、厳しい時代でしたね。コンスタンツェが療養地へ行くのにもお金がかかったでしょうに。王様や貴族が戦争に目が向いて、音楽どころではなかったのでしょうか。「クラリネット五重奏曲」がどこか物悲しい黄昏のイメージで響きますね。
by whitered (2010-10-21 09:15) 

mikoto

こんにちは、アマデウスさん
そろそろと夜の足音が近づいてきた感じですね。
しかしマリー・アントワネットの悲劇の時期と同じような頃
モーツアルトも苦境に立たされているのですね。
私が10歳の時初めて母に本をねだったのはアントワネットの物語でした。
子供の頃の出会いといいモーツアルトとアントワネットも
不思議な縁があるのでしょうか。
どの曲を聞いても物悲しく聞こえるのは解説を先に読んでいるから
だけではないような気もします。
by mikoto (2010-10-21 09:58) 

塩

何時もありがとうございます。
病室でのモーツァルトもなごまされます。
おかげでマイヤーの演奏久しぶりに聞くことかせでき、感慨ひとしおです。
by (2010-10-21 12:56) 

kontenten

ライプツィヒのトーマス教会に行った事があります。
今程音楽を聴く前で、特にグールドのバッハを聴く前でした^^;Aアセアセ
また、同じくシベリウスを聴く前にヘルシンキへも同じ旅行で行きました。
いやはや、今考えれば勿体ない事をしました(><)
by kontenten (2010-10-21 14:26) 

アマデウス

whiteredさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
モーツァルトの演奏会開催が激減した直接/間接的要因にはやはり戦争と内乱があげれると思います★ご指摘の通り、貴族は戦争や内乱のためウィーン不在がちとなり、音楽は一般大衆に移って行く時代でもありました★因にモーツァルトのオペラ・ブッファやジングシュピールは盛況で、一般大衆の好みはクラヴィーアの演奏会ではなかったということになりますね★尚、楽譜出版の方は順調であったので貴族など富裕層の家族は引き続きクラヴィーアを含む楽器演奏を自宅で楽しんでいたのでしょうね★
by アマデウス (2010-10-22 06:48) 

アマデウス

mikotoさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
33歳のモーツァルトの肖像画を見ると、この頃の楽曲の様に快活そうではあってもなにか哀しげな雰囲気を漂わせていますよね★クラリネット五重奏曲イ長調K.581もご指摘の通り、哀しいばかりに美しいですよね☆マリー・アントワネットとは子供の時の逸話以降はモーツァルトと直接関係はありませんが、ウィーン宮廷を通じての間接的なつながりということになるでしょうね★マリー・アントワネットは最後に幽閉されたタンプル塔で、モーツァルトの曲を好んで弾いていたという話もありますが、真偽のほどは定かではありません☆
by アマデウス (2010-10-22 07:16) 

アマデウス

Dr.塩!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
マイヤーの演奏で癒して頂いた様で大変嬉しいです☆
引き続き音楽で癒されながら頑張って頂きたいと思います☆

by アマデウス (2010-10-22 07:23) 

アマデウス

kontentenさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
J.S.バッハゆかりの聖トーマス教会やシベリウスの生誕地を訪問されているんですね☆シベリウスも確かベルリンに留学していますから聖トーマス教会は当然訪問しているでしょうね★素晴らしい旅行を思い出されながらバッハやシベリウスを聴いておられるのですね☆
♪~♪\(^ ^)/♪~♪
by アマデウス (2010-10-22 07:37) 

トラの父

Eschenbachの「クラヴィーア・ソナタ(第16番)変ロ長調 K.570」を聴かせていただきました.飾らない感じの演奏で,いいですね.

プロシア王室は先帝も含め音楽を愛好することで知られていたようでしたが,それだけにモーツアルトへのあしらいが冷たく感じられます.ヨーゼフ2世の健康も思わしくなくなったとすれば,いよいよ権力者の後ろ盾を失うことになるのでしょうか.
by トラの父 (2010-10-22 23:24) 

アマデウス

トラの父さん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
この北ドイツへの旅については各種憶測が存在しますが、卑見では次の通りです★
①プロイセン王には結局謁見出来なかった★
②プロイセン王が全幅の信頼をおいていた当時の宮廷楽長J.P.デュポールとモーツァルトの波長が合わず、デュポールが謁見のアレンジは不要として処理した★
③プロイセン王セットはモーツァルトが献呈しようと考え作曲し始めたが6曲(6曲を1セットとする)を完成することが出来ず、3曲で終わりこの3曲も結局出版社にわずかな金額で売り払われた★作曲依頼がプロイセン王からされていれば当然6曲作曲し、献辞と共に出版したはず。
************
ご指摘の通り、モーツァルトを贔屓にしてくれた皇帝ヨーゼフ2世は1790年2月20日崩御してしまいます(次回記事に取り上げる予定です)★
by アマデウス (2010-10-23 12:51) 

LittleMy

そろそろCosì fan tutteが、取り上げられるのでしょうか。

とても楽しみです。
by LittleMy (2010-10-25 08:22) 

バロックが好き

経済的困窮が、音楽にも影を落とすのでしょうか?
年齢的深みが音楽に出てくるのでしょうか?
底抜けに快活で明るい感じがあった、曲調が、
何だかこの頃から、なんだかもの悲しく感じます。
by バロックが好き (2010-10-25 11:01) 

アマデウス

LittleMyさん!こんにちは☆
いよいよ次回はCosì fan tutteです☆
ご期待に添えれば良いのだけど。。。頑張ってみます☆
コメントありがとうございます!
by アマデウス (2010-10-26 06:53) 

アマデウス

バロックが好きさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
ご指摘の通り、晩年のモーツァルトの曲調は当時のウィーン人の好む曲調(明朗快活)から年齢的深みにもより、晴朗且つ陰翳に富む曲想に変化してきたことも予約演奏会開催が出来なくなってきた一因だと思われます★当時のウィーン市民はオスマン帝国との戦争、この予算を確保する為の増税、インフレなどで苦しい時代でしたから、明るく、快活な曲調を欲していたと思われます★オペラ・ブッファ「フィガロの結婚」は再演され大好評を博しているわけですから、モーツァルトの音楽そのものが嫌われたというわけではありませんよね★

by アマデウス (2010-10-26 07:14) 

モッズパンツ

モーツァルトは相当経済的に苦しかったのか、可哀想になるくらい手紙に泣き言を書いておりますね。ちゃんと借りれたかな。w (^ω^)b
コンスタンツェを感染症の療養のために湯治に行っておりますが、この頃にはすでにヨーロッパでも湯治療法があったのですね。w
それにしてもコンスタンツェは11月に出産もあったわけで、モーツァルト夫妻はいろいろな面でちょっと大変でしたね。 (´∀`)ノ

(^ー^)ノシ

by モッズパンツ (2010-10-29 06:20) 

アマデウス

モッズパンツさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
モーツァルトの借金懇願の書簡はかなり誇張されて書かれているとの説もあります★穿った見方をすれば、フリーメイソンの特別資金(裏金)作りではなかったのか。。。との疑問も湧いてきますが、キャッシュ・フロー上の問題(出金に対する入金予定の狂い)は常にあった様です★ご指摘の通り、当時から湯治療法は盛んでした★コンスタンツェは60回(60日?)湯に入る様医師から勧められたとモーツァルトは友人(借金相手)のブフベルク宛書簡に記載しています★

by アマデウス (2010-10-29 07:36) 

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