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モーツァルト34歳・「コシ・ファン・トゥッテ」(ウィーン⑩1790年) [モーツァルト]

1790年が明け、モーツァルトは2幕のオペラ・ブッファ「コシ・ファン・トゥッテ”Così fan tutte”」(女はみんなこうしたもの)」の総譜作成の追い込みに入っている。このオペラは宮廷作詞家ロレンツォ・ダ・ポンテとのコンビでの第3作目にあたり、舞台はナポリである。

モーツァルトが今は亡き父レオポルトと共に初めてイタリアに旅行し、オペラの一大拠点であり風光明媚なナポリを訪れ、約1.5ヶ月の素晴らしいナポリ生活を堪能したのは、丁度20年前、14歳の時であった。

「コシ・ファン・トゥッテ」に登場する二人の姉妹フィオルディリージとドラベッラそして老哲学者ドン・アルフォンソがナポリ湾から遠ざかって行く姉妹の恋人二人の乗る船を見送りながら、航海の無事を祈って歌う美しいホ長調の三重唱「風が穏やかであれ“Soave sia il vento"」(後述)は、まさに14歳のモーツァルトが父レオポルトと二人でいつまでも眺めていたナポリ湾の微風と哀愁を感じさせるのである。
★弊記事「モーツァルトの第1回イタリア旅行(その1)」ご参照。

1月26日ブルク劇場「コシ・ファン・トゥッテ」が初演され、好評を博し、このオペラは2月11日までに5回上演されたのである。

2月20日、モーツァルトを積極的ではないにせよ常に支援してくれた皇帝ヨーゼフ2世が崩御し、喪に伏すためにオペラ上演は中止となった。皇帝はオスマン(トルコ)戦争で自ら戦地に赴いたことで体調を崩し、前年の1789年には病床にあったが、享年49歳で帰らぬ人となった。
★喪が明け再度「コシ」が舞台にかけられたのは6月6日のことであった。

3月13日ヨーゼフ2世の後継者として弟でトスカーナ大公のレオポルト2世フィレンツェからウィーンに到着した。これを機会にモーツァルトは次席宮廷楽長職を得るべく活動を始めているが、これは不調に終わった。
★レオポルト2世はヨーゼフ2世の色彩の強かった宮廷人事一新を開始し、モーツァルトの理解者だったヴァン・スヴィーテン男爵の宮廷教育委員会委員長の任を解いたりするのである。

レオポルト2世の神聖ローマ皇帝としての戴冠式は10月9日(土)フランクフルト・アム・マインにおいて挙行されることが決定した。帝国内にあってはハンガリーにおける農民の反乱の恒常化、及びオーストラリア領ネーデルランドでの反乱の勃発、帝国外にあってはフランス革命がはじまり、幽閉されているルイ16世の妃で妹のマリー・アントワネットの安否を気遣いながらの対フランス政策に関するプロイセン王国との同盟締結交渉、そしてオスマン帝国との戦争終結折衝など、ハプスブルク帝国が危機に瀕している中での戴冠であり、もともと音楽には関心の薄いレオポルト2世にしてみれば音楽どころではないといった状況でもあった。
★ネーデルランドはこの年、ベルギー合州国として独立を宣言したが、オーストリアはこれを制圧している。
★戴冠式を目前にしてオーストリアはオスマン帝国と休戦協定に調印した。その後、講和、1791年シトヴァ条約を締結して占領地をオスマン帝国に返還、ロシアへの支援を打ち切るとこをと約すことになる。

モーツァルトの経済的窮迫は深刻で、この年も1月から8月にかけてブフベルク宛に計9通の借金懇願の手紙が書かれている。コンスタンツェのバーデンの湯治費が出費を増大させ、モーツァルト自身の健康状態も優れず、持病のリューマチによる身体の痛みや歯痛、頭痛などで最悪の状況であった。8月14日のブフベルク宛の手紙に次の様に語るのである。
『。。。私の状態をご想像下さい。病気のうえに、悩みや心配事が山ほどあるのです。こんな状態では治る病気も治りません。いま現在、ほとほと困っています。少しで結構です。お助けいただくわけにはいきませんか。現在の私にとっては、どれだけでも救いとなるのです。。。』
モーツアァルトブフベルクには窮状をこまかく打ち明けているが、コンスタンツェには家計の窮迫を一切打ち明けずバーデンに湯治に行かせ、金策の苦労を一人で背負っているのである。

シカネーダーがウィーン郊外のフライハウス劇場(所謂ヴィーデン劇場)で9月11日に2幕のジングシュピール「賢者の石」を初演したが、モーツァルトは8月から9月にかけてこの作曲の一部に協力している(後述)

9月23日モーツァルトは義兄のホーファーと下僕ひとりをつれて自家用馬車でウィーンを発ち戴冠式の挙行されるフランクフルト・アム・マインに向かった。同日、レオポルト2世騎兵1,493人、歩兵1,336人、馬車104台という大規模編成でウィーンを出発している。この中に宮廷楽団楽長のサリエーリに率いられた宮廷楽団員総勢15名が含まれている。これら宮廷楽団員はマインツ選帝侯宮廷楽団に合流して、10月9日の戴冠式の奏楽を受け持つのである。宮廷作曲家の職責にある非常勤のモーツァルトはこの公式楽団員には含まれておらず、今回の旅は私費とせざるを得なかったが、それでもモーツァルトが今回の旅行を決断したのは、次の理由によるのである。
①ウィーンにおける音楽活動(特に演奏会)の低迷とそれに伴う減収をカバーすること。
②新しい神聖ローマ皇帝に対する自分自身の売り込み。

10月4日レオポルト2世一行がフランクフルトに到着し、10月9日盛大な神聖ローマ皇帝としての戴冠式が大聖堂で挙行された。ウィーン宮廷楽団の15名の選抜メンバーとマインツ選帝候宮廷楽団がヴィンチェンツォ・リギーニの『ミサ・ソレムニス』とサリエーリの『テ・デウム・ラウダムス』を高らかに演奏した。
ベートーヴェンはレオポルト2世の弟であるケルン大司教(選帝侯)マクシミリアン・フランツの命により『皇帝レオポルト2世の即位を祝うカンタータ(独唱、合唱と管弦楽)』WoO88を作曲しているが、実際に演奏されたかどうかは確認されていない。

10月12日フランクフルトで旧知のベーム一座モーツァルトのジングシュピール「後宮からの誘拐」K.384を上演している。このドイツ語オペラはドイツを中心にヨーロッパ各地で上演されており、モーツァルトの名声を高めているが、著作権のないこの時代にはこういったオペラの再演はモーツァルトには何の収入ももたらさなかった。

10月15日(金)フランクフルトの大劇場でモーツァルトのコンサートが午前11時開演された。
プログラムは2部から構成され、自作交響曲、自作自演の2曲のクラヴィーア協奏曲、2曲のアリア、クラヴィーアの即興演奏などが披露された(後述)。この日はあいにくさる貴族の大昼食会と軍隊の大演習があって聴衆が期待していた程は集まらなかったのである。モーツァルトは同日ウィーンで吉報を待つ妻コンスタンツェに前年のライプツィヒでの演奏会と殆ど同じ結果説明をしている。
『最愛のいとしい奥さん!
。。。きょう11時にぼくの演奏会があった。名誉にかんしては素晴らしかったけれど、報酬の点ではお粗末なものに終わった。。。』

この後、モーツァルトマインツミュンヘンで演奏を行ったが収入面では大した効果が上がらぬままウィーンへの帰途についた。24歳の時ミュンヘンで「イドメネオ」を上演後、ウィーン滞在中のザルツブルク大司教の命によりミュンヘンからザルツブルクを経由しない北方ルートでウィーンに直行したが、今回も同じルートで11月20日頃ウィーンに戻ったのである。
★留守中に引っ越しが行われており、新居はラウエンシュタイン通り970番地の2階であり、この借家がモーツァルトの最後の住まいとなるのである。

ウィーン英国の興行師からの招聘状を手にした。この招聘状はモーツァルトの留守中、10月26日付でロンドンの演奏会ホール『パンテオン』のロバート・プレイ・オライリー氏より出状されたもので、12月末より半年間ロンドンに滞在し2曲のオペラを作曲すれば300ポンドの報酬を支払うという申し入れであった。この招聘状に対するモーツァルトの反応及び対応内容は記録に残されていないが、非常にショート・ノーティスとなってしまったことより、この申し入れは断ったのであろう。
★ロンドンでもモーツァルトのウィーンで出版された作品の印刷譜がウィーンの出版社のロンドンの代理店を通じ、多数販売されており、英国でもモーツァルトの名声は高まっていた。

他方、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンもこの年の秋頃に、ヴァイオリン奏者で興行師のヨハン・ベーター・ザロモンから英国行きの誘いを受けていた。30年以上勤めたエステルハージ侯爵家の宮廷楽団が解散され、年金生活で自由の身となっていた59歳のハイドンは英語も話せないが「音楽が言葉」であるとして、英国行きを決断し、12月15日にウィーンをザロモンと共に出発したのである。前夜モーツァルトはハイドンと最後の夕食を共にしたが、モーツァルトは24歳年上のハイドンを非常に心配し、二人が涙ながらに別れたという逸話が伝えられている。
ハイドンは英国で成功し、1792年にウィーンに戻った時にはモーツァルトはもうこの世にいなかったのである。



Cosi_fan_tutte_-_first_performance.jpg
1790年1月26日ウィーンのブルク劇場での初演時のポスター
Cosi fan tutte, o sia La Scuola degli Amanti (コシ・ファン・トゥッテあるいは恋人たちの学校)


2幕のオペラ・ブッファ「コシ・ファン・トゥッテ”Così fan tutte”(女はみんなこうしたもの)」K.588

作詞者:ロレンツォ・ダ・ポンテ
あらすじ
哲学者ドン・アルフォンソ(B)は2人の若い士官グリエルモ(Br)とフェランド(T)に女性の貞節を信頼する愚について説明する。若い士官二人はそれぞれの恋人であるフィオルディリージ(S)とドラベッラ(Ms)姉妹に限って貞節を疑うなどとはとんでもないとして言い争いとなり、3人は賭けをする。士官たちは姉妹に対し、戦場への招集がかかったとしてナポリの港を出航して行くふりをする。その後2人はアルバニア人に変装し、姉妹をあの手この手で交互に誘惑する。姉のフィオルディージはアリア「岩の様に動ぜず」を歌い断固誘惑を拒絶する。
姉妹の女中で世辞にたけたデスピーナも哲学者に金貨で籠絡されアルバニア人の誘惑作戦に加担する(仕官が変装していることは知らされない)。姉妹には『女も15歳になれば男をあやつれる様にならねば』とそそのかす。だんだんその気になってきた姉妹はまず妹のドラベッラが姉の恋人グリエルモ扮するアルバニア人にくどきおとされる。姉のフィオルディリージは妹の恋人フェランド扮するアルバニア人に心を動かされる。姉妹の不実に怒り狂う青年士官2人を哲学者は第30曲アンダンテ「男はみんな女を責める。だが私は許す。”Tutti accusan le donne, ed io le scuso."」なぜなら”Così fan tutte”(女はみんなこうしたもの)」であるからと説得し、姉妹と結婚することを勧める。
他方、デスピーナがアルバニア人と姉妹は結婚することを決めたと伝える。姉妹とアルバニア人2人の結婚式が始まり、デスピーナが変装する公証人の前で結婚証書が作成される。すると遠くから軍隊の帰還を告げる合唱が聞こえてくる。アルバニア人2人は引き下がり変装を解いた上で士官姿で姉妹の前に現れ、結婚証明書を見つけ、これは何だ!と姉妹を責める。姉妹は死んで不実を詫びようとするが、哲学者ドン・アルフォンソが真相を語り、姉妹には愛の本質の勉強であったことを説明し、無事もとの鞘に収まる。

このオペラの登場人物は6名(男女各3名)であるが、声のアンサンブルが素晴らしく、全曲31曲中半分以上が二重唱から六重唱までのアンサンブルで構成されており、『アンサンブル・オペラ』と呼称される所以でもある。


序曲                               第6曲 別れの五重唱「僕は感じる。ああもう、この足は
ジョン・エリオット・ガーディナーJohn Eliot Gardiner           Sento, oh Dio, che questo piede
イギリス・バロック管弦楽団The English Baroque Soloists:
     

第6曲 別れの五重唱
ロッド・ギルフライ(Br)Rod Gilfry(グリエルモGuglielmo),ライナー・トロスト(T)Rainer Trost(フェルランドFerrando),クラウディオ・ニコライ (B)Claudio Nicolai(ドン・アルフォンソDon Alfonso), アマンダ・ルークロフト(S)Amanda Roocroft(フィオルディリージ Fiordiligi)、ローザ・マニヨン(S)Rosa Mannion(ドラベッラDorabella)
士官2名は許婚の姉妹に戦場への出征の別れを告げる。姉妹は嘆き悲しみ別れを惜しみ、いっそのこと命をあなたの手で絶って欲しいと嘆く。こんな辛い人生があるのだろうかと声をあわせる。



第10曲 小3重唱「風が穏やかであれ               第13曲六重唱「麗しのデスピネッタに
"Soave sia il vento"                       "Alla bella Despinetta"  
     

第10曲小3重唱「風が穏やかであれ
姉妹とドン・アルフォンソの3重唱(ナポリ湾から遠ざかって行く船を見送りながら):風が穏やかにあり、波が静かにあれと航海の無事を祈ってうたう。

第13曲六重唱「麗しのデスピネッタに」:
ドン・アルフォンソが姉妹の女中デスピネッタ(Eirian James)に二人のアルバニア人(士官の変装)を友人だと紹介する。デスピネッタは二人の格好に驚きながらも、愉快がる。そこに姉妹が現れ、アルバニア人は姉妹に愛を告白する。姉妹は驚き、呆れ、恋人の士官に心で貞節を誓う。


第14曲アリア「岩の様に動ぜず                   第17曲アリア「愛の息吹は
"Come scoglio immoto resta"                  "Un'aura amorosa"
     

第14曲アリア「岩の様に動ぜず
フィオルディリージ Fiordiligiのアリア(アマンダ・ルークロフトAmanda Roocroft)
ドン・アルフォンソの友人であるアルバニア人二人から愛の告白を受け、フィオルディリージは風や嵐にも岩が不動であるように常にこの心は不動であり、愛情をかえさせることが出来るのはただ死のみであり、無遠慮な行動は慎んで下さいと歌う。

第17曲アリア「愛の息吹はアルバニア人に変装している士官のフェルランド(ライナー・トロスト Rainer Trost)のアリア。
恋人が誘惑を断固として拒絶している姿に感動して歌うアリア:「僕たちの尊い宝の愛の息吹は心に甘い安らぎを与えてくれる。心は愛に満たされ、その他の糧などいらない。。。」

         ★☆★☆★     ☆★☆★☆     ★☆★☆★

シカネーダーがウィーン郊外のフライハウス劇場(所謂ヴィーデン劇場)で9月11日に2幕のジングシュピール「賢者の石"Der Stein der Weisen"」を初演したが、モーツァルトは8月から9月にかけて喜劇的二重唱「さあ、愛しい僕の奥さん、僕と行こう”Nun liebes Weibchen, ziehst mit mir”」K.625/592aを作曲している。このジングシュピールと1791年9月に完成する2幕のドイツ語オペラ「魔笛”Die Zauberflöte”」との関係(類似性)が興味深い。詳細は弊記事「猫とモーツァルト」ご参照。
★K.625/592aについて、モーツァルトは自作目録に記載していないことからオーケストレーション或は、曲の一部分を作曲しただけではないかとの説が存在している。

         ☆★☆★☆     ★☆★☆★     ☆★☆★☆

10月15日(金)フランクフルトの大劇場で午前11時開演されたモーツァルトのコンサートのプログラム内容は次の通りである。
第一部
①モーツァルト氏の新作大交響曲
★特定されていないが、第31番ニ長調「パリ」K.297/300a第33番変ロ長調K.319第35番ニ長調「ハフナー」K.385のいずれかと考えられている。前年1789年に作曲された三大交響曲である可能性は低い。
②アリア、シック夫人によって歌われる。
★特定されていないが、モーツァルトの作品ではないと考えられている。
③フォルテ・ピアノ用協奏曲、自作を楽長モーツァルト氏が演奏。
後に「戴冠式」と名づけられることになるクラヴィーア協奏曲(第26番)ニ長調(K.537)であるとされている。
④アリア、チェッカレッリ氏によって歌われる。
★カストラート歌手のチェッカレッリが1781年4月にウィーンでモーツァルトに書いてもらった「この胸に、さあ、いらっしゃって ー 天があなたを私に返して下さる今」(K.374)のロンドと考えられている。
第二部
①楽長モーツァルト氏自作の協奏曲
クラヴィーア協奏曲(第19番)ヘ長調(K.459) 「第二戴冠式」であるとされている。
②二重唱曲、シック夫人とチェッカレッリ氏によって歌われる。
★モーツァルトの作品ではないとされている。
③モーツァルト氏の即興による幻想曲。
④交響曲
第一部の交響曲の最終楽章であろうとされている。

         ★☆★☆★     ☆★☆★☆     ★☆★☆★

コシ・ファン・トゥッテが前年末には殆ど完成していたことを考えると、モーツァルトのこの年の作曲数は極端に少なく、上述の8月から9月にかけて作曲した喜劇的二重唱「さあ、愛しい僕の奥さん、僕と行こう”Nun liebes Weibchen, ziehst mit mir”」K.625/592a以外の完成した作品は次の通りである。
★前年と同様この年も予約演奏会は開催出来ずに終わっている。

弦楽四重奏曲(第22番)変ロ長調「プロイセン王セット第2番」K.589 及び弦楽四重奏曲(第23番)ヘ長調「プロイセン王セット第3番」 K.590
★前年1789年6月頃に完成したニ長調 K.576とあわせ1791年12月28日付で出版社アルターリアより出版されるのである(モーツァルトは同年12月5日昇天)。

G.F.ヘンデルの2つの作品の編曲(7月完成)
オラトリオ『アレクサンダーの饗宴』の編曲 K.591
『聖セシリアの祝日への讃歌』の編曲 K.592
★上記はいずれも音楽家の守護神である聖セシリアを称える頌歌である。尚、聖セシリアの祝日は11月22日。
★この編曲はヴァン・スヴィーテン男爵の依頼に応え『同好騎士協会」のために書かれた。

弦楽五重奏曲 ニ長調 K.593
12月作曲。ハンガリーの裕福な愛好家のために作曲された。晩年特有の曲想。

自動オルガンのためのアダージョとアレグロ ヘ短調 K.594
10月から12月にかけて作曲。1791年3月から8月にかけてウィーンのラウドン元帥の霊廟で鳴らされた葬送音楽であるとされている。ラウドン元帥はオスマン帝国との戦争における当時の国民的英雄であった。



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コメント 16

whitered

おはようございます。フランスだけでなく、ヨーロッパ全土が階級制度あるいは、不平等に対して目覚め始めた頃ですね。レオポルト2世は、音楽に不理解で残念です。そのころ著作権があれば、もう少しモーツァルトも延命したかもしれませんね。「コシ・ファン・トゥッテ」は、面白そうな筋書きですね。アリアも美しいです。また、全曲を聴いてみたいです。ありがとうございました。
by whitered (2010-10-28 09:26) 

mikoto

こんにちはアマデウスさん
音楽には関心の薄い新王と戦争、理解者解任と妻の治療、自身の体調不良と
モーツアルトにはいよいよ苦しい環境ですね;;
「女はみんなこうしたもの」のオペラ楽しいですね~
出来るなら劇場で最後まで観てみたいです^^
アントワネットが幽閉された所でモーツァルトの曲を好んで弾いていた
と言う話もあるのですねー大人になって買い直したアントワネットの本にも
その事は書かれていなかったので興味深いです☆
by mikoto (2010-10-28 10:26) 

pegasas

モーツアルトの苦境がもう始まったのですね。悪い事が何もかも
重なってきたのですね。可哀想な彼!その頃は著作権のようなものもなく
ハイドンも音楽で生計を立てるのは難しい時代だったのですね。
モーツアルトは天才だったから短い人生で沢山の曲を書いたと思ってましたが、食べていくために沢山の曲を書かざるを得なかったのでしょうか。
とても哀しい人生ですね~~


by pegasas (2010-10-28 17:10) 

塩

「コシ・・」何度か見たことを改めて思い出しています。
by (2010-10-28 19:50) 

アマデウス

whiteredさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます☆
「コシ・ファン・トゥッテ」は楽しめますよ☆
全曲お聴きになれる機会が早く来ると良いですね☆
当時著作権があれば、モーツァルトは優雅な生活が楽しめたでしょうね☆
by アマデウス (2010-10-29 06:23) 

モッズパンツ

モーツァルトの窮状は続くのですね。しかも、持病のリューマチなど体調も優れず、本当に可哀そうですねー。コンスタンツェには家計の窮迫を一切打ち明けずってところが男ですねー。w (^ω^)b
レオポルト2世が騎兵1,493人、歩兵1,336人、馬車104台という大規模編成でウィーンを出発しているとありますが、歩兵1,336人は往復とも全行程歩きっぱなしなのでしょうか?w (´・ω・`)ショボーン

(^ー^)ノシ
by モッズパンツ (2010-10-29 06:32) 

アマデウス

mikotoさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます☆
「コシ・ファン・トゥッテ」は楽しいオペラですよ☆
観劇の機会が早く来ると良いですね☆
アントワネットのウィーンでのクラヴサンの先生はグルックでしたね☆
幽閉され、ギロチンにかけられるまで音楽で癒されていた様ですね★
by アマデウス (2010-10-29 06:34) 

アマデウス

pegasasさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます☆
ブフベルク宛の書簡内容(窮状説明)は、かなり誇張して書かれているとの説もあります。モーツァルトは宮廷作曲家(非常勤)として年間800グルテン(フロリン)の定額収入があり、これにオペラ作曲報酬(450グルテン)や楽譜出版料、クラヴィーア教師報酬などが加わるとかなりな収入となり、ウィーンでは高額所得者であった様ですが、息子を年間400グルテンもする寄宿学校に入れたり、コンスタンツェを何度も湯治にバーデンに行かせたりで、蓄えもなく、入金予定が狂うと直ちに借金依頼に走るという状況であった様です。
by アマデウス (2010-10-29 06:53) 

アマデウス

モッズパンツさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
ウィーン-フランクフルト間の距離は約750Kmで、モーツァルトは馬車で6日間を要しています。皇帝一行は12日間と倍の日数を要していますので歩兵は全行程歩きっぱなしであったのではと思いますが。。。一日平均約63kmを歩くわけですよね(>□<)
by アマデウス (2010-10-29 07:08) 

アマデウス

Dr.塩!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
お元気そうなので喜んでおります☆
モーツァルトのオペラも何度もザルツブルクでお聴きになっており、
さすがモーツァルティアンですね!「コシ」は楽しいオペラですよね☆
by アマデウス (2010-10-29 07:15) 

トラの父

「コシ」の声楽アンサンブルを久しぶりに楽しませていただきました.
また何時か,LPを取り出してゆっくり聴いてみたくなりました.

現代に比べれば音楽家への保護の不十分な時代にも拘わらず,モーツアルトや彼の世代に前後する作曲家たちは,よくあれだけ後世に残る仕事をしたものだと記事を拝見して改めて思いました.

『プロイセン王セット』も出揃いましたね.私はそのどれもが好きですが,とりわけ「プロイセン王セット第2番」K.589を聴くと,昔の様々な事が思い出されるような気がします.
by トラの父 (2010-10-29 22:42) 

アマデウス

トラの父さん!こんにちは☆
コメントありがとうございます☆
「コシ」のLP版をお持ちとは恐れ入りました☆Gardiner盤やBöhm盤或はKarajan盤などいろいろありますね☆
「プロイセン王セット第2番」K.589には種々思い入れがある様ですね☆
by アマデウス (2010-10-30 08:18) 

LittleMy

久しぶりに、Così の楽譜引っ張り出してきてみました。

本当に、アンサンブルが素敵ですよね♪
by LittleMy (2010-10-30 11:57) 

モッズパンツ

一日平均約63kmを歩くのですね。相当早足ですよね。w (´・ω・`)ショボーン

        ,,,,,,
         ''';;';'
          ''';;';'';
            ''';;';'';';'
             ''';;';'';';'''
              ''';;';'';';''';;'';;;,.,
                ;;''';;';'';';';;;'';;'';;;
              ;;'';';';;'';;';'';';';;;'';;'';;;
           vymyvwymyvymy
        _ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘ_
       /__ヽ / ̄ヽ/__ヽ / ̄ヽ/__ヽ
      /__\   /__\  /__\
     ||´・ω・`|| /|´・ω・`|| /|´・ω・`||
     / ___ 、ヽ//  ̄ ⊂二 / ̄ ̄ ̄\ 二)
       / ___ \      /  ___  ヽ
    / |´・ω・`| \   /  |´・ω・`|  \ フランクフルト、マダー
   /     ̄ ̄ ̄   \ / _,    ̄⊂二二)  晩御飯マダー
   |  i ウィーン歩兵 ヽ、_ヽl | ウィーン歩兵|    おなか空いたー
  └二二⊃         l ∪  |          |
     |  ,、_,    ノ   |    ,、   |
     ヽ_二コ/   /     ヽ  / \  /
   _____/_/     __ヽノ____
by モッズパンツ (2010-10-30 23:25) 

アマデウス

LittleMyさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
アンサンブルの素晴らしさ更には音楽で表現される姉妹二人特にフィオルディリージの揺れ動く心など聴きどころが盛り沢山の最高に楽しいオペラですよね☆やはり楽譜をお持ちなのですね!嬉しいです☆ 
by アマデウス (2010-10-31 10:10) 

アマデウス

モッズパンツさん!こんにちは☆
大作のAAでの再コメントありがとうございます!
63Kmというのは現在のハイウェイ(750Km)をベースにした計算値なのですが、当時の街道だとウィーン/フランクフルト間の距離はもっと短くなるのかも知れませんね☆

by アマデウス (2010-10-31 10:16) 

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