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モーツァルト35歳前半・「皇帝ティートの慈悲」(ウィーン⑪1791年前半) [モーツァルト]

モーツァルトの永遠の旅立ちとなる1791年が明けた。

1789年のプロイセンへの旅そして1790年のフランクフルト・アム・マインへの旅で、「名誉にかんしては素晴らしかったが、報酬の点ではお粗末なものに終わった演奏会」を経験したモーツァルトは、1790年10月8日付でフランクフルトから妻コンスタンツェに宛てた手紙で次の様に語ったのである。「ウィーンで一生懸命に働き、弟子を取れば、ぼくらはけっこう幸せに暮らせる。そして、ぼくにこの計画をやめさせることが出来るのは、どこかの宮廷で、いい契約がある場合だけだ。

ロンドンへの招聘を受けずウィーンに留まった理由の一つは恐らくこのフランクフルトでの決意もあってのことであろう。ともあれ、モーツァルトは新年早々から猛烈な勢いで創作活動を始めた(後述)。まさに「疾走するモーツァルト」なのである。

1月5日クラヴィーア協奏曲(第27番)変ロ長調(K.595)を完成させた。モーツァルトの遺した最後のクラヴィーアのための協奏作品となるわけだが、3月4日宮廷料理官イグナーツ・ヤーンの運営する「ヤーン館」でクラリネット奏者ヨーゼフ・ペーアの演奏会が開催され、ここでモーツァルト自身により初演された。
★このコンサート出演がモーツァルトにとって、公開のものとしては最後の演奏となった。この演奏会にはアロイジア・ランゲ夫人も出演し、アリアを歌っている。

1月14日に三つのドイツ語歌曲(リート)を作曲し、宮廷作曲家としての公務である皇王室舞踏会場用に多数の舞曲もこの時期作曲している(後述)

この年前半、レーオポルト2世は、サリエーリのイタリア・オペラ指揮者の任を解いた。更に、ダ・ポンテや宮廷劇場総監督のローゼンベルク伯爵らの解任をも命じた。サリエーリは宮廷礼拝堂の宗教音楽指揮者を命じられ、オペラ作曲の機会は事実上失われてしまった。これらは緊縮財政政策の一環でもあり、又、ヨーゼフ2世色の一掃をも意図した措置である。
ダ・ポンテはウィーンを離れ、1792年から1805年までロンドンで過ごした。その後アメリカに渡り、フィラデルフィアを経てニューヨークに落ち着き、コロンビア大学の最初のイタリア文学教授に就任し、イタリア語およびイタリア文学の教育に献身するのである。

サリエーリは4月16日および17日にブルク劇場に於ける音楽家協会の慈善演奏会で、モーツァルトの交響曲第40番ト短調やコンサート・アリアなどを指揮しており、この頃のサリエーリは後年の噂話となるモーツァルトとの不仲説を一掃する行動をしているのである。

楽譜出版販売も順調に推移しており、1789年に作曲した6曲の舞曲(K.571)を初めとして多数の舞曲の筆写譜が出版商ホフマイスターより出版・販売された。又、多数の器楽曲の楽譜もアルターリアなどから出版されている。

前年1790年に友人且つフリーメイソンの同士であり、当時ヴィーデン劇場の支配人、興行師、台本作者、作曲家、俳優兼歌手として八方破りの活躍をしていたエマヌエル・シカネーダーに、ジングシュピール「賢者の石」の作曲で協力したが、そのシカネーダーより新しいジングシュピールの作曲依頼が3月頃持ち込まれた。この新しいジングシュピールこそがモーツァルトの最後のドイツ語オペラとなる「魔笛”Die Zauberflöte”」である。台本はシカネーダーが書き下ろし、モーツァルトは春頃より作曲に取りかかった。

皇王室首都兼君主居城都市ウィーン市参事会は5月9日付訓令書によりモーツァルトを「聖シュテファン司教座大聖堂における現職楽長レオポルト・ホーフマン氏の無給の補佐に任命すると同時に現職楽長職が不在となる場合はその代理を務め、空席となる場合には市参事会が決定する俸給その他の条件を受けること」という訓令を発した。要するに病弱の現楽長の不在時代行(無給)ではあるが、空席となった場合にはその後任とするという訓令である。
★楽長の報酬は2,000グルテンであったとされている。モーツァルトは病弱の楽長より先に昇天したので念願の楽長にはなれなかったのである。

コンスタンツェをこの年も6月から7月にかけて湯治療法のため、ウィーンから南方へ馬車で3時間(徒歩で5時間)程の距離にある温泉保養地バーデンに行かせており、モーツァルト自身も物理的余裕のある限り同地を訪問しているのである。バーデンではコンスタンツェの借家(貸間)探しや、息子のカール・トーマス(当時7歳)のことなどで同地の学校教師で合唱指導者(教区教会の聖歌隊指揮者)のアントーン・シュトル(Anton Stoll 1747-1805)に非常に世話になっていた。このシュトルに感謝の気持ちを込めてモテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(K.618)を6月17日バーデンで作曲・贈呈したのである。
★このモテットはシュトルがバーデンの教区教会の典礼で演奏するためのものであったと思われるが、果たしてモーツァルトが初演時バーデンの教会でオルガン演奏をしたのかどうかは定かではない。

7月前半はシカネーダーが「魔笛」作曲のために用意したあずまや(いわゆる「魔笛小屋」)で作曲に集中し、魔笛の第一幕の総譜作りと第2幕の作曲を進めていた頃、モーツァルトにオペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲」の作曲の仕事がプラハから舞い込んできた。

ヨーゼフ2世崩御のあとを継いだ弟のレオポルト2世は前年1790年10月9日フランクフルト・アム・マインで神聖ローマ皇帝としての戴冠式を行ったが、ボヘミア王としての戴冠式を首都プラハに於いてとり行なう必要があった。戴冠式はこの年1791年9月6日、プラハの大聖堂ヴィートゥス教会で挙行されることになった。この祝典用のオペラ・セリアの作曲依頼なのである。1ヶ月程の期間で仕上げる必要がありモーツァルトは直ちに作曲に取りかかった。

7月中旬モーツァルトバーデンに赴いて、コンスタンツェと息子(当時7歳)カール・トーマスウィーンに連れて帰って来た。そして同月26日モーツァルト夫妻にとって最後の子供となる、第6子(四男)のフランツ・クサヴァー・ヴォルフガングが誕生した。
★カール・トーマス(1784年9月21日 ウィーン - †1858年10月31日 ミラノ)フランツ・クサヴァー・ヴォルフガング・モーツァルト(Franz Xaver Wolfgang Mozart, 1791年7月26日 - 1844年7月29日)

この頃、匿名を希望する依頼者の代理人の訪問を受け死者の安息を神に願うミサ曲「レクイエム」の作曲の依頼を受けた。高額の報酬と前渡金の提示があったこと、更にはモーツァルト自身としても子供の時から作曲をしてきた宗教(典礼)曲分野への新たな門出にしたいとの気持もあったのであろう、「レクイエム」の作曲を引き受けたのである。

8月28日モーツァルトは妻のコンスタンツェそして弟子のジュスマイヤーと共にオペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲」の演奏指導と上演のためプラハに到着した。
★ウィーン出発は8月25日以前であろうと思われる。

8月29にはレオポルト2世が、そして翌日マリア・ルイーゼ妃プラハに到着した。宮廷から派遣された選抜楽団員7名(その後20名に増員)を率いているのは楽長のサリエーリである。

9月2日には祝祭公演の一環として「ドン・ジョヴァンニ」が恐らくモーツァルト自身の指揮でプラハのノスティツ劇場(現在のエステート劇場=スタヴォフスケ劇場)で上演された。

9月6日大聖堂ヴィートゥス教会レオポルト2世のボヘミア王としての戴冠式が挙行された。その夜、ノスティツ劇場において、モーツァルト自身の指揮により、「皇帝ティートの慈悲」の幕が開けられたのである。

★初演の評判は意見が別れているが、プラハでは9月末まで再演され喝采を博した。モーツァルトの死後、コンスタンツェはこのオペラをウィーンで初演することを企画し、1794年12月29日にケルントナートーア劇場で上演した。ウィーンでの上演は成功を収め、コンスタンツェは1795年から1796年までドイツ各地でこのオペラを上演するのである。

このプラハ旅行でモーツァルトは200ドゥカーテン(900グルテン)というオペラ2曲分に相当する報酬を得て、コンスタンツェと共に9月8日頃プラハを出発しウィーンへの帰路についたのである。
★ウィーンに到着したのは9月12日頃であった。

政治面では神聖ローマ皇帝レオポルト2世はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と共同で、8月27日にピルニッツ宣言を発した。フランス革命により秘密裏に国外脱出しようとした国王ルイ16世一家が見破られ捕らえられるという6月25日の事件(所謂ヴァレンヌ事件)を知ったレオポルト2世は、妹マリー・アントワネット一家(すなわちルイ16世家族)の身を案じ、アルトワ伯(ルイ16世の弟、後のシャルル10世)の仲介により、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世とピルニッツ城(現在のドレスデン市内に所在)で会見し、必要があればフランス革命に干渉する用意があることを共同で宣言した。
★この宣言は後のフランス革命戦争への号砲となったのである。


Family of  Leopoldo.jpg
神聖ローマ皇帝レオポルト2世の家族
両親(女帝マリア・テレジアとフランツ1世)と同じく16人の子供に恵まれた。
この絵は1776年トスカーナ大公の時代に描かれた。

モーツァルト(当時13歳)は第1回イタリア旅行で1770年3月30日フィレンツェを訪れ、トスカーナ大公であったレオポルト大公に御前演奏をしている。又、17歳の時第3回イタリア(ミラノ)旅行(1772年10月24日ザルツブルク発、1773年3月13日帰郷)を行った。この旅行の目的はミラノの謝肉祭用のオペラ「ルーチョ・シッラ」の作曲と上演であった。このオペラの上演が成功後、父レオポルトはフィレンツェのレオポルト大公(トスカーナ大公)にミラノから書面でモーツァルトのフィレンツェでの宮廷音楽家としての採用を請願しているが、不成功に終わったとの経緯がある。


この年前半の主たる創作活動は次の通りである。

クラヴィーア協奏曲(第27番)変ロ長調 K.595
1月5日作曲。新年を迎え、モーツァルトのウィーンでの新たな出発の決意を飾るに相応しい新鮮な響きと風格を伴っており、まさに「天国への門」が開かれたのである。

リート「春への憧れ」"Sehnsucht nach dem Frühling" ヘ長調 K.596
作詞者:クリスティアン・アドルフ・オーヴァーベック Christian Adolf Overbeck
1月14日作曲。この日まとめて3曲のドイツ語歌曲を作曲している。この曲は春を待ち望む子供の心を歌ったものである。「愛しい5月、木々を緑にして小川のほとりにスミレを咲かせておくれ。。。早く緑の季節が来ないかな。スミレとナイチンゲールとカッコーを連れて来ておくれ。」
その他の2曲とは春が来た喜びを歌う「春 Der Frühling」変ホ長調 K.597と素晴らしい春を満喫して遊び帰宅する子供たちの姿を歌う「子供の遊び Das Kinderspiel 」イ長調K.598である。

3つのドイツ舞曲 K.605
2月12日作曲。1月23日から3月にかけて多数の舞曲が作曲されている(K.599-K.607&K.611)が、このドイツ舞曲の第3番はモーツァルトの舞曲中の最も有名な楽曲の一つであり、「橇すべり"Die Schlittenfahrt"」という標題がつけられている。鈴と郵便馬車のホルンを使い、雪の多いウィーンの人々の冬の楽しみであった「ソリすべり」の雰囲気が醸し出されている。

自動オルガンのためのアレグロとアンダンテ(幻想曲)ヘ短調 K.608
3月3日完成。1791年3月から8月にかけてウィーンの国民的英雄ラウドン元帥霊廟で鳴らされた葬送音楽のひとつであろうとされている。この他5月4日にも「自動オルガンのためのアンダンテ ヘ長調」K.616を作曲している。いずれの曲もクラヴィーア用楽譜が出版され親しまれている。 

⑤ B.シャックの「愚かな庭師」のリート「女ほど素敵なものはない」の主題によるクラヴィーアのための8つの変奏曲 ヘ長調 K.613
3月完成。1789年9月にウィーンで上演されたジングシュピール「愚かな庭師”Der dumme Gärtner"」(脚本:エマヌエル・シカネーダー)の第2幕で愚かな庭師アントンのアリアの主題に基づいている。この旋律は当時非常に良く知られていた。

弦楽五重奏曲 変ホ長調 K.614
4月12日完成。モーツァルトは前年暮にロンドンに旅立ったハイドンを思い浮かべながら作曲したのかも知れない。ハイドンへのオマージュを認めたい作品である。

グラス・ハーモニカのためのアダージョとロンド ハ短調 K.617
5月23日完成。楽器後構成:グラス・ハーモニカ、フルート、オーボエ、ヴァイオリン、チェロ グラス・ハーモニカは1760頃、イギリス滞在中のベンジャミン・フランクリンによって考案された。 この作品は幼くして盲目となったこの楽器の名手マリアンネ・キルヒゲスナー(Maria Anna Antonia [Marianne]Kirchgassner)のために書かれ6月10日ウィーンのブルク劇場での彼女の演奏会で初演された。モーツァルトはキルヒゲスナーのためにアダージョ ハ長調 K.356(617a)も作曲している。この作品はウィーンのケルントナートーア劇場で8月19日に開かれた彼女の演奏会で初演されている。

「アヴェ・ヴェルム・コルプス "Ave verum corpus"(めでたし、まことのお体よ)」ニ長調 K.618
6月17日妻コンスタンツェが湯治療法をしているバーデンにて作曲。世にも美しいこのモテットを聴く時、26年前の1765年、9歳のモーツァルトが、ロンドン滞在中に初めての声楽曲の試みとして最初のモテット「神はわれらの避け所”God is our refuge"」を書き、大英帝国博物館に寄贈したこと、そして、その8年後の1773年1月16日にオペラ「ルッチョ・シッラ」のタイトル・ロールを歌ったカストラート歌手ヴェナンツィオ・ラウッツィーニのために書いたモテット「エクスルターテ・ユビラーテ(踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ)」(K.165/158a)の中で特に名高い終曲の「アレルヤ」が思い出されるのである。


クラヴィーア協奏曲(第27番)変ロ長調 K.595              リート「春への憧れ」ヘ長調 K.596      
第三楽章 アレグロ                           "Sehnsucht nach dem Fruhlinge"
アリシア・デ・ラローチャAlicia de Larrocha(P)               リタ・シュトライヒ Rita Streich   
     
スイス・イタリアーナ管弦楽団Orchestra della Svizzera Italiana          1964年録音盤     
ニコラス・カーシーNicholas Carthy(指揮)

                        
3つのドイツ舞曲 K.605より第3番                 アヴェ・ヴェルム・コルプス」ニ長調、K.618
「橇すべり"Die Schlittenfahrt"」ハ長調(トリオ ヘ長調)
     

★「アヴェ・ヴェルム・コルプス」ニ長調、K.618
バイ エルン放送交響楽団及び合唱団 Chor und Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
レナード・バーンスタイン Leonard Bernstein
Ave verum corpus natum de Maria Virgine. めでたし、乙女マリアより生まれ給いしまことのお体よ。
★注:モーツァルトは最初のAveを2度繰り返すことにより楽節のバランスを良くしている。
Vere passum immolatum in cruce pro homine: 人々のため犠牲となりて十字架上でまことの苦しみを受け、
cujus latus perforatum fluxit aqua et sanguine. 貫かれたその脇腹から血と水を流し給いし方よ。
Esto nobis praegustatum mortis in examine. 我らの臨終の試練をあらかじめ知らせ給え。
★注:モーツァルトは"mortis in examine"を"in mortis examine"と順序を入れ替えることにより旋律と和音とを調和させている。
O Iesu dulcis, 優しきイエスよ。
O Iesu pie, 慈悲深きイエスよ。
O Iesu Fili Mariae. Amen. マリアの子イエスよ。アーメン。

         ☆★☆★☆     ★☆★☆★     ☆★☆★☆

2幕のオペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲”La clemenza di Tito"」K.621:
ローマ帝国の皇帝(在位:79年 - 81年)ティトゥスの美徳を題材にしたオペラ・セリアである。

作詞者
ピエトロ・メタスタージョの原作をカテリーノ・マッツォーラ(Caterino Mazzola 1740-1806)が編作(3幕を2幕に短縮)。

初演時の配役表
*ローマ皇帝ティート :(テノール)アントニオ・バリオーニ
*ヴィッテリア:(先帝ヴィッテリオの娘。ソプラノ)マリア・マルケッティ・ファントッツィ
*セスト :(ティートの友人でヴィッテリアを愛している。カストラート・ソプラノ。但しソプラノ、ズボン役という説あり):ドメニコ・ペディーニ(カロリーナ・ベリーニ?)
*アンニオ :(セストの友人でセルヴィリアの恋人、ソプラノ、ズボン役。但し、カストラート・ソプラノであったとする説あり。)カロリーナ・ペリー二(ドメニコ・ベディーニ?)
セルヴィーリア :(セストの妹でアンニオの恋人、ソプラノ)アントニーニ夫人
プブリオ :(近衛隊長官、バス)ガエタノ・カンビ
(現在ではセストとアンニオはメゾソプラノ歌手によって歌われる。)

あらすじ
先帝の娘、ヴィッテリアは、皇帝ティートの后になることを欲しているが、皇帝はユダヤの王女ベレニーチェを愛していることに怒りと嫉妬を感じていた。そのベレニーチェが国外に追放され、后への道が近づいたとの希望を抱いたが、皇帝はヴィッテリアを愛しているセストの妹セルヴィリアを后候補に指名したことを知り、憎しみから、セストの気持ちを利用して暗殺を促す。
他方、后に指名されたセルヴィリアはアンニオを密かに愛しており、真実の気持ちを皇帝に打ち明けて、指名を辞退する。自らの不明を恥じた皇帝は、ヴィテッリアを后とすることを決めたと伝えられる。
しかし、すでに皇帝暗殺を実行すべく宮殿に火が放たれていた。皇帝は無事であった。セストは暗殺計画に加担したとして、逮捕され引き立てられる。皇帝により死刑が宣告される直前、ヴィッテリアは、皇帝にすべてを告白する。一度は裏切りに失望した皇帝も慈悲をもってすべてを許し、人々は皇帝を讃えて終曲となる。
                                  第6曲皇帝ティートのアリア
                                   「最も崇高な王座ということが
序曲                                "Del piu sublime soglio"
     

序曲:指揮アンドリューデイビスAndrew Davisロンドン・フィルハーモニー管弦楽団The London Philharmonic @The Glyndebourne Festival Opera

★第6曲「最も崇高な王座ということが」:
フィリップ・ラングリッジ Philip Langridge(テノール)。 最も崇高な王座ということが慰めなのだ。あとはつかぬまの幸せにあまんじて国への奉仕に徹する。崇高な王座とはそういうものなのだ。。。


第7曲「ああ,初めての愛情に免じて許して下さい        第9曲 セストのアリア「私は行こう、だが愛しい人よ
アンニオ、セルヴィーリアの二重唱                  "Parto, ma tu, ben mio"       
"Ah, Perdona al primo affetto"
     

★第7曲「ああ,初めての愛情に免じて許して下さい」:
マルティン・マエMartine Mahé(アンニオ)、 エルツビエタ・スミトカ Elizbieta Szmytka(セルヴィーリア) :
アンニオ:ああ、はじめての愛に免じて許して下さい。私の軽率な言葉を。。。
セルヴィーリア:あなたは私の最初で最後の愛しい人。。。

★第9曲 セストのアリア「私はいこう、だが愛しい人よ
ダイアナ・モンターギュDiana Montague(セスト)
私はまいりましょう。心の平安が戻るように。あなたに喜ばれるため、あなたの望み通りのことをしましょう。神が与えられたあなたの美しいまなざしがわたしにすべてをなさしめるのです。わたしを見つめて下さい。


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whitered

おはようございます。いよいよ最後の年がやってきましたね。レオポルト2世の祝典用となると、やはりモーツァルトの才能が必要となるのですね。「アヴェ・ヴェルム・コルプス」は、息子の先生にお礼に贈呈した曲とのこと。親が子どもを慈しむ心のあらわれか、大変美しく荘厳な曲ですね。「魔笛」の初演は、この後になるのでしょうか。いろいろ教えていただき、ありがとうございました。
by whitered (2010-11-04 09:42) 

mikoto

こんにちは、アマデウスさん
いよいよ人生の幕引きも近い頃、まだまだモーツァルトは
精力的に活動していますね。
もっと長く生きたら、どんな素敵な曲が残されたかと思うと残念です。
最後のクラヴィーア協奏曲美しいですね~
「春への憧れ」は5月生まれの私にとってうれしい曲です^^
by mikoto (2010-11-04 09:51) 

LittleMy

「ティート」結構好きです。
因みに、セストを勉強しました。
by LittleMy (2010-11-04 17:26) 

トラの父

いよいよケッヒェル番号も残り少なくなりましたが,この最晩年の作品はどれも透明な上澄みのような曲ばかりですね.
「アダージョとロンド ハ短調 K.617」のグラス・ハーモニカの演奏風景を,uploadしていただいた動画で始めて拝見しました.

「自動オルガンのためのアレグロとアンダンテ(幻想曲)ヘ短調 K.608」からは,他の大作にもひけをとらないスケールを感じます.


by トラの父 (2010-11-04 22:20) 

アマデウス

whiteredさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
レオポルト2世の戴冠式祝典用オペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲」の作曲はプラハからまずサリエーリに依頼がありましたが、サリエーリが多忙を理由にこれを断ったので、モーツァルトに持ち込まれたとされています★モーツァルトは1ヶ月程の短期間で作曲したのです☆
魔笛の初演はこの後ウィーンで9月30日になります☆
by アマデウス (2010-11-05 06:21) 

アマデウス

mikotoさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
5月の誕生石は確かエメラルドでしたよね☆
リート「春への憧れ」はエメラルド・グリーンに輝く5月を待っている子供の気持ちが良く現れていますよね☆春を待つモーツァルトの気持ちでもあるのでしょうね☆
by アマデウス (2010-11-05 06:28) 

アマデウス

LittleMyさん!こんにちは☆
素晴らしい!セストを勉強されたのですね☆さすが!!
第2幕でのセストのアリア"Deh, per questo istante solo"など印象的なアリアや重唱曲が多々ありますよね☆
コメントありがとうございます☆
by アマデウス (2010-11-05 06:50) 

アマデウス

トラの父さん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
ご指摘の通り、クラヴィーア協奏曲(第27番)変ロ長調 K.595をはじめとして純粋で清澄な作品ばかりですよね☆グラス・ハーモニカは当時ドイツ語圏を中心として「天上の音色」ということで相当流行った様ですが機能面での欠点が多いらしく、1760年頃に考案されてから70年程ですたれてしまいましたね☆
by アマデウス (2010-11-05 07:08) 

モッズパンツ

病弱の現楽長の不在時代行(無給)および、空席時の後任、というシステムは、ウィーン市にとっては何か無駄のない良いシステムのようではありますが、現楽長とモーツァルトにとっては、いろいろな面で何だか複雑な気分にさせるシステムですね。w (´∀`)ノ

(^ー^)ノシ
by モッズパンツ (2010-11-10 22:34) 

アマデウス

モッズパンツさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
現楽長(レオポルト・ホーフマン)は結局健康を回復し、1年以上モーツァルトより長生きしています。この市参事会による5月9日付訓令書の前にモーツァルトより市参事会に申請書が提出されており(4月28日受理)、「楽長がさらに生きながらえることを心から望んでいるので、この年老いた楽長の一時的にせよ無給の助手に任命されることは大聖堂にとっても参事会にとっても有益であろうと考えます。。。」という内容が記載されており(参事会側の書記が書いてモーツァルトが署名したものと思われる)、参事会としてはこれで本件はバランスがとれているとの判断があったものと思われます☆

by アマデウス (2010-11-11 06:41) 

pegasas

「皇帝テイートの慈悲」はあらすじも優しいし音楽も
素晴らしいですね。リート「春への憧れ」は何か
懐かしい音楽ですね。昔良く聴いた気がします。
by pegasas (2010-11-15 21:32) 

アマデウス

pegasasさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
「春への憧れ」は日本では“五月の歌”の名で、小学唱歌として次の歌詞で広く親しまれていたそうです☆
楽しや五月 お草萌えて 小川の岸に すみれ匂う
やさしき花を 愛でつ行けば 心も軽し そぞろ歩き

by アマデウス (2010-11-16 06:01) 

costume clothing

I just like the approach you took with this subject. It isn’t every day that you discover something so concise and enlightening.
by costume clothing (2011-03-30 13:11) 

e-g-g

思いがけずK.595を聴かせていただきました。
カサドシュ/セル盤を良く聴きますが、
大好きなアリシア・デ・ラローチャも外せません。
by e-g-g (2011-07-14 19:43) 

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