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ドン・ジョヴァンニ(その3@オペラの歴史) [オペラ]

オペラの初期の時代から「ドン・ジョヴァンニ」を含むモーツアルトのオペラの時代まで、
即ち誕生から18世紀末までのオペラの歴史を点描します。

オペラのルーツは古代ギリシャ文化の中の悲劇という形式をとった演劇に見出される。
ギリシャ悲劇の音楽というのは残存していないがアリストテレスは、音楽は悲劇を形成する重要な
見せ場を提示したと記述している。

最初のオペラは1598年フィレンツェ(イタリア)で作曲された「ダフネ」”Dafne"であるとされている。
「ダフネ」は古代ギリシャのダフネ神話を扱った作品でヤコポ・ペーリによって作曲され、コルシ宮で
上演された。

☆ダフネ神話:ニンフ、ダフネはアポロンに愛されて逃げおおせず,父に助けを求めたところ木〈月桂樹〉に変えられる。
☆ヤコポ・ペーリ:Jacopo Peri(1561年8月20日 - 1633年8月12日)イタリア・ルネサンス末期からバロック初期に
かけて活躍した音楽家。
☆コルシ宮はフィレンツェの裕福な貴族ヤコポ・コルシの宮殿(現在イタリア信用銀行Credito Italianoが入居)。
後述するバルディ伯爵が1592年ローマに転出した為、コルシはその後を受け音楽の支援を行った。

作曲の経緯は、16世紀末のフィレンツェ(トスカーナ大公国)で、ジョバンニ・デ・バルディ伯爵の後援を
得て、古代ギリシャの演劇を復興しようというカメラータ”Camerata"と呼ばれる研究サークルが出来、
想像で捉えるほかはなかったが、ギリシャ悲劇を模範として、歌うようなセリフを用いる劇が
考えられ「ダフネ」が作曲されたのである。

☆カメラータとは「同志」を意味するイタリア語
☆「ダフネ」の音楽は失われているが、劇の部分は残存している。

現存する最初のオペラ作品は、同じくペーリの作品である「エウリディーチェ」”Euridice”であり、
1600年に作曲されている。このオペラはトスカーナ大公の出身家であるメディチ家の令嬢マリアと
フランス国王アンリ4世との結婚祝賀の為に作曲、メディチ家のピッティ宮で上演された。

☆当時のトスカーナ大公はフェルディナンド1世(在位:1588年 - 1609年)。トスカーナ大公国の前身はフィレンツェ共和国で
1569年、メディチ家が支配する世襲制のトスカーナ公国となった。地中海貿易の衰退と共にメディチ家も衰退し、
1737年トスカーナ大公国はハプスブルグ家に継承された。

オペラ「エウリディーチェ」の聴衆の中にマントヴァ公国のゴンザーガ公の随員として当時すでに
マドリガーレの作曲家として名声を博していたモンテヴェルディがいた。

☆マドリガーレ:Madrigale 詩節が無くリフレインも無い自由詩を用い、テキストの抑揚に併せてメロディーが
作られる多声楽曲。
☆クラウディオ・ジョヴァンニ・アントニオ・モンテヴェルディ:Claudio Giovanni Antonio Monteverdi, 1567年5月15日洗礼 -
1643年11月29日、クレモナ(イタリア)生まれの作曲家、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者、歌手。マントヴァ公の宮廷楽長、
ヴェネツィアのサン・マルコ寺院の楽長を歴任し、ヴェネツィアでの音楽のもっとも華やかな一時代を作り上げた。
現存するオペラには「オルフェオ」の他「ウリッセ(ユリシーズ)の帰郷」(1641年)と「ポッペアの戴冠」(1642年)がある。

1607年モンテヴェルディは音楽性、劇性を高めたオペラ「オルフェオ」”L'Orfeo"を作曲、マントヴァにて
初演した。これは謝肉祭の祝祭としてマントヴァ公の命を受けての作曲であった。このオペラにより
モンテヴェルディはオペラの真の創始者との評価を得るのである。

☆アリア「アリアンナの嘆き」” Lamento d´Arianna” しか残存していないオペラ「アリアンナ」は翌年1608年5月29日上演された。

これに先立つ1585年には北イタリアのヴィチェンツァ Vichenzaに建築家アンドレア・パッラーディオの
最後の作品となる「オリンピコ劇場」が開場している。この劇場は現存する最古の劇場である。

☆ アンドレーア・パッラーディオ:Andrea Palladio, 1508年11月3日 - 1580年8月19日。イタリア・パドヴァ生まれの建築家。
本名はアンドレーア・ディ・ピエトロ・デッラ・ゴンドラ(Andrea di Pietro della Gondola)。
☆1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名により天正遣欧少年使節がローマに派遣され1590年に帰国したが
使節団は1585年、開場したばかりの「オリンピコ劇場」に立ち寄っている。

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現存する世界最古の劇場「オリンピコ劇場」内部@ヴィチェンツァ、イタリア


ローマではヴェネツィアでオペラを学んだランディが登場しオペラ普及に寄与した。
17世紀から18世紀初頭までローマでは女性が舞台に立つことを禁令と定めていたこともあり
カストラート(去勢歌手)が音域も広く迫力もあることよりオペラ・セリア(正歌劇)には欠かせない
存在となった。

☆ステファノ・ランディ:Stefano Landi 1587-1639 ローマ生まれの作曲家。代表作「聖アレッシオ」"Il sant'Alessio(1632年)

オペラはイタリア全土に急速に普及し1637年ヴェネツィアには最初の一般聴衆向けの劇場である
「サン・カッシアーノ劇場」が設立され、これまでは宮廷、聖職者、貴族の招待によっていたオペラは、
入場料を出せば誰でも入れる大衆オペラへと変化して行ったのである。

ヴェネツィアのオペラ劇場で成功を収めた作曲家にチェスティがおり彼は1649年から1669年にかけて
100曲以上のオペラを作曲し、1667年にはウィーン宮廷の為に「黄金の林檎」を作曲した(後述)

☆ ピエトロ・アントニオ・チェスティ:Pietro Antonio Cesti, 1623年8月5日 - 1669年10月14日オペラ作曲家。
フィレンツェに生まれる。1660年にローマ教皇庁に地位を得、1666年にウィーン宮廷副楽長に就任し、 1669年に
同地で没した。

オペラはフィレンツェを起点としてローマ、マントヴァ、ヴェネツィアとまたたくうちにイタリア各地に伝播し、
17世紀ではヴェネツィアがオペラ都市となっていたが、18世紀になるとナポリが台頭してくるのである。
ナポリは有名なカストラート(去勢歌手)や優れた歌手達を産みだした多数の音楽学校の発祥地と
なるのである。

ナポリ楽派の創設者としてアレッサンドロ・スカルラティがあげられるが、スカルラティはオペラ・セリア
(正歌劇)を確立し、オペラはベルカントの黄金時代に入るのである。

☆アレッサンドロ・スカルラッティ:Alessandro Scarlatti, 1660年5月2日 - 1725年10月24日)作曲家。特にオペラと
カンタータで著名。
☆ベル・カント:Bel canto=美しい歌唱法。広義にはイタリア・オペラの歌唱法

オペラ・セリアは神話、宗教、人間の本質といった厳粛な題材によるオペラであり、聴衆が大いに笑える
笑劇を幕間に挿入することが考え出された。これを「幕合い劇」インテルメッゾintermezzoと呼び、
オペラの一般大衆化とも相まってオペラ・ブッファ(喜劇オペラ)の発展へと繋がって行くのである。

☆幕合い劇で有名なのはペルゴレージの「奥様女中」"La Serva Padrona"がある。これは同じくペルゴレージが作曲した
オペラ・セリア「誇り高き囚人」の幕合い劇なのである。(Giovanni Battista Pergolesi, 1710年1月4日-1736年3月17日)

フランスではリュリ(ルッリ)が「太陽王」ルイ14世の知遇を得て、フランス語で歌われ、ルイ14世の
好みであったバレエも取り入れ、独立したフランスオペラの伝統を創始した。この伝統は
18世紀前半にはラモーに受け継がれ豊かに発展した。

☆ジャン=バティスト・リュリ:Jean-Baptiste [de] Lully, 1632年11月28日 - 1687年3月22日フィレンツェ生まれ。
ルイ14世の宮廷楽長および寵臣として、フランス貴族社会で権勢をほしいままにした。元々はジョヴァンニ・バッティスタ・ルッリ
(Giovanni Battista Lulli)という名のイタリア人だったが、1661年にフランス国籍を取得した。代表作 「アルセスト、または
アルシードの勝利」 ” Alceste ou le Triomphe d'Alcide” (1674年)、ベレロフォン Bellérophon (1679年)など。
☆ジャン=フィリップ・ラモー:Jean-Philippe Rameau, 1683年9月25日-1764年9月12日。数々の歌劇でヴォルテールと
共作し、「ナバラの姫君」”La Princesse de Navarre”により「フランス王室作曲家」の称号を獲得した。

ロンドンではドイツ生まれでイタリアでも学んだヘンデルがコロラトゥーラを駆使したアリアを盛り込みながら
35曲のオペラを作曲し、カストラート歌手達は思う存分その技量を発揮したのであった。

☆ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル:Georg Friedrich Händel 1685年2月23日 - 1759年4月14日は、ドイツ生まれで
イギリスに帰化した作曲家。オペラ・セリア「リナルド」(1711年)や「オットーネ」(1723年)、「セルセ」(1738年)などを作曲。
☆コロラトゥーラ:ソプラノ限定で技巧的で華やかに装飾された旋律。具体的にはトリル(顫動音)が多用される。

ウィーンではチェスティのオペラ「黄金の林檎」が1667年上演され、オペラへの関心が急激に高まったのである。

☆ オペラ 「黄金の林檎」:”Il pomo d'oro"ギリシャ神話。ハプスブルグ家のレオポルト1世(神聖ローマ皇帝、
オーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王)とスペイン王フェリペ4世のマルガリータ・テレサ王女の婚礼祝賀
式典の為、1667年開場した「コルティナ宮廷劇場」にて上演された。5幕66場からなり上演に二晩かけられた。

ハプスブルグ家はオペラの庇護に乗り出し、宮廷自前のオペラ・カンパニーを持った。
宮廷自前の音楽家の中にグルックサリエーリが見出されるのである。グルックは1767年「オルフェオと
エウリディーチェ」を作曲したのである。

☆クリストフ・ヴィリバルト・グルック:Christoph Willibald (von) Gluck, 1714年7月2日 - 1787年11月15日バイエルン公国
(現在のドイツ南部にある地域)生まれ。オーストリアとフランスで活躍した作曲家。オペラの他バレエ音楽や器楽曲も手懸けた。
1754年よりウィーン宮廷楽長
☆アントニオ・サリエリ:Antonio Salieri、1750年8月18日 - 1825年5月7日イタリアのレニャーゴ生まれの作曲家。
1766年にウィーンの宮廷へ招かれ、それ以後ウィーンにとどまり、1788年には宮廷楽長に任命され、亡くなる直前の
1824年までその地位にあった。「セミラーミデ」(オペラ・セリア、初演1782年)や「はじめに音楽、次に言葉」
(オペラ・ブッファ,初演1786年)など合計43曲のオペラを作曲した。

この様なオペラの流れの中、モーツアルトが登場し、オペラ・セリアとオペラ・ブッファを
作品を通じ集大成すると共に、更に一般大衆のドイツ語による歌芝居であった「ジングシュビール」を
「後宮よりの誘拐」と「魔笛」を通じて芸術の域に高め、ウェーバーで確立されるドイツ国民オペラの
礎を築くという偉業を残すのである。

☆ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト:Wolfgang Amadeus Mozart, 1756年1月27日 - 1791年12月5日
オーストリアの都市であるザルツブルクに生まれ、35歳でウィーンで没した。
オペラの代表的作品:オペラ・セリア=「イドメネオ」「ティト帝の慈悲」、オペラ・ブッファ=「フィガロの結婚」
「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」
☆カール・マリア・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ヴェーバー Carl Maria Friedrich Ernst von Weber,
ドイツ生まれ1786年11月18日-1826年6月5日、ロマン派初期の作曲家、指揮者、ピアニスト。モーツァルトの妻
コンスタンツェは父方の従姉にあたる。代表作:「魔弾の射手」J.277, 1821年初演。

ドン・ジョヴァンニ」はオペラ誕生から約190年後の作品として、今から222年前の
1787年10月29日ハプスブルグ君主国の都市プラハ(当時ボヘミアの首都)の
スタヴォフスケ劇場にて初演され大成功を収めるのである。

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「ドン・ジョヴァンニ」が初演されたプラハのスタヴォフスケ劇場                   プラハの中心を流れるヴルタヴァ川


☆前回記事「ドン・ジョヴァンニ」(その2)よりの続き☆

レポレッロがアリア「カタログの歌」””Madamina, el catalogo è questo"を歌い終わり、
ドン・ジョヴァンニの冷たい仕打ちに対し怒りに燃えるドンナ・アンナを残して立ち去る。

今度は若い農民の花嫁(ツェルリーナ)と花婿(マゼット)を中心にして賑やかにお祝いをしている
農民の一団を見かける。

ツェルリーナが気に入ったドン・ジョヴァンニは全員を彼のお城に招待する。ツェルリーナは自分が
案内するから先に城に向かへとマゼットに命じる。剣に手を当てての命令にマゼットはしぶしぶ
応じレポレッロと共に城に向かう。

一人残ったツェルリーナをドン・ジョヴァンニは早速誘惑にかかり、二人の小二重唱(デュエティーノ)が
はじまる。ドン・ジョバンニは別荘のあるところを示し「あそこで手を取り合おう、運命を変えてやろう」
と甘く、やさしく歌う。

当初は、はじらい抵抗していたツェルリーナだが、その気持ちが変化して行く。曲のテンポは
アンダンテからアレグロに。最後は手に手をとって別荘に向かわんとする。

ツェルリーナの感情の変化をモーツアルトの音楽が見事に表現します。
聴きましょう。。。

ドン・ジョヴァンニ Don Giovanni:サムエル・レイミー Samuel Ramey
ツェルリーナ Zerlina:キャスリーン・バトル Kathleen Battle
ウィーン・フィルハーモニー楽団:Wiener Philharmoniker
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン:Herbert von Karajan



DON GIOVANNI:.......................................ドン・ジョヴァンニ

Quel casinetto è mio: soli saremo..............あの別荘はわたしのだ、ふたりきりになろう、
e là, gioiello mio, ci sposeremo..................そしてあそこで、わたしの宝石よ、結婚するとしよう。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
      (Duettino)................................................(小二重唱)

DON GIOVANNI.............................................ドン・ジョヴァンニ

Là ci darem la mano,................................あそこで我らは手を取り合おう
Là mi dirai di sì.........................................あそこでおまえは「いいわ」というのだ。
Vedi, non è lontano;..................................ごらん、遠くはないのだ、
Partiam, ben mio, da qui............................行こう、いとしのひとよ、ここを離れて。

ZERLINA:......................................................ツェルリーナ
(Vorrei e non vorrei,...................................(そうしたくもあり、でもしたくもなし、
Mi trema un poco il cor..............................心臓が少し震えるわ。
Felice, è ver, sarei,...................................あたしは幸せになる、ほんと、もしかしたら、
Ma può burlarmi ancor.) ...........................けど、もてあそばれるってこともあるし。)

DON GIOVANNI:............................................ドン・ジョヴァンニ
Vieni, mio bel diletto!................................おいで、わたしの可愛い愛する人よ!

ZERLINA:......................................................ツェルリーナ
(Mi fa pietà Masetto.)................................(マゼットが可哀相だわ。)

DON GIOVANNI:............................................ドン・ジョヴァンニ
Io cangierò tua sorte..................................わたしがおまえの運命、変えてやろう。

ZERLINA:......................................................ツェルリーナ
Presto... non son più forte..........................もうすぐ、これ以上,頑張れないわ。

DON GIOVANNI:............................................ドン・ジョヴァンニ
Andiam!....................................................行こう!

ZERLINA:......................................................ツェルリーナ
Andiam!...................................................行きましょう!

A 2:..............................................................二人で
Andiam, andiam, mio bene.......................行こう、行きましょう、愛しのひと、
a ristorar le pene......................................苦しみを和らげるために、
D'un innocente amor. ..............................罪のない清らかな愛の。

             ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ツェルリーナを誘惑出来たと思った途端、ドンナ・エルヴィラが通りかかり、こんな男の誘惑に
応じてはいけない、、、とツェルリーナを説得する。

ドン・ジョヴァンニはドンナ・エルヴィラとツェルリーナそれぞれに異なる弁解をするが、
結局ドンナ・エルヴィラはツェルリーナをつれて立ち去る。

ドン・ジョヴァンニは嘆く。。。「今日はどうも魔王がお楽しみらしい。邪魔をされて、
                   何もかもまずい成り行きだ。」

"Mi par ch'oggi il demonio si diverta
D'opporsi a miei piacevoli progressi;
Vanno mal tutti quanti."

             ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ドン・ジョヴァンニのこの独り言により刺殺した騎士長の娘ドンナ・アンナには目的を達することが
出来なかったということがわかります。ドンナ・アンナと目的を達したかどうかという議論も行われて
おり、達したとする解釈(演出)とそうとは取らない解釈(演出)の2種類があるのです。

ドン・ジョヴァンニは女性を暴行してでもその望みを果たすという性格ではなく、
愛に到達するまでの過程を楽しむという音楽的性格描写もあるのです。

但し、ドン・ジョヴァンニは愛に到達すればあとはあっさり捨て去るという性格描写で、
この点は源氏物語の光源氏とは大いに異なる点ではありますね。



関連記事
ドン・ジョヴァンニ(その1)
ドン・ジョヴァンニ(その2)
ドン・ジョヴァンニ(その4)
モーツァルト31歳・父レオポルトの死と「ドン・ジョヴァンニ」(ウィーン⑦1787年)



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塩

ドン・ショヴァンニの細かいご解説などご苦労さまです。
カラヤン、バトル の映像も懐かしく拝見させていただきました。
by (2009-10-16 11:12) 

kontenten

カラヤンのドンジョバンニ・・・アマゾンで確認するのを忘れていました(w)
早速、検索してみます(^^)。
by kontenten (2009-10-16 18:35) 

whitered

こんばんは。オペラのルーツを詳しく書いていただきありがとうございました。ギリシャ悲劇から、発していたのですね。ヴィチェンツィアのオリンピコ劇場もギリシャ(あるいはローマ)風ですね。オルフェオとエウリディーチェはギリシャ神話に出てくる「オルフェとエウリディケ」で、典型的な悲劇ですね。それが、くり返し違う作曲家によって再現されているのですね。190年後に笑劇として、「ドン・ジョバンニ」が作曲されるまで、長い変遷を遂げていますね。ドン・ジョバンニと光源氏の違い、よく分かりました。(笑)その頃の女性の立場の違いが別れた後のサポートのありなしに関係するのでしょうか。
by whitered (2009-10-16 21:22) 

アマデウス

Dr.塩!こんにちは~☆
映像もご覧頂いてのコメントありがとうございます!

by アマデウス (2009-10-17 06:03) 

アマデウス

kontentenさん!こんにちは~☆
先般は弊「犬ブログ」へのナイスありがとうございました!
アマゾンで確認出来れば良いのですが。。。
コメントありがとうございます☆
by アマデウス (2009-10-17 06:08) 

アマデウス

whiteredさん!こんにちは~☆
拙い記事を隈なくお読み頂いた様で恐縮です。
ドン・ジョバンニの正式タイトルは”Il dissoluto punito, ossia il Don Giovanni”(罰せられた放蕩者またはドン・ジョヴァンニ)ということで最後は地獄落ちするのがそのストーリーですね。他方光源氏の方は仏道に沿いながらの長編恋愛物語ということで。。。多数の愛人家族まで面倒をみた光源氏は「極楽浄土」行きということになるのでしょうね。。。
by アマデウス (2009-10-17 06:22) 

みど

complimenti...


私はzerlinaはすっごくずるい女だと思ってどうしても好きになれないのです。でも、この時代のこういう女たちってみんなこうやって生きてたのかもしれませんね!読めば読むほどおもしろくなるモーツアルト。やっぱり最高ですね!!
by みど (2009-10-17 09:17) 

アマデウス

みどさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
inocente & sinceraなみどさんらしいですが、当時の身分制度から見れば農民の娘(zerlina)がその身分を飛び越えて貴族と結婚出来るのは夢のまた夢、”credi alla forza dei tuoi sogni e loro diventeranno realtà”と言うわけには行きません。。。ドン・ジョヴァンニの甘い言葉と結婚をちらつかされては気持ちが揺らぐのはやむなしとご理解頂いてzerlina好きになって歌って下さいね~☆
by アマデウス (2009-10-17 12:16) 

nekotaro

いつものように、興味深く読ませて頂きました!!
オペラのファンならば、
現存しないと言われるダフネに
いろんな想いを描くんでしょうね(^o^)。
どんな雰囲気だったんでしょう・・・・・
ファンでなくとも、興味津々です!!
by nekotaro (2009-10-17 17:02) 

アマデウス

nekotaroさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
☆紀元前5世紀の古代ギリシャ黄金期の悲劇の力強さをとりもどすべく崇高な韻文の言葉を通してドラマを創出しようとする試みが「ダフネ」なのです。
☆詩文がはっきり聞き取れる様に多声音楽ではなく、モノディによる朗読調のリズムで詩文が歌われた由です(歌う朗読)。「ダフネ」は初演1598年とその後2回(1599年と1600年)上演されただけの様です。
by アマデウス (2009-10-18 07:27) 

LittleMy

「天正遣欧少年使節」をテーマにした邦人オペラに出たことがあるのを、思い出しました!

確かに、光源氏とはぜんぜん違いますね。
by LittleMy (2009-10-20 11:58) 

ヒデキヨ

Opus=オペラ…とも考えますよね

ところで
イタリアのオペラの発展と普及は 楽譜の発展と統一の歴史でしたね
4本から5本へ…

オペラの歴史が果たした役割は大きいですね
by ヒデキヨ (2009-10-22 19:41) 

アマデウス

LittleMyさん!こんにちは~☆
素晴らしいご経験ですね!和製オペラの題材として「天正遣欧少年使節」はピッタリじゃないかと思います。使節団は帰国後豊臣秀吉にローマで学んだJosquin des Presの「千々の悲しみ」”Mille regretz"を持ち帰った楽器(ヴィオラ・ダ・ガンバ等)を使って演奏したそうですね。その4年程前にバテレン追放令を出した秀吉はどんな気持ちで聴いたのでしょうね☆

by アマデウス (2009-10-23 07:38) 

アマデウス

ヒデキヨさん!こんにちは~☆
価値あるコメントで拙い記事を補足頂きありがとうございます!
☆ラテン語のOpus(作品・仕事)からイタリア語のOperaとなり当初はOpera
Musicale(音楽作品)と呼ばれていた様ですね。
☆イタリアで5線譜に落ち着き世界に広まったのは17世紀に入ってからのことなのですね。

by アマデウス (2009-10-23 07:46) 

pegasas

モーツアルとのファンである私が、初めてアマデウスさんの名前を見付けた時は、とても嬉しくなりました。でも、オペラの事はあまり知らないので、このドン・ジャバン二の詳しい文章読ませて頂いてとても勉強になりました。
有難うございました。
by pegasas (2009-10-26 15:04) 

アマデウス

pegasasさん!こんにちは~☆
こちらこそ嬉しいコメントありがとうございます。
モーツアルトがお好きなことわかり嬉しいです。
これからも宜しくお願い致します☆
by アマデウス (2009-10-30 06:14) 

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