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モーツァルト35歳後半「魔笛」と「レクイエム」(ウィーン⑫1791年後半) [モーツァルト]

9月12日頃にコンスタンツェと共にプラハからウィーンに戻ったモーツァルトには「魔笛」の作曲の完成と上演、更には「レクイエム」の作曲という仕事が待っていた。

モーツァルトは最後となった今回のプラハでのレオポルト2世戴冠式祝典用オペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲」K.621演奏指導の旅を含め35歳の生涯で大小あわせ17回、延べ約10年2ヶ月に渡る旅行をしたことになる。1762年5歳でのミュンヘン旅行に始まり実に生涯の約3分の1は旅行をしていたことになる。

9月28日「魔笛"Die Zauberflöte"(K. 620)第二幕第一場冒頭の「祭司たちの行進 "Marsch der Priester"」と、全曲が完成してから序曲を書くというモーツァルトの習慣からこの日に魔笛の序曲が完成し、これをもって魔笛全曲が完成した。その他の大部分の曲はプラハに出発する前に完成させていたので、シカネーダー一座の試演は行われていた。

9月30日、2幕のドイツ語オペラ「魔笛」がウィーン城壁外の郊外市のひとつヴィーデンにあるフライハウス劇場(ヴィーデン劇場)でモーツァルト自身の指揮により初演された。初演時の人気はそれほどではなかった様ではあるが回を重ねるごとにその人気・評判は高まり、モーツァルトの音楽はウィーンの大衆の心を捉えたのである。この上演の成功を通じ、モーツァルトはオペラ作曲家としてのこれからの方向性を見い出したに違いない。プラハ旅行より帰国後10月初めにコンスタンツェを、末子のフランツ・クサヴァーと義妹のゾーフィーと共に温泉保養地バーデンに湯治に出しているが、コンスタンツェに魔笛の評判を手紙で嬉しげに語るのである(後述)

更にモーツァルトは、レオポルト2世のプラハに於ける9月6日の戴冠式の祝典として同日夜初演され、その後継続上演されていた「皇帝ティートの慈悲」に言及し次の通り語るのである。
実に奇妙なことだが、ぼくのオペラ(注:「魔笛」を指す)あんなにも熱い拍手で迎えられた初演の晩、その同じ晩に、プラハでは「ティート」が異常な喝采を受けて最後の幕を降ろした。どの曲もそろって拍手を浴びたのだ。(1791年10月7日付書簡)

10月14日、モーツァルトはバーデンコンスタンツェに手紙で次の様に語っている。この手紙が現存するモーツァルトの最後の手紙なのである。

6時にぼくは、馬車でサリエーリとカヴァリエーリ夫人を迎えに行って、桟敷席に案内した。それから急いでホーファのところに、その間待たせていたママ(注:コンスタンツェの母親)とカール(注:息子のカール・トーマス)を迎えにいった。サリエーリたちがどんなに愛想がよかったか、きみには想像もつかないだろう。二人とも、ただぼくの音楽だけではなく台本も何もかもひっくるめていかに気に入ってくれたことか。かれらは口をそろえて言っていた。「これこそオペラ(オペローネ)だ。最大の祝祭で、最高の王侯君主を前に上演されて恥ずかしくないものだ。(中略)彼は序曲から最後の合唱まで、実に注意深く、観たり、聴いたりしていたが、「ブラヴォー」とか「ベッロ(美しい)」とか、およそ感嘆の言葉を吐かなかった曲はなかった。」
★サリエーリとカヴァリエーリ夫人:宮廷楽長のアントニオ・サリエーリとソプラノ歌手でサリエーリの愛人のカタリーナ・カヴァリエーリ

オペラにつれていったので、カールは大いに喜んだ。彼は元気そうだ。(中略)カールは悪くはなっていないが、以前より髪の毛一本たりとも良くはなっていない。(中略)彼が自分で白状したところによると、午前中5時間、昼食後5時間、庭のなかをほっつきまわっているだけ。要するにまあ子供なんて、食って、飲んで、寝て、ぶらつくことしかしないもんだ。
★モーツァルトはこの手紙の前日13日カール・トーマス(当時7歳)をペルヒトルツドルフにある寄宿の教育施設に迎えに行きウィーンに連れて来ている。この手紙の末尾には明日15日(土)にカールを連れてバーデンに行くのでゆっくり話そうと書かれている。
★実際、モーツァルトは15日にカールを連れてバーデンに赴き、翌々日ウィーンに連れて帰っている。

レクイエム」の作曲はこの頃行われていたわけだが、依頼人の名前は依然として伏せられたままであった。
★この依頼人は後になって音楽愛好家貴族フランツ・フォン・ヴァルゼック=シュトゥバッハ伯爵であったことが判明する。同伯爵は匿名で名高い作曲家に作曲を委嘱し、それを自ら写譜して演奏させ、自分の作曲であると言わせるのを趣味としていた。モーツァルト没後ジュースマイヤーの補筆を含めた完成版(ジュースマイヤー筆の総譜)がコンスタンツェ経由伯爵の手に渡り、伯爵は当初の意図通り、1793年12月14日ノイクロスター教会に於いて捧げられた、若くして逝った愛妻アンナの追悼ミサで、伯爵自身の作曲であるとして伯爵の指揮により演奏されたのである。

バーデンより戻った10月17日頃よりモーツァルトは体調を崩し、主治医であるクロセット博士の検診と治療を受けているが、恐らく瀉血療法が開始されたものと思われる。
★瀉血療法:今日の医学では考えられないが、悪い血を抜き、造血作用を促すためにかなり大量の血液を抜くという治療法で当時はごく普通に行われる治療であった。モーツァルトの病名や死因についてはリューマチ性炎症熱や腎臓疾患など多種多様である。サリエーリやフリーメイソンによる毒殺説もあるが証拠があるわけでもなく、これらは「噂話」に過ぎないが、瀉血療法が、パリで亡くなった母親の時と同様致命的になったと思われる。尚、聖シュテファン大聖堂の死者名簿では検視結果は急性栗粒疹熱となっており、病名自体に疑問がある為、さまざまな推定や憶測或は論争が行われる原因となっている。

小康状態にあった11月18日にモーツァルトフリーメイソン結社の新会堂の献堂式に列席し、3日前の15日に完成したフリーメイソン小カンタータ「われらが喜びを高らかに告げよ"Laut verkünde unsre Freude"」K.623をモーツァルト自身の指揮で初演した(後述)
★ヨーゼフ2世が1785年12月に発布した「フリーメイソン勅令」によりロッジは1787年後半以降は「新・戴冠した希望」だけになっていた。皇帝レオポルト2世はフリーメイソン弾圧政策をとったことによりウィーンのフリーメイソンは次第にその活動を停止して行くのである。

モーツァルトは11月20日病状が悪化し病床についた。
それでも弟子のフランツ・クサヴァー・ジュスマイヤー(1766-1803)に手伝わせながら、レクイエム Requiem 二短調(K.626)の作曲を続け、第3曲セクエンツィアSequenz(続唱)の第6部ラクリモサLacrimosa(涙の日)二短調の第8小節で中断、12月4日の夜医師のクロセット博士がよばれ、高熱を発している頭を冷やしたところショック症状をおこし、昏睡状態となり、夫人のコンスタンツェとその妹のゾフィー、クロセット博士に看取られ1791年12月5日月曜日午前0時55分ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは35年と10ヶ月余りの短い生涯をウィーンで閉じ、永遠の旅に出たのである。

おまえが平々凡々たる音楽家として世間から忘れられてしまうか、それとも有名な楽長として、後世の人たちにまでも書物のなかで読んでもらえるようになるか。。。ひたすらおまえの理性と生き方にかかっているのです。
(ザルツブルクの父レオポルトよりマンハイムのモーツァルト宛1778年2月12日付書簡)

ぼくは断言しますが、旅をしないひとは(少なくとも芸術や学問にたずさわるひとたちでは) まったく哀れな人間です!。。。優れた才能のひとは(ぼく自身それを認めなければ、神を冒瀆するものです)いつも同じ場所にいれば、だめになります。
ザルツブルクの父宛 パリ、1778年9月11日付書簡 ) 

死は(厳密に言えば)ぼくらの人生の真の最終目標ですから、ぼくはこの数年来、この人間の真の最上の友とすっかり慣れ親しんでしまいました。その結果、死の姿はいつのまにかぼくには少しも恐ろしくなくなったばかりか、大いに心を安め、慰めてくれるものとなりました!そして、死こそぼくらの真の幸福の鍵だと知る機会を与えてくれたことを(ぼくの言う意味はお分かりですね)神に感謝しています。
(ウィーンのモーツァルトから病床に伏した父レオポルト宛ての1787年4月4日付書簡)


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パパゲーノの扮装をしたシカネーダー         友人たちと「レクイエム」の完成部分を試奏するモーツァルト
初演時販売された台本に付された銅版画(1791年)     

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モーツァルト35歳前半・「皇帝ティートの慈悲」(ウィーン⑪1791年前半) [モーツァルト]

モーツァルトの永遠の旅立ちとなる1791年が明けた。

1789年のプロイセンへの旅そして1790年のフランクフルト・アム・マインへの旅で、「名誉にかんしては素晴らしかったが、報酬の点ではお粗末なものに終わった演奏会」を経験したモーツァルトは、1790年10月8日付でフランクフルトから妻コンスタンツェに宛てた手紙で次の様に語ったのである。「ウィーンで一生懸命に働き、弟子を取れば、ぼくらはけっこう幸せに暮らせる。そして、ぼくにこの計画をやめさせることが出来るのは、どこかの宮廷で、いい契約がある場合だけだ。

ロンドンへの招聘を受けずウィーンに留まった理由の一つは恐らくこのフランクフルトでの決意もあってのことであろう。ともあれ、モーツァルトは新年早々から猛烈な勢いで創作活動を始めた(後述)。まさに「疾走するモーツァルト」なのである。

1月5日クラヴィーア協奏曲(第27番)変ロ長調(K.595)を完成させた。モーツァルトの遺した最後のクラヴィーアのための協奏作品となるわけだが、3月4日宮廷料理官イグナーツ・ヤーンの運営する「ヤーン館」でクラリネット奏者ヨーゼフ・ペーアの演奏会が開催され、ここでモーツァルト自身により初演された。
★このコンサート出演がモーツァルトにとって、公開のものとしては最後の演奏となった。この演奏会にはアロイジア・ランゲ夫人も出演し、アリアを歌っている。

1月14日に三つのドイツ語歌曲(リート)を作曲し、宮廷作曲家としての公務である皇王室舞踏会場用に多数の舞曲もこの時期作曲している(後述)

この年前半、レーオポルト2世は、サリエーリのイタリア・オペラ指揮者の任を解いた。更に、ダ・ポンテや宮廷劇場総監督のローゼンベルク伯爵らの解任をも命じた。サリエーリは宮廷礼拝堂の宗教音楽指揮者を命じられ、オペラ作曲の機会は事実上失われてしまった。これらは緊縮財政政策の一環でもあり、又、ヨーゼフ2世色の一掃をも意図した措置である。
ダ・ポンテはウィーンを離れ、1792年から1805年までロンドンで過ごした。その後アメリカに渡り、フィラデルフィアを経てニューヨークに落ち着き、コロンビア大学の最初のイタリア文学教授に就任し、イタリア語およびイタリア文学の教育に献身するのである。

サリエーリは4月16日および17日にブルク劇場に於ける音楽家協会の慈善演奏会で、モーツァルトの交響曲第40番ト短調やコンサート・アリアなどを指揮しており、この頃のサリエーリは後年の噂話となるモーツァルトとの不仲説を一掃する行動をしているのである。

楽譜出版販売も順調に推移しており、1789年に作曲した6曲の舞曲(K.571)を初めとして多数の舞曲の筆写譜が出版商ホフマイスターより出版・販売された。又、多数の器楽曲の楽譜もアルターリアなどから出版されている。

前年1790年に友人且つフリーメイソンの同士であり、当時ヴィーデン劇場の支配人、興行師、台本作者、作曲家、俳優兼歌手として八方破りの活躍をしていたエマヌエル・シカネーダーに、ジングシュピール「賢者の石」の作曲で協力したが、そのシカネーダーより新しいジングシュピールの作曲依頼が3月頃持ち込まれた。この新しいジングシュピールこそがモーツァルトの最後のドイツ語オペラとなる「魔笛”Die Zauberflöte”」である。台本はシカネーダーが書き下ろし、モーツァルトは春頃より作曲に取りかかった。

皇王室首都兼君主居城都市ウィーン市参事会は5月9日付訓令書によりモーツァルトを「聖シュテファン司教座大聖堂における現職楽長レオポルト・ホーフマン氏の無給の補佐に任命すると同時に現職楽長職が不在となる場合はその代理を務め、空席となる場合には市参事会が決定する俸給その他の条件を受けること」という訓令を発した。要するに病弱の現楽長の不在時代行(無給)ではあるが、空席となった場合にはその後任とするという訓令である。
★楽長の報酬は2,000グルテンであったとされている。モーツァルトは病弱の楽長より先に昇天したので念願の楽長にはなれなかったのである。

コンスタンツェをこの年も6月から7月にかけて湯治療法のため、ウィーンから南方へ馬車で3時間(徒歩で5時間)程の距離にある温泉保養地バーデンに行かせており、モーツァルト自身も物理的余裕のある限り同地を訪問しているのである。バーデンではコンスタンツェの借家(貸間)探しや、息子のカール・トーマス(当時7歳)のことなどで同地の学校教師で合唱指導者(教区教会の聖歌隊指揮者)のアントーン・シュトル(Anton Stoll 1747-1805)に非常に世話になっていた。このシュトルに感謝の気持ちを込めてモテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(K.618)を6月17日バーデンで作曲・贈呈したのである。
★このモテットはシュトルがバーデンの教区教会の典礼で演奏するためのものであったと思われるが、果たしてモーツァルトが初演時バーデンの教会でオルガン演奏をしたのかどうかは定かではない。

7月前半はシカネーダーが「魔笛」作曲のために用意したあずまや(いわゆる「魔笛小屋」)で作曲に集中し、魔笛の第一幕の総譜作りと第2幕の作曲を進めていた頃、モーツァルトにオペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲」の作曲の仕事がプラハから舞い込んできた。

ヨーゼフ2世崩御のあとを継いだ弟のレオポルト2世は前年1790年10月9日フランクフルト・アム・マインで神聖ローマ皇帝としての戴冠式を行ったが、ボヘミア王としての戴冠式を首都プラハに於いてとり行なう必要があった。戴冠式はこの年1791年9月6日、プラハの大聖堂ヴィートゥス教会で挙行されることになった。この祝典用のオペラ・セリアの作曲依頼なのである。1ヶ月程の期間で仕上げる必要がありモーツァルトは直ちに作曲に取りかかった。

7月中旬モーツァルトバーデンに赴いて、コンスタンツェと息子(当時7歳)カール・トーマスウィーンに連れて帰って来た。そして同月26日モーツァルト夫妻にとって最後の子供となる、第6子(四男)のフランツ・クサヴァー・ヴォルフガングが誕生した。
★カール・トーマス(1784年9月21日 ウィーン - †1858年10月31日 ミラノ)フランツ・クサヴァー・ヴォルフガング・モーツァルト(Franz Xaver Wolfgang Mozart, 1791年7月26日 - 1844年7月29日)

この頃、匿名を希望する依頼者の代理人の訪問を受け死者の安息を神に願うミサ曲「レクイエム」の作曲の依頼を受けた。高額の報酬と前渡金の提示があったこと、更にはモーツァルト自身としても子供の時から作曲をしてきた宗教(典礼)曲分野への新たな門出にしたいとの気持もあったのであろう、「レクイエム」の作曲を引き受けたのである。

8月28日モーツァルトは妻のコンスタンツェそして弟子のジュスマイヤーと共にオペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲」の演奏指導と上演のためプラハに到着した。
★ウィーン出発は8月25日以前であろうと思われる。

8月29にはレオポルト2世が、そして翌日マリア・ルイーゼ妃プラハに到着した。宮廷から派遣された選抜楽団員7名(その後20名に増員)を率いているのは楽長のサリエーリである。

9月2日には祝祭公演の一環として「ドン・ジョヴァンニ」が恐らくモーツァルト自身の指揮でプラハのノスティツ劇場(現在のエステート劇場=スタヴォフスケ劇場)で上演された。

9月6日大聖堂ヴィートゥス教会レオポルト2世のボヘミア王としての戴冠式が挙行された。その夜、ノスティツ劇場において、モーツァルト自身の指揮により、「皇帝ティートの慈悲」の幕が開けられたのである。

★初演の評判は意見が別れているが、プラハでは9月末まで再演され喝采を博した。モーツァルトの死後、コンスタンツェはこのオペラをウィーンで初演することを企画し、1794年12月29日にケルントナートーア劇場で上演した。ウィーンでの上演は成功を収め、コンスタンツェは1795年から1796年までドイツ各地でこのオペラを上演するのである。

このプラハ旅行でモーツァルトは200ドゥカーテン(900グルテン)というオペラ2曲分に相当する報酬を得て、コンスタンツェと共に9月8日頃プラハを出発しウィーンへの帰路についたのである。
★ウィーンに到着したのは9月12日頃であった。

政治面では神聖ローマ皇帝レオポルト2世はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と共同で、8月27日にピルニッツ宣言を発した。フランス革命により秘密裏に国外脱出しようとした国王ルイ16世一家が見破られ捕らえられるという6月25日の事件(所謂ヴァレンヌ事件)を知ったレオポルト2世は、妹マリー・アントワネット一家(すなわちルイ16世家族)の身を案じ、アルトワ伯(ルイ16世の弟、後のシャルル10世)の仲介により、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世とピルニッツ城(現在のドレスデン市内に所在)で会見し、必要があればフランス革命に干渉する用意があることを共同で宣言した。
★この宣言は後のフランス革命戦争への号砲となったのである。


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神聖ローマ皇帝レオポルト2世の家族
両親(女帝マリア・テレジアとフランツ1世)と同じく16人の子供に恵まれた。
この絵は1776年トスカーナ大公の時代に描かれた。

モーツァルト(当時13歳)は第1回イタリア旅行で1770年3月30日フィレンツェを訪れ、トスカーナ大公であったレオポルト大公に御前演奏をしている。又、17歳の時第3回イタリア(ミラノ)旅行(1772年10月24日ザルツブルク発、1773年3月13日帰郷)を行った。この旅行の目的はミラノの謝肉祭用のオペラ「ルーチョ・シッラ」の作曲と上演であった。このオペラの上演が成功後、父レオポルトはフィレンツェのレオポルト大公(トスカーナ大公)にミラノから書面でモーツァルトのフィレンツェでの宮廷音楽家としての採用を請願しているが、不成功に終わったとの経緯がある。


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モーツァルト34歳・「コシ・ファン・トゥッテ」(ウィーン⑩1790年) [モーツァルト]

1790年が明け、モーツァルトは2幕のオペラ・ブッファ「コシ・ファン・トゥッテ”Così fan tutte”」(女はみんなこうしたもの)」の総譜作成の追い込みに入っている。このオペラは宮廷作詞家ロレンツォ・ダ・ポンテとのコンビでの第3作目にあたり、舞台はナポリである。

モーツァルトが今は亡き父レオポルトと共に初めてイタリアに旅行し、オペラの一大拠点であり風光明媚なナポリを訪れ、約1.5ヶ月の素晴らしいナポリ生活を堪能したのは、丁度20年前、14歳の時であった。

「コシ・ファン・トゥッテ」に登場する二人の姉妹フィオルディリージとドラベッラそして老哲学者ドン・アルフォンソがナポリ湾から遠ざかって行く姉妹の恋人二人の乗る船を見送りながら、航海の無事を祈って歌う美しいホ長調の三重唱「風が穏やかであれ“Soave sia il vento"」(後述)は、まさに14歳のモーツァルトが父レオポルトと二人でいつまでも眺めていたナポリ湾の微風と哀愁を感じさせるのである。
★弊記事「モーツァルトの第1回イタリア旅行(その1)」ご参照。

1月26日ブルク劇場「コシ・ファン・トゥッテ」が初演され、好評を博し、このオペラは2月11日までに5回上演されたのである。

2月20日、モーツァルトを積極的ではないにせよ常に支援してくれた皇帝ヨーゼフ2世が崩御し、喪に伏すためにオペラ上演は中止となった。皇帝はオスマン(トルコ)戦争で自ら戦地に赴いたことで体調を崩し、前年の1789年には病床にあったが、享年49歳で帰らぬ人となった。
★喪が明け再度「コシ」が舞台にかけられたのは6月6日のことであった。

3月13日ヨーゼフ2世の後継者として弟でトスカーナ大公のレオポルト2世フィレンツェからウィーンに到着した。これを機会にモーツァルトは次席宮廷楽長職を得るべく活動を始めているが、これは不調に終わった。
★レオポルト2世はヨーゼフ2世の色彩の強かった宮廷人事一新を開始し、モーツァルトの理解者だったヴァン・スヴィーテン男爵の宮廷教育委員会委員長の任を解いたりするのである。

レオポルト2世の神聖ローマ皇帝としての戴冠式は10月9日(土)フランクフルト・アム・マインにおいて挙行されることが決定した。帝国内にあってはハンガリーにおける農民の反乱の恒常化、及びオーストラリア領ネーデルランドでの反乱の勃発、帝国外にあってはフランス革命がはじまり、幽閉されているルイ16世の妃で妹のマリー・アントワネットの安否を気遣いながらの対フランス政策に関するプロイセン王国との同盟締結交渉、そしてオスマン帝国との戦争終結折衝など、ハプスブルク帝国が危機に瀕している中での戴冠であり、もともと音楽には関心の薄いレオポルト2世にしてみれば音楽どころではないといった状況でもあった。
★ネーデルランドはこの年、ベルギー合州国として独立を宣言したが、オーストリアはこれを制圧している。
★戴冠式を目前にしてオーストリアはオスマン帝国と休戦協定に調印した。その後、講和、1791年シトヴァ条約を締結して占領地をオスマン帝国に返還、ロシアへの支援を打ち切るとこをと約すことになる。

モーツァルトの経済的窮迫は深刻で、この年も1月から8月にかけてブフベルク宛に計9通の借金懇願の手紙が書かれている。コンスタンツェのバーデンの湯治費が出費を増大させ、モーツァルト自身の健康状態も優れず、持病のリューマチによる身体の痛みや歯痛、頭痛などで最悪の状況であった。8月14日のブフベルク宛の手紙に次の様に語るのである。
『。。。私の状態をご想像下さい。病気のうえに、悩みや心配事が山ほどあるのです。こんな状態では治る病気も治りません。いま現在、ほとほと困っています。少しで結構です。お助けいただくわけにはいきませんか。現在の私にとっては、どれだけでも救いとなるのです。。。』
モーツアァルトブフベルクには窮状をこまかく打ち明けているが、コンスタンツェには家計の窮迫を一切打ち明けずバーデンに湯治に行かせ、金策の苦労を一人で背負っているのである。

シカネーダーがウィーン郊外のフライハウス劇場(所謂ヴィーデン劇場)で9月11日に2幕のジングシュピール「賢者の石」を初演したが、モーツァルトは8月から9月にかけてこの作曲の一部に協力している(後述)

9月23日モーツァルトは義兄のホーファーと下僕ひとりをつれて自家用馬車でウィーンを発ち戴冠式の挙行されるフランクフルト・アム・マインに向かった。同日、レオポルト2世騎兵1,493人、歩兵1,336人、馬車104台という大規模編成でウィーンを出発している。この中に宮廷楽団楽長のサリエーリに率いられた宮廷楽団員総勢15名が含まれている。これら宮廷楽団員はマインツ選帝侯宮廷楽団に合流して、10月9日の戴冠式の奏楽を受け持つのである。宮廷作曲家の職責にある非常勤のモーツァルトはこの公式楽団員には含まれておらず、今回の旅は私費とせざるを得なかったが、それでもモーツァルトが今回の旅行を決断したのは、次の理由によるのである。
①ウィーンにおける音楽活動(特に演奏会)の低迷とそれに伴う減収をカバーすること。
②新しい神聖ローマ皇帝に対する自分自身の売り込み。

10月4日レオポルト2世一行がフランクフルトに到着し、10月9日盛大な神聖ローマ皇帝としての戴冠式が大聖堂で挙行された。ウィーン宮廷楽団の15名の選抜メンバーとマインツ選帝候宮廷楽団がヴィンチェンツォ・リギーニの『ミサ・ソレムニス』とサリエーリの『テ・デウム・ラウダムス』を高らかに演奏した。
ベートーヴェンはレオポルト2世の弟であるケルン大司教(選帝侯)マクシミリアン・フランツの命により『皇帝レオポルト2世の即位を祝うカンタータ(独唱、合唱と管弦楽)』WoO88を作曲しているが、実際に演奏されたかどうかは確認されていない。

10月12日フランクフルトで旧知のベーム一座モーツァルトのジングシュピール「後宮からの誘拐」K.384を上演している。このドイツ語オペラはドイツを中心にヨーロッパ各地で上演されており、モーツァルトの名声を高めているが、著作権のないこの時代にはこういったオペラの再演はモーツァルトには何の収入ももたらさなかった。

10月15日(金)フランクフルトの大劇場でモーツァルトのコンサートが午前11時開演された。
プログラムは2部から構成され、自作交響曲、自作自演の2曲のクラヴィーア協奏曲、2曲のアリア、クラヴィーアの即興演奏などが披露された(後述)。この日はあいにくさる貴族の大昼食会と軍隊の大演習があって聴衆が期待していた程は集まらなかったのである。モーツァルトは同日ウィーンで吉報を待つ妻コンスタンツェに前年のライプツィヒでの演奏会と殆ど同じ結果説明をしている。
『最愛のいとしい奥さん!
。。。きょう11時にぼくの演奏会があった。名誉にかんしては素晴らしかったけれど、報酬の点ではお粗末なものに終わった。。。』

この後、モーツァルトマインツミュンヘンで演奏を行ったが収入面では大した効果が上がらぬままウィーンへの帰途についた。24歳の時ミュンヘンで「イドメネオ」を上演後、ウィーン滞在中のザルツブルク大司教の命によりミュンヘンからザルツブルクを経由しない北方ルートでウィーンに直行したが、今回も同じルートで11月20日頃ウィーンに戻ったのである。
★留守中に引っ越しが行われており、新居はラウエンシュタイン通り970番地の2階であり、この借家がモーツァルトの最後の住まいとなるのである。

ウィーン英国の興行師からの招聘状を手にした。この招聘状はモーツァルトの留守中、10月26日付でロンドンの演奏会ホール『パンテオン』のロバート・プレイ・オライリー氏より出状されたもので、12月末より半年間ロンドンに滞在し2曲のオペラを作曲すれば300ポンドの報酬を支払うという申し入れであった。この招聘状に対するモーツァルトの反応及び対応内容は記録に残されていないが、非常にショート・ノーティスとなってしまったことより、この申し入れは断ったのであろう。
★ロンドンでもモーツァルトのウィーンで出版された作品の印刷譜がウィーンの出版社のロンドンの代理店を通じ、多数販売されており、英国でもモーツァルトの名声は高まっていた。

他方、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンもこの年の秋頃に、ヴァイオリン奏者で興行師のヨハン・ベーター・ザロモンから英国行きの誘いを受けていた。30年以上勤めたエステルハージ侯爵家の宮廷楽団が解散され、年金生活で自由の身となっていた59歳のハイドンは英語も話せないが「音楽が言葉」であるとして、英国行きを決断し、12月15日にウィーンをザロモンと共に出発したのである。前夜モーツァルトはハイドンと最後の夕食を共にしたが、モーツァルトは24歳年上のハイドンを非常に心配し、二人が涙ながらに別れたという逸話が伝えられている。
ハイドンは英国で成功し、1792年にウィーンに戻った時にはモーツァルトはもうこの世にいなかったのである。



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1790年1月26日ウィーンのブルク劇場での初演時のポスター
Cosi fan tutte, o sia La Scuola degli Amanti (コシ・ファン・トゥッテあるいは恋人たちの学校)


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モーツァルト33歳・プロイセン(北ドイツ)への旅(ウィーン⑨1789年) [モーツァルト]

モーツァルトは4月8日、カール・リヒノフスキー侯爵の誘いを受けて、同侯爵と共に、プロイセン王国(北ドイツ+ポーランド西部)に向けてウィーンを馬車で旅立った。この旅の主要目的はプロイセン王国の首都ベルリンで国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世への謁見にあった。

★カール・リヒノフスキー侯爵(Karl Lichnowky 1756-1814)は後にベートーヴェンの後援者として有名になる人物である。ベートーヴェンが音楽家として致命的な耳の病を発病した一年後頃に発表した(1799年発表。ベートーヴェン29歳)ピアノ・ソナタ第8番ハ短調Op.13『悲愴』は、リヒノフスキー侯爵に献呈されている。
★フリードリヒ・ヴィルヘルム2世:(Friedrich Wilhelm II., 1744年9月25日 - 1797年11月16日)プロイセン王(在位:1786年8月17日 - 1797年11月16日)

前年には演奏会の開催が激減し、この年にも好転の兆しが見えず、経済的にも緊迫していたモーツァルトはフリーメイソンの同士であり音楽に造詣の深いリヒノフスキー侯爵と共にベルリンに行き、音楽愛好家として名を馳せていたプロイセン国王、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に謁見すれば、現状打開策が見つかるかも知れないとの考えもあっての旅なのである。

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン「プロシア四重奏曲」 Op.50(全6曲)を1787年1月から9月にかけて作曲し、同年12月アルタリア社より出版、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に献呈されており、モーツァルトはこれにも刺激を受けていたのではないかとも思われる。
★ウィーン宮廷では前年1788年2月に5歳年上のアントニオ・サリエーリが宮廷楽長に任命されており、モーツァルトの究極的願望であった宮廷楽長への道は遠のいたとの判断もあり、プロイセン王からそれなりの処遇の提示があれば、ウィーン宮廷を辞しプロイセン宮廷に仕えることも選択肢に入れていたのであろう。

4月10日にプラハに到着、その後12日にドレスデンに着いた。ドレスデンではザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世の宮殿で、前年1788年2月に作曲しウィーンでは初演の機会がなかった『クラヴィーア協奏曲ニ長調(K.537)「戴冠式」』を御前演奏している。

4月18日にはドレスデンを発ち、20日にライプツィヒに着き、22日にヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685 - 1750)ゆかりの聖トーマス教会を訪問し、オルガンを奏している。モーツァルトは1782年にヴァン・スヴィーテン男爵のところで集中的にバッハの曲に接した「バッハ体験」を思い出しながらバッハに捧げる曲を弾いたのであろう。この演奏を聴いたバッハの弟子であリ聖トーマス 教会のカントル(音楽監督、トーマスカントル)の当時74歳の老音楽家ヨハン・フリードリヒ・ドーレス(1715−1797年はバッハの再来かと感激したと伝えられている。
バッハはライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(トーマスカントル、独:Thomaskantor)を約13年間(1723-1736)務めている。

4月25日頃にはベルリン近郊のポッダムに到着し、当時はプロイセン国王の夏の離宮であったサンスーシ宮殿に国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が滞在しており、モーツァルトは謁見を申し入れた。国王には謁見できなかったが、王の指示により宮廷音楽総監督ジャン・ピエール・デュポールと面談することとなった。
★ジャン=ピエール・デュポール:(1741-1818) Jean-Pierre Duport フランス出身のチェロの名手。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の皇太子時代にチェロを教えている。

モーツァルトは変奏曲(後述)をデュポールに贈ることによってその印象を良くしようと考えたのであろうが、それが奏功したとは思えない結果ではあった。

リヒノフスキー侯爵がウィーンに戻る必要が生じたため、モーツァルトは同侯爵に付き合いライプツィヒまで戻り、5月12日同地のゲヴァントハウスで演奏会を催している。この演奏会ではプラハからドレスデン経由ライプツィヒにたまたま来ていた古くからの友人でソプラノ歌手のドゥーシェク夫人が2曲のアリアを歌い、モーツァルトは前年に作曲した三大交響曲のうちのいずれかを演奏したとする説がある。

モーツァルトは旅先からウィーンに残してきた妻コンスタンツェに愛情溢れる手紙を度々書いているが、5月16日付の手紙にはこの演奏会は「拍手喝采と名誉の点ではまったくすばらしかったけれど、収入に関しては比較にならないほどお粗末だった。」と語っている。

モーツァルトは5月19日にベルリンに到着した。同日、ベルリン王立劇場で上演された「後宮からの誘拐」に立ち会い、5月26日ベルリン王宮王妃フリーデリーケの御前での演奏を行った。
その後5月28日にベルリンを発ち、ドレスデン、プラハ経由で6月4日にウィーンに帰着した。

プロイセン王国への旅から帰着後7月12日には友人のブフベルクに対し、借金依頼の書簡が出されており、同王国への旅は「収入の面では比較にならないほどお粗末なものであった」ことを裏付けている。

『親愛な、最上の友!尊敬すべき結社盟友よ。
ああ!わたしはいま最悪の敵にも望まないような状況におります。そして、最上の友であり盟友であるあなたにもし見捨てられたら、私は不幸にも、なんの罪もないのに、かわいそうな病気の妻と子供もろとも、破滅してしまいます。。。(中略)このたびの妻の病気のために、どれほど私の稼ぎが妨げられているか、繰り返し申し上げるまでもないでしょう。私の運命は残念ながら、でもウィーンだけのことですが、私には逆風で、いくら稼ごうと思っても稼げません。私は二週間にわたって予約名簿(注:予約演奏会用)をまわしたのですが、そこにはただひとりスヴィーテン(注:ヴァン・スヴィーテン男爵)の名前があるだけです。』
★この関連でブフベルクは150フロリーンを送金している。
★妻のコンスタンツェは足の感染症に悩まされており、その療養と治療のために、主治医のクロセット博士よりウィーン南方の温泉(硫黄泉)療養地バーデンでの湯治を勧められ、モーツァルトはコンスタンツェを遅くとも8月中旬までにはバーデンに湯治に行かせたのである。

8月29日には「フィガロの結婚」がブルク劇場で2年半ぶりに再演され、新キャストによる上演は大成功を収め1791年2月までに計29回も上演されることになった。さらにこの再演成功直後より、ダ・ポンテが台本を書き下ろしたブルク劇場の翌年1790年のシーズン用のオペラ・ブッファ「コシ・ファン・トゥッテ”Così fan tutte"(女はみんなこうしたもの)の作曲を開始したのである。
★ひととおり作曲し終えたモーツァルトは12月31日ハイドンブフベルクを自宅に招いて試演を行った。

11月16日にモーツァルトの第5子(次女)となるアンナ・マリアが誕生したが、生まれてすぐに息を引き取り、健全に育っていたのは、第2子として生まれたカール・トーマスだけであった。

政治的にはロシア帝国との同盟に基づき参戦したオスマン帝国との戦争長期化の様相を呈し、この戦争のため前年1788年に9ヶ月以上にも及ぶセルビア=クロアチア地方のゼムリン"Semlin"に滞留し、同年12月5日ウィーンに帰着した皇帝ヨーゼフ2世は体調を崩し、病床についていた。
ハプスブルク君主領ハンガリーでは、中央政府による国家管理の一元化に対して、啓蒙に感化された特権身分社団による反発、農民反乱が恒常的なものとなりつつあった。又、オーストリア領ネーデルランドでも反乱が勃発する事態となった。
★ネーデルランドは1790年ベルギー合州国として独立を宣言したが、新しい国の指導者達の団結心の欠如のため、あえなくオーストリアに制圧されるのである。

7月14日にフランス王国(国王ルイ16世、王妃マリーアントワネット)では、パリ市の民衆が同市にあるバスティーユ牢獄(当時兵器庫)を襲撃する事件が勃発した。フランス革命がはじまったのである。10月、ルイ16世は国民議会が採択した人権宣言の承認を余儀なくされ、パリのチュイルリー宮殿に家族と共に幽閉された。
★パリのチュイルリー宮: 1778年6月18日、スイスの間でモーツァルト交響曲ニ長調「パリ」K.297が演奏され、大成功を収めた宮殿である。弊記事「モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅③(パリ)」ご参照。
★フランス革命の勃発を受けヨーゼフ2世は翌年1790 年に宗教寛容令を除く殆どすべての絶対主義政策を撤廃することになる。


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古いブランデンブルク門(1764年)                              モーツァルト(33歳)

新しいブランデンブルク門はフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により建築家カール・ゴットハルト・ラングハンスによって
古代ギリシャ風で設計され、1788年から3年間の建設工事を経て1791年8月6日に竣工している。従い、モーツァルトが
ベルリンを訪問した時は新しい門は建設中であり、完成したのはモーツァルトが没した年である。

33歳のモーツァルト:1989年4月16日、ドレスデンにて女流素人画家ドーレス・シュトックにより銀筆で描かれた。現存するモーツァルト最後の肖像画である。


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モーツァルト32歳・三大交響曲とブフベルク書簡(ウィーン⑧1788年) [モーツァルト]

前年1787年12月、皇帝ヨーゼフ2世より皇王室宮廷音楽家(作曲家)に任命されたモーツァルトは新年早々、初仕事として数曲の舞曲を作曲するのである。
★宮廷作曲家としての任務は宮廷で催される舞踏会用の舞曲、即ち、メヌエット、ドイツ舞曲、コントルダンスを作曲することであった。

ヨーゼフ2世は2月5日をもってケルントナートーア劇場(ブルク劇場に次ぐ第二の宮廷劇場)閉鎖した。最後の出し物は『後宮からの誘拐』であった。この閉鎖は、オスマン帝国との戦争が間近に迫ったことによる緊縮財政措置の一環として実施されたのである。
★ケルントナートーア劇場では1785年10月16日以来、ドイツ語オペラがブルク劇場と交替で上演されていた。ケルントナートーア劇場は2月5日から閉鎖され1791年11月16日、即ちモーツァルトが死の床に伏す数日前まで、わずかな例外を除いて使用されることはなかった。

2月9日、ハプスブルク君主国(オーストリア)は同盟国ロシア帝国(エカチェリーナ大帝)を支援するため、対オスマン帝国(トルコ)戦争に参戦した。ヨーゼフ2世は2月28日には自らこの戦争のため、セルビア=クロアチア地方のゼムリン"Semlin"(セムン)に赴き、そこで滞留したのである。
★ヨーゼフ2世は9ヶ月以上、かの地に滞留し、ウィーンに戻ったのは12月5日となった。

皇帝ヨーゼフ2世は、3月1日付をもって病弱な宮廷楽長のジュゼッペ・ボンノ(1710年1月29日−1788年4月15日)を退任させ、その後任楽長としてアントニオ・サリエーリ(Antonio Salieri、1750 - 1825)を就任させている。

この年の四旬節はケルントナートーア劇場(独: Theater am Kärntnertor)閉鎖に加え、オスマン帝国との開戦により主だった貴族が戦地に赴いたり、領地に戻ったりしたこともあり、モーツァルトの演奏会はほとんど開催されていない。

5月7日、ブルク劇場『ドン・ジョヴァン二』ウィーン初演が行われた。すでに『後宮からの誘拐』『フィガロの結婚』初演が行われた劇場である。ウィーン初演でのポスターには「イタリア語によるジングシュピール」と記載されている。

『ドン・ジョヴァンニ』のウィーン初演については、音楽が歌には難しすぎるとか、退屈したとかの批判もあり、評価が分かれている。この様子を滞留地(ゼムリン)で報告を受けた皇帝ヨーゼフ2世は、宮廷劇場総監督のローゼンベルク伯爵に書簡で「モーツァルトの音楽はまこと歌にはむずかしすぎる。」と記述している。
12月5日、ヨーゼフ2世が戦地から帰還し、12月15日には『ドン・ジョヴァンニ』を観劇した。『ドン・ジョヴァンニ』はこの年1788年に計15回上演されている。7ヶ月間で15回の上演というのは当時の慣習からすれば少ない上演回数ではないが、『ドン・ジョヴァンニ』はこのヨーゼフ2世の観劇を最後に演目から外され, これ以降モーツァルトの生前にウィーンで上演されることはなかったのである。

プラハで上演した『ドン・ジョヴァンニ』の報酬が同地から送金されるのが遅れていたこともあり、この頃からモーツァルトのキャッシュ・フローに狂いが生じ始めた。即ち、家計の出金に対する現金入金不足である。
予約演奏会や貴族邸での個人演奏会の開催回数が激減し、これに伴う現金収入も当然ながら激減したのである。年間を通じてみれば、それなりの収入はあったのであるが、あてにしていた入金がなかったり、遅延したりで、資金繰りに狂いが生じたのである。
★因に、宮廷作曲家としての年間報酬額800グルテンの支払いは年3回均等払いであった。

6月には友人でフリーメイソンの会員であったミヒャエル・ブフベルクに現存する最初の借金依頼の手紙が書かれている。
★ミヒャエル・ブフベルク:1741年生まれ。ウィーンの裕福で音楽好きの織物商。
《最愛の同士よ!あなたの真の友情と兄弟愛にすがって、厚かましくもあなたの絶大なる御好意をお願いします。あなたには、まだ8ドゥカーテンを借りています。いまのところ、それをお返しすることができない状態にあるのに加えて、さらに、あなたを深く信頼するあまり、ほんの来週まで(その時にはカジノで私の演奏会が始まるので)、100フローリンを融通して助けてくださるよう、あえてお願いする次第です。その時までには、必ず予約金が手に入りますし、そうなればこの上なく熱い感謝の念をこめて136フローリンをきわめて容易にお返しできるでしょう。。。(略)あなたのこの上なく献身的同士 W.A.モーツァルト》
★この手紙の欄外にはブフベルク自筆で「100フローリン送金」と書かれている。
★ブフベルクに宛てたこの種借金依頼の手紙は1788年6月に3通、7月初めに1通、合計4通、1789年にも同じく4通、90年には9通もの手紙がかかれ、91年最後の年にも3通、総計20通もの手紙が書かれているのである。さらに紛失した借金依頼状があるものとされている。ブフベルクは通常、借金依頼状を受け取ると、依頼金額より低い額をその都度送金し、依頼状にいくら送金したかを書き留めておくのである。

6月29日には長女マリア・テレジアがわずか半年の命で昇天し、ヴェーリング墓地に埋葬されている。
7月初めには《家計がぎりぎりまで追いつめられて、心労と不安が絶えません。》と、ブフベルク宛に再度金銭的支援(借金)依頼の手紙を書くのであった。

経済的に緊迫してきたとは言え、この時期モーツァルトの創作意欲は旺盛で、6月から8月にかけて精力的に器楽曲を作曲するのである。この器楽曲を代表するのが三大交響曲なのである(後述)。

また、宮廷作曲家としてこの年後半にもメヌエットや舞曲、室内楽曲を完成させるのである。


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ドン・ジョヴァンニのブルク劇場(ウィーン)初演のポスター
正式タイトルは『罰せられた放蕩者、あるいは、ドン・ジョヴァンニ』”Il dissoluto punito, o sia il Don Giovanni”


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モーツァルト31歳・父レオポルトの死と「ドン・ジョヴァンニ」(ウィーン⑦1787年) [モーツァルト]

1787年1月8日、モーツァルトは妻のコンスタンツェと数人の友人と共に馬車でウィーンを発ちプラハにむかった。前年12月プラハで「フィガロの結婚」が上演され、大評判となっており、同地の識者愛好家協会の招待に応えてのプラハ訪問である。
★モーツァルト夫妻の同行者は、この旅行の一年後にコンスタンツェの長姉ヨーゼファと結婚するフランツ・デ・パウラ・ホーファ−(1755-96、宮廷楽団ヴァイオリン奏者)とアントーン・パウル・シュタードラー(宮廷楽団クラリネット奏者)を含む5名の友人と従僕のヨーゼフである。

一行は1月11日プラハに到着した。モーツァルトはウィーンの親友ゴットフリート・フォン・ジャカンにプラハでの「フィガロ熱」について次の通り語るのである。(1787年1月15日付書簡)
(舞踏会では)。。。生粋のコントルダンスやドイツ舞曲に編曲したぼくのフィガロの音楽にのって、心から楽しそうに飛び跳ねているのを見て、ぼくはすっかりうれしくなった。なにしろここでは、話題といえば「フィガロ」で持ちきり。弾くのも、吹くのも、歌うのも、そして口笛も「フィガロ」ばかり。「フィガロ」以外 ほかのオペラになんか目もくれないんだ。明けても暮れても「フィガロ」、「フィガロ」。たしかに、ぼくには大変な名誉だよ。》

1月17日モーツァルト夫妻列席のもとで「フィガロの結婚」がノスティツ劇場で上演され、19日にはモーツァルトの公開演奏会が同劇場で開かれた。公開演奏会では前年暮に作曲された交響曲(第38番)ニ長調「プラハ」(K.504)が演奏され、即興演奏3曲を披露している。最後の曲はプラハで大人気のフィガロのアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々”Non più andrai, farfallone amoroso”」の主題による変奏であり、劇場は興奮の渦に包まれたのである。
★ノスティツ劇場:モーツァルトの時代には所有者のノスティツ伯爵の名前からこう呼ばれた。その後スタヴォフスケ劇場となり、第二次世界大戦後の社会主義体制ではティル劇場と名称変更され、1992年12月再度スタヴォフスケ劇場(英名:エステート劇場)に戻され今日に至っている。

演劇興行師ボンディーニから次のシーズンのためのオペラの作曲を依頼され、2月8日「フィガロ」で持ち切りのプラハを発ちウィーンには2月12日頃に戻ったのである。

モーツァルトは「フィガロの結婚」の台本作者ロレンツォ・ダ・ポンテと協議し次回のオペラは「ドン・ジョヴァンニ」を題材とすることを決定し、ダ・ポンテは急ピッチで筆を進め、5月半ばには台本を完成させた。モーツァルトは3月には台本の一部を受け取り直ちに作曲に取りかかった。

ドン・ジョヴァンニ」の作曲を開始したとほぼ時を同じくして、ザルツブルクでは父レオポルトが病に倒れた。これを知らされたモーツァルトレオポルトに4月4日付で自分の死生観を織り込んだ書簡を発信するのである。
《あなたご自身から快方に向かっているという安心の手紙をぼくがどれほど切望しているか、お伝えするまでもないでしょう。常にぼくはあらゆることに最悪を想定することに慣れてはいるのですが。 死は(厳密に言えば)ぼくらの人生の真の最終目標ですから、ぼくはこの数年来、この人間の真の最上の友とすっかり慣れ親しんでしまいました。その結果、死の姿はいつのまにかぼくには少しも恐ろしくなくなったばかりか、大いに心を安め、慰めてくれるものとなりました!そして、死こそぼくらの真の幸福の鍵だと知る機会を与えてくれたことを(ぼくの言う意味はお分かりですね)神に感謝しています。ぼくは(まだ若いとはいえ)ひょっとしたらあすはもうこの世にはいないかもしれないと考えずに床につくことはありません。でも、ぼくを知っている人はだれひとり、ぼくが不機嫌だとか悲しげだとか言えないでしょう。そして、この仕合わせを毎日ぼくは創造主に感謝し、隣人のひとりひとりにもそれが与えられるよう心から祈っています。(中略)ぼくがこの手紙を書いている間にも、あなたが快方に向かわれるよう願い望んでいます。》
★この手紙がモーツァルト父レオポルトに宛てた最後の手紙となったのである。尚、この手紙に記述されている死生観フリーメイソンの思想から来ているとされている。

4月24日、約3年間住んだウィーン中心地にある豪華な借家(フィガロ・ハウス)を明け渡し、ウィーン市壁外の庭付きの借家に引っ越した。次第に経済的圧迫を感じ、家賃の安いところに移り住んだものと思われる。この引っ越しについて父レオポルトにはその理由を説明せず、新しい住所を連絡しているが、レオポルトは5月10日付でザンクト・ギルゲンの娘ナンネル(ゾンネンプール夫人)にモーツァルトの引っ越し先の住所を伝えるとともに引っ越しについては《彼はその理由を私には書いていません。なにひとつです!残念ながら、わたしにはそれが推測できます。》と語っており、この書簡がレオポルトが書いた最後の書簡となったのである。

レオポルトは、ザンクト・ギルゲンから駆けつけた娘のナンネル(ゾンネンブール夫人)の献身的な看病にも拘らず5月28日帰らぬ人となった。享年67歳であった。

6月4日、モーツァルトが約3年間可愛がってきたムクドリが死んだ。モーツァルトはこのムクドリに寄せた哀悼の詩を綴り、数人の友人を葬送行進がしたいからと自宅に招待し、全員で葬送の曲を歌いながら行進した。父レオポルトの死に対するモーツァルト独特の哀悼の表現でもあったのであろう。
★このムクドリと哀悼の詩などについては弊記事「モーツァルトと小鳥たち」をご参照。

4月、ボンの宮廷に仕えていた当時16歳のルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1872)が初めてウィーンを訪れ、二週間程滞在した。この間モーツァルトを訪問したという伝記もあるが、最愛の母マリアの病状悪化の報を受けボンに急遽戻っている。当時のケルン大司教選帝侯マクシミリアン・フランツ(在位:1784年 - 1801年)皇帝ヨーゼフ2世の一番下の弟であり、モーツァルトを高く評価していたこともあり、ケルン宮廷(所在地:ボン)に当時仕えていた少年ベートーヴェンに対し、モーツァルトへの弟子入りを命じた可能性はある(モーツァルトに弟子入りを承諾されたとしているベートーヴェンの伝記作家もいるが、確証があるわけではない)。
★ベートーヴェンのフランドル生まれの祖父も父親もボンのケルン選帝侯の宮廷音楽家であった。

5月中旬頃にダ・ポンテは「ドン・ジョヴァンニ」の台本を完成しており、モーツァルトは序曲と第二幕のフィナーレを含む全体の約三分の一の作曲を仕上げ、10月1日コンスタンツェと共に再びプラハへと旅立ったのである。
プラハ側としてはこのオペラを、皇帝ヨーゼフ2世の姪マリア・テレジアのプラハ訪問の祝賀用に上演したかったのであるが、準備の遅延により、ヨーゼフ2世の指示もあり歓迎の催し物はオペラ「フィガロの結婚」となり、 10月14日モーツァルト本人の指揮によりノスティツ劇場で再演された。
★マリア・テレジアは皇帝ヨーゼフ2世の弟で当時トスカーナ大公であったレオポルト1世の娘。尚、レオポルト1世は1790年皇帝ヨーゼフ2世崩御の後レオポルト2世として神聖ローマ皇帝となる。

プラハ滞在中モーツァルトは旧知のフランツ・クサヴァー・ドゥーシェク夫妻と再会し、自宅やヴァルタヴァ河左岸の丘地にある別荘「ベルトラムカ荘」に招待され、この別荘を「ドン・ジョヴァ二」作曲のために提供してもらった。
★この別荘は現存しており、モーツァルト博物館となっている。

さまざまな事情で予定から半月遅れの10月29日2幕のオペラ・ブッファ(ドランマ・ジョコーソ)罰せられた放蕩者、あるいは、ドン・ジョヴァンニ」”Il dissoluto punito, o sia il Don Giovanni” がノスティツ劇場モーツァルト自身の指揮で初演され、大喝采を博したのである。
モーツァルトは11月4日付の手紙で親友ジャカンに「大変な拍手喝采を受けた」と伝えると共に「きのう、4回目の(しかも上がりはぼくの収入になる)上演が行われた。」と語っている。

かくしてモーツァルト夫妻はプラハ滞在を終え、明確な記録は残されていないが、おそらく11月13日にプラハを発ち、16日にはウィーンに帰着したのである。その前日15日に宮廷音楽家グルックがこの世を去ったのである。このグルックの死を契機として皇帝ヨーゼフ2世は宮廷楽団の再編成に取り組むのである。
★クリストフ・ヴィリバルト・グルック(Christoph Willibald (von) Gluck, 1714年7月2日 - 1787年11月15日)女帝マリア・テレジアの宮廷楽長を務め、35曲程の完成したオペラを作曲し、オペラの改革者として歴史に名を残している。

先ず12月1日付をもってモーツァルトは宮廷音楽家に任命され、年俸800グルテンの支給が決定したのである。1781年モーツァルトがザルツブルク大司教宮廷楽団を退任した時からの念願であったウィーン宮廷への奉職の夢が7年目にしてやっと実現したのである。父レオポルトが存命であればその喜びはいかばかりであったであろうか。
★任命書と辞令には宮廷音楽家と明記されているが、1789年及び91年の「宮廷職員名簿」にはモーツァルトは《皇王室宮廷音楽家》の中の《作曲家》にリスト・アップされている。

12月27日モーツァルトの長女(第4子)テレジア・コンスタンツィア・アーデルハイト・フリーデリケ・マリア・アンナが誕生した。
★しかし、この娘は翌88年6月29日に亡くなってしまうのである。  

政治的にはこの年ロシア帝国のエカチェリーナ大帝の対オスマン帝国(トルコ)戦争(第2次)が始まり、1792年まで続くことになる。オーストリア帝国ロシアとの同盟に基づきロシアを支援すべく、1788年2月、参戦したのである。皇帝ヨーゼフ2世は啓蒙専制君主として、「上からの改革」を通じて身分制社会の構造を切り崩し、均質な国民を創出せんとして貴族勢力の弱体化を図りつつ商工業を発達させ、富国強兵・王権強化を図ったが、その改革の多くは抵抗勢力に阻まれていた。特にハンガリー南ネーデルランドといったハプスブルク(オーストリア)帝国領内で反体制運動が活発化するのである。かような時期にオスマン帝国との戦争が勃発し、貴族はその領地に戻ったり、出征したりするのである。又、戦争により物価が高騰し、ウィーン市民の生活を圧迫するのである。こういった政治・社会情勢にも大きく影響され、モーツァルトの演奏会の開催が次第に困難になって行くのである。


Lorenzo_da_Ponte.jpg     Don Giovanni.jpg     
ロレンツォ・ダ・ポンテ(版画)                    ドン・ジョヴァンニをプラハ初演で歌ったLuigi Bassi
19世紀初頭

★右上の絵は「ドン・ジョヴァンニ」の第二幕でドン・ジョヴァン二(バリトンのルイギ・バッシ)が気に入った女性の窓の下でセレナータ「さあ、来ておくれ、窓辺へ"Deh vieni alla finestra"」 を歌っているシーンを描いたものである(末尾音源ご参照)。尚、ルイギ・バッシLuigi Bassiは「フィガロの結婚」のプラハ初演でアルマヴィヴァ伯爵も歌っている。


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モーツァルト30歳・「劇場支配人」と「フィガロの結婚」(ウィーン⑥1786年) [モーツァルト]

前年1785年秋頃から「フィガロの結婚」の作曲に精力的に取り組んでいたモーツァルトに、皇帝ヨーゼフ2世より一幕のドイツ語喜劇「劇場支配人”Der Schauspieldirektor"」の台本が渡され、この喜劇の作曲をする様にとの依頼があった。

モーツァルトは「フィガロの結婚」を中断し、直ちに作曲にとりかかり、2月3日には「劇場支配人」の作曲を完了し、2月7日、シェーンブルン宮殿オランジュリー(熱帯植物用の大温室)で初演された。この初演は皇帝の義理の弟にあたるハプスブルク帝国(オーストリア)領南ネーデルランド(現在のベルギー)総督アルベルト公(ザクセン=テッシェン公)の来訪を祝して催された歓迎の宴で上演されたのである。
★アルベルト公:皇帝ヨーゼフ2世の妹マリア・クリスティーナの夫。

熱帯植物の木々と花の下に食卓が並び、オランジュリーの一角には舞台が設けられ、ここで「劇場支配人」が上演されたのである。他方、この上演が終わると別の一角に設けられた舞台でアントニオ・サリエリがこの宴のために作曲したイタリア語の一幕の音楽劇「はじめに音楽、次に言葉 "Prima la Musica e poi le Parole"」が上演された。
★この2つの演目は、その後2月11日、18日、25日の三日間にわたり、ケルントナートーア劇場で公開されている。

4月29日、オペラ・ブッファの大作「フィガロの結婚」が完成をみた。イタリア勢の上演阻止の各種陰謀もあったが、最終的に皇帝ヨーゼフ2世上演許可も取得し、5月1日、ブルク劇場モーツァルト自身の指揮により初演されたのである。

フィガロ」の上演が行われている間、劇場は観客で満杯となり、アリアだけではなく重唱までも喝采に応えてアンコールされた為、上演時間が非常に長くなり、これを憂慮した皇帝の指示により「アリア以外の曲のアンコールは禁止する」との通達が出された程、見事な成功を収めたのであった。

この成功を報告するモーツァルトから父レオポルト宛の手紙は失われているが、5月18日付のレオポルト(在ザルツブルク)から娘のナンネル(在ザンクト・ギルゲン)宛の手紙には次の通り記述されている。
《おまえの弟のオペラの再演(注:5月3日)では5曲が、それに再々演(注:5月8日)では7曲がアンコールされたが、そのなかで小二重唱曲は三回も歌わざるをえなかったのです。》

★ここで言及している小二重唱曲(Duettino)とは恐らく第3幕の伯爵夫人とスザンナの小二重唱曲「手紙の二重唱」”Sull' aria...(そよ風によせる...)のことであろうと思われる。因に、小二重唱曲は第一幕で3曲、第二幕で1曲、第3幕で1曲がおかれている。

フィガロの結婚」の台本を書いたロレンツォ・ダ・ポンテ(Lorenzo Da Ponte, 1749年3月10日 - 1838年8月1日)は、イタリアのヴェネト州でユダヤ人の家系に生まれた。元の名前はエマヌエーレ・コネリアーノ(Emanuele Conegliano)であったが14歳の時に一家がキリスト教に改宗した。そしてこの時、洗礼を行った司教ロレンツォ・ダ・ポンテの名前を名乗ることとなった。ダ・ポンテはのちに聖職に就き、ヴェネツィアで暮らした後、30歳の時(1779年)にウィーンに移住し、アントニオ・サリエリの口利きによって皇帝ヨーゼフ2世に宮廷詩人としての職を与えられた。
ダ・ポンテは、『フィガロの結婚』K.492(原作ボーマルシェ)の他、1787年『ドン・ジョヴァンニ』K.527、1790年『コシ・ファン・トゥッテ』K.588の台本を書くことになる。 尚、1783年モーツァルトの作曲が未完(序曲と4曲のみ作曲)で終わっている2幕のオペラ・ブッファ「騙された花婿 "Lo sposo deluso"」(K.430/424a)の作詞者もダ・ポンテであろうと推定されている。

モーツァルトは3年前、1783年5月7日付父レオポルト宛の書簡でダ・ポンテに関し次の通り言及しており、この頃から付き合いがあったのである。
≪当地には、ダ・ポンテ師とかいう詩人がいます。この人は、作品を劇場用に書き直す仕事を山ほどかかえています。サリエリのために、まったく新しい台本を義務として書かなくてはならず、それに 2ヶ月はかかるでしょう。そのあと、ぼくのために新しい台本を書いてくれると約束しました。≫

この年10月18日には三男が誕生し、ヨハン・トーマス・レオポルトと命名されたが、11月15日に痙攣性窒息で亡くなってしまった。わずか1ヶ月の命であった。この子供は聖マルクス墓地に埋葬された。

11月には当時ウィーンに在住していた英国人音楽家に誘われたのであろう、英国旅行を計画し、父レオポルトにカール・トーマス(当時2歳)と生まれたばかりの三男(上記死亡前の話)の二人の子供を預かって貰えないかと打診し、レオポルトはモーツァルトに対し、しっかりした書面での作曲報酬に関わる契約もなしに訪英することは極めてリスクが高い点も指摘し、この申し入れをきっぱり断っているのである。

★英国人音楽家とはフィガロの初演でスザンナ役となったナンシー・ストーラス(1765−1817)とその兄で作曲家のスティーヴン・ストーラス、1785年からモーツァルトに指事していた作曲家のトーマス・アットウッド(1765−1838)、フィガロの初演歌手であるアイルランド人の(マイケル・ケリー(1762−1826)の4名であり、この4人は翌1787年初頭に英国に帰国する予定になっており、モーツァルトは彼らに同行しようと考えたのであろう。

この年にも連続演奏会が計画され、その都度新作のクラヴィーア協奏曲が作曲されてはいるが、演奏会の回数は1784年、1785年に比べると減少しており、最終的に、ロンドン行きは断念しているわけではあるが、モーツァルトはウィーンでの先行きに不安を感じ、ロンドンで一旗揚げようと考えたのであろうか。

他方、ボヘミアの首都プラハのノスティツ劇場(現在のエステート劇場=スタヴォフスケ劇場)で12月「フィガロの結婚」が上演され大評判となった。その結果、モーツァルトプラハの識者愛好家協会よりプラハへの招聘状を受け取り、翌年1787年早々プラハ訪問を決断したのである。


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ミヒャエル広場とブルク劇場(右側中央の低い建物)

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父レオポルト、絶頂期のモーツァルト29歳を訪問(ウィーン⑤1785年) [モーツァルト]

1785年の前半は前年に引き続き多数の演奏会をこなし、今やウィーンの社交界の寵児、超多忙のモーツァルトなのである。

前年12月14日に「徒弟(レアリング)」として入会したフリーメイソンのロッジ「善行 "Zur Wohltatigkeit"」で1月7日第二位階「職人(ゲゼレ)」に昇進し、同月14日には第三位階「親方(マイスター)」に昇進した。

1月10日には弦楽四重奏曲(第18番)イ長調 K.464( 「ハイドン四重奏曲第5番」), 更に14日には弦楽四重奏曲(第19番)ハ長調 K.465「不協和音」(「ハイドン四重奏曲第6番」)を書き上げ、1782年の大晦日に完成した弦楽四重奏曲(第14番)ト長調(K.387)(「ハイドン四重奏曲第1番」)以来じっくり書き上げてきた、「ハイドン四重奏曲(ハイドン・セット)」全6曲の完成をみたのである。

翌日1月15日には24歳年上のフランツ・ヨーゼフ・ハイドンを主賓として自宅に招待し、「ハイドン四重奏曲」の最初の3曲第1番ト長調K.387第2番二短調K.421/417b、第3番変ホ長調K.428/421b)を演奏したのであるが、ハイドンの感激はいかばかりであったであろうか。

2月11日(金曜日)、父レオポルトモーツァルトの招待に応え、ウィーンモーツァルト宅に到着した。レオポルトは1月28日ザルツブルクを発ち、ミュンヘンに1週間程滞在後、同地を2月7日弟子のハインリヒ・マルシャンと共に馬車で出発し、大雪に悩まされながらも、ランバッハなどを経てウィーンに無事到着したのである。

レオポルトはまずモーツァルトの家(注:所謂フィガロ・ハウス)が、必要な家財道具一切合切ついた立派な住居であることと高額家賃(460フローリン/年)に驚くのである。そして到着した日の晩にはモーツァルトの最初の予約演奏会に出かけ、その素晴らしさと身分の高い聴衆を目の当たりにし感激するのである。

2月12日(土曜日)、ハイドンとティンティ男爵がモーツァルト宅を訪問した。この日は新作のハイドン四重奏曲3曲が演奏された。ハイドンレオポルトに次の通り語るのである。

≪誠実な人間として神の御前に誓って申し上げますが、ご子息は、私が名実ともども知っているもっとも偉大な作曲家です。様式感に加えて、この上なく幅広い作曲上の知識をお持ちです。≫

★これら6曲の「ハイドン四重奏曲」はこの年9月1日初版(アルタリア版)に寄せたモーツァルトの全文イタリア語の献辞をもってハイドンに献呈された。尚、ハイドン・セット第5番(K.464)は後になってベートヴェンが筆写して研究するのである。

レオポルトが2月16日付でザルツブルクに滞在中の娘ナンネル(ゾンネンプール夫人)に宛てた手紙にウィーン到着後の様子が記述されているが、レオポルトは皇帝ヨーゼフ2世臨席の演奏会の模様を次の様に語るのである。

≪2月13日(日曜日)の晩にはブルク劇場でイタリアの歌手ラスキの音楽会がありました。(中略)おまえの弟はパリ用にとパラディスのために作った見事な協奏曲を一つ弾きました。私はたいそうお美しいヴュルテンベルク公爵令嬢から後ろに二つほどロージュを隔てていただけで、楽器の交替はすべてものすごくよく聞き分けられるという満足が得られたので、この満足感で目に涙が溢れたものでした。おまえの弟が退場すると、皇帝は手にお持ちの帽子で挨拶を送ってくださり、「ブラボォー、モーツァルト」とお叫びになられました。≫

★イタリアの歌手ラスキ嬢:ルイーザ・ラスキは1784年9月26日にブルク劇場でデビューした。ラスキは1786年5月1日初演の「フィガロの結婚」K.492 で伯爵夫人を歌い、1788年5月7日の「ドン・ジョヴァンニ」K.527のウィーン初演ではツェルリーナ役をつとめることになる。
モーツァルトが弾いた曲目についての詳細は不明であるが、「見事な協奏曲」とは前年1784年作曲した「クラヴィーア協奏曲(第18番)変ロ長調」(K.456)と考えられている。

ハイドンは2月11日にフリーメイソンの「真の協和」ロッジに入会し、モーツァルトの父レオポルトも今回ウィーン訪問中、4月6日にモーツァルトと同じ「善行」ロッジに入会した。ハイドンは入会後ロッジには出席しておらず、フリーメイソン用の作曲もしていないが、モーツァルトは極めて熱心でこの年多数のフリーメイソン用の作品を完成するのである。

レオポルトモーツァルトフォルテ・ピアノが12回も家(フィガロ・ハウス)から劇場や貴族邸に運び出され、毎日が演奏会であり、夜の1時前には眠ったことは一度もなく、9時前に起きることもなく、二時か二時半に食事をし、モーツァルトはいつも勉強か音楽か、書いたりしていることより、「私はどこへ行ったら良いのです?」と愚痴とも喜びともとれる息子モーツァルトの多忙ぶりを娘ナンネルに語るのである。(3月12日付書簡)

レオポルト2ヶ月半にわたりウィーンに滞在し、メールグルーペで6回催されたモーツァルトの予約演奏会をすべて聴き、モーツァルトに良く似たのカール・トーマス(前年1784年9月21日誕生)と過ごす喜びを持った後、4月25日に弟子のハインリヒ・マルシャンと共にウィーンを発ったのである。モーツァルトはウィーンから同行し、約10km程の所にあるブルカースドルフで見送ったのであるが、これが父と子の永遠の別れとなったのである。

レオポルトは、リンツを経由し、5月4日ミュンヘンに到着した。同地には1週間滞在した後、5月13日にはザルツブルクに帰郷したのである。7月27日にはレオポルトの住家で娘ナンネル(ゾンネンプール夫人)の息子が誕生している。
★この子供には祖父の名が与えられレオポルドゥス・アーロイス・パンタレオンと命名された。ナンネルは9月1日ザンクトギルゲンへと帰ったが、レオポルトは2年後に自分が世をさるまで手元において養育したのである。

皇帝ヨーゼフ2世フリーメイソンの啓蒙思想を自分の啓蒙主義改革に利用しようと考えその活動を容認したのであるが、ウィーンのロッジが予想以上の勢力拡大をとげてきたことに危機感を覚え、一転してフリーメイソンの抑制に乗り出したのである。まず手始めに「フリーメイソン勅令」を発布し、ウィーンの複数のロッジの段階的縮小・統合策をとり進めた結果、1787年には会員数も激減し、ロッジも「新・戴冠した希望」だけとなったのである。
モーツァルトは「フリーメイソン勅令」発布後も「新・戴冠した希望」に属して活動を続け、「洞窟」という新たなロッジ設立を目論んでいたとされている。


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フランツ・ヨーゼフ・ハイドン Franz Joseph Haydn             モーツァルト29歳のシルエット(1785年)
(1732年3月31日 - 1809年5月31日)                      レッシェンコールの版画
トーマス・ハーディによる肖像画 1792年作

★モーツァルトの影絵:版画家ヒエロニムス・レッシェンコールがシルエットに拠って1785年春に作成した版画作品。


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モーツァルト28歳・演奏活動絶頂期(ウィーン④1784年) [モーツァルト]

モーツァルトは「クラヴィーアの国」ウィーンに定住して4年目となる1784年を迎えた。

演奏会や出版などで必要な都度直ちに取り出すことが出来る様、2月から「私の全作品目録」と題した
自作目録」の作成を開始した。まず最初に記入した作品は、クラヴィーア協奏曲(第14番)変ホ長調
(K.449)で日付は2月9日と記載されている。
★この作品と4月に作曲されたクラヴィーア協奏曲(第17番)ト長調K.453はこの年から弟子となったバルバラ・フォン・ブロイヤー嬢
(1765-1811)のために作曲された。

2月26日から4月11日までの45日間にモーツァルトが父レオポルトに報告しているだけで25回の
演奏会でクラヴィーアを弾くのである(1784年3月3日付書簡)。
①ブルク劇場での公開演奏会が2回(1回を主催)
②トラットナーホーフ(トラットナー館)での公開演奏会が6回(3回を主催)
③ガリツィン侯爵邸の私的音楽会が毎週木曜で計5回
④エステルハージ伯爵邸の私的音楽会が毎週月曜と金曜で計9回
⑤ツィヒー伯爵邸、パールフィ伯爵邸、カウニッツ=リートベルク侯爵邸での演奏が各1回

午前中は弟子にクラヴィーアを教え、夜は殆ど毎日演奏し、更に、公開演奏会用に新しい作品を
書くのである。まさに引っ張りだこ・超多忙の売れっ子ピアニスト、モーツァルトなのである。

3月20日付で父レオポルトには予約演奏会(3月17日)の予約者リストを送付しているが、予約者は
174名に及び概要は次の通りである。
1.会員の性別
①男性会員:144名(83%)
②女性会員: 30名(17%)
2.身分
①高位貴族(伯爵家、公爵家一族):88名(50%)
②下位貴族(爵位買収者):74名(42%)
③市民階級:13名(8%)
3.職業
①高位官職者、宮廷職員関係者:12名(8%)
②ウィーン派遣外交官および宮廷代理人:18名(12%)
③枢密顧問官、宮中顧問官、参事官:33名(23%)
④その他の公務員:15名(10%)
⑤軍人:17名(12%)
⑥商人、工業家、銀行家:13名(9%)
⑦その他:37名(25%)

予約者リストによれば圧倒的に男性予約者が多いのは当時の社会身分制度によるものであるが、
2割近くを占める女性予約者たちは、高位高官者の夫人という身分の富裕階級であり、その多くが
モーツァルトと音楽を通じて親しくなった女性たちであり、ほとんどすべてが声楽やクラヴィーアを
たしなむ人たちであった。

これら予約者のうちフリーメイソン結社員は約40名、22%ほどの割合を占めているのである。モーツァルトは
この年12月14日にウィーンの分団「善行」に加わったが、それ以前に多数のフリーメイソンと交友関係に
あったのである。

4月29日には有名なマントヴァ出身の女流ヴァイオリン奏者ストリナザッキ(Regina Strinasacchi
1761-1829)のケルントナートーア劇場皇帝ヨーゼフ2世の臨席のもとに開かれた演奏会で
直前に作曲したヴァイオリン・ソナタ変ロ長調(K.454)を協演した。

★自作作品目録の日付は4月21日となっているが、この時書き上げたのはヴァイオリン・パートだけであり、モーツァルトの
クラヴィーア・パートは簡単な草稿を用いて記憶で演奏したとされている。

超多忙であった四旬節シーズンが明け、ほっと一息ついた頃の5月27日、モーツァルトは一羽の
ムクドリを購入した。このムクドリは、購入に先立つ4月12日にモーツァルトが前述の弟子のブロイヤー嬢
ために作曲した「クラビーア協奏曲(第17番)ト長調」(K.453)第三楽章の主題を見事に歌うのである。
モーツァルトがつけていた出納帳には"Vogel Stahrl 34 Kr.(椋鳥 34クロイツァー) ...
Das war schön!(お見事!)と記されている。(詳細は弊記事「モーツァルトと小鳥たち」をご参照)

ザルツブルクの姉ナンネル(当時33歳)が8月23日ザンクト・ギルゲンの地方管理官ベルヒトルト・
ツゥ・ゾンネンブルク(1736-1801)と結婚することになったが、これに先立つ8月18日モーツァルトは
5歳年上のナンネルにお祝いを述べると共に結婚の先輩として詩的アドバイスを書き送るのである。
≪。。。彼氏が不機嫌で、心あたりは何もないのに、渋面ばかりするならば、あなたは思えば
いいのです、あれは男の気まぐれと。そして彼氏に言うのです、「ご主人様、昼間はあなたの
お好きなように。けれども夜は、わたしのものよ。」≫ あなたの誠実な弟 W:A:モーツァルト

★ナンネルが結婚しザルツブルク市内の「モーツアルトの住家」いわゆる「タンツマイスターハウス」からザンクト・ギルゲン
(母マリア・アンナの生まれ故郷であった)に移り住んだので、父親レオポルトと娘ナンネルの間に文通が始められる。
このうちレオポルトの手紙が残されており、さまざまな情報を提供してくれることとなる。モーツァルトの手紙が
1784年夏頃から1787年5月まで現存しているのが非常に少ないことより、ナンネル宛のレオポルトの手紙で
モーツァルトのウィーンでの動向を多少なりとも知ることができるのである。(モーツァルトがレオポルト宛に出した手紙は
写しをとらずにナンネルに転送され、レオポルトにより保管されなかったことにもよる。)

9月21日には次男カール・トーマスが誕生した。
★次男は代父となったトラットナーホーフ(トラットナー館)の持ち主のヨハン・トーマス・フォン・トラットナーの名をとって
カール・トーマスと名づけられた。
★カール・トーマスは無事成長し、当初音楽家の道を歩んだが断念し、1810年ミラノのナポリ副王に仕える役人となり、
1858年10月31日に73歳の生涯をミラノで閉じた。

多忙さに比例して収入も飛躍的に増加し、29日にはグローセ・シューラー通り(現在のドームガッセ5番地、
ウィーンの中心地シュテファン大聖堂のすぐ裏)の豪華な家具付の借家(いわゆる「フィガロハウス」に
引っ越すのである。家賃は半年で230グルテンで、これまで住んでいた借家「トラットナー館」の家賃が
半年で75グルデンであったので3.5倍の家賃となったが、フィガロハウスは4つの部屋と2つの小部屋
及び台所がついており、4部屋を寝室、客間、仕事部屋と居間兼音楽室とし、さらに2つの小部屋も
ある立派なものであった。
この年にはアントン・ヴァルター製作のフォルテ・ピアノ(ヴァルター・フリューゲル)を購入し、その他、
ビリヤード台なども購入したのである。
★この頃、自家用馬車と乗馬用の馬も購入している。
★フィガロハウス:1784年9月29日(28歳)より1787年4月24日(31歳)まで住んだ借家で、ここで1986年(30歳)「フィガロの結婚」
(K.492)の作曲を完成したのでフィガロハウスと呼ばれている。モーツァルト夫妻が住んだ借家で唯一現存している建物で現在は
モーツァルトハウス・ウィーン”Mozarthaus Vienna"と呼ばれモーツァルト記念館となっている。
★アントン・ヴァルター製作のフォルテ・ピアノはモーツァルトの死後、コンスタンツェよりミラノに住む息子のカール・トーマスに
送られた。 1856年にカール・トーマスはそれをモーツァルテウム(国際モーツァルテウム財団)に寄贈し、現在は
「モーツァルトの生家」(ザルツブルク)に展示されている。

前述の通りモーツァルトは12月14日 フリーメイソンのロッジ(分団)の「善行」に入会した。
当時は皇帝ヨーゼフ2世の啓蒙主義的治世下にあってフリーメイソン全盛の時代でもあった。
フリーメイソンには貴族・学者・医師・富裕市民がこぞって入会したのである。
フリーメイソンの掲げる宗教ドグマを超越した態度、自己鍛錬による精神的な修業と向上、さらに、
「自由、博愛、平等」といった啓蒙主義、愛と理性による救済など思想的にモーツァルトは
強く惹きつけられたのである。

★フリーメイソンはもともとは中世の石工の組合を起源にした団体であることより、その位階は石工の徒弟制度に由来し、
第一位階が「徒弟」、第二位階が「職人」、第三位階が「親方(マスター)」と呼称される。モーツァルトは1784年12月14日に
入会後、1ヶ月未満の1785年1月7日に第二位階に昇進し、更に1週間で第三位階(マスター)に昇進したとされている。



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フリーメイソンの集会(油彩画、前列右端の剣を左に置いているのがモーツァルトであるとされている。)


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モーツァルト27歳・演奏会の成功とザルツブルク里帰り(ウィーン③1783年) [モーツァルト]

前年1782年8月4日にウィーンで結婚式を挙げたモーツァルトは妻のコンスタンツェを帯同して
極力早い機会に最愛の父レオポルトと姉ナンネルの住むザルツブルク一時帰郷を実現したいと
考えていた。当初1782年11月に帰郷の準備をしていたが、コンスタンツェの妊娠と体調もあり
1783年に持ち越したのである。

★モーツァルトは1782年10月19日付の書簡で父レオポルトの命名の祝日である11月15日までに一時帰郷をしたいが、
年末は音楽会の季節でもあり多忙となるので翌年春に行くつもりであると語っていた。その後、11月13日付の書簡では
明日(11月14日)発とうとしていたが、コンスタンツェのひどい頭痛のため延期せざると得なくなったと父レオポルトに
連絡しているのである。

1783年の活動は1月4日に宮中顧問官シュビールマン氏の音楽会に出席することから始まり、
1月15日には「ウィーン新聞」に3曲のクラヴィーア協奏曲(K.413/387a, K.414/385p, K.415/387b)
筆写譜販売広告を出したのである。
クラヴィーア協奏曲(第11番)へ長調K.413(387a)(第12番)イ長調K.414(385p)(第13番)ハ長調K.415(387b)
いずれも前年1782年秋から末にかけて書かれた。
★この販売(3曲で4ドゥカーテン)は予約者が集まらず失敗に終わっている。

レオポルトには1月4日付で年初の手紙を書き、コンスタンツェと結婚できた暁にはザルツブルクの
教会にミサ曲を捧げるとの誓約を心の中でたてたが、そのミサ曲の半分は完成していると語るのである。
★K.427(417a)ミサ曲 ハ短調(キリエ、グローリア、サンクトゥス、ベネディクトゥスのみ完成、その他は未完) 作曲時期82年末~
83年5月頃。1783年10月26日聖ペテロ大修道院付属教会で演奏されることになる。

3月23日には皇帝ヨーゼフ2世臨席のもと、ブルク劇場公開演奏会を主催し、異常なほど熱烈な
好評を博し、大成功をおさめたのであるがこの演奏会の模様につき父レオポルトに次の通り
報告している。(1783年3月29日付書簡)

≪ぼくの演奏会の成功について、あれこれ語るまでもないと思います。たぶん、もう評判をお聞きに
なったでしょう。要するに、劇場はもう立錐の余地がないほどで、どの桟敷席も満員でした。
なりよりもうれしかったのは、皇帝陛下もお見えになったことです。そして、どんなに楽しまれ、
どんなにぼくに対して拍手喝采してくださったことか。(中略)なにしろ、皇帝のご満足は際限が
なかったのですから。25ドゥカーテンを賜りました。≫

上述のモーツァルトの書簡でこの演奏会のプログラムが記載されている。次の通りであり、
まず交響曲「ハフナー」K.385の最初の楽章(第1楽章から第3楽章)が演奏され、プログラムの
最後に再度同じ交響曲「ハフナー」の終楽章(第4楽章)で締めくくられる構成となっている。
その間、協奏曲、声楽曲(アリア)、独奏曲(モーツァルト自身による即興演奏を含む)など
盛り沢山な内容となっており、皇帝ならずとも大満足し得るプログラムなのである。

①「ハフナー交響曲」(K.385) (第1/2/3楽章)
②アロイジア・ランゲ夫人(ソプラノ、旧姓ヴェーバー)の独唱によるオペラ「イドメネオ」(K.366)の第11曲イーリアのアリア 「今やあなたが私の父」
③モーツァルトの独奏による「クラヴィーア協奏曲(第13番)ハ長調」(K.415/387b)
④アダムベルガー(テノール)独唱によるシェーナ「哀れな私は,どこにいるの"Misera, dove son!"」(K.369)
⑤コンチェルタンテ楽章:「ポストホルン・セレナード」(K.320)の第三楽章コンチェルタンテ・アンダンテ・グラツィオーソ
⑥モーツァルト独奏による、ロンド・フィナーレ(K.382)付の「クラヴィーア協奏曲 ニ長調」(K.175)
⑦タイバー嬢独唱による「ルーチョ・シッラ」(K.135)のジューニアのアリア
⑧モーツァルトのクラヴィーア独奏で小フーガ(即興演奏)と変奏曲2曲(K.398/416eK.455
⑨アロイジア・ランゲ夫人独唱によるレチタティヴォとアリア「わが憧れの希望よ、ああ、おまえはしらないのだ、その苦しみがどんなものか」(K.416)
⑩「ハフナー交響曲」(K.385)の終楽章

★変奏曲2曲:K.398/416a=≪パイシェッロのオペラ「哲学者気取り、または星占いたち」の「主よ、幸いあれ」による
6つの変奏曲 へ長調≫とK.455 =≪グルックの「メッカの巡礼たち」のアリエッタ「愚民の思うは」による10の変奏曲 ト長調≫

≪親愛なお父さん!おめでとう、あなたはお爺ちゃんになりました!きのうの朝、17日の6時半に、
愛する妻が、大きくて、元気な、ボールのようにまるまるとした男の子を無事出産しました。≫
(モーツァルトよりザルツブルクの父レオポルトへの1783年6月18日付書簡)

6月17日無事長男が誕生し、名づけ親(教父)となった友人の男爵ライムント・ヴェツラル・フライヘル・
フォン・プランケンシュテルンの名から「ライムント」と父レオポルトの名をとって「ライムント・レオポルト」と
名づけられた。目鼻立ちがモーツァルトに瓜ふたつで妻コンスタンツェ共々大喜びなのである。

この生後1ヶ月程の赤ん坊を乳母に預け、モーツァルトは7月末コンスタンツェを連れ、ザルツブルク
里帰りを果たすのである。コンスタンツェを父レオポルトと姉ナンネルに紹介し、結婚に際して生じた
気まずさを修復しようとの意図もあったのであろう。

故郷ザルツブルクには約3ヶ月ほど滞在し、家族で教会に行ったり、友人たちと音楽をしたり、オペラや
演劇を観たりして旧交を温めるのである。

ザルツブルクを発つ1日前の10月26日、聖ペテロ教会で「ハ短調ミサ曲」(K.427/417a)を捧げ、
コンスタンツェソプラノ・パートを歌った。ザルツブルク宮廷楽団や宮廷歌手が友情出演してくれたのである。
★聖ペテロ教会(ザンクトペーター教会又は聖ペーター僧院教会、St.Petersstiftskirche)ザルツブルクの守護聖人である
聖ルーペルトスが696年に開いたベネディクト派の教会であり、ドイツ語圏のなかでは最も古いとされる男子修道院に付属する教会。

翌27日ザルツブルクを発ったモーツァルト夫妻はランバッハを経由し30日にリンツに到着、旧知のトゥーン・
ホーヘンシュタイン伯爵邸で1ヶ月程を過ごすのである。わずか4日間で「リンツ交響曲」(K.425)を
作曲しリンツの劇場(フライハウス)で初演した。その後、リンツ滞在中にウィーンで演奏するため
クラヴィーア・ソナタ変ロ長調 K.333の作曲を手がけるのである。

★ヨハン・ヨーゼフ・アントン・トゥーン・ホーヘンシュタイン伯爵:(1711-1788)。リンツのフリーメイスン分団≪七賢人≫の主席であった。
★リンツ関連については弊記事ピアノ・ソナタ(第13番)変ロ長調 と動物たちをご参照。
★今回のザルツブルク一時帰郷がモーツァルトにとっては最後の帰郷となり、又、5歳年長の姉ナンネルと会ったのも今回が
最後となり、その後二度と再会することはなかったのである。

12月初め4ヶ月ぶりにウィーンに戻ったモーツァルト夫妻は、息子ライムント・レオポルトが3ヶ月以上も
前の8月19日に腸閉塞で死んだことを知らされたのである。12月6日の父宛の手紙にも、
≪ぼくら二人とも、あの哀れな、まる肥りの可愛い坊やの死をいたく悲しんでいます。≫
付記するのである。
★12月6日以前にもウィーン無事到着と長男の死をザルツブルクの父レオポルトに書いていると思われるが、
この書簡は消失している。

12月22日ブルク劇場でウィーン音楽芸術家協会の演奏会が催され、モーツァルトの新作の
レチタティーボとアリアあわれな男よ!夢なのか?あたり吹くそよ風よ "Misero! O sogno...
Aura, che intorno spiri"」(K.431/425b)をアダムベルガー(テノール)が歌い、モーツァルト
協奏曲を1曲演奏したのである。

12月29日には「二台のクラヴィーアのためのフーガ ハ短調」(K.426)を作曲しており、
モーツァルトが「クラヴィーアの国」と呼んだウィーンにおいて演奏家・作曲家として更なる飛躍の年
1784年を迎えるのである。
★フーガ ハ短調K.426:「バッハ・ヘンデル体験」に刺激を受けたモーツァルトのフーガ作品の一つ。


リンツの市街馬車.jpg     
1840年のリンツ "Linz"。 ドナウ川沿いに位置し、約70キロ北西にドイツのパッサウ、150キロ東にウィーンが
位置している。ウィーンとザルツブルクの路線上のほぼ中間地点にある。商工業都市として栄え現在はウィーン、
グラーツに続くオーストリア第三の都市である。


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