宮廷画家ゴヤは描く [美術]
フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes,
1746年3月30日 - 1828年4月16日)は、ディエゴ・ベラスケス
(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez, 1599年 - 1660年)と共に、
スペイン最高の宮廷画家です。
1786年、40歳で国王カルロス3世付き画家となり、1789年には新王カルロス4世の
宮廷画家となりました。
スペイン最高の画家としての地位を得たゴヤですが、1792年、46歳の時に
不治の病に侵され聴力を失ってしまいます。
今回とりあげるエッチング作品集「闘牛技」や代表作として知られる「カルロス4世の家族」、
「着衣のマハ」、「裸のマハ」、「マドリード、1808年5月3日」などはいずれも、ゴヤが聴力を失って
以後の後半生に描かれたものです。
折りしも時代は、1807年、ナポレオン率いるフランス軍がスペインを侵略し、
翌1808年にはナポレオンの兄ジョゼフがホセ1世としてスペイン王位につき、
事実上、ナポレオン軍の支配下に置かれたスペインは、1808年から1814年にかけて
イギリス軍、ポルトガル軍も巻き込んでの半島戦争(イベリア半島戦争)のさなかにありました。
ゴヤ自画像1815年
1814年にフランス勢力がスペインから駆逐され、フェルナンド7世が復位した直後、
ゴヤは「闘牛技」(La Tauromaquia)と題した初版33枚のエッチング作品集
を1814年から1815年にかけて完成させ、1816年よりその販売を開始します。
半島戦争(スペイン独立戦争)の殺伐とした光景、正規戦であれゲリラ戦であれ
戦争そのものが生み出す不合理と不条理を宮廷画家として冷静な目で見据えてきた
ゴヤにとって、好きな闘牛を画材とすることに大きな喜びを感じたことでしょう。
ゴヤはエッチング作品集「戦争の惨禍」で不合理と不条理、フランス軍によるゲリラ兵の虐殺を描いています。
☆「戦争の惨禍」”Los desastres de la Guerra" :1810-15年(全82点。初版1863年)
ゴヤの「闘牛技」を鑑賞することは「闘牛の歴史」に触れることにもなりますが
この作品集は「闘牛の歴史」という観点より次の通り4区分できるでしょう。
1)騎馬闘牛(貴族のスポーツとしての騎馬闘牛)
2)規則確立以前の闘牛(闘牛規則が確立される18世紀以前の闘牛。モーロ人中心)
3)規則確立後の闘牛(18世紀初頭の闘牛規則確立後の闘牛。当時の有名な闘牛士等を描く)
4)その他(闘牛場でのトッピクス等)
では、上記4区分中1)~3)の作品を3点ずつ順番に鑑賞しましょう。。。
1)騎馬闘牛(貴族のスポーツとしての騎馬闘牛。18世紀以前。想像画)
El animoso moro Gazul es el primero que lanceó toros en regla
勇壮なモーロ人(ムーア人)ガスールは、規則に従って牡牛を
槍で突いた最初の人である
Carlos V. lanceando un toro en la plaza de Valladolid
カルロス5世、バリャドリード闘牛場で、槍で牡牛を突く
注:カルロス5世=カール5世(Karl V, 1500年2月24日 - 1558年9月21日)は、ハプスブルク家出身の
神聖ローマ帝国皇帝(在位:1519年 - 1556年)。スペイン王としてはカルロス1世(Carlos I,
在位:1516年 - 1556年)。有能な君主であった。
Un caballero español en plaza quebrando rejuncillos sin auxilio de los chulos
闘牛場で助手の手を借りずに短槍で牡牛を突くスペインの騎士
2)規則確立(18世紀初頭)以前の闘牛
(スペインに移住していたイスラム教徒であるモーロ人闘牛士中心)
Modo con que los antiguos españoles cazaban los toros a caballo en el campo
昔のスペイン人が馬に乗って野原で牡牛を狩った方法
Los moros hacen otro capeo en plaza con su albornoz
モーロ人が広場でアラビアマントを使って別のカペーオ(牛をあしらう)をする
注:ピンク色の大きな布(重さ約5kg)で巧みに牛をあしらう「キテ」”Quite”と呼ばれる技の起源。
Origen de los arpones o banderillas
鉾槍もしくはバンデリーリャの起源
3)闘牛(規則が確立された後の闘牛)
Pedro Romero matando a toro parado
ペドロ・ロメロ、静止した牡牛を殺す
注:ペドロ・ロメロは当時の有名な闘牛士
Banderillas de fuego
炎のバンデリーリャ
注:牡牛があまりにも闘争心に欠ける場合、爆竹つきの銛を打ち込み
炸裂させて闘争心を煽ることを「炎のバンデリーリャ」と呼びます。
Dos grupos de picadores arrollados de seguida por un solo toro
一頭の牡牛に連続して倒される二組のピカドール
闘牛以外のゴヤの代表的作品(いずれもプラード美術館蔵);
La familia de Carlos IV
カルロス4世の家族(1800年~1801年)
☆カルロス4世の家族:
中央部にカルロス4世(スペイン国王在位1788~1808)とその妃マリア・ルイサを配し、
左端から2番目に、のちのフェルナンド7世を描いている。
ゴヤ自身もフェルナンドの後ろでカンバスに向かっている。(この画像では見難いですが)。
拡大画像
クリックでプラード美術館のOn-line galleryの拡大画像がご覧になれます。
カルロス4世の家族
La Maja vestida
着衣のマハ(1798年~1803年)
La Maja desnuda
裸のマハ(1797年-1800年頃)
「裸のマハ」はスペイン屈指の裸婦作品です。
光と影が実にうまく表現されており、洗練された美への探究心を感じさせます。
El tres de mayo de 1808 en Madrid
Los fusilamientos en la montaña del Príncipe Pío
マドリード1808年5月3日(1814年)
☆マドリード1808年5月3日
「プリンシペ・ピオの丘での銃殺」としても知られている。
抵抗した一般市民数百名をフランス軍は銃殺した。ゴヤはこの絵を通じ銃殺された人々
全員の命を表現しています。
拡大画像はこちら クリックでプラード美術館のOn-line galleryの拡大画像がご覧になれます。
La lechera de Burgos
ボルドーのミルク売り娘(1825年~1827年)
ゴヤはスペインでの自由主義者弾圧を避け1824年、78歳の時にフランスに亡命し、
ボルドーに定住しました。
この絵のモデルは毎朝牛乳を届けに来た少女であろうと思われますが確認されていません。
約半世紀後に登場する印象派のさきがけ的なゴヤの新たな画風の息吹が感じられる作品です。
尚、ミロス・フォアマン監督が映画「宮廷画家ゴヤは見た」”Goya's Ghost"の「少女イネス役」に
ナタリー・ポートマン(Natalie Portman、1981年6月9日 - )を起用した理由は、
彼女がこの絵の「ミルク売り娘」に一番似ていたからだそうです。
1828年4月16日、ゴヤは亡命先のフランス(ボルドー)で82年の波乱に満ちた生涯を
閉じますが、この「ボルドーのミルク売りの少女」の画風にみられる様に最後の最後まで
新たな画風を追求し、情熱をもって描き続けたのです。
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(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez, 1599年 - 1660年)と共に、
スペイン最高の宮廷画家です。
1786年、40歳で国王カルロス3世付き画家となり、1789年には新王カルロス4世の
宮廷画家となりました。
スペイン最高の画家としての地位を得たゴヤですが、1792年、46歳の時に
不治の病に侵され聴力を失ってしまいます。
今回とりあげるエッチング作品集「闘牛技」や代表作として知られる「カルロス4世の家族」、
「着衣のマハ」、「裸のマハ」、「マドリード、1808年5月3日」などはいずれも、ゴヤが聴力を失って
以後の後半生に描かれたものです。
折りしも時代は、1807年、ナポレオン率いるフランス軍がスペインを侵略し、
翌1808年にはナポレオンの兄ジョゼフがホセ1世としてスペイン王位につき、
事実上、ナポレオン軍の支配下に置かれたスペインは、1808年から1814年にかけて
イギリス軍、ポルトガル軍も巻き込んでの半島戦争(イベリア半島戦争)のさなかにありました。
ゴヤ自画像1815年
1814年にフランス勢力がスペインから駆逐され、フェルナンド7世が復位した直後、
ゴヤは「闘牛技」(La Tauromaquia)と題した初版33枚のエッチング作品集
を1814年から1815年にかけて完成させ、1816年よりその販売を開始します。
半島戦争(スペイン独立戦争)の殺伐とした光景、正規戦であれゲリラ戦であれ
戦争そのものが生み出す不合理と不条理を宮廷画家として冷静な目で見据えてきた
ゴヤにとって、好きな闘牛を画材とすることに大きな喜びを感じたことでしょう。
ゴヤはエッチング作品集「戦争の惨禍」で不合理と不条理、フランス軍によるゲリラ兵の虐殺を描いています。
☆「戦争の惨禍」”Los desastres de la Guerra" :1810-15年(全82点。初版1863年)
ゴヤの「闘牛技」を鑑賞することは「闘牛の歴史」に触れることにもなりますが
この作品集は「闘牛の歴史」という観点より次の通り4区分できるでしょう。
1)騎馬闘牛(貴族のスポーツとしての騎馬闘牛)
2)規則確立以前の闘牛(闘牛規則が確立される18世紀以前の闘牛。モーロ人中心)
3)規則確立後の闘牛(18世紀初頭の闘牛規則確立後の闘牛。当時の有名な闘牛士等を描く)
4)その他(闘牛場でのトッピクス等)
では、上記4区分中1)~3)の作品を3点ずつ順番に鑑賞しましょう。。。
1)騎馬闘牛(貴族のスポーツとしての騎馬闘牛。18世紀以前。想像画)
El animoso moro Gazul es el primero que lanceó toros en regla
勇壮なモーロ人(ムーア人)ガスールは、規則に従って牡牛を
槍で突いた最初の人である
Carlos V. lanceando un toro en la plaza de Valladolid
カルロス5世、バリャドリード闘牛場で、槍で牡牛を突く
注:カルロス5世=カール5世(Karl V, 1500年2月24日 - 1558年9月21日)は、ハプスブルク家出身の
神聖ローマ帝国皇帝(在位:1519年 - 1556年)。スペイン王としてはカルロス1世(Carlos I,
在位:1516年 - 1556年)。有能な君主であった。
Un caballero español en plaza quebrando rejuncillos sin auxilio de los chulos
闘牛場で助手の手を借りずに短槍で牡牛を突くスペインの騎士
2)規則確立(18世紀初頭)以前の闘牛
(スペインに移住していたイスラム教徒であるモーロ人闘牛士中心)
Modo con que los antiguos españoles cazaban los toros a caballo en el campo
昔のスペイン人が馬に乗って野原で牡牛を狩った方法
Los moros hacen otro capeo en plaza con su albornoz
モーロ人が広場でアラビアマントを使って別のカペーオ(牛をあしらう)をする
注:ピンク色の大きな布(重さ約5kg)で巧みに牛をあしらう「キテ」”Quite”と呼ばれる技の起源。
Origen de los arpones o banderillas
鉾槍もしくはバンデリーリャの起源
3)闘牛(規則が確立された後の闘牛)
Pedro Romero matando a toro parado
ペドロ・ロメロ、静止した牡牛を殺す
注:ペドロ・ロメロは当時の有名な闘牛士
Banderillas de fuego
炎のバンデリーリャ
注:牡牛があまりにも闘争心に欠ける場合、爆竹つきの銛を打ち込み
炸裂させて闘争心を煽ることを「炎のバンデリーリャ」と呼びます。
Dos grupos de picadores arrollados de seguida por un solo toro
一頭の牡牛に連続して倒される二組のピカドール
闘牛以外のゴヤの代表的作品(いずれもプラード美術館蔵);
La familia de Carlos IV
カルロス4世の家族(1800年~1801年)
☆カルロス4世の家族:
中央部にカルロス4世(スペイン国王在位1788~1808)とその妃マリア・ルイサを配し、
左端から2番目に、のちのフェルナンド7世を描いている。
ゴヤ自身もフェルナンドの後ろでカンバスに向かっている。(この画像では見難いですが)。
拡大画像
クリックでプラード美術館のOn-line galleryの拡大画像がご覧になれます。
カルロス4世の家族
La Maja vestida
着衣のマハ(1798年~1803年)
La Maja desnuda
裸のマハ(1797年-1800年頃)
「裸のマハ」はスペイン屈指の裸婦作品です。
光と影が実にうまく表現されており、洗練された美への探究心を感じさせます。
El tres de mayo de 1808 en Madrid
Los fusilamientos en la montaña del Príncipe Pío
マドリード1808年5月3日(1814年)
☆マドリード1808年5月3日
「プリンシペ・ピオの丘での銃殺」としても知られている。
抵抗した一般市民数百名をフランス軍は銃殺した。ゴヤはこの絵を通じ銃殺された人々
全員の命を表現しています。
拡大画像はこちら クリックでプラード美術館のOn-line galleryの拡大画像がご覧になれます。
La lechera de Burgos
ボルドーのミルク売り娘(1825年~1827年)
ゴヤはスペインでの自由主義者弾圧を避け1824年、78歳の時にフランスに亡命し、
ボルドーに定住しました。
この絵のモデルは毎朝牛乳を届けに来た少女であろうと思われますが確認されていません。
約半世紀後に登場する印象派のさきがけ的なゴヤの新たな画風の息吹が感じられる作品です。
尚、ミロス・フォアマン監督が映画「宮廷画家ゴヤは見た」”Goya's Ghost"の「少女イネス役」に
ナタリー・ポートマン(Natalie Portman、1981年6月9日 - )を起用した理由は、
彼女がこの絵の「ミルク売り娘」に一番似ていたからだそうです。
1828年4月16日、ゴヤは亡命先のフランス(ボルドー)で82年の波乱に満ちた生涯を
閉じますが、この「ボルドーのミルク売りの少女」の画風にみられる様に最後の最後まで
新たな画風を追求し、情熱をもって描き続けたのです。
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闘牛(その1)騎馬闘牛
闘牛(その2)
カルメン(オペラ)闘牛士の歌
マネの描くハプスブルク家の悲劇
いつもありがとうございます。
私のブログに書かせていただきましたが、屋島の標高は293mで、ご想像どおりでした。
by 塩 (2009-09-25 09:49)
う~ん、いつもながら勉強になります(^^)/
すいません、いつもながらなコメントで・・・。
by nekotaro (2009-09-25 11:15)
Dr.塩!こんにちは~☆
こちらこそいつもありがとうございます!
標高293mでしたか。本当にロマン溢れる風景ですね☆
by アマデウス (2009-09-25 12:29)
nekotaroさん!こんにちは~☆
こちらこそすみません、いつものレスで。。。
勉強なんて。。。(//∇//) テレテレ
お互いエールの交換ですよね~☆
by アマデウス (2009-09-25 12:37)
ゴヤの作品を20年前、プラド美術館で見ました。
添乗員の方が美術に詳しくて、色々な話を聞きました。
中でも『カルロス4世の家族』の逸話・・・真ん中の王子様は、本当は
王様の子供でなく間男(記憶では、左の青い服の紳士)の子供で
わざと王様でなく、その間男に似せて王子を描いたとか・・・
左後ろのお婆さんにゴヤが意地悪されたので、わざと【アザ】を大きく
描いた・・・とか聞いた事を思い出します。
by kontenten (2009-09-25 19:11)
kontentenさん!こんにちは~☆
いつもコメントありがとうございます!
「カルロス4世の家族」には色んな逸話がありますが、それだけ親しまれていると言えるのでしょうね☆
因みに;
①真ん中の王子(Francisco de Paula Antonio de Borbon)は当時の第一首相Manuel Godoyにそっくりであったことから、王妃との関係の逸話となった。
(左の青い服は長男のFernando王子で後の国王Fernando7世です。)
②ご指摘の「後ろのお婆さん」はカルロス4世の姉(Maria Josefa Camela)で向かって左側の目の横辺りに大きな黒いアザがありますね。
③王女とカルロス4世の表情にゴヤの風刺を込めた(王女は見方によっては「いじわるそうな顔」に見える。
☆真偽の程はともかくとして面白い逸話ですよね~☆
by アマデウス (2009-09-25 22:35)
もう20年ほど前に実家近くの美術館でゴヤ展を見ました。
一人で行ったと思います。
闘牛の絵もあったような??
by Cecilia (2009-09-25 23:03)
Ceciliaさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます。
国立西洋美術館と京都市美術館で過去大々的なゴヤ展が開催されていますね☆
by アマデウス (2009-09-26 07:05)
闘牛の絵をみていると「トレアドール」歌いたくなってきました!
by LittleMy (2009-09-28 16:23)
LittleMyさん!こんにちは~☆
「トレアドール」の歌、粋で威勢が良くてスカッとしますよね☆
コメントありがとうございます!
by アマデウス (2009-10-02 06:35)
闘牛の絵、臨場感がとても伝わってきますね。
素敵です!
by 黄昏の線路 (2009-10-02 21:44)
黄昏の線路さん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
モノトーンでありながら光と影を使ってうまく臨場感を表していますよね☆
by アマデウス (2009-10-03 12:43)