モーツァルトの馬車の旅 [モーツァルト]
モーツァルトは3歳で極めて鋭い音感を現わし、5歳の時に作曲を開始するのであるが、
幼い息子の才能をいち早く見抜いた父レオポルトは、息子の才能を伸ばす為には音楽の中心地に
向かっての修業旅行が必要と判断すると同時に息子と娘ナンネルの類稀なる才能を出来る限り
多くの人々に示したいと考え、モーツァルトが満6歳にもならない時から、1780年末、25歳で
ウィーンに定住を決断するまでのザルツブルク時代に全11回、延べ10年あまりに及ぶ
旅行をするのである。
1回の旅行期間は3週間程度のものから、数年に及ぶものもあり、西はマンハイム、パリ、
ロンドンまで南はローマ、ナポリに至るのである。
これらの旅行を通してモーツァルトの楽才と感性は着実に磨かれて行くのであるが、
自動車や鉄道のないこの時代の主たる交通手段は馬車によるものであった。
馬車の歴史は極めて古く、遠くは古代ローマ帝国時代から馬車は利用されていた。
因みにオープンカーのことを指す「カブリオレ」とか、荷物を多く積める「ワゴン」とか、
「クーペ」などの単語が自動車業界で使われているが、これらの言葉はいずれも本来
馬車に使われていた言葉である。
★カブリオレ(cabriolet) - 1頭立ての2輪幌馬車
★ワゴン(wagon) - 通常2頭立て以上の4輪荷馬車
★クーペ(coupe) - 2人乗りの4輪箱型馬車
モーツァルト没後76年が経過した1867年に、車輪の外周にゴムを取り付ける手法が
もちいられるようになり、それまでの金属、木の車輪から脱皮する事になる。
★1888年にイギリスの獣医師ジョン・ボイド・ダンロップが自転車用の空気入りタイヤを実用化した。
それまでのゴムタイヤは空気入りではなく、ソリッドゴム(総ゴム)タイヤであった。
馬車の時代の舗装は市街地であればローマ時代からの石畳の舗装があったが、ひとたび市外に
出れば全くの未舗装道路であり、現代の自動車でも古い町並みの石畳を走るとそれなりに
揺れるわけで、ましてや全木製或いは木製のホイールに接地面だけ鉄を貼り付けた車輪をつけ、
ショックアブゾーバーもない馬車で走れば、例え平均時速11~15kmだとしても想像を絶する
振動であり、腰、尻はもとより全身がおかしくなりそうである。
父レオポルトや息子のヴォルフガング・アマデウスはその手紙の中で馬車の激しい振動や
愛想の悪い乱暴に馬を操る御者、馬車の転倒によるレオポルトの負傷、厳寒の冬の辛さ
などについて言及している。但し、中には御者の腕が良く快適な旅であったとしている手紙もあるが、
これは旅行をした季節、道路事情や使用した馬車の種類の違いなどにもよると思われる。
当時の馬車は次の通り分類される。
①自家用馬車
15世紀まで馬車は王侯、高位聖職者、豪商の私有物に限られていた。モーツァルトの
父レオポルトは私有馬車を購入し、郵便馬車、駅馬車、辻馬車と共に旅行に応じ使い分けていた。
②郵便馬車
料金をとり旅行客も乗せていた。随所に馬屋が設けられており、馬は16〜24キロ毎に
別の馬と交換した。4頭立てで4人が客室内に乗車できた。郵便は後部に設けられた箱に
入れられていた。料金的には割高で一般に裕福な層が利用した。
郵便馬車は郵便輸送のための停車しかしなかったため駅馬車よりも速く目的地に着いた。
★日本では明治初期の郵政事業開始時の1870年代から郵便輸送に馬車が用いられた。東京では1925年
(大正15年)まで使われていた。
③駅馬車
最初は注文要請された場所まで行くチャーター便だけで、そのうちに一定の区間、(街道や街、
港等の往復)を走るようになり、運行時間が決まった、定期輸送便へと進化していった。又、
各地に駅馬車の止る宿が出来た。
★日本では明治時代(1869年)から東京~横浜間を乗客輸送用として乗合馬車の営業を開始させたのを機に馬車が
普及し日本各地で広まり、自動車やバスが普及されるまで存続した。
④辻馬車(市街地を走る馬車)
走行時間によって料金が設定されていた。
ウィーンではフィアカー(Fiaker)と呼ばれる辻馬車があり、1693年、ハプスブルク家の
レオポルドⅠ世が営業許可を与えて以来の長い伝統がある。19世紀末にウィーンを
駆け抜けるフィアカーは1000台を越えたとされている。文字通り市民の足となっていた。
今日でも観光用として約50台強のフィアカーが名所・旧跡めぐりに従事している。
★レオポルト1世(1640年6月9日-1705年5月5日)は、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝(在位:1658年 - 1705年)、
オーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王(在位:1655年 - 1705年)。フェルディナント3世と皇后マリア・アンナの
成人した2番目の息子。
当時の馬車における一般的なサスペンションは、フレームからキャビンを数本のベルトを
介して吊るものか、今日で言うリーフ・スプリングを採用した馬車だった。いずれも揺れや跳ねを
吸収・減衰するショックアブソーバーはなかった。
長距離を走る郵便馬車や駅馬車は4~6頭だて、辻馬車は1~2頭、自家用馬車は1~6頭だて
であった。ボディは木骨製だけに、相当軋み音もしたであろうと思われる。
モーツァルトにとっては概して過酷な馬車の旅であったにも拘わらず、旅行を通じて
自分の楽才・感性が着実に磨かれて行くことを自覚しており、旅の重要性について
次の通り述べているのである。
≪。。。ぼくは断言しますが、旅をしないひとは(少なくとも芸術や学問にたずさわるひとたちでは)
まったく哀れな人間です!そして、もし大司教が二年ごとに一回の旅を許可してくれないなら、
ぼくはどうしても契約を受け入れるわけにはいかないと、断言しておきます。凡庸な才能の人間は、
旅をしようとしまいと、常に凡庸なままです。-でも、優れた才能のひとは(ぼく自身それを認め
なければ、神を冒瀆するものです)。-いつも同じ場所にいれば、だめになります。≫
ザルツブルクの父宛 パリ、1778年9月11日付
駅馬車に関してのモーツァルトの感想をひとつだけとりあげてみると。。。
≪。。。あの馬車では魂が放り出されます!-そして座席ときたら!-まったく痣だらけでー
おそらく火のように赤くなっていたでしょう。二つの駅の間ずっと、クッションに両手を突っ込んで、
お尻を宙に浮かせていました。。。これからは原則として、駅馬車で行くよりは、むしろ徒歩で
行ったほうがよさそうです。≫
ザルツブルクの父宛 ミュンヘン、1780年11月8日付 白水社 モーツァルト書簡全集より
ウィーンのフィアカー(Fiaker):現在の観光馬車 4人用馬車
(自動車が出現するまでは辻馬車として活躍) レオポルドが購入したのはこの画像の様な馬車であったと思われる。
郵便馬車が使用したホルンが使われる、モーツァルトが作曲したセレナーデ第9番ニ長調
K.320を聴きながら郵便馬車の旅と当時の宮廷舞踊であったメヌエットに思いを馳せましょう。
尚、このセレナーデは第6楽章(第2メヌエット)の第2トリオでポストホルン”Posthorn”
(郵便馬車のホルン)が用いられていることから「ポストホルン・セレナーデ」とも呼ばれています。
★この曲は1779年8月3日にザルツブルクで完成された。どのような経緯で作曲されたかについては確証はないが、
モーツァルトが作曲したセレナーデの中でも楽器編成が大きく、規模も大きいことから、何らかの祝典のために作曲された
と考えられている。ポストホルンは馬車の出発を暗示することから、モーツァルトはザルツブルクを去って行く知人への
思いを託してこの楽器を使用したとする説もある。最も有力な説としてはザルツブルク大学の教養課程(2年間)の終了式典で
演奏されたという説がある。教養課程を修了し、休暇に入る学生達が駅馬車でそれぞれの故郷に帰る姿を想定したとされている。
★ザルツブルク時代の最後を飾ることとなったこのセレナーデは、1777年から1778年のマンハイムとパリへの旅行で
モーツァルトが得た経験が巧みに取り入れられている。同じ時期に作曲された「パリ交響曲」K.297や協奏交響曲K.364に
劣らぬ名作として知られている。
セレナーデ第9番ニ長調K.320「ポストホルン」第6楽章メヌエット II: トリオ I, トリオ II
バイエルン放送交響楽団:Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
指揮:サー・コリン・デイヴィス Sir Colin Davis
第2トリオでポストホルン(但し、この演奏ではホルンで代用している。)
画像は当時の宮廷舞踊であるメヌエットを描いている。
参考画像
画像の最初の方にフィアカーが登場します。
シェーンブルン宮殿(独語:Schloss Schönbrunn)
オーストリアの首都ウィーンにある宮殿。ハプスブルク王朝の歴代君主が主に離宮として使用した。
宮殿と庭園群は世界遺産に登録されている。
★1693年 レオポルト1世(在位:1658年 - 1705年)が狩猟用の別荘をつくった。歴代の皇帝らが増築・造作を
行い、女帝マリア・テレジア(在位:1740年 - 1780年)の時代に完成された。ウィーン風ロココ様式といわれている。
★1762年 6歳の神童モーツァルトが招待されクラヴィーアを演奏した。
この時宮殿内で転んだモーツァルトをマリー・アントワネットが助け起こしたところ、モーツァルトが「僕と結婚して」と
プロポーズした、という伝説がある。
シェーンブルン宮殿の馬車博物館(最初の約3分間)
皇帝専用馬車など宮廷で使用された馬車が常時50台以上展示されている。
Besuch der Wagenburg, des Palmenhauses und des Wüstenhauses bei
Schloss Schönbrunn (Visit of the Coach-House,Palm-House and Desert-House)
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モーツァルトの西方大旅行②(ロンドン①)
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ザルツブルクのモーツァルト17-18歳(1773-74年)
モーツァルトのミュンヘン旅行≪「偽の女庭師」作曲・上演の旅≫
ザルツブルクのモーツァルト19歳(1775年)
ザルツブルクのモーツァルト20歳(1776年)
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モーツァルト24歳・ザルツブルク在住最後の年(1780年)
モーツァルトのミュンヘン旅行(「イドメネオ」作曲と上演の旅)
モーツァルト25歳の独立とウィーン時代の幕開け(1781年)
モーツァルト26歳の結婚と「後宮からの誘拐」(ウィーン②1782年)
モーツァルト27歳・演奏会の成功とザルツブルク里帰り(ウィーン③1783年)
ピアノ・ソナタ(第13番)変ロ長調 と動物たち(1783年ザルツブルクの帰途立ち寄ったリンツ関連)
モーツァルト28歳・演奏活動絶頂期(ウィーン④1784年)
モーツァルトと小鳥たち (クラビーア協奏曲(第17番)ト長調(K.453)第三楽章の主題を歌うムクドリとモーツァルト)
父レオポルト、絶頂期のモーツァルト29歳を訪問(ウィーン⑤1785年)
モーツァルト30歳・「劇場支配人」と「フィガロの結婚」(ウィーン⑥1786年)
フィガロの結婚(その1)序曲+第一幕第一景第一曲
モーツァルト31歳・父レオポルトの死と「ドン・ジョヴァンニ」(ウィーン⑦1787年)
ドン・ジョヴァンニ(その1)
モーツァルト32歳・三大交響曲とブフベルク書簡(ウィーン⑧1788年)
モーツァルト33歳・プロイセン(北ドイツ)への旅(ウィーン⑨1789年)
モーツァルト34歳・「コシ・ファン・トゥッテ」(ウィーン⑩1790年)
モーツァルト35歳前半・「皇帝ティートの慈悲」(ウィーン⑪1791年前半)
モーツァルト35歳後半「魔笛」と「レクイエム」(ウィーン⑫1791年後半)
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向かっての修業旅行が必要と判断すると同時に息子と娘ナンネルの類稀なる才能を出来る限り
多くの人々に示したいと考え、モーツァルトが満6歳にもならない時から、1780年末、25歳で
ウィーンに定住を決断するまでのザルツブルク時代に全11回、延べ10年あまりに及ぶ
旅行をするのである。
1回の旅行期間は3週間程度のものから、数年に及ぶものもあり、西はマンハイム、パリ、
ロンドンまで南はローマ、ナポリに至るのである。
これらの旅行を通してモーツァルトの楽才と感性は着実に磨かれて行くのであるが、
自動車や鉄道のないこの時代の主たる交通手段は馬車によるものであった。
馬車の歴史は極めて古く、遠くは古代ローマ帝国時代から馬車は利用されていた。
因みにオープンカーのことを指す「カブリオレ」とか、荷物を多く積める「ワゴン」とか、
「クーペ」などの単語が自動車業界で使われているが、これらの言葉はいずれも本来
馬車に使われていた言葉である。
★カブリオレ(cabriolet) - 1頭立ての2輪幌馬車
★ワゴン(wagon) - 通常2頭立て以上の4輪荷馬車
★クーペ(coupe) - 2人乗りの4輪箱型馬車
モーツァルト没後76年が経過した1867年に、車輪の外周にゴムを取り付ける手法が
もちいられるようになり、それまでの金属、木の車輪から脱皮する事になる。
★1888年にイギリスの獣医師ジョン・ボイド・ダンロップが自転車用の空気入りタイヤを実用化した。
それまでのゴムタイヤは空気入りではなく、ソリッドゴム(総ゴム)タイヤであった。
馬車の時代の舗装は市街地であればローマ時代からの石畳の舗装があったが、ひとたび市外に
出れば全くの未舗装道路であり、現代の自動車でも古い町並みの石畳を走るとそれなりに
揺れるわけで、ましてや全木製或いは木製のホイールに接地面だけ鉄を貼り付けた車輪をつけ、
ショックアブゾーバーもない馬車で走れば、例え平均時速11~15kmだとしても想像を絶する
振動であり、腰、尻はもとより全身がおかしくなりそうである。
父レオポルトや息子のヴォルフガング・アマデウスはその手紙の中で馬車の激しい振動や
愛想の悪い乱暴に馬を操る御者、馬車の転倒によるレオポルトの負傷、厳寒の冬の辛さ
などについて言及している。但し、中には御者の腕が良く快適な旅であったとしている手紙もあるが、
これは旅行をした季節、道路事情や使用した馬車の種類の違いなどにもよると思われる。
当時の馬車は次の通り分類される。
①自家用馬車
15世紀まで馬車は王侯、高位聖職者、豪商の私有物に限られていた。モーツァルトの
父レオポルトは私有馬車を購入し、郵便馬車、駅馬車、辻馬車と共に旅行に応じ使い分けていた。
②郵便馬車
料金をとり旅行客も乗せていた。随所に馬屋が設けられており、馬は16〜24キロ毎に
別の馬と交換した。4頭立てで4人が客室内に乗車できた。郵便は後部に設けられた箱に
入れられていた。料金的には割高で一般に裕福な層が利用した。
郵便馬車は郵便輸送のための停車しかしなかったため駅馬車よりも速く目的地に着いた。
★日本では明治初期の郵政事業開始時の1870年代から郵便輸送に馬車が用いられた。東京では1925年
(大正15年)まで使われていた。
③駅馬車
最初は注文要請された場所まで行くチャーター便だけで、そのうちに一定の区間、(街道や街、
港等の往復)を走るようになり、運行時間が決まった、定期輸送便へと進化していった。又、
各地に駅馬車の止る宿が出来た。
★日本では明治時代(1869年)から東京~横浜間を乗客輸送用として乗合馬車の営業を開始させたのを機に馬車が
普及し日本各地で広まり、自動車やバスが普及されるまで存続した。
④辻馬車(市街地を走る馬車)
走行時間によって料金が設定されていた。
ウィーンではフィアカー(Fiaker)と呼ばれる辻馬車があり、1693年、ハプスブルク家の
レオポルドⅠ世が営業許可を与えて以来の長い伝統がある。19世紀末にウィーンを
駆け抜けるフィアカーは1000台を越えたとされている。文字通り市民の足となっていた。
今日でも観光用として約50台強のフィアカーが名所・旧跡めぐりに従事している。
★レオポルト1世(1640年6月9日-1705年5月5日)は、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝(在位:1658年 - 1705年)、
オーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王(在位:1655年 - 1705年)。フェルディナント3世と皇后マリア・アンナの
成人した2番目の息子。
当時の馬車における一般的なサスペンションは、フレームからキャビンを数本のベルトを
介して吊るものか、今日で言うリーフ・スプリングを採用した馬車だった。いずれも揺れや跳ねを
吸収・減衰するショックアブソーバーはなかった。
長距離を走る郵便馬車や駅馬車は4~6頭だて、辻馬車は1~2頭、自家用馬車は1~6頭だて
であった。ボディは木骨製だけに、相当軋み音もしたであろうと思われる。
モーツァルトにとっては概して過酷な馬車の旅であったにも拘わらず、旅行を通じて
自分の楽才・感性が着実に磨かれて行くことを自覚しており、旅の重要性について
次の通り述べているのである。
≪。。。ぼくは断言しますが、旅をしないひとは(少なくとも芸術や学問にたずさわるひとたちでは)
まったく哀れな人間です!そして、もし大司教が二年ごとに一回の旅を許可してくれないなら、
ぼくはどうしても契約を受け入れるわけにはいかないと、断言しておきます。凡庸な才能の人間は、
旅をしようとしまいと、常に凡庸なままです。-でも、優れた才能のひとは(ぼく自身それを認め
なければ、神を冒瀆するものです)。-いつも同じ場所にいれば、だめになります。≫
ザルツブルクの父宛 パリ、1778年9月11日付
駅馬車に関してのモーツァルトの感想をひとつだけとりあげてみると。。。
≪。。。あの馬車では魂が放り出されます!-そして座席ときたら!-まったく痣だらけでー
おそらく火のように赤くなっていたでしょう。二つの駅の間ずっと、クッションに両手を突っ込んで、
お尻を宙に浮かせていました。。。これからは原則として、駅馬車で行くよりは、むしろ徒歩で
行ったほうがよさそうです。≫
ザルツブルクの父宛 ミュンヘン、1780年11月8日付 白水社 モーツァルト書簡全集より
ウィーンのフィアカー(Fiaker):現在の観光馬車 4人用馬車
(自動車が出現するまでは辻馬車として活躍) レオポルドが購入したのはこの画像の様な馬車であったと思われる。
郵便馬車が使用したホルンが使われる、モーツァルトが作曲したセレナーデ第9番ニ長調
K.320を聴きながら郵便馬車の旅と当時の宮廷舞踊であったメヌエットに思いを馳せましょう。
尚、このセレナーデは第6楽章(第2メヌエット)の第2トリオでポストホルン”Posthorn”
(郵便馬車のホルン)が用いられていることから「ポストホルン・セレナーデ」とも呼ばれています。
★この曲は1779年8月3日にザルツブルクで完成された。どのような経緯で作曲されたかについては確証はないが、
モーツァルトが作曲したセレナーデの中でも楽器編成が大きく、規模も大きいことから、何らかの祝典のために作曲された
と考えられている。ポストホルンは馬車の出発を暗示することから、モーツァルトはザルツブルクを去って行く知人への
思いを託してこの楽器を使用したとする説もある。最も有力な説としてはザルツブルク大学の教養課程(2年間)の終了式典で
演奏されたという説がある。教養課程を修了し、休暇に入る学生達が駅馬車でそれぞれの故郷に帰る姿を想定したとされている。
★ザルツブルク時代の最後を飾ることとなったこのセレナーデは、1777年から1778年のマンハイムとパリへの旅行で
モーツァルトが得た経験が巧みに取り入れられている。同じ時期に作曲された「パリ交響曲」K.297や協奏交響曲K.364に
劣らぬ名作として知られている。
セレナーデ第9番ニ長調K.320「ポストホルン」第6楽章メヌエット II: トリオ I, トリオ II
バイエルン放送交響楽団:Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
指揮:サー・コリン・デイヴィス Sir Colin Davis
第2トリオでポストホルン(但し、この演奏ではホルンで代用している。)
画像は当時の宮廷舞踊であるメヌエットを描いている。
参考画像
画像の最初の方にフィアカーが登場します。
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オーストリアの首都ウィーンにある宮殿。ハプスブルク王朝の歴代君主が主に離宮として使用した。
宮殿と庭園群は世界遺産に登録されている。
★1693年 レオポルト1世(在位:1658年 - 1705年)が狩猟用の別荘をつくった。歴代の皇帝らが増築・造作を
行い、女帝マリア・テレジア(在位:1740年 - 1780年)の時代に完成された。ウィーン風ロココ様式といわれている。
★1762年 6歳の神童モーツァルトが招待されクラヴィーアを演奏した。
この時宮殿内で転んだモーツァルトをマリー・アントワネットが助け起こしたところ、モーツァルトが「僕と結婚して」と
プロポーズした、という伝説がある。
シェーンブルン宮殿の馬車博物館(最初の約3分間)
皇帝専用馬車など宮廷で使用された馬車が常時50台以上展示されている。
Besuch der Wagenburg, des Palmenhauses und des Wüstenhauses bei
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モーツァルト31歳・父レオポルトの死と「ドン・ジョヴァンニ」(ウィーン⑦1787年)
ドン・ジョヴァンニ(その1)
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おはようございます。サンテグジュペリの小説の中に
「虐殺されたモーツアルト」という言葉がでてきます。
普通はこどもの才能を伸ばすどころか殺してしまう。
あるいはもっと無関心、放任なのに。
私はずっとこの言葉を背負って生きてきました。
そして今、カンボジアの学校でもそれを考え続けてい
ます。そういう意味で、アマデウスさんのブログは
楽しみです。感謝。
by kjisland (2010-02-18 08:13)
大変なご努力と博学でお書きになられる毎日の文章に心からの敬意を表しています。
私は事情があって長年会員であったW.A.Mozartの会は退会しましたが、彼の音楽は今も好きです。
by 塩 (2010-02-18 10:10)
kjisland さん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
「子供はいつだってひとりのモーツァルトなのだ。」ということですよね☆
これからも「旅」で磨かれた感性で、「心に訴える素晴らしい画像」をお撮り
続け下さい☆
by アマデウス (2010-02-18 11:41)
Dr.塩!こんにちは~☆
身に余るお言葉、恐縮至極です☆
これからも出来る限りモーツァルトに因んだ話と音楽をとりあげて行きたいと
思っていますので、引き続きお付き合いの程宜しくお願い致します☆
by アマデウス (2010-02-18 11:45)
おはようございます。モーツアルトの時代の交通事情を詳しく教えていただき、ありがとうございます。なるほど、何世紀もの間、馬車しか存在しなかったのですね。お尻が痛かったり、振動が辛かったでしょうね。でも、そのような間中は、温暖化の心配もなかったでしょうし、自然は音楽や芸術とともに共存していたのでしょう。人間の長命がすすむ中、地球の短命が心配されますね。
by whitered (2010-02-18 11:46)
whiteredさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
当時の医学、医療・診療技術と現在を比べると雲泥の差がありますね☆
モーツァルトの時代はなにかあるとすぐ瀉血をしたり、爆薬の粉などを
飲ませたりした様です。幼児死亡率も極めて高く、これら諸点を考えると
現在は非常に恵まれていますね☆地球を大切にしながら世界全体の
発展を目指すべきですよね☆
by アマデウス (2010-02-18 12:27)
アマデウスさん、そうそう、
「子供はいつだってひとりのモーツァルトなのだ。」
これです。公立の小学校で30年間仕事をしていた時に
私はずっと「負」の受け止め方をしていたのかもしれ
ません。それがカンボジアの小学校に入って、今、
「正」の面を見ているのですね。カンボジアの小学校
に入って、かつて、教員になったばかりの気持ちが
蘇ってきたのかもしれません。そう、
「こどもはちゃんと教育されれば、
だれだって一人のモーツアルト」
音楽なんかできなかった私が当時の5年生のこども達
と学級音楽なんかを作ってしまったのも、これだった
のです。ちゃんと正規の音楽の授業があって、音楽専科
の先生がいたのに、、、です。
いやあ、今回のモーツアルトの記事のおかげで、
色々思い出しています。ありがとうございました。
感謝。
by kjisland (2010-02-18 14:53)
機械科だった私は、歴史のレポートで自動車の歴史を調べました。
ですので、クーペとかワゴンの名前の由来も調べた訳ですが・・・
すっかり忘れておりました(><)
ただ、サスペンションの事までは、気が付きませんでした^^;アセアセ
これだけで十分な論文が書けそうです(^^)
今日も勉強させて頂きましたm(__)m
by kontenten (2010-02-18 18:30)
kjislandさん!
こちらこそ色々学ばせて頂きありがとうございます!
「学級音楽」、楽しそうですね☆学級レベルの音楽が全校レベルでの音楽に
つながり、それが地域レベル、そして全国レベルに発展して行けばヴェネズエラの「エル・システマ」の様な音楽組織が出来ますよね☆
by アマデウス (2010-02-19 06:02)
kontentenさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
kontentenさんの「自動車の歴史」、馬車の名前に由来する項目も
含まれていて興味深いです☆ブログに少しづつでも連載して頂けると
嬉しいのですが。。。
by アマデウス (2010-02-19 06:10)
モーツアルト。。。。。
いい加減bastaと感じる今日このごろですが相変らず攻略できず。。。
来月からさらに室内楽の授業でもモーツアルトです。。(涙)
by みど (2010-02-19 07:59)
みどさ~ん♪♪♪
(p_;)ヾ(´∀`)ヨシヨシ
もうこうなったら覚悟を決めてモーツアルトにドップリと浸っちゃいましょう☆♪
きっと攻略出来ますよ~☆♪(゚▽^)ノ⌒☆
by アマデウス (2010-02-19 09:48)
アマデウスさん、コメントありがとうございました。
知らなかったんですよ〜、ブレイクがモーツァルトより1歳年下とはね〜。
あの時代の闇と光を絵画によっても見られるとは幸せなことです。そして、ペルシャネコ....ペルシャと言えばエステル妃......絵画にも見られますが、あのヘンデルが曲も(オラトリオ)書いてるんですね〜。話、すっ飛びまして、申し訳ありません。
ブレイクのことから、たまたま聖書に関する本を読んでいたものですから。
by Ariel (2010-02-19 15:51)
Arielさん!ヽ|・∀・|■ゥェルヵム■
エステル妃といえば夫君はXerxesクセルクセス(セルセ)、ヘンデルの同名タイトルのオペラ中の「オンブラ・マイ・フ(懐かしい木陰よ)」は素晴らしい曲ですよね☆ところでヘンデルの「エステル”Esther"」HWV50の”O Jordan, Jordan'. をお聴き下さい。カウンターテナーのMichael Chanceが歌います;
http://www.youtube.com/watch?v=4HDrkGCDYAQ
モーツァルトが8歳~9歳の頃ロンドン滞在中これらの曲を聴いたかも知れませんね。。。
by アマデウス (2010-02-19 22:10)
未舗装道路に木の車輪とは体に優しくないこと極まりなく、
歩いたほうがましという気持ちがわかります。
それでも旅には苦痛を補って余りある魅力があったのですね。
凡人も旅によって人生は豊かになると思いますが、なるほど天才といわれる人たちにも大きな刺激になるのですね。
by Nyandam (2010-02-20 17:09)
モーツアルト!!と言えば嬉しくなります。モーツアルトは旅が嫌いでは
なかったのですね~小さい頃から旅ばかりで命を縮めたのではと云われていますが。でも色々の国へ行くのは楽しみでもあったのでしょうね。シェ-ンブルーン宮殿はとても懐かしいです。アマデウスさんのブログはとても勉強になり、音楽も楽しみです。有難うございます。
by pegasas (2010-02-20 20:30)
Nyandamさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
レコードもなにもなかった時代に一流の音楽或いはオペラを作曲するにはオペラ劇場もなかったモーツァルトの故郷ザルツブルクを離れ音楽の中心地に旅をし、一流の音楽や音楽家に接することが才能を伸ばす唯一の手段と判断していたわけですね☆天分と努力の賜物ということですよね☆
by アマデウス (2010-02-20 21:32)
pegasasさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
モーツァルトは、音楽の中心地に旅をし、その地で一流の音楽や音楽家に接し、自分の才能が磨かれてゆくことを自覚していたのですね☆
一流の音楽家から学び、才能を磨いたその成果がモーツァルトの音楽ということでしょうね☆
こちらこそいつもご訪問頂きありがとうございます☆
by アマデウス (2010-02-20 21:43)
馬車の歴史について良く分かりました!
モーツァルトが旅の重要性について言及しているとは驚きでした。
馬車の旅、なんか憧れますね~。揺れ具合とか体験してみたいです。
by 黄昏の線路 (2010-02-20 21:57)
馬車の歴史も面白いですね。シェーンブルン宮殿の馬車、シンデレラのかぼちゃに戻る前の豪華な馬車みたいですね。w (^ω^)b
∧ ∧
/ ヽ‐‐ ヽ
彡 ヽ
彡 ● ● 馬車引くの疲れるウマ──!!
彡 ( l 馬糞の掃除たのむぞウマ──!!
彡 ヽ |
彡 ヽ l
/ ` ( o o)\
/ __ /´> )
(___|_( /<ヽ/
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| / ) )
ヒl ( \
\二)
(\___/)
( ̄l  ̄)
/ ● ● | 平安時代の牛車は
| l ___\l マターリゆるりゆるりとしていてイイモー!!
l ( 。--。 )`\
/ ___ (( ̄))´> )
(___)  ̄/ (_/
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| /\ \
| / ) /
∪ ( \
\_)
by モッズパンツ (2010-02-21 00:01)
黄昏の線路さん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
馬車には海外数箇所で乗りましたが、観光用であることから最新式のスプリングが使用されていること、舗装道路であること、ゆっくり走ることなどからモーツァルトが語っている様な激しい揺れは感じられず、馬の足音を耳にしながら心地良く優雅な時間を過ごしました☆
by アマデウス (2010-02-21 08:46)
モッズパンツさん!こんにちは~☆
今回も大作AAでのコメントありがとうございます☆♪\(^ω^\)☆
しかし、良く描かれていますね☆
ご指摘の通り、平安時代には貴族は牛車での~んびり優雅な移動をしましたね☆当時の日本の馬は小さくて、力もなく、牛の方が力持ち、神経も図太く安全だったからでしょうね☆日本では大八車や人力車など、常時人口過剰、労働力が豊富ということもあり「人力による車」が利用されたのでしょうね☆欧米の馬車の歴史と日本の牛車、人力による車の歴史を比較するのも面白そうですね☆( /^ω^)/♪☆
by アマデウス (2010-02-21 08:59)
天才を生むには、優しいというだけでなく、その才能を引き出せる周りの人たちも大変なことだと思います。^^
by まるまる (2010-02-21 19:49)
まるまるさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
ご指摘の通りだと思います☆モーツァルトに限って言えば、父親のレオポルトの音楽教育法は、①型に嵌った常識にとらわれない★②子どもの才能を素直に伸ばすのが神から与えられた自分の使命であると考えた★③真剣に練習に付き合い、音楽で共に遊んだ(楽しみながら教えた★強制せず、自主的に練習し学ぶ様に仕向けた)④馬車の旅を通じ親子間での深い交流ができる時間を確保していた★★
他方、母親は明朗・快活でモーツァルトの音楽教育には一切口をはさまなかった(教育ママの様な強制は一切していない)★
父親のレオポルトは敬虔なカトリック信者でもあったことから、自分の人生における使命は息子の天分を伸ばすことにあると信じ、音楽の中心地への旅に息子を「楽しみながら」連れて行ったという点、何事も「楽しみながら行い」、「苦痛と考えたり」、「強制したり」、「子供の無限の能力を否定したり」していない点などがあげれるかと思います☆
by アマデウス (2010-02-21 22:22)
モーツァルト関係の本を読んでいたときに、移動が過酷だという旨の記載はたくさんありましたが、改めて感じました。
でも、自分自身に刺激をあたえるのも大事なんですよね。
by LittleMy (2010-02-22 09:01)
LittleMyさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
馬車に揺られて目的地(国)に到着すると、宮廷での御前演奏会、そして一流の宮廷音楽家や楽団との交流、オペラを含む最新の音楽との接触。。。生まれ故郷ザルツブルクでは得られない強烈な刺激を受けてモーツァルトの楽才が磨かれたのですよね☆
by アマデウス (2010-02-22 21:56)
聴かせていただきました。心が静まる曲ですね〜。これから検査に行かないといけないので助かりました。
by Ariel (2010-02-23 13:44)
Arielさん!お聴き頂いての再コメありがとうございます☆♪♪(⌒o⌒)♪♪
検査結果異常なし!でありますよう~に☆。゚+
by アマデウス (2010-02-25 06:51)
アマデウスさん、ありがとうございます。一週間後わかるのが怖いような。
カウンターテナー、好きなのでアメブロの方にUpさせていただきました。
フィリップ・ジャルスキーの聴きに行ったことがあります。よかったです。モーツァルトのソナタも専属のピアニストの方がサービスで演目に入っていました。
by Ariel (2010-02-25 18:57)