モーツァルト35歳後半「魔笛」と「レクイエム」(ウィーン⑫1791年後半) [モーツァルト]
9月12日頃にコンスタンツェと共にプラハからウィーンに戻ったモーツァルトには「魔笛」の作曲の完成と上演、更には「レクイエム」の作曲という仕事が待っていた。
★モーツァルトは最後となった今回のプラハでのレオポルト2世戴冠式祝典用オペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲」K.621演奏指導の旅を含め35歳の生涯で大小あわせ17回、延べ約10年2ヶ月に渡る旅行をしたことになる。1762年5歳でのミュンヘン旅行に始まり実に生涯の約3分の1は旅行をしていたことになる。
9月28日「魔笛"Die Zauberflöte"」(K. 620)第二幕第一場冒頭の「祭司たちの行進 "Marsch der Priester"」と、全曲が完成してから序曲を書くというモーツァルトの習慣からこの日に魔笛の序曲が完成し、これをもって魔笛全曲が完成した。その他の大部分の曲はプラハに出発する前に完成させていたので、シカネーダー一座の試演は行われていた。
9月30日、2幕のドイツ語オペラ「魔笛」がウィーン城壁外の郊外市のひとつヴィーデンにあるフライハウス劇場(ヴィーデン劇場)でモーツァルト自身の指揮により初演された。初演時の人気はそれほどではなかった様ではあるが回を重ねるごとにその人気・評判は高まり、モーツァルトの音楽はウィーンの大衆の心を捉えたのである。この上演の成功を通じ、モーツァルトはオペラ作曲家としてのこれからの方向性を見い出したに違いない。プラハ旅行より帰国後10月初めにコンスタンツェを、末子のフランツ・クサヴァーと義妹のゾーフィーと共に温泉保養地バーデンに湯治に出しているが、コンスタンツェに魔笛の評判を手紙で嬉しげに語るのである(後述)。
更にモーツァルトは、レオポルト2世のプラハに於ける9月6日の戴冠式の祝典として同日夜初演され、その後継続上演されていた「皇帝ティートの慈悲」に言及し次の通り語るのである。
「実に奇妙なことだが、ぼくのオペラ(注:「魔笛」を指す)があんなにも熱い拍手で迎えられた初演の晩、その同じ晩に、プラハでは「ティート」が異常な喝采を受けて最後の幕を降ろした。どの曲もそろって拍手を浴びたのだ。」(1791年10月7日付書簡)
10月14日、モーツァルトはバーデンのコンスタンツェに手紙で次の様に語っている。この手紙が現存するモーツァルトの最後の手紙なのである。
「6時にぼくは、馬車でサリエーリとカヴァリエーリ夫人を迎えに行って、桟敷席に案内した。それから急いでホーファのところに、その間待たせていたママ(注:コンスタンツェの母親)とカール(注:息子のカール・トーマス)を迎えにいった。サリエーリたちがどんなに愛想がよかったか、きみには想像もつかないだろう。二人とも、ただぼくの音楽だけではなく台本も何もかもひっくるめていかに気に入ってくれたことか。かれらは口をそろえて言っていた。「これこそオペラ(オペローネ)だ。最大の祝祭で、最高の王侯君主を前に上演されて恥ずかしくないものだ。(中略)彼は序曲から最後の合唱まで、実に注意深く、観たり、聴いたりしていたが、「ブラヴォー」とか「ベッロ(美しい)」とか、およそ感嘆の言葉を吐かなかった曲はなかった。」
★サリエーリとカヴァリエーリ夫人:宮廷楽長のアントニオ・サリエーリとソプラノ歌手でサリエーリの愛人のカタリーナ・カヴァリエーリ
「オペラにつれていったので、カールは大いに喜んだ。彼は元気そうだ。(中略)カールは悪くはなっていないが、以前より髪の毛一本たりとも良くはなっていない。(中略)彼が自分で白状したところによると、午前中5時間、昼食後5時間、庭のなかをほっつきまわっているだけ。要するにまあ子供なんて、食って、飲んで、寝て、ぶらつくことしかしないもんだ。」
★モーツァルトはこの手紙の前日13日カール・トーマス(当時7歳)をペルヒトルツドルフにある寄宿の教育施設に迎えに行きウィーンに連れて来ている。この手紙の末尾には明日15日(土)にカールを連れてバーデンに行くのでゆっくり話そうと書かれている。
★実際、モーツァルトは15日にカールを連れてバーデンに赴き、翌々日ウィーンに連れて帰っている。
「レクイエム」の作曲はこの頃行われていたわけだが、依頼人の名前は依然として伏せられたままであった。
★この依頼人は後になって音楽愛好家貴族フランツ・フォン・ヴァルゼック=シュトゥバッハ伯爵であったことが判明する。同伯爵は匿名で名高い作曲家に作曲を委嘱し、それを自ら写譜して演奏させ、自分の作曲であると言わせるのを趣味としていた。モーツァルト没後ジュースマイヤーの補筆を含めた完成版(ジュースマイヤー筆の総譜)がコンスタンツェ経由伯爵の手に渡り、伯爵は当初の意図通り、1793年12月14日ノイクロスター教会に於いて捧げられた、若くして逝った愛妻アンナの追悼ミサで、伯爵自身の作曲であるとして伯爵の指揮により演奏されたのである。
バーデンより戻った10月17日頃よりモーツァルトは体調を崩し、主治医であるクロセット博士の検診と治療を受けているが、恐らく瀉血療法が開始されたものと思われる。
★瀉血療法:今日の医学では考えられないが、悪い血を抜き、造血作用を促すためにかなり大量の血液を抜くという治療法で当時はごく普通に行われる治療であった。モーツァルトの病名や死因についてはリューマチ性炎症熱や腎臓疾患など多種多様である。サリエーリやフリーメイソンによる毒殺説もあるが証拠があるわけでもなく、これらは「噂話」に過ぎないが、瀉血療法が、パリで亡くなった母親の時と同様、致命的になったと思われる。尚、聖シュテファン大聖堂の死者名簿では検視結果は急性栗粒疹熱となっており、病名自体に疑問がある為、さまざまな推定や憶測或は論争が行われる原因となっている。
小康状態にあった11月18日にモーツァルトはフリーメイソン結社の新会堂の献堂式に列席し、3日前の15日に完成したフリーメイソン小カンタータ「われらが喜びを高らかに告げよ"Laut verkünde unsre Freude"」K.623をモーツァルト自身の指揮で初演した(後述)。
★ヨーゼフ2世が1785年12月に発布した「フリーメイソン勅令」によりロッジは1787年後半以降は「新・戴冠した希望」だけになっていた。皇帝レオポルト2世はフリーメイソン弾圧政策をとったことによりウィーンのフリーメイソンは次第にその活動を停止して行くのである。
モーツァルトは11月20日病状が悪化し病床についた。
それでも弟子のフランツ・クサヴァー・ジュスマイヤー(1766-1803)に手伝わせながら、レクイエム Requiem 二短調(K.626)の作曲を続け、第3曲セクエンツィアSequenz(続唱)の第6部ラクリモサLacrimosa(涙の日)二短調の第8小節で中断、12月4日の夜医師のクロセット博士がよばれ、高熱を発している頭を冷やしたところショック症状をおこし、昏睡状態となり、夫人のコンスタンツェとその妹のゾフィー、クロセット博士に看取られ1791年12月5日月曜日午前0時55分ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは35年と10ヶ月余りの短い生涯をウィーンで閉じ、永遠の旅に出たのである。
「おまえが平々凡々たる音楽家として世間から忘れられてしまうか、それとも有名な楽長として、後世の人たちにまでも書物のなかで読んでもらえるようになるか。。。ひたすらおまえの理性と生き方にかかっているのです。」
(ザルツブルクの父レオポルトよりマンハイムのモーツァルト宛1778年2月12日付書簡)
「ぼくは断言しますが、旅をしないひとは(少なくとも芸術や学問にたずさわるひとたちでは) まったく哀れな人間です!。。。優れた才能のひとは(ぼく自身それを認めなければ、神を冒瀆するものです)いつも同じ場所にいれば、だめになります。」
(ザルツブルクの父宛 パリ、1778年9月11日付書簡 )
「死は(厳密に言えば)ぼくらの人生の真の最終目標ですから、ぼくはこの数年来、この人間の真の最上の友とすっかり慣れ親しんでしまいました。その結果、死の姿はいつのまにかぼくには少しも恐ろしくなくなったばかりか、大いに心を安め、慰めてくれるものとなりました!そして、死こそぼくらの真の幸福の鍵だと知る機会を与えてくれたことを(ぼくの言う意味はお分かりですね)神に感謝しています。」
(ウィーンのモーツァルトから病床に伏した父レオポルト宛ての1787年4月4日付書簡)
パパゲーノの扮装をしたシカネーダー 友人たちと「レクイエム」の完成部分を試奏するモーツァルト
初演時販売された台本に付された銅版画(1791年)
★モーツァルトは最後となった今回のプラハでのレオポルト2世戴冠式祝典用オペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲」K.621演奏指導の旅を含め35歳の生涯で大小あわせ17回、延べ約10年2ヶ月に渡る旅行をしたことになる。1762年5歳でのミュンヘン旅行に始まり実に生涯の約3分の1は旅行をしていたことになる。
9月28日「魔笛"Die Zauberflöte"」(K. 620)第二幕第一場冒頭の「祭司たちの行進 "Marsch der Priester"」と、全曲が完成してから序曲を書くというモーツァルトの習慣からこの日に魔笛の序曲が完成し、これをもって魔笛全曲が完成した。その他の大部分の曲はプラハに出発する前に完成させていたので、シカネーダー一座の試演は行われていた。
9月30日、2幕のドイツ語オペラ「魔笛」がウィーン城壁外の郊外市のひとつヴィーデンにあるフライハウス劇場(ヴィーデン劇場)でモーツァルト自身の指揮により初演された。初演時の人気はそれほどではなかった様ではあるが回を重ねるごとにその人気・評判は高まり、モーツァルトの音楽はウィーンの大衆の心を捉えたのである。この上演の成功を通じ、モーツァルトはオペラ作曲家としてのこれからの方向性を見い出したに違いない。プラハ旅行より帰国後10月初めにコンスタンツェを、末子のフランツ・クサヴァーと義妹のゾーフィーと共に温泉保養地バーデンに湯治に出しているが、コンスタンツェに魔笛の評判を手紙で嬉しげに語るのである(後述)。
更にモーツァルトは、レオポルト2世のプラハに於ける9月6日の戴冠式の祝典として同日夜初演され、その後継続上演されていた「皇帝ティートの慈悲」に言及し次の通り語るのである。
「実に奇妙なことだが、ぼくのオペラ(注:「魔笛」を指す)があんなにも熱い拍手で迎えられた初演の晩、その同じ晩に、プラハでは「ティート」が異常な喝采を受けて最後の幕を降ろした。どの曲もそろって拍手を浴びたのだ。」(1791年10月7日付書簡)
10月14日、モーツァルトはバーデンのコンスタンツェに手紙で次の様に語っている。この手紙が現存するモーツァルトの最後の手紙なのである。
「6時にぼくは、馬車でサリエーリとカヴァリエーリ夫人を迎えに行って、桟敷席に案内した。それから急いでホーファのところに、その間待たせていたママ(注:コンスタンツェの母親)とカール(注:息子のカール・トーマス)を迎えにいった。サリエーリたちがどんなに愛想がよかったか、きみには想像もつかないだろう。二人とも、ただぼくの音楽だけではなく台本も何もかもひっくるめていかに気に入ってくれたことか。かれらは口をそろえて言っていた。「これこそオペラ(オペローネ)だ。最大の祝祭で、最高の王侯君主を前に上演されて恥ずかしくないものだ。(中略)彼は序曲から最後の合唱まで、実に注意深く、観たり、聴いたりしていたが、「ブラヴォー」とか「ベッロ(美しい)」とか、およそ感嘆の言葉を吐かなかった曲はなかった。」
★サリエーリとカヴァリエーリ夫人:宮廷楽長のアントニオ・サリエーリとソプラノ歌手でサリエーリの愛人のカタリーナ・カヴァリエーリ
「オペラにつれていったので、カールは大いに喜んだ。彼は元気そうだ。(中略)カールは悪くはなっていないが、以前より髪の毛一本たりとも良くはなっていない。(中略)彼が自分で白状したところによると、午前中5時間、昼食後5時間、庭のなかをほっつきまわっているだけ。要するにまあ子供なんて、食って、飲んで、寝て、ぶらつくことしかしないもんだ。」
★モーツァルトはこの手紙の前日13日カール・トーマス(当時7歳)をペルヒトルツドルフにある寄宿の教育施設に迎えに行きウィーンに連れて来ている。この手紙の末尾には明日15日(土)にカールを連れてバーデンに行くのでゆっくり話そうと書かれている。
★実際、モーツァルトは15日にカールを連れてバーデンに赴き、翌々日ウィーンに連れて帰っている。
「レクイエム」の作曲はこの頃行われていたわけだが、依頼人の名前は依然として伏せられたままであった。
★この依頼人は後になって音楽愛好家貴族フランツ・フォン・ヴァルゼック=シュトゥバッハ伯爵であったことが判明する。同伯爵は匿名で名高い作曲家に作曲を委嘱し、それを自ら写譜して演奏させ、自分の作曲であると言わせるのを趣味としていた。モーツァルト没後ジュースマイヤーの補筆を含めた完成版(ジュースマイヤー筆の総譜)がコンスタンツェ経由伯爵の手に渡り、伯爵は当初の意図通り、1793年12月14日ノイクロスター教会に於いて捧げられた、若くして逝った愛妻アンナの追悼ミサで、伯爵自身の作曲であるとして伯爵の指揮により演奏されたのである。
バーデンより戻った10月17日頃よりモーツァルトは体調を崩し、主治医であるクロセット博士の検診と治療を受けているが、恐らく瀉血療法が開始されたものと思われる。
★瀉血療法:今日の医学では考えられないが、悪い血を抜き、造血作用を促すためにかなり大量の血液を抜くという治療法で当時はごく普通に行われる治療であった。モーツァルトの病名や死因についてはリューマチ性炎症熱や腎臓疾患など多種多様である。サリエーリやフリーメイソンによる毒殺説もあるが証拠があるわけでもなく、これらは「噂話」に過ぎないが、瀉血療法が、パリで亡くなった母親の時と同様、致命的になったと思われる。尚、聖シュテファン大聖堂の死者名簿では検視結果は急性栗粒疹熱となっており、病名自体に疑問がある為、さまざまな推定や憶測或は論争が行われる原因となっている。
小康状態にあった11月18日にモーツァルトはフリーメイソン結社の新会堂の献堂式に列席し、3日前の15日に完成したフリーメイソン小カンタータ「われらが喜びを高らかに告げよ"Laut verkünde unsre Freude"」K.623をモーツァルト自身の指揮で初演した(後述)。
★ヨーゼフ2世が1785年12月に発布した「フリーメイソン勅令」によりロッジは1787年後半以降は「新・戴冠した希望」だけになっていた。皇帝レオポルト2世はフリーメイソン弾圧政策をとったことによりウィーンのフリーメイソンは次第にその活動を停止して行くのである。
モーツァルトは11月20日病状が悪化し病床についた。
それでも弟子のフランツ・クサヴァー・ジュスマイヤー(1766-1803)に手伝わせながら、レクイエム Requiem 二短調(K.626)の作曲を続け、第3曲セクエンツィアSequenz(続唱)の第6部ラクリモサLacrimosa(涙の日)二短調の第8小節で中断、12月4日の夜医師のクロセット博士がよばれ、高熱を発している頭を冷やしたところショック症状をおこし、昏睡状態となり、夫人のコンスタンツェとその妹のゾフィー、クロセット博士に看取られ1791年12月5日月曜日午前0時55分ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは35年と10ヶ月余りの短い生涯をウィーンで閉じ、永遠の旅に出たのである。
「おまえが平々凡々たる音楽家として世間から忘れられてしまうか、それとも有名な楽長として、後世の人たちにまでも書物のなかで読んでもらえるようになるか。。。ひたすらおまえの理性と生き方にかかっているのです。」
(ザルツブルクの父レオポルトよりマンハイムのモーツァルト宛1778年2月12日付書簡)
「ぼくは断言しますが、旅をしないひとは(少なくとも芸術や学問にたずさわるひとたちでは) まったく哀れな人間です!。。。優れた才能のひとは(ぼく自身それを認めなければ、神を冒瀆するものです)いつも同じ場所にいれば、だめになります。」
(ザルツブルクの父宛 パリ、1778年9月11日付書簡 )
「死は(厳密に言えば)ぼくらの人生の真の最終目標ですから、ぼくはこの数年来、この人間の真の最上の友とすっかり慣れ親しんでしまいました。その結果、死の姿はいつのまにかぼくには少しも恐ろしくなくなったばかりか、大いに心を安め、慰めてくれるものとなりました!そして、死こそぼくらの真の幸福の鍵だと知る機会を与えてくれたことを(ぼくの言う意味はお分かりですね)神に感謝しています。」
(ウィーンのモーツァルトから病床に伏した父レオポルト宛ての1787年4月4日付書簡)
パパゲーノの扮装をしたシカネーダー 友人たちと「レクイエム」の完成部分を試奏するモーツァルト
初演時販売された台本に付された銅版画(1791年)
モーツァルト35歳前半・「皇帝ティートの慈悲」(ウィーン⑪1791年前半) [モーツァルト]
モーツァルトの永遠の旅立ちとなる1791年が明けた。
1789年のプロイセンへの旅そして1790年のフランクフルト・アム・マインへの旅で、「名誉にかんしては素晴らしかったが、報酬の点ではお粗末なものに終わった演奏会」を経験したモーツァルトは、1790年10月8日付でフランクフルトから妻コンスタンツェに宛てた手紙で次の様に語ったのである。「ウィーンで一生懸命に働き、弟子を取れば、ぼくらはけっこう幸せに暮らせる。そして、ぼくにこの計画をやめさせることが出来るのは、どこかの宮廷で、いい契約がある場合だけだ。」
ロンドンへの招聘を受けずウィーンに留まった理由の一つは恐らくこのフランクフルトでの決意もあってのことであろう。ともあれ、モーツァルトは新年早々から猛烈な勢いで創作活動を始めた(後述)。まさに「疾走するモーツァルト」なのである。
1月5日クラヴィーア協奏曲(第27番)変ロ長調(K.595)を完成させた。モーツァルトの遺した最後のクラヴィーアのための協奏作品となるわけだが、3月4日宮廷料理官イグナーツ・ヤーンの運営する「ヤーン館」でクラリネット奏者ヨーゼフ・ペーアの演奏会が開催され、ここでモーツァルト自身により初演された。
★このコンサート出演がモーツァルトにとって、公開のものとしては最後の演奏となった。この演奏会にはアロイジア・ランゲ夫人も出演し、アリアを歌っている。
1月14日に三つのドイツ語歌曲(リート)を作曲し、宮廷作曲家としての公務である皇王室舞踏会場用に多数の舞曲もこの時期作曲している(後述)。
この年前半、レーオポルト2世は、サリエーリのイタリア・オペラ指揮者の任を解いた。更に、ダ・ポンテや宮廷劇場総監督のローゼンベルク伯爵らの解任をも命じた。サリエーリは宮廷礼拝堂の宗教音楽指揮者を命じられ、オペラ作曲の機会は事実上失われてしまった。これらは緊縮財政政策の一環でもあり、又、ヨーゼフ2世色の一掃をも意図した措置である。
★ダ・ポンテはウィーンを離れ、1792年から1805年までロンドンで過ごした。その後アメリカに渡り、フィラデルフィアを経てニューヨークに落ち着き、コロンビア大学の最初のイタリア文学教授に就任し、イタリア語およびイタリア文学の教育に献身するのである。
サリエーリは4月16日および17日にブルク劇場に於ける音楽家協会の慈善演奏会で、モーツァルトの交響曲第40番ト短調やコンサート・アリアなどを指揮しており、この頃のサリエーリは後年の噂話となるモーツァルトとの不仲説を一掃する行動をしているのである。
楽譜出版販売も順調に推移しており、1789年に作曲した6曲の舞曲(K.571)を初めとして多数の舞曲の筆写譜が出版商ホフマイスターより出版・販売された。又、多数の器楽曲の楽譜もアルターリアなどから出版されている。
前年1790年に友人且つフリーメイソンの同士であり、当時ヴィーデン劇場の支配人、興行師、台本作者、作曲家、俳優兼歌手として八方破りの活躍をしていたエマヌエル・シカネーダーに、ジングシュピール「賢者の石」の作曲で協力したが、そのシカネーダーより新しいジングシュピールの作曲依頼が3月頃持ち込まれた。この新しいジングシュピールこそがモーツァルトの最後のドイツ語オペラとなる「魔笛”Die Zauberflöte”」である。台本はシカネーダーが書き下ろし、モーツァルトは春頃より作曲に取りかかった。
皇王室首都兼君主居城都市ウィーン市参事会は5月9日付訓令書によりモーツァルトを「聖シュテファン司教座大聖堂における現職楽長レオポルト・ホーフマン氏の無給の補佐に任命すると同時に現職楽長職が不在となる場合はその代理を務め、空席となる場合には市参事会が決定する俸給その他の条件を受けること」という訓令を発した。要するに病弱の現楽長の不在時代行(無給)ではあるが、空席となった場合にはその後任とするという訓令である。
★楽長の報酬は2,000グルテンであったとされている。モーツァルトは病弱の楽長より先に昇天したので念願の楽長にはなれなかったのである。
コンスタンツェをこの年も6月から7月にかけて湯治療法のため、ウィーンから南方へ馬車で3時間(徒歩で5時間)程の距離にある温泉保養地バーデンに行かせており、モーツァルト自身も物理的余裕のある限り同地を訪問しているのである。バーデンではコンスタンツェの借家(貸間)探しや、息子のカール・トーマス(当時7歳)のことなどで同地の学校教師で合唱指導者(教区教会の聖歌隊指揮者)のアントーン・シュトル(Anton Stoll 1747-1805)に非常に世話になっていた。このシュトルに感謝の気持ちを込めてモテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(K.618)を6月17日バーデンで作曲・贈呈したのである。
★このモテットはシュトルがバーデンの教区教会の典礼で演奏するためのものであったと思われるが、果たしてモーツァルトが初演時バーデンの教会でオルガン演奏をしたのかどうかは定かではない。
7月前半はシカネーダーが「魔笛」作曲のために用意したあずまや(いわゆる「魔笛小屋」)で作曲に集中し、魔笛の第一幕の総譜作りと第2幕の作曲を進めていた頃、モーツァルトにオペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲」の作曲の仕事がプラハから舞い込んできた。
ヨーゼフ2世崩御のあとを継いだ弟のレオポルト2世は前年1790年10月9日フランクフルト・アム・マインで神聖ローマ皇帝としての戴冠式を行ったが、ボヘミア王としての戴冠式を首都プラハに於いてとり行なう必要があった。戴冠式はこの年1791年9月6日、プラハの大聖堂ヴィートゥス教会で挙行されることになった。この祝典用のオペラ・セリアの作曲依頼なのである。1ヶ月程の期間で仕上げる必要がありモーツァルトは直ちに作曲に取りかかった。
7月中旬モーツァルトはバーデンに赴いて、コンスタンツェと息子(当時7歳)のカール・トーマスをウィーンに連れて帰って来た。そして同月26日モーツァルト夫妻にとって最後の子供となる、第6子(四男)のフランツ・クサヴァー・ヴォルフガングが誕生した。
★カール・トーマス(1784年9月21日 ウィーン - †1858年10月31日 ミラノ)フランツ・クサヴァー・ヴォルフガング・モーツァルト(Franz Xaver Wolfgang Mozart, 1791年7月26日 - 1844年7月29日)
この頃、匿名を希望する依頼者の代理人の訪問を受け死者の安息を神に願うミサ曲「レクイエム」の作曲の依頼を受けた。高額の報酬と前渡金の提示があったこと、更にはモーツァルト自身としても子供の時から作曲をしてきた宗教(典礼)曲分野への新たな門出にしたいとの気持もあったのであろう、「レクイエム」の作曲を引き受けたのである。
8月28日モーツァルトは妻のコンスタンツェそして弟子のジュスマイヤーと共にオペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲」の演奏指導と上演のためプラハに到着した。
★ウィーン出発は8月25日以前であろうと思われる。
8月29にはレオポルト2世が、そして翌日マリア・ルイーゼ妃がプラハに到着した。宮廷から派遣された選抜楽団員7名(その後20名に増員)を率いているのは楽長のサリエーリである。
9月2日には祝祭公演の一環として「ドン・ジョヴァンニ」が恐らくモーツァルト自身の指揮でプラハのノスティツ劇場(現在のエステート劇場=スタヴォフスケ劇場)で上演された。
9月6日大聖堂ヴィートゥス教会でレオポルト2世のボヘミア王としての戴冠式が挙行された。その夜、ノスティツ劇場において、モーツァルト自身の指揮により、「皇帝ティートの慈悲」の幕が開けられたのである。
★初演の評判は意見が別れているが、プラハでは9月末まで再演され喝采を博した。モーツァルトの死後、コンスタンツェはこのオペラをウィーンで初演することを企画し、1794年12月29日にケルントナートーア劇場で上演した。ウィーンでの上演は成功を収め、コンスタンツェは1795年から1796年までドイツ各地でこのオペラを上演するのである。
このプラハ旅行でモーツァルトは200ドゥカーテン(900グルテン)というオペラ2曲分に相当する報酬を得て、コンスタンツェと共に9月8日頃プラハを出発しウィーンへの帰路についたのである。
★ウィーンに到着したのは9月12日頃であった。
政治面では神聖ローマ皇帝レオポルト2世はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と共同で、8月27日にピルニッツ宣言を発した。フランス革命により秘密裏に国外脱出しようとした国王ルイ16世一家が見破られ捕らえられるという6月25日の事件(所謂ヴァレンヌ事件)を知ったレオポルト2世は、妹マリー・アントワネット一家(すなわちルイ16世家族)の身を案じ、アルトワ伯(ルイ16世の弟、後のシャルル10世)の仲介により、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世とピルニッツ城(現在のドレスデン市内に所在)で会見し、必要があればフランス革命に干渉する用意があることを共同で宣言した。
★この宣言は後のフランス革命戦争への号砲となったのである。
神聖ローマ皇帝レオポルト2世の家族
両親(女帝マリア・テレジアとフランツ1世)と同じく16人の子供に恵まれた。
この絵は1776年トスカーナ大公の時代に描かれた。
★モーツァルト(当時13歳)は第1回イタリア旅行で1770年3月30日フィレンツェを訪れ、トスカーナ大公であったレオポルト大公に御前演奏をしている。又、17歳の時第3回イタリア(ミラノ)旅行(1772年10月24日ザルツブルク発、1773年3月13日帰郷)を行った。この旅行の目的はミラノの謝肉祭用のオペラ「ルーチョ・シッラ」の作曲と上演であった。このオペラの上演が成功後、父レオポルトはフィレンツェのレオポルト大公(トスカーナ大公)にミラノから書面でモーツァルトのフィレンツェでの宮廷音楽家としての採用を請願しているが、不成功に終わったとの経緯がある。
1789年のプロイセンへの旅そして1790年のフランクフルト・アム・マインへの旅で、「名誉にかんしては素晴らしかったが、報酬の点ではお粗末なものに終わった演奏会」を経験したモーツァルトは、1790年10月8日付でフランクフルトから妻コンスタンツェに宛てた手紙で次の様に語ったのである。「ウィーンで一生懸命に働き、弟子を取れば、ぼくらはけっこう幸せに暮らせる。そして、ぼくにこの計画をやめさせることが出来るのは、どこかの宮廷で、いい契約がある場合だけだ。」
ロンドンへの招聘を受けずウィーンに留まった理由の一つは恐らくこのフランクフルトでの決意もあってのことであろう。ともあれ、モーツァルトは新年早々から猛烈な勢いで創作活動を始めた(後述)。まさに「疾走するモーツァルト」なのである。
1月5日クラヴィーア協奏曲(第27番)変ロ長調(K.595)を完成させた。モーツァルトの遺した最後のクラヴィーアのための協奏作品となるわけだが、3月4日宮廷料理官イグナーツ・ヤーンの運営する「ヤーン館」でクラリネット奏者ヨーゼフ・ペーアの演奏会が開催され、ここでモーツァルト自身により初演された。
★このコンサート出演がモーツァルトにとって、公開のものとしては最後の演奏となった。この演奏会にはアロイジア・ランゲ夫人も出演し、アリアを歌っている。
1月14日に三つのドイツ語歌曲(リート)を作曲し、宮廷作曲家としての公務である皇王室舞踏会場用に多数の舞曲もこの時期作曲している(後述)。
この年前半、レーオポルト2世は、サリエーリのイタリア・オペラ指揮者の任を解いた。更に、ダ・ポンテや宮廷劇場総監督のローゼンベルク伯爵らの解任をも命じた。サリエーリは宮廷礼拝堂の宗教音楽指揮者を命じられ、オペラ作曲の機会は事実上失われてしまった。これらは緊縮財政政策の一環でもあり、又、ヨーゼフ2世色の一掃をも意図した措置である。
★ダ・ポンテはウィーンを離れ、1792年から1805年までロンドンで過ごした。その後アメリカに渡り、フィラデルフィアを経てニューヨークに落ち着き、コロンビア大学の最初のイタリア文学教授に就任し、イタリア語およびイタリア文学の教育に献身するのである。
サリエーリは4月16日および17日にブルク劇場に於ける音楽家協会の慈善演奏会で、モーツァルトの交響曲第40番ト短調やコンサート・アリアなどを指揮しており、この頃のサリエーリは後年の噂話となるモーツァルトとの不仲説を一掃する行動をしているのである。
楽譜出版販売も順調に推移しており、1789年に作曲した6曲の舞曲(K.571)を初めとして多数の舞曲の筆写譜が出版商ホフマイスターより出版・販売された。又、多数の器楽曲の楽譜もアルターリアなどから出版されている。
前年1790年に友人且つフリーメイソンの同士であり、当時ヴィーデン劇場の支配人、興行師、台本作者、作曲家、俳優兼歌手として八方破りの活躍をしていたエマヌエル・シカネーダーに、ジングシュピール「賢者の石」の作曲で協力したが、そのシカネーダーより新しいジングシュピールの作曲依頼が3月頃持ち込まれた。この新しいジングシュピールこそがモーツァルトの最後のドイツ語オペラとなる「魔笛”Die Zauberflöte”」である。台本はシカネーダーが書き下ろし、モーツァルトは春頃より作曲に取りかかった。
皇王室首都兼君主居城都市ウィーン市参事会は5月9日付訓令書によりモーツァルトを「聖シュテファン司教座大聖堂における現職楽長レオポルト・ホーフマン氏の無給の補佐に任命すると同時に現職楽長職が不在となる場合はその代理を務め、空席となる場合には市参事会が決定する俸給その他の条件を受けること」という訓令を発した。要するに病弱の現楽長の不在時代行(無給)ではあるが、空席となった場合にはその後任とするという訓令である。
★楽長の報酬は2,000グルテンであったとされている。モーツァルトは病弱の楽長より先に昇天したので念願の楽長にはなれなかったのである。
コンスタンツェをこの年も6月から7月にかけて湯治療法のため、ウィーンから南方へ馬車で3時間(徒歩で5時間)程の距離にある温泉保養地バーデンに行かせており、モーツァルト自身も物理的余裕のある限り同地を訪問しているのである。バーデンではコンスタンツェの借家(貸間)探しや、息子のカール・トーマス(当時7歳)のことなどで同地の学校教師で合唱指導者(教区教会の聖歌隊指揮者)のアントーン・シュトル(Anton Stoll 1747-1805)に非常に世話になっていた。このシュトルに感謝の気持ちを込めてモテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(K.618)を6月17日バーデンで作曲・贈呈したのである。
★このモテットはシュトルがバーデンの教区教会の典礼で演奏するためのものであったと思われるが、果たしてモーツァルトが初演時バーデンの教会でオルガン演奏をしたのかどうかは定かではない。
7月前半はシカネーダーが「魔笛」作曲のために用意したあずまや(いわゆる「魔笛小屋」)で作曲に集中し、魔笛の第一幕の総譜作りと第2幕の作曲を進めていた頃、モーツァルトにオペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲」の作曲の仕事がプラハから舞い込んできた。
ヨーゼフ2世崩御のあとを継いだ弟のレオポルト2世は前年1790年10月9日フランクフルト・アム・マインで神聖ローマ皇帝としての戴冠式を行ったが、ボヘミア王としての戴冠式を首都プラハに於いてとり行なう必要があった。戴冠式はこの年1791年9月6日、プラハの大聖堂ヴィートゥス教会で挙行されることになった。この祝典用のオペラ・セリアの作曲依頼なのである。1ヶ月程の期間で仕上げる必要がありモーツァルトは直ちに作曲に取りかかった。
7月中旬モーツァルトはバーデンに赴いて、コンスタンツェと息子(当時7歳)のカール・トーマスをウィーンに連れて帰って来た。そして同月26日モーツァルト夫妻にとって最後の子供となる、第6子(四男)のフランツ・クサヴァー・ヴォルフガングが誕生した。
★カール・トーマス(1784年9月21日 ウィーン - †1858年10月31日 ミラノ)フランツ・クサヴァー・ヴォルフガング・モーツァルト(Franz Xaver Wolfgang Mozart, 1791年7月26日 - 1844年7月29日)
この頃、匿名を希望する依頼者の代理人の訪問を受け死者の安息を神に願うミサ曲「レクイエム」の作曲の依頼を受けた。高額の報酬と前渡金の提示があったこと、更にはモーツァルト自身としても子供の時から作曲をしてきた宗教(典礼)曲分野への新たな門出にしたいとの気持もあったのであろう、「レクイエム」の作曲を引き受けたのである。
8月28日モーツァルトは妻のコンスタンツェそして弟子のジュスマイヤーと共にオペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲」の演奏指導と上演のためプラハに到着した。
★ウィーン出発は8月25日以前であろうと思われる。
8月29にはレオポルト2世が、そして翌日マリア・ルイーゼ妃がプラハに到着した。宮廷から派遣された選抜楽団員7名(その後20名に増員)を率いているのは楽長のサリエーリである。
9月2日には祝祭公演の一環として「ドン・ジョヴァンニ」が恐らくモーツァルト自身の指揮でプラハのノスティツ劇場(現在のエステート劇場=スタヴォフスケ劇場)で上演された。
9月6日大聖堂ヴィートゥス教会でレオポルト2世のボヘミア王としての戴冠式が挙行された。その夜、ノスティツ劇場において、モーツァルト自身の指揮により、「皇帝ティートの慈悲」の幕が開けられたのである。
★初演の評判は意見が別れているが、プラハでは9月末まで再演され喝采を博した。モーツァルトの死後、コンスタンツェはこのオペラをウィーンで初演することを企画し、1794年12月29日にケルントナートーア劇場で上演した。ウィーンでの上演は成功を収め、コンスタンツェは1795年から1796年までドイツ各地でこのオペラを上演するのである。
このプラハ旅行でモーツァルトは200ドゥカーテン(900グルテン)というオペラ2曲分に相当する報酬を得て、コンスタンツェと共に9月8日頃プラハを出発しウィーンへの帰路についたのである。
★ウィーンに到着したのは9月12日頃であった。
政治面では神聖ローマ皇帝レオポルト2世はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と共同で、8月27日にピルニッツ宣言を発した。フランス革命により秘密裏に国外脱出しようとした国王ルイ16世一家が見破られ捕らえられるという6月25日の事件(所謂ヴァレンヌ事件)を知ったレオポルト2世は、妹マリー・アントワネット一家(すなわちルイ16世家族)の身を案じ、アルトワ伯(ルイ16世の弟、後のシャルル10世)の仲介により、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世とピルニッツ城(現在のドレスデン市内に所在)で会見し、必要があればフランス革命に干渉する用意があることを共同で宣言した。
★この宣言は後のフランス革命戦争への号砲となったのである。
神聖ローマ皇帝レオポルト2世の家族
両親(女帝マリア・テレジアとフランツ1世)と同じく16人の子供に恵まれた。
この絵は1776年トスカーナ大公の時代に描かれた。
★モーツァルト(当時13歳)は第1回イタリア旅行で1770年3月30日フィレンツェを訪れ、トスカーナ大公であったレオポルト大公に御前演奏をしている。又、17歳の時第3回イタリア(ミラノ)旅行(1772年10月24日ザルツブルク発、1773年3月13日帰郷)を行った。この旅行の目的はミラノの謝肉祭用のオペラ「ルーチョ・シッラ」の作曲と上演であった。このオペラの上演が成功後、父レオポルトはフィレンツェのレオポルト大公(トスカーナ大公)にミラノから書面でモーツァルトのフィレンツェでの宮廷音楽家としての採用を請願しているが、不成功に終わったとの経緯がある。
モーツァルト34歳・「コシ・ファン・トゥッテ」(ウィーン⑩1790年) [モーツァルト]
1790年が明け、モーツァルトは2幕のオペラ・ブッファ「コシ・ファン・トゥッテ”Così fan tutte”」(女はみんなこうしたもの)」の総譜作成の追い込みに入っている。このオペラは宮廷作詞家ロレンツォ・ダ・ポンテとのコンビでの第3作目にあたり、舞台はナポリである。
モーツァルトが今は亡き父レオポルトと共に初めてイタリアに旅行し、オペラの一大拠点であり風光明媚なナポリを訪れ、約1.5ヶ月の素晴らしいナポリ生活を堪能したのは、丁度20年前、14歳の時であった。
「コシ・ファン・トゥッテ」に登場する二人の姉妹フィオルディリージとドラベッラそして老哲学者ドン・アルフォンソがナポリ湾から遠ざかって行く姉妹の恋人二人の乗る船を見送りながら、航海の無事を祈って歌う美しいホ長調の三重唱「風が穏やかであれ“Soave sia il vento"」(後述)は、まさに14歳のモーツァルトが父レオポルトと二人でいつまでも眺めていたナポリ湾の微風と哀愁を感じさせるのである。
★弊記事「モーツァルトの第1回イタリア旅行(その1)」ご参照。
1月26日ブルク劇場で「コシ・ファン・トゥッテ」が初演され、好評を博し、このオペラは2月11日までに5回上演されたのである。
2月20日、モーツァルトを積極的ではないにせよ常に支援してくれた皇帝ヨーゼフ2世が崩御し、喪に伏すためにオペラ上演は中止となった。皇帝はオスマン(トルコ)戦争で自ら戦地に赴いたことで体調を崩し、前年の1789年には病床にあったが、享年49歳で帰らぬ人となった。
★喪が明け再度「コシ」が舞台にかけられたのは6月6日のことであった。
3月13日ヨーゼフ2世の後継者として弟でトスカーナ大公のレオポルト2世がフィレンツェからウィーンに到着した。これを機会にモーツァルトは次席宮廷楽長職を得るべく活動を始めているが、これは不調に終わった。
★レオポルト2世はヨーゼフ2世の色彩の強かった宮廷人事一新を開始し、モーツァルトの理解者だったヴァン・スヴィーテン男爵の宮廷教育委員会委員長の任を解いたりするのである。
レオポルト2世の神聖ローマ皇帝としての戴冠式は10月9日(土)フランクフルト・アム・マインにおいて挙行されることが決定した。帝国内にあってはハンガリーにおける農民の反乱の恒常化、及びオーストラリア領ネーデルランドでの反乱の勃発、帝国外にあってはフランス革命がはじまり、幽閉されているルイ16世の妃で妹のマリー・アントワネットの安否を気遣いながらの対フランス政策に関するプロイセン王国との同盟締結交渉、そしてオスマン帝国との戦争終結折衝など、ハプスブルク帝国が危機に瀕している中での戴冠であり、もともと音楽には関心の薄いレオポルト2世にしてみれば音楽どころではないといった状況でもあった。
★ネーデルランドはこの年、ベルギー合州国として独立を宣言したが、オーストリアはこれを制圧している。
★戴冠式を目前にしてオーストリアはオスマン帝国と休戦協定に調印した。その後、講和、1791年シトヴァ条約を締結して占領地をオスマン帝国に返還、ロシアへの支援を打ち切るとこをと約すことになる。
モーツァルトの経済的窮迫は深刻で、この年も1月から8月にかけてブフベルク宛に計9通の借金懇願の手紙が書かれている。コンスタンツェのバーデンの湯治費が出費を増大させ、モーツァルト自身の健康状態も優れず、持病のリューマチによる身体の痛みや歯痛、頭痛などで最悪の状況であった。8月14日のブフベルク宛の手紙に次の様に語るのである。
『。。。私の状態をご想像下さい。病気のうえに、悩みや心配事が山ほどあるのです。こんな状態では治る病気も治りません。いま現在、ほとほと困っています。少しで結構です。お助けいただくわけにはいきませんか。現在の私にとっては、どれだけでも救いとなるのです。。。』
★モーツアァルトはブフベルクには窮状をこまかく打ち明けているが、コンスタンツェには家計の窮迫を一切打ち明けずバーデンに湯治に行かせ、金策の苦労を一人で背負っているのである。
シカネーダーがウィーン郊外のフライハウス劇場(所謂ヴィーデン劇場)で9月11日に2幕のジングシュピール「賢者の石」を初演したが、モーツァルトは8月から9月にかけてこの作曲の一部に協力している(後述)。
9月23日モーツァルトは義兄のホーファーと下僕ひとりをつれて自家用馬車でウィーンを発ち戴冠式の挙行されるフランクフルト・アム・マインに向かった。同日、レオポルト2世が騎兵1,493人、歩兵1,336人、馬車104台という大規模編成でウィーンを出発している。この中に宮廷楽団楽長のサリエーリに率いられた宮廷楽団員総勢15名が含まれている。これら宮廷楽団員はマインツ選帝侯宮廷楽団に合流して、10月9日の戴冠式の奏楽を受け持つのである。宮廷作曲家の職責にある非常勤のモーツァルトはこの公式楽団員には含まれておらず、今回の旅は私費とせざるを得なかったが、それでもモーツァルトが今回の旅行を決断したのは、次の理由によるのである。
①ウィーンにおける音楽活動(特に演奏会)の低迷とそれに伴う減収をカバーすること。
②新しい神聖ローマ皇帝に対する自分自身の売り込み。
10月4日レオポルト2世一行がフランクフルトに到着し、10月9日盛大な神聖ローマ皇帝としての戴冠式が大聖堂で挙行された。ウィーン宮廷楽団の15名の選抜メンバーとマインツ選帝候宮廷楽団がヴィンチェンツォ・リギーニの『ミサ・ソレムニス』とサリエーリの『テ・デウム・ラウダムス』を高らかに演奏した。
★ベートーヴェンはレオポルト2世の弟であるケルン大司教(選帝侯)マクシミリアン・フランツの命により『皇帝レオポルト2世の即位を祝うカンタータ(独唱、合唱と管弦楽)』WoO88を作曲しているが、実際に演奏されたかどうかは確認されていない。
10月12日フランクフルトで旧知のベーム一座がモーツァルトのジングシュピール「後宮からの誘拐」K.384を上演している。このドイツ語オペラはドイツを中心にヨーロッパ各地で上演されており、モーツァルトの名声を高めているが、著作権のないこの時代にはこういったオペラの再演はモーツァルトには何の収入ももたらさなかった。
10月15日(金)フランクフルトの大劇場でモーツァルトのコンサートが午前11時開演された。
プログラムは2部から構成され、自作交響曲、自作自演の2曲のクラヴィーア協奏曲、2曲のアリア、クラヴィーアの即興演奏などが披露された(後述)。この日はあいにくさる貴族の大昼食会と軍隊の大演習があって聴衆が期待していた程は集まらなかったのである。モーツァルトは同日ウィーンで吉報を待つ妻コンスタンツェに前年のライプツィヒでの演奏会と殆ど同じ結果説明をしている。
『最愛のいとしい奥さん!
。。。きょう11時にぼくの演奏会があった。名誉にかんしては素晴らしかったけれど、報酬の点ではお粗末なものに終わった。。。』
この後、モーツァルトはマインツとミュンヘンで演奏を行ったが収入面では大した効果が上がらぬままウィーンへの帰途についた。24歳の時ミュンヘンで「イドメネオ」を上演後、ウィーン滞在中のザルツブルク大司教の命によりミュンヘンからザルツブルクを経由しない北方ルートでウィーンに直行したが、今回も同じルートで11月20日頃ウィーンに戻ったのである。
★留守中に引っ越しが行われており、新居はラウエンシュタイン通り970番地の2階であり、この借家がモーツァルトの最後の住まいとなるのである。
ウィーンで英国の興行師からの招聘状を手にした。この招聘状はモーツァルトの留守中、10月26日付でロンドンの演奏会ホール『パンテオン』のロバート・プレイ・オライリー氏より出状されたもので、12月末より半年間ロンドンに滞在し2曲のオペラを作曲すれば300ポンドの報酬を支払うという申し入れであった。この招聘状に対するモーツァルトの反応及び対応内容は記録に残されていないが、非常にショート・ノーティスとなってしまったことより、この申し入れは断ったのであろう。
★ロンドンでもモーツァルトのウィーンで出版された作品の印刷譜がウィーンの出版社のロンドンの代理店を通じ、多数販売されており、英国でもモーツァルトの名声は高まっていた。
他方、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンもこの年の秋頃に、ヴァイオリン奏者で興行師のヨハン・ベーター・ザロモンから英国行きの誘いを受けていた。30年以上勤めたエステルハージ侯爵家の宮廷楽団が解散され、年金生活で自由の身となっていた59歳のハイドンは英語も話せないが「音楽が言葉」であるとして、英国行きを決断し、12月15日にウィーンをザロモンと共に出発したのである。前夜モーツァルトはハイドンと最後の夕食を共にしたが、モーツァルトは24歳年上のハイドンを非常に心配し、二人が涙ながらに別れたという逸話が伝えられている。
★ハイドンは英国で成功し、1792年にウィーンに戻った時にはモーツァルトはもうこの世にいなかったのである。
1790年1月26日ウィーンのブルク劇場での初演時のポスター
Cosi fan tutte, o sia La Scuola degli Amanti (コシ・ファン・トゥッテあるいは恋人たちの学校)
モーツァルトが今は亡き父レオポルトと共に初めてイタリアに旅行し、オペラの一大拠点であり風光明媚なナポリを訪れ、約1.5ヶ月の素晴らしいナポリ生活を堪能したのは、丁度20年前、14歳の時であった。
「コシ・ファン・トゥッテ」に登場する二人の姉妹フィオルディリージとドラベッラそして老哲学者ドン・アルフォンソがナポリ湾から遠ざかって行く姉妹の恋人二人の乗る船を見送りながら、航海の無事を祈って歌う美しいホ長調の三重唱「風が穏やかであれ“Soave sia il vento"」(後述)は、まさに14歳のモーツァルトが父レオポルトと二人でいつまでも眺めていたナポリ湾の微風と哀愁を感じさせるのである。
★弊記事「モーツァルトの第1回イタリア旅行(その1)」ご参照。
1月26日ブルク劇場で「コシ・ファン・トゥッテ」が初演され、好評を博し、このオペラは2月11日までに5回上演されたのである。
2月20日、モーツァルトを積極的ではないにせよ常に支援してくれた皇帝ヨーゼフ2世が崩御し、喪に伏すためにオペラ上演は中止となった。皇帝はオスマン(トルコ)戦争で自ら戦地に赴いたことで体調を崩し、前年の1789年には病床にあったが、享年49歳で帰らぬ人となった。
★喪が明け再度「コシ」が舞台にかけられたのは6月6日のことであった。
3月13日ヨーゼフ2世の後継者として弟でトスカーナ大公のレオポルト2世がフィレンツェからウィーンに到着した。これを機会にモーツァルトは次席宮廷楽長職を得るべく活動を始めているが、これは不調に終わった。
★レオポルト2世はヨーゼフ2世の色彩の強かった宮廷人事一新を開始し、モーツァルトの理解者だったヴァン・スヴィーテン男爵の宮廷教育委員会委員長の任を解いたりするのである。
レオポルト2世の神聖ローマ皇帝としての戴冠式は10月9日(土)フランクフルト・アム・マインにおいて挙行されることが決定した。帝国内にあってはハンガリーにおける農民の反乱の恒常化、及びオーストラリア領ネーデルランドでの反乱の勃発、帝国外にあってはフランス革命がはじまり、幽閉されているルイ16世の妃で妹のマリー・アントワネットの安否を気遣いながらの対フランス政策に関するプロイセン王国との同盟締結交渉、そしてオスマン帝国との戦争終結折衝など、ハプスブルク帝国が危機に瀕している中での戴冠であり、もともと音楽には関心の薄いレオポルト2世にしてみれば音楽どころではないといった状況でもあった。
★ネーデルランドはこの年、ベルギー合州国として独立を宣言したが、オーストリアはこれを制圧している。
★戴冠式を目前にしてオーストリアはオスマン帝国と休戦協定に調印した。その後、講和、1791年シトヴァ条約を締結して占領地をオスマン帝国に返還、ロシアへの支援を打ち切るとこをと約すことになる。
モーツァルトの経済的窮迫は深刻で、この年も1月から8月にかけてブフベルク宛に計9通の借金懇願の手紙が書かれている。コンスタンツェのバーデンの湯治費が出費を増大させ、モーツァルト自身の健康状態も優れず、持病のリューマチによる身体の痛みや歯痛、頭痛などで最悪の状況であった。8月14日のブフベルク宛の手紙に次の様に語るのである。
『。。。私の状態をご想像下さい。病気のうえに、悩みや心配事が山ほどあるのです。こんな状態では治る病気も治りません。いま現在、ほとほと困っています。少しで結構です。お助けいただくわけにはいきませんか。現在の私にとっては、どれだけでも救いとなるのです。。。』
★モーツアァルトはブフベルクには窮状をこまかく打ち明けているが、コンスタンツェには家計の窮迫を一切打ち明けずバーデンに湯治に行かせ、金策の苦労を一人で背負っているのである。
シカネーダーがウィーン郊外のフライハウス劇場(所謂ヴィーデン劇場)で9月11日に2幕のジングシュピール「賢者の石」を初演したが、モーツァルトは8月から9月にかけてこの作曲の一部に協力している(後述)。
9月23日モーツァルトは義兄のホーファーと下僕ひとりをつれて自家用馬車でウィーンを発ち戴冠式の挙行されるフランクフルト・アム・マインに向かった。同日、レオポルト2世が騎兵1,493人、歩兵1,336人、馬車104台という大規模編成でウィーンを出発している。この中に宮廷楽団楽長のサリエーリに率いられた宮廷楽団員総勢15名が含まれている。これら宮廷楽団員はマインツ選帝侯宮廷楽団に合流して、10月9日の戴冠式の奏楽を受け持つのである。宮廷作曲家の職責にある非常勤のモーツァルトはこの公式楽団員には含まれておらず、今回の旅は私費とせざるを得なかったが、それでもモーツァルトが今回の旅行を決断したのは、次の理由によるのである。
①ウィーンにおける音楽活動(特に演奏会)の低迷とそれに伴う減収をカバーすること。
②新しい神聖ローマ皇帝に対する自分自身の売り込み。
10月4日レオポルト2世一行がフランクフルトに到着し、10月9日盛大な神聖ローマ皇帝としての戴冠式が大聖堂で挙行された。ウィーン宮廷楽団の15名の選抜メンバーとマインツ選帝候宮廷楽団がヴィンチェンツォ・リギーニの『ミサ・ソレムニス』とサリエーリの『テ・デウム・ラウダムス』を高らかに演奏した。
★ベートーヴェンはレオポルト2世の弟であるケルン大司教(選帝侯)マクシミリアン・フランツの命により『皇帝レオポルト2世の即位を祝うカンタータ(独唱、合唱と管弦楽)』WoO88を作曲しているが、実際に演奏されたかどうかは確認されていない。
10月12日フランクフルトで旧知のベーム一座がモーツァルトのジングシュピール「後宮からの誘拐」K.384を上演している。このドイツ語オペラはドイツを中心にヨーロッパ各地で上演されており、モーツァルトの名声を高めているが、著作権のないこの時代にはこういったオペラの再演はモーツァルトには何の収入ももたらさなかった。
10月15日(金)フランクフルトの大劇場でモーツァルトのコンサートが午前11時開演された。
プログラムは2部から構成され、自作交響曲、自作自演の2曲のクラヴィーア協奏曲、2曲のアリア、クラヴィーアの即興演奏などが披露された(後述)。この日はあいにくさる貴族の大昼食会と軍隊の大演習があって聴衆が期待していた程は集まらなかったのである。モーツァルトは同日ウィーンで吉報を待つ妻コンスタンツェに前年のライプツィヒでの演奏会と殆ど同じ結果説明をしている。
『最愛のいとしい奥さん!
。。。きょう11時にぼくの演奏会があった。名誉にかんしては素晴らしかったけれど、報酬の点ではお粗末なものに終わった。。。』
この後、モーツァルトはマインツとミュンヘンで演奏を行ったが収入面では大した効果が上がらぬままウィーンへの帰途についた。24歳の時ミュンヘンで「イドメネオ」を上演後、ウィーン滞在中のザルツブルク大司教の命によりミュンヘンからザルツブルクを経由しない北方ルートでウィーンに直行したが、今回も同じルートで11月20日頃ウィーンに戻ったのである。
★留守中に引っ越しが行われており、新居はラウエンシュタイン通り970番地の2階であり、この借家がモーツァルトの最後の住まいとなるのである。
ウィーンで英国の興行師からの招聘状を手にした。この招聘状はモーツァルトの留守中、10月26日付でロンドンの演奏会ホール『パンテオン』のロバート・プレイ・オライリー氏より出状されたもので、12月末より半年間ロンドンに滞在し2曲のオペラを作曲すれば300ポンドの報酬を支払うという申し入れであった。この招聘状に対するモーツァルトの反応及び対応内容は記録に残されていないが、非常にショート・ノーティスとなってしまったことより、この申し入れは断ったのであろう。
★ロンドンでもモーツァルトのウィーンで出版された作品の印刷譜がウィーンの出版社のロンドンの代理店を通じ、多数販売されており、英国でもモーツァルトの名声は高まっていた。
他方、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンもこの年の秋頃に、ヴァイオリン奏者で興行師のヨハン・ベーター・ザロモンから英国行きの誘いを受けていた。30年以上勤めたエステルハージ侯爵家の宮廷楽団が解散され、年金生活で自由の身となっていた59歳のハイドンは英語も話せないが「音楽が言葉」であるとして、英国行きを決断し、12月15日にウィーンをザロモンと共に出発したのである。前夜モーツァルトはハイドンと最後の夕食を共にしたが、モーツァルトは24歳年上のハイドンを非常に心配し、二人が涙ながらに別れたという逸話が伝えられている。
★ハイドンは英国で成功し、1792年にウィーンに戻った時にはモーツァルトはもうこの世にいなかったのである。
1790年1月26日ウィーンのブルク劇場での初演時のポスター
Cosi fan tutte, o sia La Scuola degli Amanti (コシ・ファン・トゥッテあるいは恋人たちの学校)
タグ:モーツァルト ウィーン 「コシ・ファン・トゥッテ」 オペラ ロレンツォ・ダ・ポンテ ナポリ 「風が穏やかにあれ」 “Soave sia il vento" ブフベルク書簡 シカネーダー ヴィーデン劇場 「賢者の石」 喜劇的二重唱 「さあ、愛しい僕の奥さん、僕と行こう」 ジングシュピール レオポルト2世 戴冠式 フランクフルト・アム・マイン フランツ・ヨーゼフ・ハイドン 弦楽四重奏曲(第22番)変ロ長調「プロイセン王セット第2番」K.589 弦楽四重奏曲(第23番)ヘ長調「プロイセン王セット第3番」 K.590 弦楽五重奏曲ニ長調 K.593 自動オルガンのためのアダージョとアレグロ ヘ短調K.594
モーツァルト33歳・プロイセン(北ドイツ)への旅(ウィーン⑨1789年) [モーツァルト]
モーツァルトは4月8日、カール・リヒノフスキー侯爵の誘いを受けて、同侯爵と共に、プロイセン王国(北ドイツ+ポーランド西部)に向けてウィーンを馬車で旅立った。この旅の主要目的はプロイセン王国の首都ベルリンで国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世への謁見にあった。
★カール・リヒノフスキー侯爵(Karl Lichnowky 1756-1814)は後にベートーヴェンの後援者として有名になる人物である。ベートーヴェンが音楽家として致命的な耳の病を発病した一年後頃に発表した(1799年発表。ベートーヴェン29歳)ピアノ・ソナタ第8番ハ短調Op.13『悲愴』は、リヒノフスキー侯爵に献呈されている。
★フリードリヒ・ヴィルヘルム2世:(Friedrich Wilhelm II., 1744年9月25日 - 1797年11月16日)プロイセン王(在位:1786年8月17日 - 1797年11月16日)
前年には演奏会の開催が激減し、この年にも好転の兆しが見えず、経済的にも緊迫していたモーツァルトはフリーメイソンの同士であり音楽に造詣の深いリヒノフスキー侯爵と共にベルリンに行き、音楽愛好家として名を馳せていたプロイセン国王、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に謁見すれば、現状打開策が見つかるかも知れないとの考えもあっての旅なのである。
★フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが「プロシア四重奏曲」 Op.50(全6曲)を1787年1月から9月にかけて作曲し、同年12月アルタリア社より出版、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に献呈されており、モーツァルトはこれにも刺激を受けていたのではないかとも思われる。
★ウィーン宮廷では前年1788年2月に5歳年上のアントニオ・サリエーリが宮廷楽長に任命されており、モーツァルトの究極的願望であった宮廷楽長への道は遠のいたとの判断もあり、プロイセン王からそれなりの処遇の提示があれば、ウィーン宮廷を辞しプロイセン宮廷に仕えることも選択肢に入れていたのであろう。
4月10日にプラハに到着、その後12日にドレスデンに着いた。ドレスデンではザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世の宮殿で、前年1788年2月に作曲しウィーンでは初演の機会がなかった『クラヴィーア協奏曲ニ長調(K.537)「戴冠式」』を御前演奏している。
4月18日にはドレスデンを発ち、20日にライプツィヒに着き、22日にヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685 - 1750)ゆかりの聖トーマス教会を訪問し、オルガンを奏している。モーツァルトは1782年にヴァン・スヴィーテン男爵のところで集中的にバッハの曲に接した「バッハ体験」を思い出しながらバッハに捧げる曲を弾いたのであろう。この演奏を聴いたバッハの弟子であリ聖トーマス 教会のカントル(音楽監督、トーマスカントル)の当時74歳の老音楽家ヨハン・フリードリヒ・ドーレス(1715−1797年はバッハの再来かと感激したと伝えられている。
★バッハはライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(トーマスカントル、独:Thomaskantor)を約13年間(1723-1736)務めている。
4月25日頃にはベルリン近郊のポッダムに到着し、当時はプロイセン国王の夏の離宮であったサンスーシ宮殿に国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が滞在しており、モーツァルトは謁見を申し入れた。国王には謁見できなかったが、王の指示により宮廷音楽総監督のジャン・ピエール・デュポールと面談することとなった。
★ジャン=ピエール・デュポール:(1741-1818) Jean-Pierre Duport フランス出身のチェロの名手。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の皇太子時代にチェロを教えている。
モーツァルトは変奏曲(後述)をデュポールに贈ることによってその印象を良くしようと考えたのであろうが、それが奏功したとは思えない結果ではあった。
リヒノフスキー侯爵がウィーンに戻る必要が生じたため、モーツァルトは同侯爵に付き合いライプツィヒまで戻り、5月12日同地のゲヴァントハウスで演奏会を催している。この演奏会ではプラハからドレスデン経由ライプツィヒにたまたま来ていた古くからの友人でソプラノ歌手のドゥーシェク夫人が2曲のアリアを歌い、モーツァルトは前年に作曲した三大交響曲のうちのいずれかを演奏したとする説がある。
モーツァルトは旅先からウィーンに残してきた妻コンスタンツェに愛情溢れる手紙を度々書いているが、5月16日付の手紙にはこの演奏会は「拍手喝采と名誉の点ではまったくすばらしかったけれど、収入に関しては比較にならないほどお粗末だった。」と語っている。
モーツァルトは5月19日にベルリンに到着した。同日、ベルリン王立劇場で上演された「後宮からの誘拐」に立ち会い、5月26日ベルリン王宮で王妃フリーデリーケの御前での演奏を行った。
その後5月28日にベルリンを発ち、ドレスデン、プラハ経由で6月4日にウィーンに帰着した。
プロイセン王国への旅から帰着後7月12日には友人のブフベルクに対し、借金依頼の書簡が出されており、同王国への旅は「収入の面では比較にならないほどお粗末なものであった」ことを裏付けている。
『親愛な、最上の友!尊敬すべき結社盟友よ。
ああ!わたしはいま最悪の敵にも望まないような状況におります。そして、最上の友であり盟友であるあなたにもし見捨てられたら、私は不幸にも、なんの罪もないのに、かわいそうな病気の妻と子供もろとも、破滅してしまいます。。。(中略)このたびの妻の病気のために、どれほど私の稼ぎが妨げられているか、繰り返し申し上げるまでもないでしょう。私の運命は残念ながら、でもウィーンだけのことですが、私には逆風で、いくら稼ごうと思っても稼げません。私は二週間にわたって予約名簿(注:予約演奏会用)をまわしたのですが、そこにはただひとりスヴィーテン(注:ヴァン・スヴィーテン男爵)の名前があるだけです。』
★この関連でブフベルクは150フロリーンを送金している。
★妻のコンスタンツェは足の感染症に悩まされており、その療養と治療のために、主治医のクロセット博士よりウィーン南方の温泉(硫黄泉)療養地バーデンでの湯治を勧められ、モーツァルトはコンスタンツェを遅くとも8月中旬までにはバーデンに湯治に行かせたのである。
8月29日には「フィガロの結婚」がブルク劇場で2年半ぶりに再演され、新キャストによる上演は大成功を収め1791年2月までに計29回も上演されることになった。さらにこの再演成功直後より、ダ・ポンテが台本を書き下ろしたブルク劇場の翌年1790年のシーズン用のオペラ・ブッファ「コシ・ファン・トゥッテ”Così fan tutte"(女はみんなこうしたもの)の作曲を開始したのである。
★ひととおり作曲し終えたモーツァルトは12月31日ハイドンとブフベルクを自宅に招いて試演を行った。
11月16日にモーツァルトの第5子(次女)となるアンナ・マリアが誕生したが、生まれてすぐに息を引き取り、健全に育っていたのは、第2子として生まれたカール・トーマスだけであった。
政治的にはロシア帝国との同盟に基づき参戦したオスマン帝国との戦争が長期化の様相を呈し、この戦争のため前年1788年に9ヶ月以上にも及ぶセルビア=クロアチア地方のゼムリン"Semlin"に滞留し、同年12月5日ウィーンに帰着した皇帝ヨーゼフ2世は体調を崩し、病床についていた。
ハプスブルク君主領のハンガリーでは、中央政府による国家管理の一元化に対して、啓蒙に感化された特権身分社団による反発、農民反乱が恒常的なものとなりつつあった。又、オーストリア領ネーデルランドでも反乱が勃発する事態となった。
★ネーデルランドは1790年ベルギー合州国として独立を宣言したが、新しい国の指導者達の団結心の欠如のため、あえなくオーストリアに制圧されるのである。
7月14日にフランス王国(国王ルイ16世、王妃マリーアントワネット)では、パリ市の民衆が同市にあるバスティーユ牢獄(当時兵器庫)を襲撃する事件が勃発した。フランス革命がはじまったのである。10月、ルイ16世は国民議会が採択した人権宣言の承認を余儀なくされ、パリのチュイルリー宮殿に家族と共に幽閉された。
★パリのチュイルリー宮: 1778年6月18日、スイスの間でモーツァルトの交響曲ニ長調「パリ」K.297が演奏され、大成功を収めた宮殿である。弊記事「モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅③(パリ)」ご参照。
★フランス革命の勃発を受けヨーゼフ2世は翌年1790 年に宗教寛容令を除く殆どすべての絶対主義政策を撤廃することになる。
古いブランデンブルク門(1764年) モーツァルト(33歳)
★新しいブランデンブルク門はフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により建築家カール・ゴットハルト・ラングハンスによって
古代ギリシャ風で設計され、1788年から3年間の建設工事を経て1791年8月6日に竣工している。従い、モーツァルトが
ベルリンを訪問した時は新しい門は建設中であり、完成したのはモーツァルトが没した年である。
★33歳のモーツァルト:1989年4月16日、ドレスデンにて女流素人画家ドーレス・シュトックにより銀筆で描かれた。現存するモーツァルト最後の肖像画である。
★カール・リヒノフスキー侯爵(Karl Lichnowky 1756-1814)は後にベートーヴェンの後援者として有名になる人物である。ベートーヴェンが音楽家として致命的な耳の病を発病した一年後頃に発表した(1799年発表。ベートーヴェン29歳)ピアノ・ソナタ第8番ハ短調Op.13『悲愴』は、リヒノフスキー侯爵に献呈されている。
★フリードリヒ・ヴィルヘルム2世:(Friedrich Wilhelm II., 1744年9月25日 - 1797年11月16日)プロイセン王(在位:1786年8月17日 - 1797年11月16日)
前年には演奏会の開催が激減し、この年にも好転の兆しが見えず、経済的にも緊迫していたモーツァルトはフリーメイソンの同士であり音楽に造詣の深いリヒノフスキー侯爵と共にベルリンに行き、音楽愛好家として名を馳せていたプロイセン国王、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に謁見すれば、現状打開策が見つかるかも知れないとの考えもあっての旅なのである。
★フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが「プロシア四重奏曲」 Op.50(全6曲)を1787年1月から9月にかけて作曲し、同年12月アルタリア社より出版、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に献呈されており、モーツァルトはこれにも刺激を受けていたのではないかとも思われる。
★ウィーン宮廷では前年1788年2月に5歳年上のアントニオ・サリエーリが宮廷楽長に任命されており、モーツァルトの究極的願望であった宮廷楽長への道は遠のいたとの判断もあり、プロイセン王からそれなりの処遇の提示があれば、ウィーン宮廷を辞しプロイセン宮廷に仕えることも選択肢に入れていたのであろう。
4月10日にプラハに到着、その後12日にドレスデンに着いた。ドレスデンではザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世の宮殿で、前年1788年2月に作曲しウィーンでは初演の機会がなかった『クラヴィーア協奏曲ニ長調(K.537)「戴冠式」』を御前演奏している。
4月18日にはドレスデンを発ち、20日にライプツィヒに着き、22日にヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685 - 1750)ゆかりの聖トーマス教会を訪問し、オルガンを奏している。モーツァルトは1782年にヴァン・スヴィーテン男爵のところで集中的にバッハの曲に接した「バッハ体験」を思い出しながらバッハに捧げる曲を弾いたのであろう。この演奏を聴いたバッハの弟子であリ聖トーマス 教会のカントル(音楽監督、トーマスカントル)の当時74歳の老音楽家ヨハン・フリードリヒ・ドーレス(1715−1797年はバッハの再来かと感激したと伝えられている。
★バッハはライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(トーマスカントル、独:Thomaskantor)を約13年間(1723-1736)務めている。
4月25日頃にはベルリン近郊のポッダムに到着し、当時はプロイセン国王の夏の離宮であったサンスーシ宮殿に国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が滞在しており、モーツァルトは謁見を申し入れた。国王には謁見できなかったが、王の指示により宮廷音楽総監督のジャン・ピエール・デュポールと面談することとなった。
★ジャン=ピエール・デュポール:(1741-1818) Jean-Pierre Duport フランス出身のチェロの名手。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の皇太子時代にチェロを教えている。
モーツァルトは変奏曲(後述)をデュポールに贈ることによってその印象を良くしようと考えたのであろうが、それが奏功したとは思えない結果ではあった。
リヒノフスキー侯爵がウィーンに戻る必要が生じたため、モーツァルトは同侯爵に付き合いライプツィヒまで戻り、5月12日同地のゲヴァントハウスで演奏会を催している。この演奏会ではプラハからドレスデン経由ライプツィヒにたまたま来ていた古くからの友人でソプラノ歌手のドゥーシェク夫人が2曲のアリアを歌い、モーツァルトは前年に作曲した三大交響曲のうちのいずれかを演奏したとする説がある。
モーツァルトは旅先からウィーンに残してきた妻コンスタンツェに愛情溢れる手紙を度々書いているが、5月16日付の手紙にはこの演奏会は「拍手喝采と名誉の点ではまったくすばらしかったけれど、収入に関しては比較にならないほどお粗末だった。」と語っている。
モーツァルトは5月19日にベルリンに到着した。同日、ベルリン王立劇場で上演された「後宮からの誘拐」に立ち会い、5月26日ベルリン王宮で王妃フリーデリーケの御前での演奏を行った。
その後5月28日にベルリンを発ち、ドレスデン、プラハ経由で6月4日にウィーンに帰着した。
プロイセン王国への旅から帰着後7月12日には友人のブフベルクに対し、借金依頼の書簡が出されており、同王国への旅は「収入の面では比較にならないほどお粗末なものであった」ことを裏付けている。
『親愛な、最上の友!尊敬すべき結社盟友よ。
ああ!わたしはいま最悪の敵にも望まないような状況におります。そして、最上の友であり盟友であるあなたにもし見捨てられたら、私は不幸にも、なんの罪もないのに、かわいそうな病気の妻と子供もろとも、破滅してしまいます。。。(中略)このたびの妻の病気のために、どれほど私の稼ぎが妨げられているか、繰り返し申し上げるまでもないでしょう。私の運命は残念ながら、でもウィーンだけのことですが、私には逆風で、いくら稼ごうと思っても稼げません。私は二週間にわたって予約名簿(注:予約演奏会用)をまわしたのですが、そこにはただひとりスヴィーテン(注:ヴァン・スヴィーテン男爵)の名前があるだけです。』
★この関連でブフベルクは150フロリーンを送金している。
★妻のコンスタンツェは足の感染症に悩まされており、その療養と治療のために、主治医のクロセット博士よりウィーン南方の温泉(硫黄泉)療養地バーデンでの湯治を勧められ、モーツァルトはコンスタンツェを遅くとも8月中旬までにはバーデンに湯治に行かせたのである。
8月29日には「フィガロの結婚」がブルク劇場で2年半ぶりに再演され、新キャストによる上演は大成功を収め1791年2月までに計29回も上演されることになった。さらにこの再演成功直後より、ダ・ポンテが台本を書き下ろしたブルク劇場の翌年1790年のシーズン用のオペラ・ブッファ「コシ・ファン・トゥッテ”Così fan tutte"(女はみんなこうしたもの)の作曲を開始したのである。
★ひととおり作曲し終えたモーツァルトは12月31日ハイドンとブフベルクを自宅に招いて試演を行った。
11月16日にモーツァルトの第5子(次女)となるアンナ・マリアが誕生したが、生まれてすぐに息を引き取り、健全に育っていたのは、第2子として生まれたカール・トーマスだけであった。
政治的にはロシア帝国との同盟に基づき参戦したオスマン帝国との戦争が長期化の様相を呈し、この戦争のため前年1788年に9ヶ月以上にも及ぶセルビア=クロアチア地方のゼムリン"Semlin"に滞留し、同年12月5日ウィーンに帰着した皇帝ヨーゼフ2世は体調を崩し、病床についていた。
ハプスブルク君主領のハンガリーでは、中央政府による国家管理の一元化に対して、啓蒙に感化された特権身分社団による反発、農民反乱が恒常的なものとなりつつあった。又、オーストリア領ネーデルランドでも反乱が勃発する事態となった。
★ネーデルランドは1790年ベルギー合州国として独立を宣言したが、新しい国の指導者達の団結心の欠如のため、あえなくオーストリアに制圧されるのである。
7月14日にフランス王国(国王ルイ16世、王妃マリーアントワネット)では、パリ市の民衆が同市にあるバスティーユ牢獄(当時兵器庫)を襲撃する事件が勃発した。フランス革命がはじまったのである。10月、ルイ16世は国民議会が採択した人権宣言の承認を余儀なくされ、パリのチュイルリー宮殿に家族と共に幽閉された。
★パリのチュイルリー宮: 1778年6月18日、スイスの間でモーツァルトの交響曲ニ長調「パリ」K.297が演奏され、大成功を収めた宮殿である。弊記事「モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅③(パリ)」ご参照。
★フランス革命の勃発を受けヨーゼフ2世は翌年1790 年に宗教寛容令を除く殆どすべての絶対主義政策を撤廃することになる。
古いブランデンブルク門(1764年) モーツァルト(33歳)
★新しいブランデンブルク門はフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により建築家カール・ゴットハルト・ラングハンスによって
古代ギリシャ風で設計され、1788年から3年間の建設工事を経て1791年8月6日に竣工している。従い、モーツァルトが
ベルリンを訪問した時は新しい門は建設中であり、完成したのはモーツァルトが没した年である。
★33歳のモーツァルト:1989年4月16日、ドレスデンにて女流素人画家ドーレス・シュトックにより銀筆で描かれた。現存するモーツァルト最後の肖像画である。
タグ:モーツァルト リヒノフスキー侯爵 ベルリン フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 聖トーマス教会 ライプツィヒ ポッダム ドレスデン クラヴィーア協奏曲ニ長調(K.537)「戴冠式」 ジャン・ピエール・デュポール 「フィガロの結婚」 「コシ・ファン・トゥッテ」 フランス革命 J.P.デュポールのメヌエットの主題によるクラヴィーアのための9つの変奏曲 K.573 弦楽四重奏曲(第21番)ニ長調K.575「プロイセン王セット第1番」 クラヴィーア・ソナタ(第17番)ニ長調K.576 (新全集18番) クラリネット五重奏曲イ長調K.581 6つのドイツ舞曲 K.571 「後宮からの誘拐」 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
モーツァルト32歳・三大交響曲とブフベルク書簡(ウィーン⑧1788年) [モーツァルト]
前年1787年12月、皇帝ヨーゼフ2世より皇王室宮廷音楽家(作曲家)に任命されたモーツァルトは新年早々、初仕事として数曲の舞曲を作曲するのである。
★宮廷作曲家としての任務は宮廷で催される舞踏会用の舞曲、即ち、メヌエット、ドイツ舞曲、コントルダンスを作曲することであった。
ヨーゼフ2世は2月5日をもってケルントナートーア劇場(ブルク劇場に次ぐ第二の宮廷劇場)を閉鎖した。最後の出し物は『後宮からの誘拐』であった。この閉鎖は、オスマン帝国との戦争が間近に迫ったことによる緊縮財政措置の一環として実施されたのである。
★ケルントナートーア劇場では1785年10月16日以来、ドイツ語オペラがブルク劇場と交替で上演されていた。ケルントナートーア劇場は2月5日から閉鎖され1791年11月16日、即ちモーツァルトが死の床に伏す数日前まで、わずかな例外を除いて使用されることはなかった。
2月9日、ハプスブルク君主国(オーストリア)は同盟国ロシア帝国(エカチェリーナ大帝)を支援するため、対オスマン帝国(トルコ)戦争に参戦した。ヨーゼフ2世は2月28日には自らこの戦争のため、セルビア=クロアチア地方のゼムリン"Semlin"(セムン)に赴き、そこで滞留したのである。
★ヨーゼフ2世は9ヶ月以上、かの地に滞留し、ウィーンに戻ったのは12月5日となった。
皇帝ヨーゼフ2世は、3月1日付をもって病弱な宮廷楽長のジュゼッペ・ボンノ(1710年1月29日−1788年4月15日)を退任させ、その後任楽長としてアントニオ・サリエーリ(Antonio Salieri、1750 - 1825)を就任させている。
この年の四旬節はケルントナートーア劇場(独: Theater am Kärntnertor)の閉鎖に加え、オスマン帝国との開戦により主だった貴族が戦地に赴いたり、領地に戻ったりしたこともあり、モーツァルトの演奏会はほとんど開催されていない。
5月7日、ブルク劇場で『ドン・ジョヴァン二』のウィーン初演が行われた。すでに『後宮からの誘拐』や『フィガロの結婚』の初演が行われた劇場である。ウィーン初演でのポスターには「イタリア語によるジングシュピール」と記載されている。
『ドン・ジョヴァンニ』のウィーン初演については、音楽が歌には難しすぎるとか、退屈したとかの批判もあり、評価が分かれている。この様子を滞留地(ゼムリン)で報告を受けた皇帝ヨーゼフ2世は、宮廷劇場総監督のローゼンベルク伯爵に書簡で「モーツァルトの音楽はまこと歌にはむずかしすぎる。」と記述している。
12月5日、ヨーゼフ2世が戦地から帰還し、12月15日には『ドン・ジョヴァンニ』を観劇した。『ドン・ジョヴァンニ』はこの年1788年に計15回上演されている。7ヶ月間で15回の上演というのは当時の慣習からすれば少ない上演回数ではないが、『ドン・ジョヴァンニ』はこのヨーゼフ2世の観劇を最後に演目から外され, これ以降モーツァルトの生前にウィーンで上演されることはなかったのである。
プラハで上演した『ドン・ジョヴァンニ』の報酬が同地から送金されるのが遅れていたこともあり、この頃からモーツァルトのキャッシュ・フローに狂いが生じ始めた。即ち、家計の出金に対する現金入金不足である。
予約演奏会や貴族邸での個人演奏会の開催回数が激減し、これに伴う現金収入も当然ながら激減したのである。年間を通じてみれば、それなりの収入はあったのであるが、あてにしていた入金がなかったり、遅延したりで、資金繰りに狂いが生じたのである。
★因に、宮廷作曲家としての年間報酬額800グルテンの支払いは年3回均等払いであった。
6月には友人でフリーメイソンの会員であったミヒャエル・ブフベルクに現存する最初の借金依頼の手紙が書かれている。
★ミヒャエル・ブフベルク:1741年生まれ。ウィーンの裕福で音楽好きの織物商。
《最愛の同士よ!あなたの真の友情と兄弟愛にすがって、厚かましくもあなたの絶大なる御好意をお願いします。あなたには、まだ8ドゥカーテンを借りています。いまのところ、それをお返しすることができない状態にあるのに加えて、さらに、あなたを深く信頼するあまり、ほんの来週まで(その時にはカジノで私の演奏会が始まるので)、100フローリンを融通して助けてくださるよう、あえてお願いする次第です。その時までには、必ず予約金が手に入りますし、そうなればこの上なく熱い感謝の念をこめて136フローリンをきわめて容易にお返しできるでしょう。。。(略)あなたのこの上なく献身的同士 W.A.モーツァルト》
★この手紙の欄外にはブフベルク自筆で「100フローリン送金」と書かれている。
★ブフベルクに宛てたこの種借金依頼の手紙は1788年6月に3通、7月初めに1通、合計4通、1789年にも同じく4通、90年には9通もの手紙がかかれ、91年最後の年にも3通、総計20通もの手紙が書かれているのである。さらに紛失した借金依頼状があるものとされている。ブフベルクは通常、借金依頼状を受け取ると、依頼金額より低い額をその都度送金し、依頼状にいくら送金したかを書き留めておくのである。
6月29日には長女マリア・テレジアがわずか半年の命で昇天し、ヴェーリング墓地に埋葬されている。
7月初めには《家計がぎりぎりまで追いつめられて、心労と不安が絶えません。》と、ブフベルク宛に再度金銭的支援(借金)依頼の手紙を書くのであった。
経済的に緊迫してきたとは言え、この時期モーツァルトの創作意欲は旺盛で、6月から8月にかけて精力的に器楽曲を作曲するのである。この器楽曲を代表するのが三大交響曲なのである(後述)。
また、宮廷作曲家としてこの年後半にもメヌエットや舞曲、室内楽曲を完成させるのである。
ドン・ジョヴァンニのブルク劇場(ウィーン)初演のポスター
正式タイトルは『罰せられた放蕩者、あるいは、ドン・ジョヴァンニ』”Il dissoluto punito, o sia il Don Giovanni”
★宮廷作曲家としての任務は宮廷で催される舞踏会用の舞曲、即ち、メヌエット、ドイツ舞曲、コントルダンスを作曲することであった。
ヨーゼフ2世は2月5日をもってケルントナートーア劇場(ブルク劇場に次ぐ第二の宮廷劇場)を閉鎖した。最後の出し物は『後宮からの誘拐』であった。この閉鎖は、オスマン帝国との戦争が間近に迫ったことによる緊縮財政措置の一環として実施されたのである。
★ケルントナートーア劇場では1785年10月16日以来、ドイツ語オペラがブルク劇場と交替で上演されていた。ケルントナートーア劇場は2月5日から閉鎖され1791年11月16日、即ちモーツァルトが死の床に伏す数日前まで、わずかな例外を除いて使用されることはなかった。
2月9日、ハプスブルク君主国(オーストリア)は同盟国ロシア帝国(エカチェリーナ大帝)を支援するため、対オスマン帝国(トルコ)戦争に参戦した。ヨーゼフ2世は2月28日には自らこの戦争のため、セルビア=クロアチア地方のゼムリン"Semlin"(セムン)に赴き、そこで滞留したのである。
★ヨーゼフ2世は9ヶ月以上、かの地に滞留し、ウィーンに戻ったのは12月5日となった。
皇帝ヨーゼフ2世は、3月1日付をもって病弱な宮廷楽長のジュゼッペ・ボンノ(1710年1月29日−1788年4月15日)を退任させ、その後任楽長としてアントニオ・サリエーリ(Antonio Salieri、1750 - 1825)を就任させている。
この年の四旬節はケルントナートーア劇場(独: Theater am Kärntnertor)の閉鎖に加え、オスマン帝国との開戦により主だった貴族が戦地に赴いたり、領地に戻ったりしたこともあり、モーツァルトの演奏会はほとんど開催されていない。
5月7日、ブルク劇場で『ドン・ジョヴァン二』のウィーン初演が行われた。すでに『後宮からの誘拐』や『フィガロの結婚』の初演が行われた劇場である。ウィーン初演でのポスターには「イタリア語によるジングシュピール」と記載されている。
『ドン・ジョヴァンニ』のウィーン初演については、音楽が歌には難しすぎるとか、退屈したとかの批判もあり、評価が分かれている。この様子を滞留地(ゼムリン)で報告を受けた皇帝ヨーゼフ2世は、宮廷劇場総監督のローゼンベルク伯爵に書簡で「モーツァルトの音楽はまこと歌にはむずかしすぎる。」と記述している。
12月5日、ヨーゼフ2世が戦地から帰還し、12月15日には『ドン・ジョヴァンニ』を観劇した。『ドン・ジョヴァンニ』はこの年1788年に計15回上演されている。7ヶ月間で15回の上演というのは当時の慣習からすれば少ない上演回数ではないが、『ドン・ジョヴァンニ』はこのヨーゼフ2世の観劇を最後に演目から外され, これ以降モーツァルトの生前にウィーンで上演されることはなかったのである。
プラハで上演した『ドン・ジョヴァンニ』の報酬が同地から送金されるのが遅れていたこともあり、この頃からモーツァルトのキャッシュ・フローに狂いが生じ始めた。即ち、家計の出金に対する現金入金不足である。
予約演奏会や貴族邸での個人演奏会の開催回数が激減し、これに伴う現金収入も当然ながら激減したのである。年間を通じてみれば、それなりの収入はあったのであるが、あてにしていた入金がなかったり、遅延したりで、資金繰りに狂いが生じたのである。
★因に、宮廷作曲家としての年間報酬額800グルテンの支払いは年3回均等払いであった。
6月には友人でフリーメイソンの会員であったミヒャエル・ブフベルクに現存する最初の借金依頼の手紙が書かれている。
★ミヒャエル・ブフベルク:1741年生まれ。ウィーンの裕福で音楽好きの織物商。
《最愛の同士よ!あなたの真の友情と兄弟愛にすがって、厚かましくもあなたの絶大なる御好意をお願いします。あなたには、まだ8ドゥカーテンを借りています。いまのところ、それをお返しすることができない状態にあるのに加えて、さらに、あなたを深く信頼するあまり、ほんの来週まで(その時にはカジノで私の演奏会が始まるので)、100フローリンを融通して助けてくださるよう、あえてお願いする次第です。その時までには、必ず予約金が手に入りますし、そうなればこの上なく熱い感謝の念をこめて136フローリンをきわめて容易にお返しできるでしょう。。。(略)あなたのこの上なく献身的同士 W.A.モーツァルト》
★この手紙の欄外にはブフベルク自筆で「100フローリン送金」と書かれている。
★ブフベルクに宛てたこの種借金依頼の手紙は1788年6月に3通、7月初めに1通、合計4通、1789年にも同じく4通、90年には9通もの手紙がかかれ、91年最後の年にも3通、総計20通もの手紙が書かれているのである。さらに紛失した借金依頼状があるものとされている。ブフベルクは通常、借金依頼状を受け取ると、依頼金額より低い額をその都度送金し、依頼状にいくら送金したかを書き留めておくのである。
6月29日には長女マリア・テレジアがわずか半年の命で昇天し、ヴェーリング墓地に埋葬されている。
7月初めには《家計がぎりぎりまで追いつめられて、心労と不安が絶えません。》と、ブフベルク宛に再度金銭的支援(借金)依頼の手紙を書くのであった。
経済的に緊迫してきたとは言え、この時期モーツァルトの創作意欲は旺盛で、6月から8月にかけて精力的に器楽曲を作曲するのである。この器楽曲を代表するのが三大交響曲なのである(後述)。
また、宮廷作曲家としてこの年後半にもメヌエットや舞曲、室内楽曲を完成させるのである。
ドン・ジョヴァンニのブルク劇場(ウィーン)初演のポスター
正式タイトルは『罰せられた放蕩者、あるいは、ドン・ジョヴァンニ』”Il dissoluto punito, o sia il Don Giovanni”
タグ:モーツァルト オスマン帝国 ロシア帝国 トルコ ウィーン 交響曲 舞曲 皇帝ヨーゼフ2世 ケルントナートーア劇場 ジュゼッペ・ボンノ アントニオ・サリエーリ ブルク劇場 ドン・ジョヴァン二 ミヒャエル・ブフベルク 三大交響曲 交響曲(第39番)変ホ長調 K.543 交響曲(第40番)ト短調 K.550 交響曲(第41番)ハ長調 「ジュピター」 K.551 ディヴェルティメント 変ホ長調 K.563 コントルダンス ニ長調「雷雨」K.534 クラヴィーア協奏曲(第26番)ニ長調 「戴冠式」 K.537 ドイツ語軍歌「我は皇帝たらんもの」K.539 クラヴィーア三重奏曲 ハ長調 K.548 クラヴィーア・ソナタ ハ長調 K.545
モーツァルト31歳・父レオポルトの死と「ドン・ジョヴァンニ」(ウィーン⑦1787年) [モーツァルト]
1787年1月8日、モーツァルトは妻のコンスタンツェと数人の友人と共に馬車でウィーンを発ちプラハにむかった。前年12月プラハで「フィガロの結婚」が上演され、大評判となっており、同地の識者愛好家協会の招待に応えてのプラハ訪問である。
★モーツァルト夫妻の同行者は、この旅行の一年後にコンスタンツェの長姉ヨーゼファと結婚するフランツ・デ・パウラ・ホーファ−(1755-96、宮廷楽団ヴァイオリン奏者)とアントーン・パウル・シュタードラー(宮廷楽団クラリネット奏者)を含む5名の友人と従僕のヨーゼフである。
一行は1月11日プラハに到着した。モーツァルトはウィーンの親友ゴットフリート・フォン・ジャカンにプラハでの「フィガロ熱」について次の通り語るのである。(1787年1月15日付書簡)
《(舞踏会では)。。。生粋のコントルダンスやドイツ舞曲に編曲したぼくのフィガロの音楽にのって、心から楽しそうに飛び跳ねているのを見て、ぼくはすっかりうれしくなった。なにしろここでは、話題といえば「フィガロ」で持ちきり。弾くのも、吹くのも、歌うのも、そして口笛も「フィガロ」ばかり。「フィガロ」以外 ほかのオペラになんか目もくれないんだ。明けても暮れても「フィガロ」、「フィガロ」。たしかに、ぼくには大変な名誉だよ。》
1月17日モーツァルト夫妻列席のもとで「フィガロの結婚」がノスティツ劇場で上演され、19日にはモーツァルトの公開演奏会が同劇場で開かれた。公開演奏会では前年暮に作曲された交響曲(第38番)ニ長調「プラハ」(K.504)が演奏され、即興演奏3曲を披露している。最後の曲はプラハで大人気のフィガロのアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々”Non più andrai, farfallone amoroso”」の主題による変奏であり、劇場は興奮の渦に包まれたのである。
★ノスティツ劇場:モーツァルトの時代には所有者のノスティツ伯爵の名前からこう呼ばれた。その後スタヴォフスケ劇場となり、第二次世界大戦後の社会主義体制ではティル劇場と名称変更され、1992年12月再度スタヴォフスケ劇場(英名:エステート劇場)に戻され今日に至っている。
演劇興行師ボンディーニから次のシーズンのためのオペラの作曲を依頼され、2月8日「フィガロ」で持ち切りのプラハを発ちウィーンには2月12日頃に戻ったのである。
モーツァルトは「フィガロの結婚」の台本作者ロレンツォ・ダ・ポンテと協議し次回のオペラは「ドン・ジョヴァンニ」を題材とすることを決定し、ダ・ポンテは急ピッチで筆を進め、5月半ばには台本を完成させた。モーツァルトは3月には台本の一部を受け取り直ちに作曲に取りかかった。
「ドン・ジョヴァンニ」の作曲を開始したとほぼ時を同じくして、ザルツブルクでは父レオポルトが病に倒れた。これを知らされたモーツァルトはレオポルトに4月4日付で自分の死生観を織り込んだ書簡を発信するのである。
《あなたご自身から快方に向かっているという安心の手紙をぼくがどれほど切望しているか、お伝えするまでもないでしょう。常にぼくはあらゆることに最悪を想定することに慣れてはいるのですが。 死は(厳密に言えば)ぼくらの人生の真の最終目標ですから、ぼくはこの数年来、この人間の真の最上の友とすっかり慣れ親しんでしまいました。その結果、死の姿はいつのまにかぼくには少しも恐ろしくなくなったばかりか、大いに心を安め、慰めてくれるものとなりました!そして、死こそぼくらの真の幸福の鍵だと知る機会を与えてくれたことを(ぼくの言う意味はお分かりですね)神に感謝しています。ぼくは(まだ若いとはいえ)ひょっとしたらあすはもうこの世にはいないかもしれないと考えずに床につくことはありません。でも、ぼくを知っている人はだれひとり、ぼくが不機嫌だとか悲しげだとか言えないでしょう。そして、この仕合わせを毎日ぼくは創造主に感謝し、隣人のひとりひとりにもそれが与えられるよう心から祈っています。(中略)ぼくがこの手紙を書いている間にも、あなたが快方に向かわれるよう願い望んでいます。》
★この手紙がモーツァルトが父レオポルトに宛てた最後の手紙となったのである。尚、この手紙に記述されている死生観はフリーメイソンの思想から来ているとされている。
4月24日、約3年間住んだウィーン中心地にある豪華な借家(フィガロ・ハウス)を明け渡し、ウィーン市壁外の庭付きの借家に引っ越した。次第に経済的圧迫を感じ、家賃の安いところに移り住んだものと思われる。この引っ越しについて父レオポルトにはその理由を説明せず、新しい住所を連絡しているが、レオポルトは5月10日付でザンクト・ギルゲンの娘ナンネル(ゾンネンプール夫人)にモーツァルトの引っ越し先の住所を伝えるとともに引っ越しについては《彼はその理由を私には書いていません。なにひとつです!残念ながら、わたしにはそれが推測できます。》と語っており、この書簡がレオポルトが書いた最後の書簡となったのである。
レオポルトは、ザンクト・ギルゲンから駆けつけた娘のナンネル(ゾンネンブール夫人)の献身的な看病にも拘らず5月28日帰らぬ人となった。享年67歳であった。
6月4日、モーツァルトが約3年間可愛がってきたムクドリが死んだ。モーツァルトはこのムクドリに寄せた哀悼の詩を綴り、数人の友人を葬送行進がしたいからと自宅に招待し、全員で葬送の曲を歌いながら行進した。父レオポルトの死に対するモーツァルト独特の哀悼の表現でもあったのであろう。
★このムクドリと哀悼の詩などについては弊記事「モーツァルトと小鳥たち」をご参照。
4月、ボンの宮廷に仕えていた当時16歳のルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1872)が初めてウィーンを訪れ、二週間程滞在した。この間モーツァルトを訪問したという伝記もあるが、最愛の母マリアの病状悪化の報を受けボンに急遽戻っている。当時のケルン大司教選帝侯マクシミリアン・フランツ(在位:1784年 - 1801年)は皇帝ヨーゼフ2世の一番下の弟であり、モーツァルトを高く評価していたこともあり、ケルン宮廷(所在地:ボン)に当時仕えていた少年ベートーヴェンに対し、モーツァルトへの弟子入りを命じた可能性はある(モーツァルトに弟子入りを承諾されたとしているベートーヴェンの伝記作家もいるが、確証があるわけではない)。
★ベートーヴェンのフランドル生まれの祖父も父親もボンのケルン選帝侯の宮廷音楽家であった。
5月中旬頃にダ・ポンテは「ドン・ジョヴァンニ」の台本を完成しており、モーツァルトは序曲と第二幕のフィナーレを含む全体の約三分の一の作曲を仕上げ、10月1日コンスタンツェと共に再びプラハへと旅立ったのである。
プラハ側としてはこのオペラを、皇帝ヨーゼフ2世の姪マリア・テレジアのプラハ訪問の祝賀用に上演したかったのであるが、準備の遅延により、ヨーゼフ2世の指示もあり歓迎の催し物はオペラ「フィガロの結婚」となり、 10月14日モーツァルト本人の指揮によりノスティツ劇場で再演された。
★マリア・テレジアは皇帝ヨーゼフ2世の弟で当時トスカーナ大公であったレオポルト1世の娘。尚、レオポルト1世は1790年皇帝ヨーゼフ2世崩御の後レオポルト2世として神聖ローマ皇帝となる。
プラハ滞在中モーツァルトは旧知のフランツ・クサヴァー・ドゥーシェク夫妻と再会し、自宅やヴァルタヴァ河左岸の丘地にある別荘「ベルトラムカ荘」に招待され、この別荘を「ドン・ジョヴァ二」作曲のために提供してもらった。
★この別荘は現存しており、モーツァルト博物館となっている。
さまざまな事情で予定から半月遅れの10月29日2幕のオペラ・ブッファ(ドランマ・ジョコーソ)「罰せられた放蕩者、あるいは、ドン・ジョヴァンニ」”Il dissoluto punito, o sia il Don Giovanni” がノスティツ劇場でモーツァルト自身の指揮で初演され、大喝采を博したのである。
モーツァルトは11月4日付の手紙で親友ジャカンに「大変な拍手喝采を受けた」と伝えると共に「きのう、4回目の(しかも上がりはぼくの収入になる)上演が行われた。」と語っている。
かくしてモーツァルト夫妻はプラハ滞在を終え、明確な記録は残されていないが、おそらく11月13日にプラハを発ち、16日にはウィーンに帰着したのである。その前日15日に宮廷音楽家グルックがこの世を去ったのである。このグルックの死を契機として皇帝ヨーゼフ2世は宮廷楽団の再編成に取り組むのである。
★クリストフ・ヴィリバルト・グルック(Christoph Willibald (von) Gluck, 1714年7月2日 - 1787年11月15日)女帝マリア・テレジアの宮廷楽長を務め、35曲程の完成したオペラを作曲し、オペラの改革者として歴史に名を残している。
先ず12月1日付をもってモーツァルトは宮廷音楽家に任命され、年俸800グルテンの支給が決定したのである。1781年モーツァルトがザルツブルク大司教宮廷楽団を退任した時からの念願であったウィーン宮廷への奉職の夢が7年目にしてやっと実現したのである。父レオポルトが存命であればその喜びはいかばかりであったであろうか。
★任命書と辞令には宮廷音楽家と明記されているが、1789年及び91年の「宮廷職員名簿」にはモーツァルトは《皇王室宮廷音楽家》の中の《作曲家》にリスト・アップされている。
12月27日モーツァルトの長女(第4子)テレジア・コンスタンツィア・アーデルハイト・フリーデリケ・マリア・アンナが誕生した。
★しかし、この娘は翌88年6月29日に亡くなってしまうのである。
政治的にはこの年ロシア帝国のエカチェリーナ大帝の対オスマン帝国(トルコ)戦争(第2次)が始まり、1792年まで続くことになる。オーストリア帝国はロシアとの同盟に基づきロシアを支援すべく、1788年2月、参戦したのである。皇帝ヨーゼフ2世は啓蒙専制君主として、「上からの改革」を通じて身分制社会の構造を切り崩し、均質な国民を創出せんとして貴族勢力の弱体化を図りつつ商工業を発達させ、富国強兵・王権強化を図ったが、その改革の多くは抵抗勢力に阻まれていた。特にハンガリーや南ネーデルランドといったハプスブルク(オーストリア)帝国領内で反体制運動が活発化するのである。かような時期にオスマン帝国との戦争が勃発し、貴族はその領地に戻ったり、出征したりするのである。又、戦争により物価が高騰し、ウィーン市民の生活を圧迫するのである。こういった政治・社会情勢にも大きく影響され、モーツァルトの演奏会の開催が次第に困難になって行くのである。
ロレンツォ・ダ・ポンテ(版画) ドン・ジョヴァンニをプラハ初演で歌ったLuigi Bassi
19世紀初頭
★右上の絵は「ドン・ジョヴァンニ」の第二幕でドン・ジョヴァン二(バリトンのルイギ・バッシ)が気に入った女性の窓の下でセレナータ「さあ、来ておくれ、窓辺へ"Deh vieni alla finestra"」 を歌っているシーンを描いたものである(末尾音源ご参照)。尚、ルイギ・バッシLuigi Bassiは「フィガロの結婚」のプラハ初演でアルマヴィヴァ伯爵も歌っている。
★モーツァルト夫妻の同行者は、この旅行の一年後にコンスタンツェの長姉ヨーゼファと結婚するフランツ・デ・パウラ・ホーファ−(1755-96、宮廷楽団ヴァイオリン奏者)とアントーン・パウル・シュタードラー(宮廷楽団クラリネット奏者)を含む5名の友人と従僕のヨーゼフである。
一行は1月11日プラハに到着した。モーツァルトはウィーンの親友ゴットフリート・フォン・ジャカンにプラハでの「フィガロ熱」について次の通り語るのである。(1787年1月15日付書簡)
《(舞踏会では)。。。生粋のコントルダンスやドイツ舞曲に編曲したぼくのフィガロの音楽にのって、心から楽しそうに飛び跳ねているのを見て、ぼくはすっかりうれしくなった。なにしろここでは、話題といえば「フィガロ」で持ちきり。弾くのも、吹くのも、歌うのも、そして口笛も「フィガロ」ばかり。「フィガロ」以外 ほかのオペラになんか目もくれないんだ。明けても暮れても「フィガロ」、「フィガロ」。たしかに、ぼくには大変な名誉だよ。》
1月17日モーツァルト夫妻列席のもとで「フィガロの結婚」がノスティツ劇場で上演され、19日にはモーツァルトの公開演奏会が同劇場で開かれた。公開演奏会では前年暮に作曲された交響曲(第38番)ニ長調「プラハ」(K.504)が演奏され、即興演奏3曲を披露している。最後の曲はプラハで大人気のフィガロのアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々”Non più andrai, farfallone amoroso”」の主題による変奏であり、劇場は興奮の渦に包まれたのである。
★ノスティツ劇場:モーツァルトの時代には所有者のノスティツ伯爵の名前からこう呼ばれた。その後スタヴォフスケ劇場となり、第二次世界大戦後の社会主義体制ではティル劇場と名称変更され、1992年12月再度スタヴォフスケ劇場(英名:エステート劇場)に戻され今日に至っている。
演劇興行師ボンディーニから次のシーズンのためのオペラの作曲を依頼され、2月8日「フィガロ」で持ち切りのプラハを発ちウィーンには2月12日頃に戻ったのである。
モーツァルトは「フィガロの結婚」の台本作者ロレンツォ・ダ・ポンテと協議し次回のオペラは「ドン・ジョヴァンニ」を題材とすることを決定し、ダ・ポンテは急ピッチで筆を進め、5月半ばには台本を完成させた。モーツァルトは3月には台本の一部を受け取り直ちに作曲に取りかかった。
「ドン・ジョヴァンニ」の作曲を開始したとほぼ時を同じくして、ザルツブルクでは父レオポルトが病に倒れた。これを知らされたモーツァルトはレオポルトに4月4日付で自分の死生観を織り込んだ書簡を発信するのである。
《あなたご自身から快方に向かっているという安心の手紙をぼくがどれほど切望しているか、お伝えするまでもないでしょう。常にぼくはあらゆることに最悪を想定することに慣れてはいるのですが。 死は(厳密に言えば)ぼくらの人生の真の最終目標ですから、ぼくはこの数年来、この人間の真の最上の友とすっかり慣れ親しんでしまいました。その結果、死の姿はいつのまにかぼくには少しも恐ろしくなくなったばかりか、大いに心を安め、慰めてくれるものとなりました!そして、死こそぼくらの真の幸福の鍵だと知る機会を与えてくれたことを(ぼくの言う意味はお分かりですね)神に感謝しています。ぼくは(まだ若いとはいえ)ひょっとしたらあすはもうこの世にはいないかもしれないと考えずに床につくことはありません。でも、ぼくを知っている人はだれひとり、ぼくが不機嫌だとか悲しげだとか言えないでしょう。そして、この仕合わせを毎日ぼくは創造主に感謝し、隣人のひとりひとりにもそれが与えられるよう心から祈っています。(中略)ぼくがこの手紙を書いている間にも、あなたが快方に向かわれるよう願い望んでいます。》
★この手紙がモーツァルトが父レオポルトに宛てた最後の手紙となったのである。尚、この手紙に記述されている死生観はフリーメイソンの思想から来ているとされている。
4月24日、約3年間住んだウィーン中心地にある豪華な借家(フィガロ・ハウス)を明け渡し、ウィーン市壁外の庭付きの借家に引っ越した。次第に経済的圧迫を感じ、家賃の安いところに移り住んだものと思われる。この引っ越しについて父レオポルトにはその理由を説明せず、新しい住所を連絡しているが、レオポルトは5月10日付でザンクト・ギルゲンの娘ナンネル(ゾンネンプール夫人)にモーツァルトの引っ越し先の住所を伝えるとともに引っ越しについては《彼はその理由を私には書いていません。なにひとつです!残念ながら、わたしにはそれが推測できます。》と語っており、この書簡がレオポルトが書いた最後の書簡となったのである。
レオポルトは、ザンクト・ギルゲンから駆けつけた娘のナンネル(ゾンネンブール夫人)の献身的な看病にも拘らず5月28日帰らぬ人となった。享年67歳であった。
6月4日、モーツァルトが約3年間可愛がってきたムクドリが死んだ。モーツァルトはこのムクドリに寄せた哀悼の詩を綴り、数人の友人を葬送行進がしたいからと自宅に招待し、全員で葬送の曲を歌いながら行進した。父レオポルトの死に対するモーツァルト独特の哀悼の表現でもあったのであろう。
★このムクドリと哀悼の詩などについては弊記事「モーツァルトと小鳥たち」をご参照。
4月、ボンの宮廷に仕えていた当時16歳のルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1872)が初めてウィーンを訪れ、二週間程滞在した。この間モーツァルトを訪問したという伝記もあるが、最愛の母マリアの病状悪化の報を受けボンに急遽戻っている。当時のケルン大司教選帝侯マクシミリアン・フランツ(在位:1784年 - 1801年)は皇帝ヨーゼフ2世の一番下の弟であり、モーツァルトを高く評価していたこともあり、ケルン宮廷(所在地:ボン)に当時仕えていた少年ベートーヴェンに対し、モーツァルトへの弟子入りを命じた可能性はある(モーツァルトに弟子入りを承諾されたとしているベートーヴェンの伝記作家もいるが、確証があるわけではない)。
★ベートーヴェンのフランドル生まれの祖父も父親もボンのケルン選帝侯の宮廷音楽家であった。
5月中旬頃にダ・ポンテは「ドン・ジョヴァンニ」の台本を完成しており、モーツァルトは序曲と第二幕のフィナーレを含む全体の約三分の一の作曲を仕上げ、10月1日コンスタンツェと共に再びプラハへと旅立ったのである。
プラハ側としてはこのオペラを、皇帝ヨーゼフ2世の姪マリア・テレジアのプラハ訪問の祝賀用に上演したかったのであるが、準備の遅延により、ヨーゼフ2世の指示もあり歓迎の催し物はオペラ「フィガロの結婚」となり、 10月14日モーツァルト本人の指揮によりノスティツ劇場で再演された。
★マリア・テレジアは皇帝ヨーゼフ2世の弟で当時トスカーナ大公であったレオポルト1世の娘。尚、レオポルト1世は1790年皇帝ヨーゼフ2世崩御の後レオポルト2世として神聖ローマ皇帝となる。
プラハ滞在中モーツァルトは旧知のフランツ・クサヴァー・ドゥーシェク夫妻と再会し、自宅やヴァルタヴァ河左岸の丘地にある別荘「ベルトラムカ荘」に招待され、この別荘を「ドン・ジョヴァ二」作曲のために提供してもらった。
★この別荘は現存しており、モーツァルト博物館となっている。
さまざまな事情で予定から半月遅れの10月29日2幕のオペラ・ブッファ(ドランマ・ジョコーソ)「罰せられた放蕩者、あるいは、ドン・ジョヴァンニ」”Il dissoluto punito, o sia il Don Giovanni” がノスティツ劇場でモーツァルト自身の指揮で初演され、大喝采を博したのである。
モーツァルトは11月4日付の手紙で親友ジャカンに「大変な拍手喝采を受けた」と伝えると共に「きのう、4回目の(しかも上がりはぼくの収入になる)上演が行われた。」と語っている。
かくしてモーツァルト夫妻はプラハ滞在を終え、明確な記録は残されていないが、おそらく11月13日にプラハを発ち、16日にはウィーンに帰着したのである。その前日15日に宮廷音楽家グルックがこの世を去ったのである。このグルックの死を契機として皇帝ヨーゼフ2世は宮廷楽団の再編成に取り組むのである。
★クリストフ・ヴィリバルト・グルック(Christoph Willibald (von) Gluck, 1714年7月2日 - 1787年11月15日)女帝マリア・テレジアの宮廷楽長を務め、35曲程の完成したオペラを作曲し、オペラの改革者として歴史に名を残している。
先ず12月1日付をもってモーツァルトは宮廷音楽家に任命され、年俸800グルテンの支給が決定したのである。1781年モーツァルトがザルツブルク大司教宮廷楽団を退任した時からの念願であったウィーン宮廷への奉職の夢が7年目にしてやっと実現したのである。父レオポルトが存命であればその喜びはいかばかりであったであろうか。
★任命書と辞令には宮廷音楽家と明記されているが、1789年及び91年の「宮廷職員名簿」にはモーツァルトは《皇王室宮廷音楽家》の中の《作曲家》にリスト・アップされている。
12月27日モーツァルトの長女(第4子)テレジア・コンスタンツィア・アーデルハイト・フリーデリケ・マリア・アンナが誕生した。
★しかし、この娘は翌88年6月29日に亡くなってしまうのである。
政治的にはこの年ロシア帝国のエカチェリーナ大帝の対オスマン帝国(トルコ)戦争(第2次)が始まり、1792年まで続くことになる。オーストリア帝国はロシアとの同盟に基づきロシアを支援すべく、1788年2月、参戦したのである。皇帝ヨーゼフ2世は啓蒙専制君主として、「上からの改革」を通じて身分制社会の構造を切り崩し、均質な国民を創出せんとして貴族勢力の弱体化を図りつつ商工業を発達させ、富国強兵・王権強化を図ったが、その改革の多くは抵抗勢力に阻まれていた。特にハンガリーや南ネーデルランドといったハプスブルク(オーストリア)帝国領内で反体制運動が活発化するのである。かような時期にオスマン帝国との戦争が勃発し、貴族はその領地に戻ったり、出征したりするのである。又、戦争により物価が高騰し、ウィーン市民の生活を圧迫するのである。こういった政治・社会情勢にも大きく影響され、モーツァルトの演奏会の開催が次第に困難になって行くのである。
ロレンツォ・ダ・ポンテ(版画) ドン・ジョヴァンニをプラハ初演で歌ったLuigi Bassi
19世紀初頭
★右上の絵は「ドン・ジョヴァンニ」の第二幕でドン・ジョヴァン二(バリトンのルイギ・バッシ)が気に入った女性の窓の下でセレナータ「さあ、来ておくれ、窓辺へ"Deh vieni alla finestra"」 を歌っているシーンを描いたものである(末尾音源ご参照)。尚、ルイギ・バッシLuigi Bassiは「フィガロの結婚」のプラハ初演でアルマヴィヴァ伯爵も歌っている。
タグ:モーツァルト ウィーン プラハ フィガロの結婚 ノスティツ劇場 スタヴォフスケ劇場 ティル劇場 エステート劇場 ロレンツォ・ダ・ポンテ ドン・ジョヴァンニ レオポルト ナンネル ムクドリ ベートーヴェン ケルン大司教選帝侯 マクシミリアン・フランツ ベルトラムカ荘 弦楽五重奏曲ト短調 K.516 セレナード ト短調 K.525 アイネ・クライネ・ナハトムジーク ヴァイオリン・ソナタ イ長調 K.526 ホルン協奏曲(第3番)変ホ長調 K.447 6つのドイツ舞曲K.509 クラヴィーアのためのロンド イ短調 K.511 弦楽五重奏曲 ハ長調 K.515 弦楽五重奏曲 ト短調 K.516 ラウラに寄せる夕べの想い K.523 クローエに K.524 音楽の冗談 ヘ長調 K.522
モーツァルト30歳・「劇場支配人」と「フィガロの結婚」(ウィーン⑥1786年) [モーツァルト]
前年1785年秋頃から「フィガロの結婚」の作曲に精力的に取り組んでいたモーツァルトに、皇帝ヨーゼフ2世より一幕のドイツ語喜劇「劇場支配人”Der Schauspieldirektor"」の台本が渡され、この喜劇の作曲をする様にとの依頼があった。
モーツァルトは「フィガロの結婚」を中断し、直ちに作曲にとりかかり、2月3日には「劇場支配人」の作曲を完了し、2月7日、シェーンブルン宮殿のオランジュリー(熱帯植物用の大温室)で初演された。この初演は皇帝の義理の弟にあたるハプスブルク帝国(オーストリア)領南ネーデルランド(現在のベルギー)総督アルベルト公(ザクセン=テッシェン公)の来訪を祝して催された歓迎の宴で上演されたのである。
★アルベルト公:皇帝ヨーゼフ2世の妹マリア・クリスティーナの夫。
熱帯植物の木々と花の下に食卓が並び、オランジュリーの一角には舞台が設けられ、ここで「劇場支配人」が上演されたのである。他方、この上演が終わると別の一角に設けられた舞台でアントニオ・サリエリがこの宴のために作曲したイタリア語の一幕の音楽劇「はじめに音楽、次に言葉 "Prima la Musica e poi le Parole"」が上演された。
★この2つの演目は、その後2月11日、18日、25日の三日間にわたり、ケルントナートーア劇場で公開されている。
4月29日、オペラ・ブッファの大作「フィガロの結婚」が完成をみた。イタリア勢の上演阻止の各種陰謀もあったが、最終的に皇帝ヨーゼフ2世の上演許可も取得し、5月1日、ブルク劇場でモーツァルト自身の指揮により初演されたのである。
「フィガロ」の上演が行われている間、劇場は観客で満杯となり、アリアだけではなく重唱までも喝采に応えてアンコールされた為、上演時間が非常に長くなり、これを憂慮した皇帝の指示により「アリア以外の曲のアンコールは禁止する」との通達が出された程、見事な成功を収めたのであった。
この成功を報告するモーツァルトから父レオポルト宛の手紙は失われているが、5月18日付のレオポルト(在ザルツブルク)から娘のナンネル(在ザンクト・ギルゲン)宛の手紙には次の通り記述されている。
《おまえの弟のオペラの再演(注:5月3日)では5曲が、それに再々演(注:5月8日)では7曲がアンコールされたが、そのなかで小二重唱曲は三回も歌わざるをえなかったのです。》
★ここで言及している小二重唱曲(Duettino)とは恐らく第3幕の伯爵夫人とスザンナの小二重唱曲「手紙の二重唱」”Sull' aria...(そよ風によせる...)のことであろうと思われる。因に、小二重唱曲は第一幕で3曲、第二幕で1曲、第3幕で1曲がおかれている。
「フィガロの結婚」の台本を書いたロレンツォ・ダ・ポンテ(Lorenzo Da Ponte, 1749年3月10日 - 1838年8月1日)は、イタリアのヴェネト州でユダヤ人の家系に生まれた。元の名前はエマヌエーレ・コネリアーノ(Emanuele Conegliano)であったが14歳の時に一家がキリスト教に改宗した。そしてこの時、洗礼を行った司教ロレンツォ・ダ・ポンテの名前を名乗ることとなった。ダ・ポンテはのちに聖職に就き、ヴェネツィアで暮らした後、30歳の時(1779年)にウィーンに移住し、アントニオ・サリエリの口利きによって皇帝ヨーゼフ2世に宮廷詩人としての職を与えられた。
★ダ・ポンテは、『フィガロの結婚』K.492(原作ボーマルシェ)の他、1787年『ドン・ジョヴァンニ』K.527、1790年『コシ・ファン・トゥッテ』K.588の台本を書くことになる。 尚、1783年モーツァルトの作曲が未完(序曲と4曲のみ作曲)で終わっている2幕のオペラ・ブッファ「騙された花婿 "Lo sposo deluso"」(K.430/424a)の作詞者もダ・ポンテであろうと推定されている。
モーツァルトは3年前、1783年5月7日付父レオポルト宛の書簡でダ・ポンテに関し次の通り言及しており、この頃から付き合いがあったのである。
≪当地には、ダ・ポンテ師とかいう詩人がいます。この人は、作品を劇場用に書き直す仕事を山ほどかかえています。サリエリのために、まったく新しい台本を義務として書かなくてはならず、それに 2ヶ月はかかるでしょう。そのあと、ぼくのために新しい台本を書いてくれると約束しました。≫
この年10月18日には三男が誕生し、ヨハン・トーマス・レオポルトと命名されたが、11月15日に痙攣性窒息で亡くなってしまった。わずか1ヶ月の命であった。この子供は聖マルクス墓地に埋葬された。
11月には当時ウィーンに在住していた英国人音楽家に誘われたのであろう、英国旅行を計画し、父レオポルトにカール・トーマス(当時2歳)と生まれたばかりの三男(上記死亡前の話)の二人の子供を預かって貰えないかと打診し、レオポルトはモーツァルトに対し、しっかりした書面での作曲報酬に関わる契約もなしに訪英することは極めてリスクが高い点も指摘し、この申し入れをきっぱり断っているのである。
★英国人音楽家とはフィガロの初演でスザンナ役となったナンシー・ストーラス(1765−1817)とその兄で作曲家のスティーヴン・ストーラス、1785年からモーツァルトに指事していた作曲家のトーマス・アットウッド(1765−1838)、フィガロの初演歌手であるアイルランド人の(マイケル・ケリー(1762−1826)の4名であり、この4人は翌1787年初頭に英国に帰国する予定になっており、モーツァルトは彼らに同行しようと考えたのであろう。
この年にも連続演奏会が計画され、その都度新作のクラヴィーア協奏曲が作曲されてはいるが、演奏会の回数は1784年、1785年に比べると減少しており、最終的に、ロンドン行きは断念しているわけではあるが、モーツァルトはウィーンでの先行きに不安を感じ、ロンドンで一旗揚げようと考えたのであろうか。
他方、ボヘミアの首都プラハのノスティツ劇場(現在のエステート劇場=スタヴォフスケ劇場)で12月「フィガロの結婚」が上演され大評判となった。その結果、モーツァルトはプラハの識者愛好家協会よりプラハへの招聘状を受け取り、翌年1787年早々プラハ訪問を決断したのである。
ミヒャエル広場とブルク劇場(右側中央の低い建物)
モーツァルトは「フィガロの結婚」を中断し、直ちに作曲にとりかかり、2月3日には「劇場支配人」の作曲を完了し、2月7日、シェーンブルン宮殿のオランジュリー(熱帯植物用の大温室)で初演された。この初演は皇帝の義理の弟にあたるハプスブルク帝国(オーストリア)領南ネーデルランド(現在のベルギー)総督アルベルト公(ザクセン=テッシェン公)の来訪を祝して催された歓迎の宴で上演されたのである。
★アルベルト公:皇帝ヨーゼフ2世の妹マリア・クリスティーナの夫。
熱帯植物の木々と花の下に食卓が並び、オランジュリーの一角には舞台が設けられ、ここで「劇場支配人」が上演されたのである。他方、この上演が終わると別の一角に設けられた舞台でアントニオ・サリエリがこの宴のために作曲したイタリア語の一幕の音楽劇「はじめに音楽、次に言葉 "Prima la Musica e poi le Parole"」が上演された。
★この2つの演目は、その後2月11日、18日、25日の三日間にわたり、ケルントナートーア劇場で公開されている。
4月29日、オペラ・ブッファの大作「フィガロの結婚」が完成をみた。イタリア勢の上演阻止の各種陰謀もあったが、最終的に皇帝ヨーゼフ2世の上演許可も取得し、5月1日、ブルク劇場でモーツァルト自身の指揮により初演されたのである。
「フィガロ」の上演が行われている間、劇場は観客で満杯となり、アリアだけではなく重唱までも喝采に応えてアンコールされた為、上演時間が非常に長くなり、これを憂慮した皇帝の指示により「アリア以外の曲のアンコールは禁止する」との通達が出された程、見事な成功を収めたのであった。
この成功を報告するモーツァルトから父レオポルト宛の手紙は失われているが、5月18日付のレオポルト(在ザルツブルク)から娘のナンネル(在ザンクト・ギルゲン)宛の手紙には次の通り記述されている。
《おまえの弟のオペラの再演(注:5月3日)では5曲が、それに再々演(注:5月8日)では7曲がアンコールされたが、そのなかで小二重唱曲は三回も歌わざるをえなかったのです。》
★ここで言及している小二重唱曲(Duettino)とは恐らく第3幕の伯爵夫人とスザンナの小二重唱曲「手紙の二重唱」”Sull' aria...(そよ風によせる...)のことであろうと思われる。因に、小二重唱曲は第一幕で3曲、第二幕で1曲、第3幕で1曲がおかれている。
「フィガロの結婚」の台本を書いたロレンツォ・ダ・ポンテ(Lorenzo Da Ponte, 1749年3月10日 - 1838年8月1日)は、イタリアのヴェネト州でユダヤ人の家系に生まれた。元の名前はエマヌエーレ・コネリアーノ(Emanuele Conegliano)であったが14歳の時に一家がキリスト教に改宗した。そしてこの時、洗礼を行った司教ロレンツォ・ダ・ポンテの名前を名乗ることとなった。ダ・ポンテはのちに聖職に就き、ヴェネツィアで暮らした後、30歳の時(1779年)にウィーンに移住し、アントニオ・サリエリの口利きによって皇帝ヨーゼフ2世に宮廷詩人としての職を与えられた。
★ダ・ポンテは、『フィガロの結婚』K.492(原作ボーマルシェ)の他、1787年『ドン・ジョヴァンニ』K.527、1790年『コシ・ファン・トゥッテ』K.588の台本を書くことになる。 尚、1783年モーツァルトの作曲が未完(序曲と4曲のみ作曲)で終わっている2幕のオペラ・ブッファ「騙された花婿 "Lo sposo deluso"」(K.430/424a)の作詞者もダ・ポンテであろうと推定されている。
モーツァルトは3年前、1783年5月7日付父レオポルト宛の書簡でダ・ポンテに関し次の通り言及しており、この頃から付き合いがあったのである。
≪当地には、ダ・ポンテ師とかいう詩人がいます。この人は、作品を劇場用に書き直す仕事を山ほどかかえています。サリエリのために、まったく新しい台本を義務として書かなくてはならず、それに 2ヶ月はかかるでしょう。そのあと、ぼくのために新しい台本を書いてくれると約束しました。≫
この年10月18日には三男が誕生し、ヨハン・トーマス・レオポルトと命名されたが、11月15日に痙攣性窒息で亡くなってしまった。わずか1ヶ月の命であった。この子供は聖マルクス墓地に埋葬された。
11月には当時ウィーンに在住していた英国人音楽家に誘われたのであろう、英国旅行を計画し、父レオポルトにカール・トーマス(当時2歳)と生まれたばかりの三男(上記死亡前の話)の二人の子供を預かって貰えないかと打診し、レオポルトはモーツァルトに対し、しっかりした書面での作曲報酬に関わる契約もなしに訪英することは極めてリスクが高い点も指摘し、この申し入れをきっぱり断っているのである。
★英国人音楽家とはフィガロの初演でスザンナ役となったナンシー・ストーラス(1765−1817)とその兄で作曲家のスティーヴン・ストーラス、1785年からモーツァルトに指事していた作曲家のトーマス・アットウッド(1765−1838)、フィガロの初演歌手であるアイルランド人の(マイケル・ケリー(1762−1826)の4名であり、この4人は翌1787年初頭に英国に帰国する予定になっており、モーツァルトは彼らに同行しようと考えたのであろう。
この年にも連続演奏会が計画され、その都度新作のクラヴィーア協奏曲が作曲されてはいるが、演奏会の回数は1784年、1785年に比べると減少しており、最終的に、ロンドン行きは断念しているわけではあるが、モーツァルトはウィーンでの先行きに不安を感じ、ロンドンで一旗揚げようと考えたのであろうか。
他方、ボヘミアの首都プラハのノスティツ劇場(現在のエステート劇場=スタヴォフスケ劇場)で12月「フィガロの結婚」が上演され大評判となった。その結果、モーツァルトはプラハの識者愛好家協会よりプラハへの招聘状を受け取り、翌年1787年早々プラハ訪問を決断したのである。
ミヒャエル広場とブルク劇場(右側中央の低い建物)
父レオポルト、絶頂期のモーツァルト29歳を訪問(ウィーン⑤1785年) [モーツァルト]
1785年の前半は前年に引き続き多数の演奏会をこなし、今やウィーンの社交界の寵児、超多忙のモーツァルトなのである。
前年12月14日に「徒弟(レアリング)」として入会したフリーメイソンのロッジ「善行 "Zur Wohltatigkeit"」で1月7日第二位階「職人(ゲゼレ)」に昇進し、同月14日には第三位階「親方(マイスター)」に昇進した。
1月10日には弦楽四重奏曲(第18番)イ長調 K.464( 「ハイドン四重奏曲第5番」), 更に14日には弦楽四重奏曲(第19番)ハ長調 K.465「不協和音」(「ハイドン四重奏曲第6番」)を書き上げ、1782年の大晦日に完成した弦楽四重奏曲(第14番)ト長調(K.387)(「ハイドン四重奏曲第1番」)以来じっくり書き上げてきた、「ハイドン四重奏曲(ハイドン・セット)」全6曲の完成をみたのである。
翌日1月15日には24歳年上のフランツ・ヨーゼフ・ハイドンを主賓として自宅に招待し、「ハイドン四重奏曲」の最初の3曲(第1番ト長調K.387、第2番二短調K.421/417b、、第3番変ホ長調K.428/421b)を演奏したのであるが、ハイドンの感激はいかばかりであったであろうか。
2月11日(金曜日)、父レオポルトがモーツァルトの招待に応え、ウィーンのモーツァルト宅に到着した。レオポルトは1月28日ザルツブルクを発ち、ミュンヘンに1週間程滞在後、同地を2月7日弟子のハインリヒ・マルシャンと共に馬車で出発し、大雪に悩まされながらも、ランバッハなどを経てウィーンに無事到着したのである。
レオポルトはまずモーツァルトの家(注:所謂フィガロ・ハウス)が、必要な家財道具一切合切ついた立派な住居であることと高額家賃(460フローリン/年)に驚くのである。そして到着した日の晩にはモーツァルトの最初の予約演奏会に出かけ、その素晴らしさと身分の高い聴衆を目の当たりにし感激するのである。
2月12日(土曜日)、ハイドンとティンティ男爵がモーツァルト宅を訪問した。この日は新作のハイドン四重奏曲3曲が演奏された。ハイドンはレオポルトに次の通り語るのである。
≪誠実な人間として神の御前に誓って申し上げますが、ご子息は、私が名実ともども知っているもっとも偉大な作曲家です。様式感に加えて、この上なく幅広い作曲上の知識をお持ちです。≫
★これら6曲の「ハイドン四重奏曲」はこの年9月1日初版(アルタリア版)に寄せたモーツァルトの全文イタリア語の献辞をもってハイドンに献呈された。尚、ハイドン・セット第5番(K.464)は後になってベートヴェンが筆写して研究するのである。
レオポルトが2月16日付でザルツブルクに滞在中の娘ナンネル(ゾンネンプール夫人)に宛てた手紙にウィーン到着後の様子が記述されているが、レオポルトは皇帝ヨーゼフ2世臨席の演奏会の模様を次の様に語るのである。
≪2月13日(日曜日)の晩にはブルク劇場でイタリアの歌手ラスキの音楽会がありました。(中略)おまえの弟はパリ用にとパラディスのために作った見事な協奏曲を一つ弾きました。私はたいそうお美しいヴュルテンベルク公爵令嬢から後ろに二つほどロージュを隔てていただけで、楽器の交替はすべてものすごくよく聞き分けられるという満足が得られたので、この満足感で目に涙が溢れたものでした。おまえの弟が退場すると、皇帝は手にお持ちの帽子で挨拶を送ってくださり、「ブラボォー、モーツァルト」とお叫びになられました。≫
★イタリアの歌手ラスキ嬢:ルイーザ・ラスキは1784年9月26日にブルク劇場でデビューした。ラスキは1786年5月1日初演の「フィガロの結婚」K.492 で伯爵夫人を歌い、1788年5月7日の「ドン・ジョヴァンニ」K.527のウィーン初演ではツェルリーナ役をつとめることになる。
★モーツァルトが弾いた曲目についての詳細は不明であるが、「見事な協奏曲」とは前年1784年作曲した「クラヴィーア協奏曲(第18番)変ロ長調」(K.456)と考えられている。
ハイドンは2月11日にフリーメイソンの「真の協和」ロッジに入会し、モーツァルトの父レオポルトも今回ウィーン訪問中、4月6日にモーツァルトと同じ「善行」ロッジに入会した。ハイドンは入会後ロッジには出席しておらず、フリーメイソン用の作曲もしていないが、モーツァルトは極めて熱心でこの年多数のフリーメイソン用の作品を完成するのである。
父レオポルトはモーツァルトのフォルテ・ピアノが12回も家(フィガロ・ハウス)から劇場や貴族邸に運び出され、毎日が演奏会であり、夜の1時前には眠ったことは一度もなく、9時前に起きることもなく、二時か二時半に食事をし、モーツァルトはいつも勉強か音楽か、書いたりしていることより、「私はどこへ行ったら良いのです?」と愚痴とも喜びともとれる息子モーツァルトの多忙ぶりを娘ナンネルに語るのである。(3月12日付書簡)
レオポルトは2ヶ月半にわたりウィーンに滞在し、メールグルーペで6回催されたモーツァルトの予約演奏会をすべて聴き、モーツァルトに良く似た孫のカール・トーマス(前年1784年9月21日誕生)と過ごす喜びを持った後、4月25日に弟子のハインリヒ・マルシャンと共にウィーンを発ったのである。モーツァルトはウィーンから同行し、約10km程の所にあるブルカースドルフで見送ったのであるが、これが父と子の永遠の別れとなったのである。
レオポルトは、リンツを経由し、5月4日ミュンヘンに到着した。同地には1週間滞在した後、5月13日にはザルツブルクに帰郷したのである。7月27日にはレオポルトの住家で娘ナンネル(ゾンネンプール夫人)の息子が誕生している。
★この子供には祖父の名が与えられレオポルドゥス・アーロイス・パンタレオンと命名された。ナンネルは9月1日ザンクトギルゲンへと帰ったが、レオポルトは2年後に自分が世をさるまで手元において養育したのである。
皇帝ヨーゼフ2世はフリーメイソンの啓蒙思想を自分の啓蒙主義改革に利用しようと考えその活動を容認したのであるが、ウィーンのロッジが予想以上の勢力拡大をとげてきたことに危機感を覚え、一転してフリーメイソンの抑制に乗り出したのである。まず手始めに「フリーメイソン勅令」を発布し、ウィーンの複数のロッジの段階的縮小・統合策をとり進めた結果、1787年には会員数も激減し、ロッジも「新・戴冠した希望」だけとなったのである。
★モーツァルトは「フリーメイソン勅令」発布後も「新・戴冠した希望」に属して活動を続け、「洞窟」という新たなロッジ設立を目論んでいたとされている。
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン Franz Joseph Haydn モーツァルト29歳のシルエット(1785年)
(1732年3月31日 - 1809年5月31日) レッシェンコールの版画
トーマス・ハーディによる肖像画 1792年作
★モーツァルトの影絵:版画家ヒエロニムス・レッシェンコールがシルエットに拠って1785年春に作成した版画作品。
前年12月14日に「徒弟(レアリング)」として入会したフリーメイソンのロッジ「善行 "Zur Wohltatigkeit"」で1月7日第二位階「職人(ゲゼレ)」に昇進し、同月14日には第三位階「親方(マイスター)」に昇進した。
1月10日には弦楽四重奏曲(第18番)イ長調 K.464( 「ハイドン四重奏曲第5番」), 更に14日には弦楽四重奏曲(第19番)ハ長調 K.465「不協和音」(「ハイドン四重奏曲第6番」)を書き上げ、1782年の大晦日に完成した弦楽四重奏曲(第14番)ト長調(K.387)(「ハイドン四重奏曲第1番」)以来じっくり書き上げてきた、「ハイドン四重奏曲(ハイドン・セット)」全6曲の完成をみたのである。
翌日1月15日には24歳年上のフランツ・ヨーゼフ・ハイドンを主賓として自宅に招待し、「ハイドン四重奏曲」の最初の3曲(第1番ト長調K.387、第2番二短調K.421/417b、、第3番変ホ長調K.428/421b)を演奏したのであるが、ハイドンの感激はいかばかりであったであろうか。
2月11日(金曜日)、父レオポルトがモーツァルトの招待に応え、ウィーンのモーツァルト宅に到着した。レオポルトは1月28日ザルツブルクを発ち、ミュンヘンに1週間程滞在後、同地を2月7日弟子のハインリヒ・マルシャンと共に馬車で出発し、大雪に悩まされながらも、ランバッハなどを経てウィーンに無事到着したのである。
レオポルトはまずモーツァルトの家(注:所謂フィガロ・ハウス)が、必要な家財道具一切合切ついた立派な住居であることと高額家賃(460フローリン/年)に驚くのである。そして到着した日の晩にはモーツァルトの最初の予約演奏会に出かけ、その素晴らしさと身分の高い聴衆を目の当たりにし感激するのである。
2月12日(土曜日)、ハイドンとティンティ男爵がモーツァルト宅を訪問した。この日は新作のハイドン四重奏曲3曲が演奏された。ハイドンはレオポルトに次の通り語るのである。
≪誠実な人間として神の御前に誓って申し上げますが、ご子息は、私が名実ともども知っているもっとも偉大な作曲家です。様式感に加えて、この上なく幅広い作曲上の知識をお持ちです。≫
★これら6曲の「ハイドン四重奏曲」はこの年9月1日初版(アルタリア版)に寄せたモーツァルトの全文イタリア語の献辞をもってハイドンに献呈された。尚、ハイドン・セット第5番(K.464)は後になってベートヴェンが筆写して研究するのである。
レオポルトが2月16日付でザルツブルクに滞在中の娘ナンネル(ゾンネンプール夫人)に宛てた手紙にウィーン到着後の様子が記述されているが、レオポルトは皇帝ヨーゼフ2世臨席の演奏会の模様を次の様に語るのである。
≪2月13日(日曜日)の晩にはブルク劇場でイタリアの歌手ラスキの音楽会がありました。(中略)おまえの弟はパリ用にとパラディスのために作った見事な協奏曲を一つ弾きました。私はたいそうお美しいヴュルテンベルク公爵令嬢から後ろに二つほどロージュを隔てていただけで、楽器の交替はすべてものすごくよく聞き分けられるという満足が得られたので、この満足感で目に涙が溢れたものでした。おまえの弟が退場すると、皇帝は手にお持ちの帽子で挨拶を送ってくださり、「ブラボォー、モーツァルト」とお叫びになられました。≫
★イタリアの歌手ラスキ嬢:ルイーザ・ラスキは1784年9月26日にブルク劇場でデビューした。ラスキは1786年5月1日初演の「フィガロの結婚」K.492 で伯爵夫人を歌い、1788年5月7日の「ドン・ジョヴァンニ」K.527のウィーン初演ではツェルリーナ役をつとめることになる。
★モーツァルトが弾いた曲目についての詳細は不明であるが、「見事な協奏曲」とは前年1784年作曲した「クラヴィーア協奏曲(第18番)変ロ長調」(K.456)と考えられている。
ハイドンは2月11日にフリーメイソンの「真の協和」ロッジに入会し、モーツァルトの父レオポルトも今回ウィーン訪問中、4月6日にモーツァルトと同じ「善行」ロッジに入会した。ハイドンは入会後ロッジには出席しておらず、フリーメイソン用の作曲もしていないが、モーツァルトは極めて熱心でこの年多数のフリーメイソン用の作品を完成するのである。
父レオポルトはモーツァルトのフォルテ・ピアノが12回も家(フィガロ・ハウス)から劇場や貴族邸に運び出され、毎日が演奏会であり、夜の1時前には眠ったことは一度もなく、9時前に起きることもなく、二時か二時半に食事をし、モーツァルトはいつも勉強か音楽か、書いたりしていることより、「私はどこへ行ったら良いのです?」と愚痴とも喜びともとれる息子モーツァルトの多忙ぶりを娘ナンネルに語るのである。(3月12日付書簡)
レオポルトは2ヶ月半にわたりウィーンに滞在し、メールグルーペで6回催されたモーツァルトの予約演奏会をすべて聴き、モーツァルトに良く似た孫のカール・トーマス(前年1784年9月21日誕生)と過ごす喜びを持った後、4月25日に弟子のハインリヒ・マルシャンと共にウィーンを発ったのである。モーツァルトはウィーンから同行し、約10km程の所にあるブルカースドルフで見送ったのであるが、これが父と子の永遠の別れとなったのである。
レオポルトは、リンツを経由し、5月4日ミュンヘンに到着した。同地には1週間滞在した後、5月13日にはザルツブルクに帰郷したのである。7月27日にはレオポルトの住家で娘ナンネル(ゾンネンプール夫人)の息子が誕生している。
★この子供には祖父の名が与えられレオポルドゥス・アーロイス・パンタレオンと命名された。ナンネルは9月1日ザンクトギルゲンへと帰ったが、レオポルトは2年後に自分が世をさるまで手元において養育したのである。
皇帝ヨーゼフ2世はフリーメイソンの啓蒙思想を自分の啓蒙主義改革に利用しようと考えその活動を容認したのであるが、ウィーンのロッジが予想以上の勢力拡大をとげてきたことに危機感を覚え、一転してフリーメイソンの抑制に乗り出したのである。まず手始めに「フリーメイソン勅令」を発布し、ウィーンの複数のロッジの段階的縮小・統合策をとり進めた結果、1787年には会員数も激減し、ロッジも「新・戴冠した希望」だけとなったのである。
★モーツァルトは「フリーメイソン勅令」発布後も「新・戴冠した希望」に属して活動を続け、「洞窟」という新たなロッジ設立を目論んでいたとされている。
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン Franz Joseph Haydn モーツァルト29歳のシルエット(1785年)
(1732年3月31日 - 1809年5月31日) レッシェンコールの版画
トーマス・ハーディによる肖像画 1792年作
★モーツァルトの影絵:版画家ヒエロニムス・レッシェンコールがシルエットに拠って1785年春に作成した版画作品。
タグ:モーツァルト ウィーン フリーメイソン 弦楽四重奏曲 ハイドン四重奏曲 レオポルト ヨーゼフ・ハイドン 皇帝ヨーゼフ2世 ブルク劇場 ナンネル クラヴィーア協奏曲 「悔悟するダビデ」"Davide penitente"(K.469) ミサ曲ハ短調(K.427/417a) 「結社員の旅」K.468 リート クラヴィーア四重奏曲ト短調(K.478) 「すみれ」 K.476 クラヴィーア協奏曲(第22番)変ホ長調K.482 弦楽四重奏曲(第18番)イ長調K.464(「ハイドン四重奏曲第5番」 弦楽四重奏曲(第19番)ハ長調K.465「不協和音」(「ハイドン四重奏曲第6番」) オラトリオ フィガロの結婚 ロレンツォ・ダ・ポンテ クラヴィーア協奏曲(第20番)ニ短調K.466 クラヴィーア協奏曲(第21番)ハ長調K.467
モーツァルト28歳・演奏活動絶頂期(ウィーン④1784年) [モーツァルト]
モーツァルトは「クラヴィーアの国」ウィーンに定住して4年目となる1784年を迎えた。
演奏会や出版などで必要な都度直ちに取り出すことが出来る様、2月から「私の全作品目録」と題した
「自作目録」の作成を開始した。まず最初に記入した作品は、クラヴィーア協奏曲(第14番)変ホ長調
(K.449)で日付は2月9日と記載されている。
★この作品と4月に作曲されたクラヴィーア協奏曲(第17番)ト長調K.453はこの年から弟子となったバルバラ・フォン・ブロイヤー嬢
(1765-1811)のために作曲された。
2月26日から4月11日までの45日間にモーツァルトが父レオポルトに報告しているだけで25回の
演奏会でクラヴィーアを弾くのである(1784年3月3日付書簡)。
①ブルク劇場での公開演奏会が2回(1回を主催)
②トラットナーホーフ(トラットナー館)での公開演奏会が6回(3回を主催)
③ガリツィン侯爵邸の私的音楽会が毎週木曜で計5回
④エステルハージ伯爵邸の私的音楽会が毎週月曜と金曜で計9回
⑤ツィヒー伯爵邸、パールフィ伯爵邸、カウニッツ=リートベルク侯爵邸での演奏が各1回
午前中は弟子にクラヴィーアを教え、夜は殆ど毎日演奏し、更に、公開演奏会用に新しい作品を
書くのである。まさに引っ張りだこ・超多忙の売れっ子ピアニスト、モーツァルトなのである。
3月20日付で父レオポルトには予約演奏会(3月17日)の予約者リストを送付しているが、予約者は
174名に及び概要は次の通りである。
1.会員の性別
①男性会員:144名(83%)
②女性会員: 30名(17%)
2.身分
①高位貴族(伯爵家、公爵家一族):88名(50%)
②下位貴族(爵位買収者):74名(42%)
③市民階級:13名(8%)
3.職業
①高位官職者、宮廷職員関係者:12名(8%)
②ウィーン派遣外交官および宮廷代理人:18名(12%)
③枢密顧問官、宮中顧問官、参事官:33名(23%)
④その他の公務員:15名(10%)
⑤軍人:17名(12%)
⑥商人、工業家、銀行家:13名(9%)
⑦その他:37名(25%)
予約者リストによれば圧倒的に男性予約者が多いのは当時の社会身分制度によるものであるが、
2割近くを占める女性予約者たちは、高位高官者の夫人という身分の富裕階級であり、その多くが
モーツァルトと音楽を通じて親しくなった女性たちであり、ほとんどすべてが声楽やクラヴィーアを
たしなむ人たちであった。
これら予約者のうちフリーメイソン結社員は約40名、22%ほどの割合を占めているのである。モーツァルトは
この年12月14日にウィーンの分団「善行」に加わったが、それ以前に多数のフリーメイソンと交友関係に
あったのである。
4月29日には有名なマントヴァ出身の女流ヴァイオリン奏者ストリナザッキ(Regina Strinasacchi
1761-1829)のケルントナートーア劇場で皇帝ヨーゼフ2世の臨席のもとに開かれた演奏会で
直前に作曲したヴァイオリン・ソナタ変ロ長調(K.454)を協演した。
★自作作品目録の日付は4月21日となっているが、この時書き上げたのはヴァイオリン・パートだけであり、モーツァルトの
クラヴィーア・パートは簡単な草稿を用いて記憶で演奏したとされている。
超多忙であった四旬節シーズンが明け、ほっと一息ついた頃の5月27日、モーツァルトは一羽の
ムクドリを購入した。このムクドリは、購入に先立つ4月12日にモーツァルトが前述の弟子のブロイヤー嬢の
ために作曲した「クラビーア協奏曲(第17番)ト長調」(K.453)第三楽章の主題を見事に歌うのである。
モーツァルトがつけていた出納帳には"Vogel Stahrl 34 Kr.(椋鳥 34クロイツァー) ...
Das war schön!(お見事!)と記されている。(詳細は弊記事「モーツァルトと小鳥たち」をご参照)
ザルツブルクの姉ナンネル(当時33歳)が8月23日ザンクト・ギルゲンの地方管理官ベルヒトルト・
ツゥ・ゾンネンブルク(1736-1801)と結婚することになったが、これに先立つ8月18日モーツァルトは
5歳年上のナンネルにお祝いを述べると共に結婚の先輩として詩的アドバイスを書き送るのである。
≪。。。彼氏が不機嫌で、心あたりは何もないのに、渋面ばかりするならば、あなたは思えば
いいのです、あれは男の気まぐれと。そして彼氏に言うのです、「ご主人様、昼間はあなたの
お好きなように。けれども夜は、わたしのものよ。」≫ あなたの誠実な弟 W:A:モーツァルト
★ナンネルが結婚しザルツブルク市内の「モーツアルトの住家」いわゆる「タンツマイスターハウス」からザンクト・ギルゲン
(母マリア・アンナの生まれ故郷であった)に移り住んだので、父親レオポルトと娘ナンネルの間に文通が始められる。
このうちレオポルトの手紙が残されており、さまざまな情報を提供してくれることとなる。モーツァルトの手紙が
1784年夏頃から1787年5月まで現存しているのが非常に少ないことより、ナンネル宛のレオポルトの手紙で
モーツァルトのウィーンでの動向を多少なりとも知ることができるのである。(モーツァルトがレオポルト宛に出した手紙は
写しをとらずにナンネルに転送され、レオポルトにより保管されなかったことにもよる。)
9月21日には次男カール・トーマスが誕生した。
★次男は代父となったトラットナーホーフ(トラットナー館)の持ち主のヨハン・トーマス・フォン・トラットナーの名をとって
カール・トーマスと名づけられた。
★カール・トーマスは無事成長し、当初音楽家の道を歩んだが断念し、1810年ミラノのナポリ副王に仕える役人となり、
1858年10月31日に73歳の生涯をミラノで閉じた。
多忙さに比例して収入も飛躍的に増加し、29日にはグローセ・シューラー通り(現在のドームガッセ5番地、
ウィーンの中心地シュテファン大聖堂のすぐ裏)の豪華な家具付の借家(いわゆる「フィガロハウス」に
引っ越すのである。家賃は半年で230グルテンで、これまで住んでいた借家「トラットナー館」の家賃が
半年で75グルデンであったので3.5倍の家賃となったが、フィガロハウスは4つの部屋と2つの小部屋
及び台所がついており、4部屋を寝室、客間、仕事部屋と居間兼音楽室とし、さらに2つの小部屋も
ある立派なものであった。
この年にはアントン・ヴァルター製作のフォルテ・ピアノ(ヴァルター・フリューゲル)を購入し、その他、
ビリヤード台なども購入したのである。
★この頃、自家用馬車と乗馬用の馬も購入している。
★フィガロハウス:1784年9月29日(28歳)より1787年4月24日(31歳)まで住んだ借家で、ここで1986年(30歳)「フィガロの結婚」
(K.492)の作曲を完成したのでフィガロハウスと呼ばれている。モーツァルト夫妻が住んだ借家で唯一現存している建物で現在は
モーツァルトハウス・ウィーン”Mozarthaus Vienna"と呼ばれモーツァルト記念館となっている。
★アントン・ヴァルター製作のフォルテ・ピアノはモーツァルトの死後、コンスタンツェよりミラノに住む息子のカール・トーマスに
送られた。 1856年にカール・トーマスはそれをモーツァルテウム(国際モーツァルテウム財団)に寄贈し、現在は
「モーツァルトの生家」(ザルツブルク)に展示されている。
前述の通りモーツァルトは12月14日 フリーメイソンのロッジ(分団)の「善行」に入会した。
当時は皇帝ヨーゼフ2世の啓蒙主義的治世下にあってフリーメイソン全盛の時代でもあった。
フリーメイソンには貴族・学者・医師・富裕市民がこぞって入会したのである。
フリーメイソンの掲げる宗教ドグマを超越した態度、自己鍛錬による精神的な修業と向上、さらに、
「自由、博愛、平等」といった啓蒙主義、愛と理性による救済など思想的にモーツァルトは
強く惹きつけられたのである。
★フリーメイソンはもともとは中世の石工の組合を起源にした団体であることより、その位階は石工の徒弟制度に由来し、
第一位階が「徒弟」、第二位階が「職人」、第三位階が「親方(マスター)」と呼称される。モーツァルトは1784年12月14日に
入会後、1ヶ月未満の1785年1月7日に第二位階に昇進し、更に1週間で第三位階(マスター)に昇進したとされている。
フリーメイソンの集会(油彩画、前列右端の剣を左に置いているのがモーツァルトであるとされている。)
演奏会や出版などで必要な都度直ちに取り出すことが出来る様、2月から「私の全作品目録」と題した
「自作目録」の作成を開始した。まず最初に記入した作品は、クラヴィーア協奏曲(第14番)変ホ長調
(K.449)で日付は2月9日と記載されている。
★この作品と4月に作曲されたクラヴィーア協奏曲(第17番)ト長調K.453はこの年から弟子となったバルバラ・フォン・ブロイヤー嬢
(1765-1811)のために作曲された。
2月26日から4月11日までの45日間にモーツァルトが父レオポルトに報告しているだけで25回の
演奏会でクラヴィーアを弾くのである(1784年3月3日付書簡)。
①ブルク劇場での公開演奏会が2回(1回を主催)
②トラットナーホーフ(トラットナー館)での公開演奏会が6回(3回を主催)
③ガリツィン侯爵邸の私的音楽会が毎週木曜で計5回
④エステルハージ伯爵邸の私的音楽会が毎週月曜と金曜で計9回
⑤ツィヒー伯爵邸、パールフィ伯爵邸、カウニッツ=リートベルク侯爵邸での演奏が各1回
午前中は弟子にクラヴィーアを教え、夜は殆ど毎日演奏し、更に、公開演奏会用に新しい作品を
書くのである。まさに引っ張りだこ・超多忙の売れっ子ピアニスト、モーツァルトなのである。
3月20日付で父レオポルトには予約演奏会(3月17日)の予約者リストを送付しているが、予約者は
174名に及び概要は次の通りである。
1.会員の性別
①男性会員:144名(83%)
②女性会員: 30名(17%)
2.身分
①高位貴族(伯爵家、公爵家一族):88名(50%)
②下位貴族(爵位買収者):74名(42%)
③市民階級:13名(8%)
3.職業
①高位官職者、宮廷職員関係者:12名(8%)
②ウィーン派遣外交官および宮廷代理人:18名(12%)
③枢密顧問官、宮中顧問官、参事官:33名(23%)
④その他の公務員:15名(10%)
⑤軍人:17名(12%)
⑥商人、工業家、銀行家:13名(9%)
⑦その他:37名(25%)
予約者リストによれば圧倒的に男性予約者が多いのは当時の社会身分制度によるものであるが、
2割近くを占める女性予約者たちは、高位高官者の夫人という身分の富裕階級であり、その多くが
モーツァルトと音楽を通じて親しくなった女性たちであり、ほとんどすべてが声楽やクラヴィーアを
たしなむ人たちであった。
これら予約者のうちフリーメイソン結社員は約40名、22%ほどの割合を占めているのである。モーツァルトは
この年12月14日にウィーンの分団「善行」に加わったが、それ以前に多数のフリーメイソンと交友関係に
あったのである。
4月29日には有名なマントヴァ出身の女流ヴァイオリン奏者ストリナザッキ(Regina Strinasacchi
1761-1829)のケルントナートーア劇場で皇帝ヨーゼフ2世の臨席のもとに開かれた演奏会で
直前に作曲したヴァイオリン・ソナタ変ロ長調(K.454)を協演した。
★自作作品目録の日付は4月21日となっているが、この時書き上げたのはヴァイオリン・パートだけであり、モーツァルトの
クラヴィーア・パートは簡単な草稿を用いて記憶で演奏したとされている。
超多忙であった四旬節シーズンが明け、ほっと一息ついた頃の5月27日、モーツァルトは一羽の
ムクドリを購入した。このムクドリは、購入に先立つ4月12日にモーツァルトが前述の弟子のブロイヤー嬢の
ために作曲した「クラビーア協奏曲(第17番)ト長調」(K.453)第三楽章の主題を見事に歌うのである。
モーツァルトがつけていた出納帳には"Vogel Stahrl 34 Kr.(椋鳥 34クロイツァー) ...
Das war schön!(お見事!)と記されている。(詳細は弊記事「モーツァルトと小鳥たち」をご参照)
ザルツブルクの姉ナンネル(当時33歳)が8月23日ザンクト・ギルゲンの地方管理官ベルヒトルト・
ツゥ・ゾンネンブルク(1736-1801)と結婚することになったが、これに先立つ8月18日モーツァルトは
5歳年上のナンネルにお祝いを述べると共に結婚の先輩として詩的アドバイスを書き送るのである。
≪。。。彼氏が不機嫌で、心あたりは何もないのに、渋面ばかりするならば、あなたは思えば
いいのです、あれは男の気まぐれと。そして彼氏に言うのです、「ご主人様、昼間はあなたの
お好きなように。けれども夜は、わたしのものよ。」≫ あなたの誠実な弟 W:A:モーツァルト
★ナンネルが結婚しザルツブルク市内の「モーツアルトの住家」いわゆる「タンツマイスターハウス」からザンクト・ギルゲン
(母マリア・アンナの生まれ故郷であった)に移り住んだので、父親レオポルトと娘ナンネルの間に文通が始められる。
このうちレオポルトの手紙が残されており、さまざまな情報を提供してくれることとなる。モーツァルトの手紙が
1784年夏頃から1787年5月まで現存しているのが非常に少ないことより、ナンネル宛のレオポルトの手紙で
モーツァルトのウィーンでの動向を多少なりとも知ることができるのである。(モーツァルトがレオポルト宛に出した手紙は
写しをとらずにナンネルに転送され、レオポルトにより保管されなかったことにもよる。)
9月21日には次男カール・トーマスが誕生した。
★次男は代父となったトラットナーホーフ(トラットナー館)の持ち主のヨハン・トーマス・フォン・トラットナーの名をとって
カール・トーマスと名づけられた。
★カール・トーマスは無事成長し、当初音楽家の道を歩んだが断念し、1810年ミラノのナポリ副王に仕える役人となり、
1858年10月31日に73歳の生涯をミラノで閉じた。
多忙さに比例して収入も飛躍的に増加し、29日にはグローセ・シューラー通り(現在のドームガッセ5番地、
ウィーンの中心地シュテファン大聖堂のすぐ裏)の豪華な家具付の借家(いわゆる「フィガロハウス」に
引っ越すのである。家賃は半年で230グルテンで、これまで住んでいた借家「トラットナー館」の家賃が
半年で75グルデンであったので3.5倍の家賃となったが、フィガロハウスは4つの部屋と2つの小部屋
及び台所がついており、4部屋を寝室、客間、仕事部屋と居間兼音楽室とし、さらに2つの小部屋も
ある立派なものであった。
この年にはアントン・ヴァルター製作のフォルテ・ピアノ(ヴァルター・フリューゲル)を購入し、その他、
ビリヤード台なども購入したのである。
★この頃、自家用馬車と乗馬用の馬も購入している。
★フィガロハウス:1784年9月29日(28歳)より1787年4月24日(31歳)まで住んだ借家で、ここで1986年(30歳)「フィガロの結婚」
(K.492)の作曲を完成したのでフィガロハウスと呼ばれている。モーツァルト夫妻が住んだ借家で唯一現存している建物で現在は
モーツァルトハウス・ウィーン”Mozarthaus Vienna"と呼ばれモーツァルト記念館となっている。
★アントン・ヴァルター製作のフォルテ・ピアノはモーツァルトの死後、コンスタンツェよりミラノに住む息子のカール・トーマスに
送られた。 1856年にカール・トーマスはそれをモーツァルテウム(国際モーツァルテウム財団)に寄贈し、現在は
「モーツァルトの生家」(ザルツブルク)に展示されている。
前述の通りモーツァルトは12月14日 フリーメイソンのロッジ(分団)の「善行」に入会した。
当時は皇帝ヨーゼフ2世の啓蒙主義的治世下にあってフリーメイソン全盛の時代でもあった。
フリーメイソンには貴族・学者・医師・富裕市民がこぞって入会したのである。
フリーメイソンの掲げる宗教ドグマを超越した態度、自己鍛錬による精神的な修業と向上、さらに、
「自由、博愛、平等」といった啓蒙主義、愛と理性による救済など思想的にモーツァルトは
強く惹きつけられたのである。
★フリーメイソンはもともとは中世の石工の組合を起源にした団体であることより、その位階は石工の徒弟制度に由来し、
第一位階が「徒弟」、第二位階が「職人」、第三位階が「親方(マスター)」と呼称される。モーツァルトは1784年12月14日に
入会後、1ヶ月未満の1785年1月7日に第二位階に昇進し、更に1週間で第三位階(マスター)に昇進したとされている。
フリーメイソンの集会(油彩画、前列右端の剣を左に置いているのがモーツァルトであるとされている。)
モーツァルト27歳・演奏会の成功とザルツブルク里帰り(ウィーン③1783年) [モーツァルト]
前年1782年8月4日にウィーンで結婚式を挙げたモーツァルトは妻のコンスタンツェを帯同して
極力早い機会に最愛の父レオポルトと姉ナンネルの住むザルツブルクに一時帰郷を実現したいと
考えていた。当初1782年11月に帰郷の準備をしていたが、コンスタンツェの妊娠と体調もあり
1783年に持ち越したのである。
★モーツァルトは1782年10月19日付の書簡で父レオポルトの命名の祝日である11月15日までに一時帰郷をしたいが、
年末は音楽会の季節でもあり多忙となるので翌年春に行くつもりであると語っていた。その後、11月13日付の書簡では
明日(11月14日)発とうとしていたが、コンスタンツェのひどい頭痛のため延期せざると得なくなったと父レオポルトに
連絡しているのである。
1783年の活動は1月4日に宮中顧問官シュビールマン氏の音楽会に出席することから始まり、
1月15日には「ウィーン新聞」に3曲のクラヴィーア協奏曲(K.413/387a, K.414/385p, K.415/387b)の
筆写譜販売の広告を出したのである。
★クラヴィーア協奏曲(第11番)へ長調K.413(387a)、(第12番)イ長調K.414(385p)、(第13番)ハ長調K.415(387b)。
いずれも前年1782年秋から末にかけて書かれた。
★この販売(3曲で4ドゥカーテン)は予約者が集まらず失敗に終わっている。
父レオポルトには1月4日付で年初の手紙を書き、コンスタンツェと結婚できた暁にはザルツブルクの
教会にミサ曲を捧げるとの誓約を心の中でたてたが、そのミサ曲の半分は完成していると語るのである。
★K.427(417a)ミサ曲 ハ短調(キリエ、グローリア、サンクトゥス、ベネディクトゥスのみ完成、その他は未完) 作曲時期82年末~
83年5月頃。1783年10月26日聖ペテロ大修道院付属教会で演奏されることになる。
3月23日には皇帝ヨーゼフ2世臨席のもと、ブルク劇場で公開演奏会を主催し、異常なほど熱烈な
好評を博し、大成功をおさめたのであるがこの演奏会の模様につき父レオポルトに次の通り
報告している。(1783年3月29日付書簡)
≪ぼくの演奏会の成功について、あれこれ語るまでもないと思います。たぶん、もう評判をお聞きに
なったでしょう。要するに、劇場はもう立錐の余地がないほどで、どの桟敷席も満員でした。
なりよりもうれしかったのは、皇帝陛下もお見えになったことです。そして、どんなに楽しまれ、
どんなにぼくに対して拍手喝采してくださったことか。(中略)なにしろ、皇帝のご満足は際限が
なかったのですから。25ドゥカーテンを賜りました。≫
上述のモーツァルトの書簡でこの演奏会のプログラムが記載されている。次の通りであり、
まず交響曲「ハフナー」K.385の最初の楽章(第1楽章から第3楽章)が演奏され、プログラムの
最後に再度同じ交響曲「ハフナー」の終楽章(第4楽章)で締めくくられる構成となっている。
その間、協奏曲、声楽曲(アリア)、独奏曲(モーツァルト自身による即興演奏を含む)など
盛り沢山な内容となっており、皇帝ならずとも大満足し得るプログラムなのである。
①「ハフナー交響曲」(K.385) (第1/2/3楽章)
②アロイジア・ランゲ夫人(ソプラノ、旧姓ヴェーバー)の独唱によるオペラ「イドメネオ」(K.366)の第11曲イーリアのアリア 「今やあなたが私の父」
③モーツァルトの独奏による「クラヴィーア協奏曲(第13番)ハ長調」(K.415/387b)
④アダムベルガー(テノール)独唱によるシェーナ「哀れな私は,どこにいるの"Misera, dove son!"」(K.369)
⑤コンチェルタンテ楽章:「ポストホルン・セレナード」(K.320)の第三楽章コンチェルタンテ・アンダンテ・グラツィオーソ
⑥モーツァルト独奏による、ロンド・フィナーレ(K.382)付の「クラヴィーア協奏曲 ニ長調」(K.175)
⑦タイバー嬢独唱による「ルーチョ・シッラ」(K.135)のジューニアのアリア
⑧モーツァルトのクラヴィーア独奏で小フーガ(即興演奏)と変奏曲2曲(K.398/416e、K.455)
⑨アロイジア・ランゲ夫人独唱によるレチタティヴォとアリア「わが憧れの希望よ、ああ、おまえはしらないのだ、その苦しみがどんなものか」(K.416)
⑩「ハフナー交響曲」(K.385)の終楽章
★変奏曲2曲:K.398/416a=≪パイシェッロのオペラ「哲学者気取り、または星占いたち」の「主よ、幸いあれ」による
6つの変奏曲 へ長調≫とK.455 =≪グルックの「メッカの巡礼たち」のアリエッタ「愚民の思うは」による10の変奏曲 ト長調≫
≪親愛なお父さん!おめでとう、あなたはお爺ちゃんになりました!きのうの朝、17日の6時半に、
愛する妻が、大きくて、元気な、ボールのようにまるまるとした男の子を無事出産しました。≫
(モーツァルトよりザルツブルクの父レオポルトへの1783年6月18日付書簡)
6月17日無事長男が誕生し、名づけ親(教父)となった友人の男爵ライムント・ヴェツラル・フライヘル・
フォン・プランケンシュテルンの名から「ライムント」と父レオポルトの名をとって「ライムント・レオポルト」と
名づけられた。目鼻立ちがモーツァルトに瓜ふたつで妻コンスタンツェ共々大喜びなのである。
この生後1ヶ月程の赤ん坊を乳母に預け、モーツァルトは7月末コンスタンツェを連れ、ザルツブルクに
里帰りを果たすのである。コンスタンツェを父レオポルトと姉ナンネルに紹介し、結婚に際して生じた
気まずさを修復しようとの意図もあったのであろう。
故郷ザルツブルクには約3ヶ月ほど滞在し、家族で教会に行ったり、友人たちと音楽をしたり、オペラや
演劇を観たりして旧交を温めるのである。
ザルツブルクを発つ1日前の10月26日、聖ペテロ教会で「ハ短調ミサ曲」(K.427/417a)を捧げ、
コンスタンツェがソプラノ・パートを歌った。ザルツブルク宮廷楽団や宮廷歌手が友情出演してくれたのである。
★聖ペテロ教会(ザンクトペーター教会又は聖ペーター僧院教会、St.Petersstiftskirche)ザルツブルクの守護聖人である
聖ルーペルトスが696年に開いたベネディクト派の教会であり、ドイツ語圏のなかでは最も古いとされる男子修道院に付属する教会。
翌27日ザルツブルクを発ったモーツァルト夫妻はランバッハを経由し30日にリンツに到着、旧知のトゥーン・
ホーヘンシュタイン伯爵邸で1ヶ月程を過ごすのである。わずか4日間で「リンツ交響曲」(K.425)を
作曲しリンツの劇場(フライハウス)で初演した。その後、リンツ滞在中にウィーンで演奏するため
クラヴィーア・ソナタ変ロ長調 K.333の作曲を手がけるのである。
★ヨハン・ヨーゼフ・アントン・トゥーン・ホーヘンシュタイン伯爵:(1711-1788)。リンツのフリーメイスン分団≪七賢人≫の主席であった。
★リンツ関連については弊記事「ピアノ・ソナタ(第13番)変ロ長調 と動物たち」をご参照。
★今回のザルツブルク一時帰郷がモーツァルトにとっては最後の帰郷となり、又、5歳年長の姉ナンネルと会ったのも今回が
最後となり、その後二度と再会することはなかったのである。
12月初め4ヶ月ぶりにウィーンに戻ったモーツァルト夫妻は、息子ライムント・レオポルトが3ヶ月以上も
前の8月19日に腸閉塞で死んだことを知らされたのである。12月6日の父宛の手紙にも、
≪ぼくら二人とも、あの哀れな、まる肥りの可愛い坊やの死をいたく悲しんでいます。≫と
付記するのである。
★12月6日以前にもウィーン無事到着と長男の死をザルツブルクの父レオポルトに書いていると思われるが、
この書簡は消失している。
12月22日ブルク劇場でウィーン音楽芸術家協会の演奏会が催され、モーツァルトの新作の
レチタティーボとアリア「あわれな男よ!夢なのか?あたり吹くそよ風よ "Misero! O sogno...
Aura, che intorno spiri"」(K.431/425b)をアダムベルガー(テノール)が歌い、モーツァルトは
協奏曲を1曲演奏したのである。
12月29日には「二台のクラヴィーアのためのフーガ ハ短調」(K.426)を作曲しており、
モーツァルトが「クラヴィーアの国」と呼んだウィーンにおいて演奏家・作曲家として更なる飛躍の年
1784年を迎えるのである。
★フーガ ハ短調K.426:「バッハ・ヘンデル体験」に刺激を受けたモーツァルトのフーガ作品の一つ。
1840年のリンツ "Linz"。 ドナウ川沿いに位置し、約70キロ北西にドイツのパッサウ、150キロ東にウィーンが
位置している。ウィーンとザルツブルクの路線上のほぼ中間地点にある。商工業都市として栄え現在はウィーン、
グラーツに続くオーストリア第三の都市である。
極力早い機会に最愛の父レオポルトと姉ナンネルの住むザルツブルクに一時帰郷を実現したいと
考えていた。当初1782年11月に帰郷の準備をしていたが、コンスタンツェの妊娠と体調もあり
1783年に持ち越したのである。
★モーツァルトは1782年10月19日付の書簡で父レオポルトの命名の祝日である11月15日までに一時帰郷をしたいが、
年末は音楽会の季節でもあり多忙となるので翌年春に行くつもりであると語っていた。その後、11月13日付の書簡では
明日(11月14日)発とうとしていたが、コンスタンツェのひどい頭痛のため延期せざると得なくなったと父レオポルトに
連絡しているのである。
1783年の活動は1月4日に宮中顧問官シュビールマン氏の音楽会に出席することから始まり、
1月15日には「ウィーン新聞」に3曲のクラヴィーア協奏曲(K.413/387a, K.414/385p, K.415/387b)の
筆写譜販売の広告を出したのである。
★クラヴィーア協奏曲(第11番)へ長調K.413(387a)、(第12番)イ長調K.414(385p)、(第13番)ハ長調K.415(387b)。
いずれも前年1782年秋から末にかけて書かれた。
★この販売(3曲で4ドゥカーテン)は予約者が集まらず失敗に終わっている。
父レオポルトには1月4日付で年初の手紙を書き、コンスタンツェと結婚できた暁にはザルツブルクの
教会にミサ曲を捧げるとの誓約を心の中でたてたが、そのミサ曲の半分は完成していると語るのである。
★K.427(417a)ミサ曲 ハ短調(キリエ、グローリア、サンクトゥス、ベネディクトゥスのみ完成、その他は未完) 作曲時期82年末~
83年5月頃。1783年10月26日聖ペテロ大修道院付属教会で演奏されることになる。
3月23日には皇帝ヨーゼフ2世臨席のもと、ブルク劇場で公開演奏会を主催し、異常なほど熱烈な
好評を博し、大成功をおさめたのであるがこの演奏会の模様につき父レオポルトに次の通り
報告している。(1783年3月29日付書簡)
≪ぼくの演奏会の成功について、あれこれ語るまでもないと思います。たぶん、もう評判をお聞きに
なったでしょう。要するに、劇場はもう立錐の余地がないほどで、どの桟敷席も満員でした。
なりよりもうれしかったのは、皇帝陛下もお見えになったことです。そして、どんなに楽しまれ、
どんなにぼくに対して拍手喝采してくださったことか。(中略)なにしろ、皇帝のご満足は際限が
なかったのですから。25ドゥカーテンを賜りました。≫
上述のモーツァルトの書簡でこの演奏会のプログラムが記載されている。次の通りであり、
まず交響曲「ハフナー」K.385の最初の楽章(第1楽章から第3楽章)が演奏され、プログラムの
最後に再度同じ交響曲「ハフナー」の終楽章(第4楽章)で締めくくられる構成となっている。
その間、協奏曲、声楽曲(アリア)、独奏曲(モーツァルト自身による即興演奏を含む)など
盛り沢山な内容となっており、皇帝ならずとも大満足し得るプログラムなのである。
①「ハフナー交響曲」(K.385) (第1/2/3楽章)
②アロイジア・ランゲ夫人(ソプラノ、旧姓ヴェーバー)の独唱によるオペラ「イドメネオ」(K.366)の第11曲イーリアのアリア 「今やあなたが私の父」
③モーツァルトの独奏による「クラヴィーア協奏曲(第13番)ハ長調」(K.415/387b)
④アダムベルガー(テノール)独唱によるシェーナ「哀れな私は,どこにいるの"Misera, dove son!"」(K.369)
⑤コンチェルタンテ楽章:「ポストホルン・セレナード」(K.320)の第三楽章コンチェルタンテ・アンダンテ・グラツィオーソ
⑥モーツァルト独奏による、ロンド・フィナーレ(K.382)付の「クラヴィーア協奏曲 ニ長調」(K.175)
⑦タイバー嬢独唱による「ルーチョ・シッラ」(K.135)のジューニアのアリア
⑧モーツァルトのクラヴィーア独奏で小フーガ(即興演奏)と変奏曲2曲(K.398/416e、K.455)
⑨アロイジア・ランゲ夫人独唱によるレチタティヴォとアリア「わが憧れの希望よ、ああ、おまえはしらないのだ、その苦しみがどんなものか」(K.416)
⑩「ハフナー交響曲」(K.385)の終楽章
★変奏曲2曲:K.398/416a=≪パイシェッロのオペラ「哲学者気取り、または星占いたち」の「主よ、幸いあれ」による
6つの変奏曲 へ長調≫とK.455 =≪グルックの「メッカの巡礼たち」のアリエッタ「愚民の思うは」による10の変奏曲 ト長調≫
≪親愛なお父さん!おめでとう、あなたはお爺ちゃんになりました!きのうの朝、17日の6時半に、
愛する妻が、大きくて、元気な、ボールのようにまるまるとした男の子を無事出産しました。≫
(モーツァルトよりザルツブルクの父レオポルトへの1783年6月18日付書簡)
6月17日無事長男が誕生し、名づけ親(教父)となった友人の男爵ライムント・ヴェツラル・フライヘル・
フォン・プランケンシュテルンの名から「ライムント」と父レオポルトの名をとって「ライムント・レオポルト」と
名づけられた。目鼻立ちがモーツァルトに瓜ふたつで妻コンスタンツェ共々大喜びなのである。
この生後1ヶ月程の赤ん坊を乳母に預け、モーツァルトは7月末コンスタンツェを連れ、ザルツブルクに
里帰りを果たすのである。コンスタンツェを父レオポルトと姉ナンネルに紹介し、結婚に際して生じた
気まずさを修復しようとの意図もあったのであろう。
故郷ザルツブルクには約3ヶ月ほど滞在し、家族で教会に行ったり、友人たちと音楽をしたり、オペラや
演劇を観たりして旧交を温めるのである。
ザルツブルクを発つ1日前の10月26日、聖ペテロ教会で「ハ短調ミサ曲」(K.427/417a)を捧げ、
コンスタンツェがソプラノ・パートを歌った。ザルツブルク宮廷楽団や宮廷歌手が友情出演してくれたのである。
★聖ペテロ教会(ザンクトペーター教会又は聖ペーター僧院教会、St.Petersstiftskirche)ザルツブルクの守護聖人である
聖ルーペルトスが696年に開いたベネディクト派の教会であり、ドイツ語圏のなかでは最も古いとされる男子修道院に付属する教会。
翌27日ザルツブルクを発ったモーツァルト夫妻はランバッハを経由し30日にリンツに到着、旧知のトゥーン・
ホーヘンシュタイン伯爵邸で1ヶ月程を過ごすのである。わずか4日間で「リンツ交響曲」(K.425)を
作曲しリンツの劇場(フライハウス)で初演した。その後、リンツ滞在中にウィーンで演奏するため
クラヴィーア・ソナタ変ロ長調 K.333の作曲を手がけるのである。
★ヨハン・ヨーゼフ・アントン・トゥーン・ホーヘンシュタイン伯爵:(1711-1788)。リンツのフリーメイスン分団≪七賢人≫の主席であった。
★リンツ関連については弊記事「ピアノ・ソナタ(第13番)変ロ長調 と動物たち」をご参照。
★今回のザルツブルク一時帰郷がモーツァルトにとっては最後の帰郷となり、又、5歳年長の姉ナンネルと会ったのも今回が
最後となり、その後二度と再会することはなかったのである。
12月初め4ヶ月ぶりにウィーンに戻ったモーツァルト夫妻は、息子ライムント・レオポルトが3ヶ月以上も
前の8月19日に腸閉塞で死んだことを知らされたのである。12月6日の父宛の手紙にも、
≪ぼくら二人とも、あの哀れな、まる肥りの可愛い坊やの死をいたく悲しんでいます。≫と
付記するのである。
★12月6日以前にもウィーン無事到着と長男の死をザルツブルクの父レオポルトに書いていると思われるが、
この書簡は消失している。
12月22日ブルク劇場でウィーン音楽芸術家協会の演奏会が催され、モーツァルトの新作の
レチタティーボとアリア「あわれな男よ!夢なのか?あたり吹くそよ風よ "Misero! O sogno...
Aura, che intorno spiri"」(K.431/425b)をアダムベルガー(テノール)が歌い、モーツァルトは
協奏曲を1曲演奏したのである。
12月29日には「二台のクラヴィーアのためのフーガ ハ短調」(K.426)を作曲しており、
モーツァルトが「クラヴィーアの国」と呼んだウィーンにおいて演奏家・作曲家として更なる飛躍の年
1784年を迎えるのである。
★フーガ ハ短調K.426:「バッハ・ヘンデル体験」に刺激を受けたモーツァルトのフーガ作品の一つ。
1840年のリンツ "Linz"。 ドナウ川沿いに位置し、約70キロ北西にドイツのパッサウ、150キロ東にウィーンが
位置している。ウィーンとザルツブルクの路線上のほぼ中間地点にある。商工業都市として栄え現在はウィーン、
グラーツに続くオーストリア第三の都市である。
タグ:モーツァルト ウィーン コンスタンツェ ザルツブルク ミサ曲 ハ短調K.427(417a) 聖ペテロ教会 皇帝ヨーゼフ2世 ブルク劇場 ハフナー交響曲K.385 リンツ クラヴィーア・ソナタ変ロ長調 K.333 ケルントナートーア劇場 クラヴィーア・ソナタ 弦楽四重奏曲「ハイドン・セット」 クラヴィーア・ソナタ(第11番)イ長調K.331 セレナード変ロ長調「グラン・パルティータ」K.361(370a) 弦楽四重奏曲(第15番)ニ短調 K.421 交響曲(第36番)ハ長調K.425 「リンツ」 クラヴィーア・ソナタ 第11番イ長調K.331第3楽章アラ・トゥルカ 「トルコ行進曲付」 ジャンバティスタ・ヴァレスコ
モーツァルト26歳の結婚と「後宮からの誘拐」(ウィーン②1782年) [モーツァルト]
前年1781年よりウィーン定住を開始したモーツァルトは、ウィーンで初めての新年(1782年)を迎え、
1月27日26歳の誕生日を祝ったのである。
フリーの音楽家として生活の糧を得るための方策も少しづつ軌道に乗り始め、ブルク劇場用の
ジングシュピール「後宮からの誘拐」の作曲にも精魂傾けていた。このドイツ語オペラのあらすじは
後述の通り、「コンスタンツェ」という名の女性をその恋人が後宮から救い出そうとするストーリーであり、
偶然とは言えモーツァルトの彼女と同名なのである。
ヴェーバー家の三女で妻となるコンスタンツェについてモーツァルトは次の通り父レオポルトに
説明している。(1781年12月15日付書簡)
≪。。。彼女はブスではありませんが、けっして美人とは言えません。およそ彼女の美しさは、その
小さな黒い目と、すらりとした体つきにあります。機知はありませんが、妻として、母親としての
務めを果たせるだけの常識は充分に備えています。彼女に浪費癖などありません。それは真っ赤な
うそです。それどころか質素な身なりに慣れています。(中略)家計も心得ているし、世にも優しい
心をもっています。≫
父レオポルトからみればコンスタンツェの母ツェツィリアの罠にはまったとしか思えなかったのであろう、
コンスタンツェとの結婚には否定的な意見を述べていたことは確かである。
★レオポルトのこの種複数の手紙は現存しておらず、恐らくコンスタンツェ(或いは彼女の意向を受けて彼女の再婚相手でモーツァルトの
伝記を書いたニッセン)がモーツァルト没後破棄したのであろうとされている。
この頃のモーツァルトの生活につき5歳年上の姉、ナンネルに次の様に語っている。(1782年2月13日付書簡)
≪ぼくはいつも6時までにもう髪を整えて、7時までにすっかり身支度をすませます。それから
9時まで作曲をします。9時から1時まで、レッスンをします。それから昼食をとりますが、どこかに
招かれたとき、たとえば今日明日のようにツィヒー伯爵やトゥーン伯爵夫人のところでは、2時か3時に
なります。夕方、5時か6時までは仕事ができません。そして、そのあとも演奏会で妨げられることが
よくあります。もしそういうことがなければ9時まで作曲します。それから、ぼくのいとしいコンスタンツェの
ところへ行きます。(中略)家に帰るのは10時半か11時です。≫
さらに夜は1時まで作曲にペンを走らせることもあるが、6時には起床すると付け加えるのである。
元外交官で当時宮廷図書館長であったヴァン・スヴィーテン男爵の知遇を得たモーツァルトは、
男爵が外交官時代、特に最後の赴任地であったベルリンで収集したバッハの楽譜とロンドンで
収集したヘンデルの楽譜をもとに毎日曜日に宮廷図書館内にある男爵の自宅で催す私的音楽会に
参加し、第1回イタリア旅行の際、ボローニャのマルティーニ師から厳格対位法を学んだモーツァルトは
バッハやヘンデルのフーガ作品に集中的に触れる機会を得たのである。一般に「バッハ・ヘンデル体験」と
呼ばれているが、次の様に父レオポルトに語っている。
≪。。。ぼくは毎日曜日、12時に、ヴァン・スヴィーテン男爵のところへ行きます。そこではヘンデルと
バッハ以外は何も演奏されません。ぼくはいま、バッハのフーガを集めています。セヴァスティアンの
作品だけでなく、エマヌエルやフリーデマン・バッハのも含めてです。それからヘンデルのも。(中略)
イギリスのバッハ(注:ヨハン・クリスティアン・バッハ)が亡くなったことはもうご存知ですね?音楽界に
とってなんという損失でしょう。≫
F.J.ハイドンが1781年「ロシア四重奏曲」op.33(全6曲)の作曲を完成し、この年1782年4月ウィーンの
アルタリア社から出版している。これ以前の1781年12月には筆写譜による予約販売を開始した。
★弦楽四重奏曲は約10年前に作曲した作品20から途絶えていたが「全く新しい特別の方法で作曲され」発表されたのであった。
モーツァルトのウィーン定住をまっていたかの様に発表されたハイドンの「ロシア四重奏曲」には
モーツァルトも非常に感銘を受け、彼としても約10年ぶりに1782年から1785年にかけて
「弦楽四重奏曲(全6曲)」所謂「ハイドン四重奏曲」K.387,421(417b), 428(421b),458,464,465
をこの年26歳から30歳直前までに書き上げ、ハイドンに献呈することになるのである。
★モーツアルトの前作の弦楽四重奏曲は1773年に作曲した「ウィーン四重奏曲」(全6曲。K.168~173)であった。
★1782年12月に完成した「ハイドン四重奏曲(第1曲)ト長調 K.387の終楽章モルト・アレグロ(フーガ・フィナーレ)には
「バッハ体験」が活かされているのである。
7月16日「後宮からの誘拐」がブルク劇場で皇帝ヨーゼフ2世臨席のもと初演され、大成功を収めた。
★初演の成功を伝える父レオポルト宛の手紙は失われているが、このジングシュピールは1782年には合計12回、
翌83年には3回、いずれもブルク劇場で上演されたあと、さらにウィーンで27回(殆どがケルントナートーア劇場)
モーツァルトの生前に上演されている。ウィーン初演直後の1782年秋にはプラハ初演が行われ、83年には4都市
(ワルシャワ、ボン、フランクフルト・アム・マイン、ライプツィヒ)、84には5都市(マンハイム、カールスルーエ、ケルン、
ザルツブルク、シュヴェート)、85年から89年の間には約25都市で初演されるという人気を博したのである。
モーツァルトは父レオポルトに何度もコンスタンツェとの結婚に同意して欲しいと書き続けるので
あるがついに8月4日、レオポルトの同意が得られないまま、ウィーンの司教座大聖堂
シュテファン教会でコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚式を挙げたのである。モーツァルトは
父レオポルトに式の模様を次の様に語るのである。(1782年8月7日付書簡)
≪。。。ぼくらふたりが結ばれたとき、妻もぼくも、ともに泣き出してしまいました。出席者はみんな、
司祭さんまでがそれに感動して、涙を流しました。(中略)披露宴はすべてヴァルトシュテッテン男爵夫人が
用意してくれた夜食で行われましたが、それは本当に、男爵風というより王侯にふさわしいものでした。。。≫
★モーツァルトは父レオポルトよりの結婚に同意する旨の書簡を挙式の翌日受けとったのである。
コンスタンツェ・モーツァルト(旧姓ヴェーバー、20歳) ピアノに向かうモーツァルト(27歳)
1782年 未完の肖像画 1783年
★いずれの肖像画もコンスタンツェの姉アロイジアの夫である(モーツァルトの義兄)ヨーゼフ・ランゲ(Joseph Lange、
1751- 1831、俳優、アマチュア画家)によって描かれた。尚、この肖像画が描かれた時期をモーツァルトが30歳を
越えてからであるとする説もある。
★モーツァルトの未完の肖像画について小林秀雄は「創元」昭和21年12月号に発表した「モオツァルト」で次の様に述べている。
≪僕はその頃、モオツァルトの未完成の肖像画の写真を一枚もっていて、大事にしていた。それは、巧みな絵ではないが、
美しい女の様な顔で、何か恐ろしく不幸な感情が現れている奇妙な絵であった。(中略)人間は、人前で、こんな顔が
出来るものではない。(中略)ト短調シンフォニイは、時々こんな顔をしなければならない人物から生まれたものに間違いはない、
僕はそう信じた。≫
1月27日26歳の誕生日を祝ったのである。
フリーの音楽家として生活の糧を得るための方策も少しづつ軌道に乗り始め、ブルク劇場用の
ジングシュピール「後宮からの誘拐」の作曲にも精魂傾けていた。このドイツ語オペラのあらすじは
後述の通り、「コンスタンツェ」という名の女性をその恋人が後宮から救い出そうとするストーリーであり、
偶然とは言えモーツァルトの彼女と同名なのである。
ヴェーバー家の三女で妻となるコンスタンツェについてモーツァルトは次の通り父レオポルトに
説明している。(1781年12月15日付書簡)
≪。。。彼女はブスではありませんが、けっして美人とは言えません。およそ彼女の美しさは、その
小さな黒い目と、すらりとした体つきにあります。機知はありませんが、妻として、母親としての
務めを果たせるだけの常識は充分に備えています。彼女に浪費癖などありません。それは真っ赤な
うそです。それどころか質素な身なりに慣れています。(中略)家計も心得ているし、世にも優しい
心をもっています。≫
父レオポルトからみればコンスタンツェの母ツェツィリアの罠にはまったとしか思えなかったのであろう、
コンスタンツェとの結婚には否定的な意見を述べていたことは確かである。
★レオポルトのこの種複数の手紙は現存しておらず、恐らくコンスタンツェ(或いは彼女の意向を受けて彼女の再婚相手でモーツァルトの
伝記を書いたニッセン)がモーツァルト没後破棄したのであろうとされている。
この頃のモーツァルトの生活につき5歳年上の姉、ナンネルに次の様に語っている。(1782年2月13日付書簡)
≪ぼくはいつも6時までにもう髪を整えて、7時までにすっかり身支度をすませます。それから
9時まで作曲をします。9時から1時まで、レッスンをします。それから昼食をとりますが、どこかに
招かれたとき、たとえば今日明日のようにツィヒー伯爵やトゥーン伯爵夫人のところでは、2時か3時に
なります。夕方、5時か6時までは仕事ができません。そして、そのあとも演奏会で妨げられることが
よくあります。もしそういうことがなければ9時まで作曲します。それから、ぼくのいとしいコンスタンツェの
ところへ行きます。(中略)家に帰るのは10時半か11時です。≫
さらに夜は1時まで作曲にペンを走らせることもあるが、6時には起床すると付け加えるのである。
元外交官で当時宮廷図書館長であったヴァン・スヴィーテン男爵の知遇を得たモーツァルトは、
男爵が外交官時代、特に最後の赴任地であったベルリンで収集したバッハの楽譜とロンドンで
収集したヘンデルの楽譜をもとに毎日曜日に宮廷図書館内にある男爵の自宅で催す私的音楽会に
参加し、第1回イタリア旅行の際、ボローニャのマルティーニ師から厳格対位法を学んだモーツァルトは
バッハやヘンデルのフーガ作品に集中的に触れる機会を得たのである。一般に「バッハ・ヘンデル体験」と
呼ばれているが、次の様に父レオポルトに語っている。
≪。。。ぼくは毎日曜日、12時に、ヴァン・スヴィーテン男爵のところへ行きます。そこではヘンデルと
バッハ以外は何も演奏されません。ぼくはいま、バッハのフーガを集めています。セヴァスティアンの
作品だけでなく、エマヌエルやフリーデマン・バッハのも含めてです。それからヘンデルのも。(中略)
イギリスのバッハ(注:ヨハン・クリスティアン・バッハ)が亡くなったことはもうご存知ですね?音楽界に
とってなんという損失でしょう。≫
F.J.ハイドンが1781年「ロシア四重奏曲」op.33(全6曲)の作曲を完成し、この年1782年4月ウィーンの
アルタリア社から出版している。これ以前の1781年12月には筆写譜による予約販売を開始した。
★弦楽四重奏曲は約10年前に作曲した作品20から途絶えていたが「全く新しい特別の方法で作曲され」発表されたのであった。
モーツァルトのウィーン定住をまっていたかの様に発表されたハイドンの「ロシア四重奏曲」には
モーツァルトも非常に感銘を受け、彼としても約10年ぶりに1782年から1785年にかけて
「弦楽四重奏曲(全6曲)」所謂「ハイドン四重奏曲」K.387,421(417b), 428(421b),458,464,465
をこの年26歳から30歳直前までに書き上げ、ハイドンに献呈することになるのである。
★モーツアルトの前作の弦楽四重奏曲は1773年に作曲した「ウィーン四重奏曲」(全6曲。K.168~173)であった。
★1782年12月に完成した「ハイドン四重奏曲(第1曲)ト長調 K.387の終楽章モルト・アレグロ(フーガ・フィナーレ)には
「バッハ体験」が活かされているのである。
7月16日「後宮からの誘拐」がブルク劇場で皇帝ヨーゼフ2世臨席のもと初演され、大成功を収めた。
★初演の成功を伝える父レオポルト宛の手紙は失われているが、このジングシュピールは1782年には合計12回、
翌83年には3回、いずれもブルク劇場で上演されたあと、さらにウィーンで27回(殆どがケルントナートーア劇場)
モーツァルトの生前に上演されている。ウィーン初演直後の1782年秋にはプラハ初演が行われ、83年には4都市
(ワルシャワ、ボン、フランクフルト・アム・マイン、ライプツィヒ)、84には5都市(マンハイム、カールスルーエ、ケルン、
ザルツブルク、シュヴェート)、85年から89年の間には約25都市で初演されるという人気を博したのである。
モーツァルトは父レオポルトに何度もコンスタンツェとの結婚に同意して欲しいと書き続けるので
あるがついに8月4日、レオポルトの同意が得られないまま、ウィーンの司教座大聖堂
シュテファン教会でコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚式を挙げたのである。モーツァルトは
父レオポルトに式の模様を次の様に語るのである。(1782年8月7日付書簡)
≪。。。ぼくらふたりが結ばれたとき、妻もぼくも、ともに泣き出してしまいました。出席者はみんな、
司祭さんまでがそれに感動して、涙を流しました。(中略)披露宴はすべてヴァルトシュテッテン男爵夫人が
用意してくれた夜食で行われましたが、それは本当に、男爵風というより王侯にふさわしいものでした。。。≫
★モーツァルトは父レオポルトよりの結婚に同意する旨の書簡を挙式の翌日受けとったのである。
コンスタンツェ・モーツァルト(旧姓ヴェーバー、20歳) ピアノに向かうモーツァルト(27歳)
1782年 未完の肖像画 1783年
★いずれの肖像画もコンスタンツェの姉アロイジアの夫である(モーツァルトの義兄)ヨーゼフ・ランゲ(Joseph Lange、
1751- 1831、俳優、アマチュア画家)によって描かれた。尚、この肖像画が描かれた時期をモーツァルトが30歳を
越えてからであるとする説もある。
★モーツァルトの未完の肖像画について小林秀雄は「創元」昭和21年12月号に発表した「モオツァルト」で次の様に述べている。
≪僕はその頃、モオツァルトの未完成の肖像画の写真を一枚もっていて、大事にしていた。それは、巧みな絵ではないが、
美しい女の様な顔で、何か恐ろしく不幸な感情が現れている奇妙な絵であった。(中略)人間は、人前で、こんな顔が
出来るものではない。(中略)ト短調シンフォニイは、時々こんな顔をしなければならない人物から生まれたものに間違いはない、
僕はそう信じた。≫
モーツァルト25歳の独立とウィーン時代の幕開け(1781年) [モーツァルト]
ウィーン滞在中の大司教コロレド伯よりウィーンに直行せよとの指示を受けたモーツァルト(25歳)は
ミュンヘンを1781年3月12日駅馬車で出発、途中で小型乗合馬車に乗り換え5日目の3月16日朝9時に
ウィーンに到着した。宿泊先は大司教の伯父カール・コロレド伯爵邸である「ドイツ騎士団の館」である。
★「ドイツ騎士団の館(ドイツチェス・ハウス)は大司教と従者の宿泊先であった。
到着した日の午後4時に開催された大司教主催の音楽会で、主たる来賓である貴族たちに演奏を
行った。
ウィーンにおいても大司教に対する不満はますますつのり父レオポルト宛ての3月17日付の手紙を
はじめとして、それ以降ことあるごとに大司教に対する不満を書き連ねるのである。
「食事は料理人たちと一緒にとることになっており、召使と同じ扱いであり、ザルツブルクと
同じである。」「個人的活動(演奏会)」を行うことを許可してくれない。部下が稼ぐことを好まない。」
「一所懸命作曲をしてもなんら特別報酬もくれない。」「演奏会に出れないので皇帝(ヨーゼフ2世)と
出遭うチャンスを逃した。」
ついにザルツブルクへの帰郷命令をめぐり運命の日、5月9日、大司教と決裂の日が来た。
1781年5月9日付の手紙でモーツァルトは父レオポルトに報告するのである。
≪。。。ぼくが奴(注:大司教のこと)のところへ入って行くと、まずこうでした。大司教「ところでお若いの、
いつ発つのだ?」 ぼく「今夜、発つつもりでしたが、座席がもう一杯でした。」すると一気にまくしたてた
のです。おまえみたいなだらしない若僧は見たことがない。(中略) ぼくのことを「ろくでなし、がき」と
呼び、「ばか」呼ばわりしました。ああ、とても全部は書きたくありません。ついにぼくは、血が煮えくり
返ってきて、言ってやりました。「では猊下はわたしにご不満なんですね?」 「なんだ、きさまはわしを
脅かす気か?ばかもん、ああ、ばかもん!ドアはあそこだ、分かるか、こんな哀れな小僧っ子に、もう
用はない」 とうとうぼくも言いました。「ぼくももう、あんたに用はありませんね」 「さあ、出て行け」
そこでぼくは、部屋を出ながら「これが最後です。あした、文書で届けます。」≫
モーツァルトは大司教との決裂の模様を再現する形で父レオポルトに報告するとともに
次の様に付言するのである。
≪ぼくの名誉は、ぼくにとって何ものにも優るものです。≫≪ぼくのことは心配しないで下さい。当地での
ぼくのことには確実な自信があるので、なんら理由がなくても辞職していたでしょう。≫≪ぼくの幸運は
今やっと始まるのですから。そしてぼくの幸運はあなたの幸運でもあると思います。≫
事態に仰天した父レオポルトよりはモーツァルトを翻意させようと種々説得を試みるのであるが、
退職とウィーン定住の意思は堅く、自分を支持せず、弱腰な父に対して次の通り言い放つのである。
≪。。。あなたの手紙には、ただの一行もぼくの父親を見出せないのです!たしかに父親ではあるかも
知れませんが、でも自分自身の名誉と子どもたちの名誉を気づかう最上の父親、愛情に溢れた
父親ではありません。一言でいえば、ぼくのお父さんではありません。≫ (5月19日付)
その後大司教の侍従であるアルコ伯爵よりの呼び出しもあり、数度会談を重ねたが、結局
アルコ伯爵まで怒らせてしまい、≪戸口から追い出し、お尻に足蹴をくれたというわけです。(中略)
ぼくは三通の陳情書(注:辞職願)を作り、それを五回提出しましたが、そのたびごとに突っ返され
ました。(中略)この陳情書のおかげで、ぼくは世にも見事なやり口で職務を解雇されました。≫
(1781年6月9日付父レオポルト宛モーツァルトの手紙 モーツァルト書簡全集)
かくしてモーツァルトの反抗と反乱は終わり、ザルツブルク宮廷と決別すると同時に、父レオポルトから
精神的にも独立し、ウィーン時代の幕開けとなったのである。
モーツァルトはフリーランスの音楽家をめざしているわけではなく、ウィーン宮廷音楽家として
採用されることを目指すのである。このためには皇帝ヨーゼフ2世に認められる必要があり、その手段
としては、ヨーゼフ2世が当時推進していたドイツ語オペラ(ジングシュピール)の作曲を
することであると考えていた。
モーツァルトがウィーンで生計を立てるために行ったことは次の通りである。
①クラヴィーア教師
ウィーンでの最初の弟子となったルムベーケ伯爵夫人や、裕福な出版業者の妻フォン・トラットナー夫人、さらには
モーツァルトがその才能を高く評価したヨゼファ・バルバラ・アウエルンハンマー嬢(1758-1820)があげられる。
②演奏会の開催
この年は11月23日に弟子のアウエルンハンマー邸で催された私的な音楽会があげられる。演奏会は大規模な
公開演奏会あるいは貴族や富豪の邸宅で催される私的演奏会にわかれるが、いずれも大きな収入源になるのである。
③楽譜の出版
まずウィーンのアルタリア社から1781年末に「作品II 」としてヴァイオリン・ソナタ集(全6曲)≪アウエルンハンマー・ソナタ≫,
K.296 K.376 - 380を出版した。
④オペラの作曲
オペラの作曲はもっともまとまった収入となるわけだが、この年1871年の6月頃にはウィーン宮廷劇場監督
オルシーニ=ローゼンベルク伯爵より作曲を頼まれ、7月30日には台本作者のゴットリーブ・シュテファニーよりジングシュピール
(ドイツ語オペラ)≪後宮からの誘拐≫の台本を受け取り8月22日には第一幕を完成させている(全曲完成は翌年
1782年5月となり7月16日ブルク劇場で初演)。
★≪後宮からの誘拐≫K.384についての詳細は次回記事にて取り上げる予定。
モーツァルトが失恋した相手のアロイジア・ヴェーバーとその一家はアロイジアが1779年9月ウィーンの
ブルク劇場と専属契約を結んだので一家でミュンヘンよりウィーンに移住していた。父親のフリードリンは
1779年10月23日ウィーンで卒中で世を去り、アロイジアは1780年10月31日ウィーン宮廷俳優の
ヨハン・ヨーゼフ・ランゲと結婚していた。母のツェツィーリアはウィーンで下宿屋を開きアロイジア
以外の3人の娘達(長女のヨゼファ、三女のコンスタンツェ、末娘ゾフィー)を養っていた。
モーツァルトはウィーン到着後かなり早い時期にアロイジア(ランゲ夫人)及びヴェーバー家と再会し、
大司教との決裂の約1週間前(5月初旬)にはドイツ館からヴェーバー家に下宿人として移り住んで
いたのである。
モーツァルトとヴェーバー家の三女コンスタンツェの間で愛が芽生え始めたのは恐らく7月頃のことかと
思われ、モーツァルトは父レオポルトに対し、それとなく結婚したいという思いを洩らしていたのであるが、
ついに12月15日付父宛の手紙で彼女との結婚の意向を明確に表明した。父レオポルトとしては、
大司教との決裂をなんとか乗り越えたと思えば今度は懸念していた通りヴェーバー家の娘との結婚を
持ち出され困惑極まりなしといったところであった。これ以降翌年1782年8月4日ウィーンの
聖シュテファン大聖堂で行われる結婚式までモーツァルトは父レオポルトに結婚に対する同意を
求め続けることになる。
ベルヴェデーレ宮から望むウィーンの情景
ベルナルド・ベロット作 1758年 136×214cm ウィーン美術史美術館蔵
★Bernardo Bellotto: (1720 -1780)イタリア(ヴェネツィア)生まれの景観画家。伯父である大画家カナレット
(ジョヴァンニ・アントニオ・カナル)に弟子入りし絵画を学ぶ。1758年、オーストリア・ハプスブルク家君主である女帝
マリア・テレジアの誘いを受けウィーンに滞在、その後ミュンヘンを訪問した。本作品はマリア・テレジアの要請による。
ミュンヘンを1781年3月12日駅馬車で出発、途中で小型乗合馬車に乗り換え5日目の3月16日朝9時に
ウィーンに到着した。宿泊先は大司教の伯父カール・コロレド伯爵邸である「ドイツ騎士団の館」である。
★「ドイツ騎士団の館(ドイツチェス・ハウス)は大司教と従者の宿泊先であった。
到着した日の午後4時に開催された大司教主催の音楽会で、主たる来賓である貴族たちに演奏を
行った。
ウィーンにおいても大司教に対する不満はますますつのり父レオポルト宛ての3月17日付の手紙を
はじめとして、それ以降ことあるごとに大司教に対する不満を書き連ねるのである。
「食事は料理人たちと一緒にとることになっており、召使と同じ扱いであり、ザルツブルクと
同じである。」「個人的活動(演奏会)」を行うことを許可してくれない。部下が稼ぐことを好まない。」
「一所懸命作曲をしてもなんら特別報酬もくれない。」「演奏会に出れないので皇帝(ヨーゼフ2世)と
出遭うチャンスを逃した。」
ついにザルツブルクへの帰郷命令をめぐり運命の日、5月9日、大司教と決裂の日が来た。
1781年5月9日付の手紙でモーツァルトは父レオポルトに報告するのである。
≪。。。ぼくが奴(注:大司教のこと)のところへ入って行くと、まずこうでした。大司教「ところでお若いの、
いつ発つのだ?」 ぼく「今夜、発つつもりでしたが、座席がもう一杯でした。」すると一気にまくしたてた
のです。おまえみたいなだらしない若僧は見たことがない。(中略) ぼくのことを「ろくでなし、がき」と
呼び、「ばか」呼ばわりしました。ああ、とても全部は書きたくありません。ついにぼくは、血が煮えくり
返ってきて、言ってやりました。「では猊下はわたしにご不満なんですね?」 「なんだ、きさまはわしを
脅かす気か?ばかもん、ああ、ばかもん!ドアはあそこだ、分かるか、こんな哀れな小僧っ子に、もう
用はない」 とうとうぼくも言いました。「ぼくももう、あんたに用はありませんね」 「さあ、出て行け」
そこでぼくは、部屋を出ながら「これが最後です。あした、文書で届けます。」≫
モーツァルトは大司教との決裂の模様を再現する形で父レオポルトに報告するとともに
次の様に付言するのである。
≪ぼくの名誉は、ぼくにとって何ものにも優るものです。≫≪ぼくのことは心配しないで下さい。当地での
ぼくのことには確実な自信があるので、なんら理由がなくても辞職していたでしょう。≫≪ぼくの幸運は
今やっと始まるのですから。そしてぼくの幸運はあなたの幸運でもあると思います。≫
事態に仰天した父レオポルトよりはモーツァルトを翻意させようと種々説得を試みるのであるが、
退職とウィーン定住の意思は堅く、自分を支持せず、弱腰な父に対して次の通り言い放つのである。
≪。。。あなたの手紙には、ただの一行もぼくの父親を見出せないのです!たしかに父親ではあるかも
知れませんが、でも自分自身の名誉と子どもたちの名誉を気づかう最上の父親、愛情に溢れた
父親ではありません。一言でいえば、ぼくのお父さんではありません。≫ (5月19日付)
その後大司教の侍従であるアルコ伯爵よりの呼び出しもあり、数度会談を重ねたが、結局
アルコ伯爵まで怒らせてしまい、≪戸口から追い出し、お尻に足蹴をくれたというわけです。(中略)
ぼくは三通の陳情書(注:辞職願)を作り、それを五回提出しましたが、そのたびごとに突っ返され
ました。(中略)この陳情書のおかげで、ぼくは世にも見事なやり口で職務を解雇されました。≫
(1781年6月9日付父レオポルト宛モーツァルトの手紙 モーツァルト書簡全集)
かくしてモーツァルトの反抗と反乱は終わり、ザルツブルク宮廷と決別すると同時に、父レオポルトから
精神的にも独立し、ウィーン時代の幕開けとなったのである。
モーツァルトはフリーランスの音楽家をめざしているわけではなく、ウィーン宮廷音楽家として
採用されることを目指すのである。このためには皇帝ヨーゼフ2世に認められる必要があり、その手段
としては、ヨーゼフ2世が当時推進していたドイツ語オペラ(ジングシュピール)の作曲を
することであると考えていた。
モーツァルトがウィーンで生計を立てるために行ったことは次の通りである。
①クラヴィーア教師
ウィーンでの最初の弟子となったルムベーケ伯爵夫人や、裕福な出版業者の妻フォン・トラットナー夫人、さらには
モーツァルトがその才能を高く評価したヨゼファ・バルバラ・アウエルンハンマー嬢(1758-1820)があげられる。
②演奏会の開催
この年は11月23日に弟子のアウエルンハンマー邸で催された私的な音楽会があげられる。演奏会は大規模な
公開演奏会あるいは貴族や富豪の邸宅で催される私的演奏会にわかれるが、いずれも大きな収入源になるのである。
③楽譜の出版
まずウィーンのアルタリア社から1781年末に「作品II 」としてヴァイオリン・ソナタ集(全6曲)≪アウエルンハンマー・ソナタ≫,
K.296 K.376 - 380を出版した。
④オペラの作曲
オペラの作曲はもっともまとまった収入となるわけだが、この年1871年の6月頃にはウィーン宮廷劇場監督
オルシーニ=ローゼンベルク伯爵より作曲を頼まれ、7月30日には台本作者のゴットリーブ・シュテファニーよりジングシュピール
(ドイツ語オペラ)≪後宮からの誘拐≫の台本を受け取り8月22日には第一幕を完成させている(全曲完成は翌年
1782年5月となり7月16日ブルク劇場で初演)。
★≪後宮からの誘拐≫K.384についての詳細は次回記事にて取り上げる予定。
モーツァルトが失恋した相手のアロイジア・ヴェーバーとその一家はアロイジアが1779年9月ウィーンの
ブルク劇場と専属契約を結んだので一家でミュンヘンよりウィーンに移住していた。父親のフリードリンは
1779年10月23日ウィーンで卒中で世を去り、アロイジアは1780年10月31日ウィーン宮廷俳優の
ヨハン・ヨーゼフ・ランゲと結婚していた。母のツェツィーリアはウィーンで下宿屋を開きアロイジア
以外の3人の娘達(長女のヨゼファ、三女のコンスタンツェ、末娘ゾフィー)を養っていた。
モーツァルトはウィーン到着後かなり早い時期にアロイジア(ランゲ夫人)及びヴェーバー家と再会し、
大司教との決裂の約1週間前(5月初旬)にはドイツ館からヴェーバー家に下宿人として移り住んで
いたのである。
モーツァルトとヴェーバー家の三女コンスタンツェの間で愛が芽生え始めたのは恐らく7月頃のことかと
思われ、モーツァルトは父レオポルトに対し、それとなく結婚したいという思いを洩らしていたのであるが、
ついに12月15日付父宛の手紙で彼女との結婚の意向を明確に表明した。父レオポルトとしては、
大司教との決裂をなんとか乗り越えたと思えば今度は懸念していた通りヴェーバー家の娘との結婚を
持ち出され困惑極まりなしといったところであった。これ以降翌年1782年8月4日ウィーンの
聖シュテファン大聖堂で行われる結婚式までモーツァルトは父レオポルトに結婚に対する同意を
求め続けることになる。
ベルヴェデーレ宮から望むウィーンの情景
ベルナルド・ベロット作 1758年 136×214cm ウィーン美術史美術館蔵
★Bernardo Bellotto: (1720 -1780)イタリア(ヴェネツィア)生まれの景観画家。伯父である大画家カナレット
(ジョヴァンニ・アントニオ・カナル)に弟子入りし絵画を学ぶ。1758年、オーストリア・ハプスブルク家君主である女帝
マリア・テレジアの誘いを受けウィーンに滞在、その後ミュンヘンを訪問した。本作品はマリア・テレジアの要請による。
タグ:モーツァルト ウィーン 大司教コロレド伯 ドイツ騎士団の館 アルコ伯爵 ウィーン時代の幕開け トラットナー夫人 アウエルンハンマー・ソナタ アルタリア社 オペラ ジングシュピール 後宮からの誘拐 アロイジア・ウェーバー ヨハン・ヨーゼフ・ランゲ コンスタンツェ 音楽芸術家協会コンサート ヨーゼフ2世 ムツィオ・クレメンティ ヴァイオリンのためのロンド ハ長調K.373 2台のクラヴィーアのためのソナタ 二長調K.448(375a) クラヴィーアのための変奏曲 ヴァイオリン・ソナタ ヘ長調K.377(374e) 「ああ、お母さん、あなたに申しましょう ”Ah vous dirai-je, Maman”」による12の変奏曲ハ長調K.265(300e) きらきら星変奏曲 「私はランドール」による12の変奏曲 変ホ長調」K.354/299a ヴァイオリン・ソナタ ト短調K.379(373a) 交響曲(第31番)ニ長調「パリ」K.297/300a
モーツァルトのミュンヘン旅行(「イドメネオ」作曲と上演の旅) [モーツァルト]
モーツァルト(当時24歳)は1780年11月5日にザルツブルクを発ち、ミュンヘンへと駅馬車で旅立った。
初めての一人旅であり、バイエルン選帝侯カール・テオドール(在位:1777年 - 1799年)の要請を受け、
翌年の謝肉祭用のオペラ「クレタの王イドメネオ」の作曲と演奏指導の旅である。
★ミュンヘンにおける謝肉祭用オペラ作曲と演奏指導は今回で二度目となる。一度目は、モーツァルトが19歳の時、
1775年1月13日初演した3幕のドラマ・ジョコーソ(オペラ・ブッファ)「偽の女庭師」であった。尚、当時のバイエルン選帝侯は
マクシミリアン3世ヨーゼフ(1727年 - 1777年)で、今回はカール・テオドール(在位:1777年 - 1799年)。
ミュンヘンには翌日6日午後1時に無事到着したのであるが、非常に辛い駅馬車の旅を余儀なくされた。
11月8日付ミュンヘンよりザルツブルクの父宛の第一報には次の通り述べている。(「モーツァルトの馬車の旅」でも
引用した。)
≪。。。ぼくらのうち(注:駅馬車に乗り合わせた乗客を含めぼくらとしている)誰ひとりとして、夜の間、一分でさえも
眠れませんでした。あの馬車では魂が放り出されます!そして座席ときたら!石の様に固いのです!
(中略)二つの駅の間ずっと、クッションに両手を突っ込んで、お尻を宙に浮かせていました。(中略)
これからは原則として、駅馬車で行くよりは、むしろ徒歩で行ったほうがよさそうです。≫
上記の様な報告をしたあと、「イドメネオ」の台本を書いたヴァレスコ師にイーリアのアリアの修正を依頼
する様父レオポルトに頼み、イーリア役のドロテーア・ヴェンドリング夫人は彼女のシェーナ(イーリアの別の
アリア)に最高に満足していると語るのである。
その後何度となくモーツァルトは父レオポルトに台詞、台本の修正が必要な箇所とその理由を説明し
レオポルトはこれを受けてヴァレスコ師にその必要性を説得するなど、モーツァルトとレオポルトは、
これら台本の修正作業を通じ、親子の息がぴったり合った時期を過ごすのである。モーツァルトは
台詞や歌詞を極力短く、簡潔にし、音楽で最大の効果を引き出すべきであると繰り返し主張するのである。
これらレオポルト宛の複数の手紙には、いかにモーツァルトがこのオペラに注力していたか、
さらにはモーツァルトがいかに深く作詞に関与したかが如実に示されているのである。
★モーツァルトは翌年ウィーン定住後も「イドメネオ」の上演を行うべく修正版を作成することになる。
モーツァルトが歌手の中で最も問題視したのはカストラート歌手のヴィンチェンツォ・デル・プラート
(1756-1828)であり、彼にはオペラ全体を教え込む必要があると同時に声にもむらがあり、発声
をも指導することになった。
他方、ザルツブルクを出発する前にシカネーダーから依頼を受けていたアリアを作曲し、11月22日
ザルツブルクで冬の興行中のシカネーダーにレオポルト経由送付した。
★送付したアリアはシカネーダーの喜劇「眠れぬ二夜、別名、騙されて幸せ」への挿入曲であろうとされている。
ヴァレスコ師のイタリア語台本をドイツ語に翻訳したのはヨハン・アンドレアス・シャハトナー。
モーツァルトはミュンヘン宮廷劇場総監督のゼーアウ伯爵の要請に応じ、ヴァレスコのイタリア語
台本作成及びシャハトナーの翻訳サービス契約をモーツァルトの名において締結し、ゼーアウ伯爵は
報酬を一括モーツァルトに支払っている。
★父レオポルトはヴァレスコが度重なる台本の修正により報酬の増額あるいは早期支払いを要求してきた際、彼との契約は
ゼーアウ伯爵との別契約とすべきであったとモーツァルトにコメントしている。
1780年11月29日にオーストリア・ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアが崩御し、帝国領内での
興行は6週間中止となった。ミュンヘンもザルツブルクも3ヶ月の服喪期間を設定してはいるが、
ミュンヘンでは劇場を一時閉鎖するとかの措置はとられず、「ぼくのオペラには、女帝の死はまったく
影響ありません。どの劇場も全然閉鎖されておらず、芝居はいつものようにずっと続けられて
いますから。」と連絡するのである。(ミュンヘンのモーツァルトよりザルツブルクの父レオポルト宛1780年12月5日付書簡)
★亡きバイエルン選帝侯マクシミリアン3世の喪は6週間であったにも拘わらず、女帝の喪を3ヶ月としたのは多分に
バイエルン継承問題に伴う政治的配慮(オーストリアへの従順を示すという配慮)があったのであろう。
12月23日に第三回のオーケストラ伴奏によるリハーサルが行われ、この結果についてモーツァルトは
父レオポルトに次の通り報告している。(1780年12月27日付、ミュンヘン発)
≪最後にやった総稽古は見事でした。それは宮廷の大広間で行われ、選帝侯も列席しました。
今回は、フル・オーケストラで(もちろん、歌劇場に関係している全員で)稽古が行われました。
第一幕が終わると、選帝侯は大きな声で「ブラヴォー!」とぼくに言われました。そして、ぼくが
選帝侯の手にキスをしに行くと、こう言われました。「このオペラはすばらしいものとなるだろう。
間違いなく、君の名誉となるにちがいない。」≫
★バイエルン選帝侯カール・テオドール:カール4世フィリップ・テオドール(Karl IV. Philipp Theodor、1724年12月12日 -
1799年2月16日)は、プファルツ選帝侯(在位:1743年 - 1777年)、後にバイエルン選帝侯(在位:1777年 - 1799年)。
バイエルン選帝侯としてはカール・テオドール(またはカール2世テオドール)。ヴィッテルスバッハ家は14世紀以降
バイエルン系(ルートヴィヒ4世が祖)とプファルツ系(ルドルフ1世が祖)に家系が分かれていたが、プファルツ系の
カール・テオドールがバイエルン選帝侯を継承した事で統合された。
1781年が明け、1月25日父レオポルトと姉ナンネルがザルツブルクを発ち、翌日ミュンヘンに到着した。
勿論、目的はモーツァルトの「イドメネオ」初演に立ち会うためである。
1781年1月27日、モーツァルトの25歳の誕生日に最後の総稽古が行われ、1月29日、
ミュンヘン宮廷劇場(現キュヴィリエ劇場)で初演された。
★キュヴィリエ劇場(ミュンヘンにあるロココ式劇場/独: Cuvilliés-Theater)は前任バイエルン選帝侯 (在位:1745年 – 1777年)の
マクシミリアン3世ヨーゼフ(Maximilian III. Joseph, 1727年3月28日 - 1777年12月30日)が、建設をフランソワ・ド・
キュヴィリエに命じ、1753年完成した宮廷(レジデンツ)にある劇場。オペラ・セリアだけが上演された。
バイエルン選帝侯カール・テオドール キュヴィリエ劇場内部
初めての一人旅であり、バイエルン選帝侯カール・テオドール(在位:1777年 - 1799年)の要請を受け、
翌年の謝肉祭用のオペラ「クレタの王イドメネオ」の作曲と演奏指導の旅である。
★ミュンヘンにおける謝肉祭用オペラ作曲と演奏指導は今回で二度目となる。一度目は、モーツァルトが19歳の時、
1775年1月13日初演した3幕のドラマ・ジョコーソ(オペラ・ブッファ)「偽の女庭師」であった。尚、当時のバイエルン選帝侯は
マクシミリアン3世ヨーゼフ(1727年 - 1777年)で、今回はカール・テオドール(在位:1777年 - 1799年)。
ミュンヘンには翌日6日午後1時に無事到着したのであるが、非常に辛い駅馬車の旅を余儀なくされた。
11月8日付ミュンヘンよりザルツブルクの父宛の第一報には次の通り述べている。(「モーツァルトの馬車の旅」でも
引用した。)
≪。。。ぼくらのうち(注:駅馬車に乗り合わせた乗客を含めぼくらとしている)誰ひとりとして、夜の間、一分でさえも
眠れませんでした。あの馬車では魂が放り出されます!そして座席ときたら!石の様に固いのです!
(中略)二つの駅の間ずっと、クッションに両手を突っ込んで、お尻を宙に浮かせていました。(中略)
これからは原則として、駅馬車で行くよりは、むしろ徒歩で行ったほうがよさそうです。≫
上記の様な報告をしたあと、「イドメネオ」の台本を書いたヴァレスコ師にイーリアのアリアの修正を依頼
する様父レオポルトに頼み、イーリア役のドロテーア・ヴェンドリング夫人は彼女のシェーナ(イーリアの別の
アリア)に最高に満足していると語るのである。
その後何度となくモーツァルトは父レオポルトに台詞、台本の修正が必要な箇所とその理由を説明し
レオポルトはこれを受けてヴァレスコ師にその必要性を説得するなど、モーツァルトとレオポルトは、
これら台本の修正作業を通じ、親子の息がぴったり合った時期を過ごすのである。モーツァルトは
台詞や歌詞を極力短く、簡潔にし、音楽で最大の効果を引き出すべきであると繰り返し主張するのである。
これらレオポルト宛の複数の手紙には、いかにモーツァルトがこのオペラに注力していたか、
さらにはモーツァルトがいかに深く作詞に関与したかが如実に示されているのである。
★モーツァルトは翌年ウィーン定住後も「イドメネオ」の上演を行うべく修正版を作成することになる。
モーツァルトが歌手の中で最も問題視したのはカストラート歌手のヴィンチェンツォ・デル・プラート
(1756-1828)であり、彼にはオペラ全体を教え込む必要があると同時に声にもむらがあり、発声
をも指導することになった。
他方、ザルツブルクを出発する前にシカネーダーから依頼を受けていたアリアを作曲し、11月22日
ザルツブルクで冬の興行中のシカネーダーにレオポルト経由送付した。
★送付したアリアはシカネーダーの喜劇「眠れぬ二夜、別名、騙されて幸せ」への挿入曲であろうとされている。
ヴァレスコ師のイタリア語台本をドイツ語に翻訳したのはヨハン・アンドレアス・シャハトナー。
モーツァルトはミュンヘン宮廷劇場総監督のゼーアウ伯爵の要請に応じ、ヴァレスコのイタリア語
台本作成及びシャハトナーの翻訳サービス契約をモーツァルトの名において締結し、ゼーアウ伯爵は
報酬を一括モーツァルトに支払っている。
★父レオポルトはヴァレスコが度重なる台本の修正により報酬の増額あるいは早期支払いを要求してきた際、彼との契約は
ゼーアウ伯爵との別契約とすべきであったとモーツァルトにコメントしている。
1780年11月29日にオーストリア・ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアが崩御し、帝国領内での
興行は6週間中止となった。ミュンヘンもザルツブルクも3ヶ月の服喪期間を設定してはいるが、
ミュンヘンでは劇場を一時閉鎖するとかの措置はとられず、「ぼくのオペラには、女帝の死はまったく
影響ありません。どの劇場も全然閉鎖されておらず、芝居はいつものようにずっと続けられて
いますから。」と連絡するのである。(ミュンヘンのモーツァルトよりザルツブルクの父レオポルト宛1780年12月5日付書簡)
★亡きバイエルン選帝侯マクシミリアン3世の喪は6週間であったにも拘わらず、女帝の喪を3ヶ月としたのは多分に
バイエルン継承問題に伴う政治的配慮(オーストリアへの従順を示すという配慮)があったのであろう。
12月23日に第三回のオーケストラ伴奏によるリハーサルが行われ、この結果についてモーツァルトは
父レオポルトに次の通り報告している。(1780年12月27日付、ミュンヘン発)
≪最後にやった総稽古は見事でした。それは宮廷の大広間で行われ、選帝侯も列席しました。
今回は、フル・オーケストラで(もちろん、歌劇場に関係している全員で)稽古が行われました。
第一幕が終わると、選帝侯は大きな声で「ブラヴォー!」とぼくに言われました。そして、ぼくが
選帝侯の手にキスをしに行くと、こう言われました。「このオペラはすばらしいものとなるだろう。
間違いなく、君の名誉となるにちがいない。」≫
★バイエルン選帝侯カール・テオドール:カール4世フィリップ・テオドール(Karl IV. Philipp Theodor、1724年12月12日 -
1799年2月16日)は、プファルツ選帝侯(在位:1743年 - 1777年)、後にバイエルン選帝侯(在位:1777年 - 1799年)。
バイエルン選帝侯としてはカール・テオドール(またはカール2世テオドール)。ヴィッテルスバッハ家は14世紀以降
バイエルン系(ルートヴィヒ4世が祖)とプファルツ系(ルドルフ1世が祖)に家系が分かれていたが、プファルツ系の
カール・テオドールがバイエルン選帝侯を継承した事で統合された。
1781年が明け、1月25日父レオポルトと姉ナンネルがザルツブルクを発ち、翌日ミュンヘンに到着した。
勿論、目的はモーツァルトの「イドメネオ」初演に立ち会うためである。
1781年1月27日、モーツァルトの25歳の誕生日に最後の総稽古が行われ、1月29日、
ミュンヘン宮廷劇場(現キュヴィリエ劇場)で初演された。
★キュヴィリエ劇場(ミュンヘンにあるロココ式劇場/独: Cuvilliés-Theater)は前任バイエルン選帝侯 (在位:1745年 – 1777年)の
マクシミリアン3世ヨーゼフ(Maximilian III. Joseph, 1727年3月28日 - 1777年12月30日)が、建設をフランソワ・ド・
キュヴィリエに命じ、1753年完成した宮廷(レジデンツ)にある劇場。オペラ・セリアだけが上演された。
バイエルン選帝侯カール・テオドール キュヴィリエ劇場内部
タグ:モーツァルト ミュンヘン 「クレタの王イドメネオ」 謝肉祭用オペラ 「偽りの女庭師」 バイエルン選帝侯 マクシミリアン3世ヨーゼフ シカネーダー ジャンバティスタ・ヴァレスコ アントワーヌ・ダンシェ イダマンテ イーリア トロイア戦争 エレットラ 海神ネプチューン イレアナ・コトルバス 女帝マリア・テレジア ヒルデガルド・ベーレンス ルチアーノ・パヴァロッティ オーボエ四重奏曲へ長調 K.370 ミュンヘン宮廷楽団 序曲 オペラ「イドメネオ」へのバレエ音楽K.367 ”Quando avran fine omai” ”Padre, germani, addio!” "Tutte nel cor vi sento" ”Vedrommi intorno”
モーツァルト24歳・ザルツブルク在住最後の年(1780年) [モーツァルト]
マンハイム・パリ求職の旅より帰国後約1年が経過し、1780年が明けた。モーツァルトは1月27日
24歳の誕生日を迎えたのである。
ザルツブルクの生活は単調そのもので、大司教のモーツァルトへの対応に変化が見えるわけでもなく、
モーツァルトにとっては相変わらず高慢この上なき大司教なのであった。この点については翌年1781年
12月16日付でミュンヘンより父レオポルト宛に出した手紙で要旨次の通り述べている。
「ザルツブルクにいるのは父を愛するが故だけにいるのである」「自分だけの問題であれば
今回旅立つ前に今度の辞令でお尻を拭いていただろう」「ザルツブルクではなく、あの君主が、
尊大な貴族たちが日ごとに耐えがたくなっている」
1779年にはベーム一座がそして1780年にはシカネーダー一座が宮廷劇場で興行しており、
父レオポルトをはじめモーツァルトも姉ナンネルも座長であるベームやシカネーダーと親しく
付き合うのである。
★エマヌエル・シカネーダーは一座を引き連れこの年1780年から81年の冬のシーズンに来演しておりモーツアルト一家には
芝居のフリーパス扱いをしている。
★モーツァルトはこれはを契機としてシカネーダーとはウィーンに定住後も親しく付き合い、1790年末初演の「賢者の石」から
最晩年の1791年9月30日初演の「魔笛」へと発展して行くのである。詳細は弊記事「猫とモーツァルト」ご参照。
尚、前年1799年にはベーム一座のために劇音楽≪「エジプトの王ターモス」のための合唱と幕間音楽≫K.345/336aを
完成している。この作品は1773年「モーツァルトの3度目のウィーン旅行」においてケプラー男爵の依頼で作曲した初稿(173d)を
新たに書き直したのである。「魔笛」の題材との共通性を持つものである。
モーツァルトは前年からこの年1780年にかけて2幕のジングシュピール「ツァーイデ”Zaide"
(後宮”Das Serail)」K.344(336b)を作曲した。このジングシュピールは序曲も作曲されておらず、
又、各曲をつなぐ台詞も書き込まれておらず、未完に終わっている。この作品の目的も明確に
されていないが、ベーム一座あるいはシカネーダー一座用ではないかとの説もある。しかし、興行用で
あれば契約も手付金もあるので未完で終わるはずがないとも思える。ドイツ語オペラがヨーゼフ2世に
より奨励されていた時期でもあり、ミュンヘン宮廷あるいはウィーン宮廷への売り込みを意図していた
のかも知れない。
★尚、この作品はモーツァルトの死後その遺産の中から発見されており、生前に演奏されたかどうかは不明である。
トルコの太守ゾーリマンの侍女ツァーイデが、捕らわれて奴隷となっているキリスト教徒の貴族ゴーマッツと恋に落ち、
トルコの後宮からの逃亡を企てるという筋書きであり、後になって1782年7月16日にウィーンのブルク劇場で
初演されることになる3幕のジングシュピール「後宮からの誘拐」K.384との共通性に注目しておく必要があろう。
この年の夏頃、待ち焦がれたオペラ作曲の依頼が届いた。翌年1781年の謝肉祭用のオペラ・セリアの
作曲依頼である。依頼主はミュンヘンのバイエルン選帝侯カール・テオドールであるが、恐らく
ミュンヘンの宮廷楽団のカンナビヒ、オーボエ奏者のラム、あるいはフルート奏者のヴェンドリング
といった友人達が動いてくれた結果であろう。
新しいオペラ・セリアは「クレタの王、イドメネオ」 K.366である。この題材は、フランス語の悲歌劇
「イドメネ」(1712年)で扱われており、モーツァルトのためには当時ザルツブルクで宮廷付司祭を
務めていたイタリア生れのジャンバッティスタ・ヴァレスコ師(1735-1805)が台本を書いた。
大司教よりは6週間という期限付き休暇の許可も取得し、1780年11月5日、モーツァルトは
ザルツブルクを発ち、ミュンヘンへと旅立つのである。この機会を利用し、ミュンヘン宮廷への
就職を再度試み様との気持ちを新たにするモーツァルトであったが、「イドメネオ」の上演完了後、
大司教の命令が下り、ミュンヘンから直接ウィーンに向かい、同地で独立、ウィーン時代の幕開けを
迎えることになろうとは誰が予想し得たであろうか。
★モーツァルトがマンハイムで愛し、ミュンヘンで失恋した相手であるアロイジア・ウェーバーはミュンヘンで売れっ子の
宮廷ソプラノ歌手となっていたが、1779年9月彼女はウィーンの宮廷劇場(ブルク劇場)と契約したため、家族でウィーンに
移住していた。そして、1780年10月31日彼女はウィーンの宮廷俳優ヨーゼフ・ランゲ(1751-1831)と結婚したのである。
政治面ではモーツァルトがミュンヘン到着後の11月29日ウィーン・ハプスブルク家の女帝
マリア・テレジアが63歳の生涯を閉じ、39歳のヨーゼフ2世(神聖ローマ皇帝)が、この年から
本格的にハプスブルク帝国の単独統治を開始するのである。所謂「ヨーゼフ主義」の開始である。
ヨーゼフ2世の単独統治の政策は啓蒙的絶対主義の徹底にあり、各種改革を矢継ぎばやに
実施するのである。後になってプロイセン国王フリードリヒ2世は「ヨーゼフは第一歩を歩み出す前に、
第二歩を踏み出す」と評している。
★モーツァルトの西方大旅行中、1765年9月17日女帝マリア・テレジアの夫君神聖ローマ皇帝フランツが崩御し、その後、
マリア・テレジアは長男のヨーゼフ2世と共同統治を行ってきていた。
この年、レオポルトは2年前にパリで亡くなった妻アンナ・マリアの肖像を
中央に掲げた家族の肖像画を描かせているのである。
モーツァルトの家族の肖像 油彩画、J.N.デッラ・クローチェ作 1780-81年
1780年から81年にかけて描かれた。モーツァルト(24歳)と姉ナンネル(29歳)は
クラヴィーアを連弾し、父レオポルト(60歳)はヴァイオリンを手にしている。
中央には2年前にパリで57歳で亡くなった母アンナ・マリアの肖像画が描かれている。
★家族の肖像画に描かれている1台のクラヴィーアを2人で弾く、4手のための連弾ソナタは18世紀から19世紀にかけて
上流階級の家庭で流行した。モーツァルトはこのジャンルでは5曲を完成させている。K.19d(9歳の時ロンドンにて、
K.381(123a),K.358(186c)はザルツブルクで1773~74年頃作曲。ウィーンではK.497(1786年)、
K.521(1987年)を作曲している。
24歳の誕生日を迎えたのである。
ザルツブルクの生活は単調そのもので、大司教のモーツァルトへの対応に変化が見えるわけでもなく、
モーツァルトにとっては相変わらず高慢この上なき大司教なのであった。この点については翌年1781年
12月16日付でミュンヘンより父レオポルト宛に出した手紙で要旨次の通り述べている。
「ザルツブルクにいるのは父を愛するが故だけにいるのである」「自分だけの問題であれば
今回旅立つ前に今度の辞令でお尻を拭いていただろう」「ザルツブルクではなく、あの君主が、
尊大な貴族たちが日ごとに耐えがたくなっている」
1779年にはベーム一座がそして1780年にはシカネーダー一座が宮廷劇場で興行しており、
父レオポルトをはじめモーツァルトも姉ナンネルも座長であるベームやシカネーダーと親しく
付き合うのである。
★エマヌエル・シカネーダーは一座を引き連れこの年1780年から81年の冬のシーズンに来演しておりモーツアルト一家には
芝居のフリーパス扱いをしている。
★モーツァルトはこれはを契機としてシカネーダーとはウィーンに定住後も親しく付き合い、1790年末初演の「賢者の石」から
最晩年の1791年9月30日初演の「魔笛」へと発展して行くのである。詳細は弊記事「猫とモーツァルト」ご参照。
尚、前年1799年にはベーム一座のために劇音楽≪「エジプトの王ターモス」のための合唱と幕間音楽≫K.345/336aを
完成している。この作品は1773年「モーツァルトの3度目のウィーン旅行」においてケプラー男爵の依頼で作曲した初稿(173d)を
新たに書き直したのである。「魔笛」の題材との共通性を持つものである。
モーツァルトは前年からこの年1780年にかけて2幕のジングシュピール「ツァーイデ”Zaide"
(後宮”Das Serail)」K.344(336b)を作曲した。このジングシュピールは序曲も作曲されておらず、
又、各曲をつなぐ台詞も書き込まれておらず、未完に終わっている。この作品の目的も明確に
されていないが、ベーム一座あるいはシカネーダー一座用ではないかとの説もある。しかし、興行用で
あれば契約も手付金もあるので未完で終わるはずがないとも思える。ドイツ語オペラがヨーゼフ2世に
より奨励されていた時期でもあり、ミュンヘン宮廷あるいはウィーン宮廷への売り込みを意図していた
のかも知れない。
★尚、この作品はモーツァルトの死後その遺産の中から発見されており、生前に演奏されたかどうかは不明である。
トルコの太守ゾーリマンの侍女ツァーイデが、捕らわれて奴隷となっているキリスト教徒の貴族ゴーマッツと恋に落ち、
トルコの後宮からの逃亡を企てるという筋書きであり、後になって1782年7月16日にウィーンのブルク劇場で
初演されることになる3幕のジングシュピール「後宮からの誘拐」K.384との共通性に注目しておく必要があろう。
この年の夏頃、待ち焦がれたオペラ作曲の依頼が届いた。翌年1781年の謝肉祭用のオペラ・セリアの
作曲依頼である。依頼主はミュンヘンのバイエルン選帝侯カール・テオドールであるが、恐らく
ミュンヘンの宮廷楽団のカンナビヒ、オーボエ奏者のラム、あるいはフルート奏者のヴェンドリング
といった友人達が動いてくれた結果であろう。
新しいオペラ・セリアは「クレタの王、イドメネオ」 K.366である。この題材は、フランス語の悲歌劇
「イドメネ」(1712年)で扱われており、モーツァルトのためには当時ザルツブルクで宮廷付司祭を
務めていたイタリア生れのジャンバッティスタ・ヴァレスコ師(1735-1805)が台本を書いた。
大司教よりは6週間という期限付き休暇の許可も取得し、1780年11月5日、モーツァルトは
ザルツブルクを発ち、ミュンヘンへと旅立つのである。この機会を利用し、ミュンヘン宮廷への
就職を再度試み様との気持ちを新たにするモーツァルトであったが、「イドメネオ」の上演完了後、
大司教の命令が下り、ミュンヘンから直接ウィーンに向かい、同地で独立、ウィーン時代の幕開けを
迎えることになろうとは誰が予想し得たであろうか。
★モーツァルトがマンハイムで愛し、ミュンヘンで失恋した相手であるアロイジア・ウェーバーはミュンヘンで売れっ子の
宮廷ソプラノ歌手となっていたが、1779年9月彼女はウィーンの宮廷劇場(ブルク劇場)と契約したため、家族でウィーンに
移住していた。そして、1780年10月31日彼女はウィーンの宮廷俳優ヨーゼフ・ランゲ(1751-1831)と結婚したのである。
政治面ではモーツァルトがミュンヘン到着後の11月29日ウィーン・ハプスブルク家の女帝
マリア・テレジアが63歳の生涯を閉じ、39歳のヨーゼフ2世(神聖ローマ皇帝)が、この年から
本格的にハプスブルク帝国の単独統治を開始するのである。所謂「ヨーゼフ主義」の開始である。
ヨーゼフ2世の単独統治の政策は啓蒙的絶対主義の徹底にあり、各種改革を矢継ぎばやに
実施するのである。後になってプロイセン国王フリードリヒ2世は「ヨーゼフは第一歩を歩み出す前に、
第二歩を踏み出す」と評している。
★モーツァルトの西方大旅行中、1765年9月17日女帝マリア・テレジアの夫君神聖ローマ皇帝フランツが崩御し、その後、
マリア・テレジアは長男のヨーゼフ2世と共同統治を行ってきていた。
この年、レオポルトは2年前にパリで亡くなった妻アンナ・マリアの肖像を
中央に掲げた家族の肖像画を描かせているのである。
モーツァルトの家族の肖像 油彩画、J.N.デッラ・クローチェ作 1780-81年
1780年から81年にかけて描かれた。モーツァルト(24歳)と姉ナンネル(29歳)は
クラヴィーアを連弾し、父レオポルト(60歳)はヴァイオリンを手にしている。
中央には2年前にパリで57歳で亡くなった母アンナ・マリアの肖像画が描かれている。
★家族の肖像画に描かれている1台のクラヴィーアを2人で弾く、4手のための連弾ソナタは18世紀から19世紀にかけて
上流階級の家庭で流行した。モーツァルトはこのジャンルでは5曲を完成させている。K.19d(9歳の時ロンドンにて、
K.381(123a),K.358(186c)はザルツブルクで1773~74年頃作曲。ウィーンではK.497(1786年)、
K.521(1987年)を作曲している。
タグ:モーツァルト ザルツブルク ベーム シカネーダー 「後宮からの誘拐」K.384 ツァーイデ K.344(336b) クレタの王、イドメネオ K.366 ジャンバッティスタ・ヴァレスコ師 マリア・テレジア ヨーゼフ2世 家族の肖像画 クラヴィーア協奏曲(第10番)変ホ長調K.365(316a) ヴァイオリン・ソナタ 変ロ長調 K.378(317d) 「安らかにお休み”Ruhe sanft”」 ツァーイデのアリア 荘厳ミサハ長調 K.337 アニュス・デイ 変ホ長調 交響曲(第34番)ハ長調 K.338 「ヴェスペレ」 ハ長調 K.339 ラウダーテ・ドミヌム ヘ短調 フィガロの結婚 伯爵夫人のカヴァティーナ 「愛の神よ、安らぎを与えたまえ」
ザルツブルクのモーツァルト23歳(1779年) [モーツァルト]
23回目の誕生日をあと12日で迎えんとする1779年1月15日マンハイムとパリ求職の旅より
ザルツブルクに戻ったモーツアルトは1777年12月22日に急死したアドゥルガッサーの後任として年俸
450フローリンで宮廷オルガン奏者に任命されたのであるが、任命されるには辞令交付請願書を
大司教に提出する必要があった。(請願書提出後は直ちに、1月7日付で辞令が交付されている。)
高貴にして慈悲深き大司教猊下!
神聖ローマ帝国の領主大司教猊下!
国王にしてご主君様!
猊下におかせられましては、カイエターン・アドゥルガッサーの逝去後、かたじけなくも、小生を
猊下の楽員としてお取立て下さいました。したがいまして、小生を猊下の宮廷オルガン奏者として
御発令下さいますよう、まことに恐れながらお願いもうしあげます。
ヴォルフガング・アマデー・モーツァルト
★アントン・カイエターン・アドゥルガッサー:Anton Cajetan Adlgasser 1729-77年12月22日。オルガン奏者にして
すぐれた対位法作曲家であり、モーツァルト一家とは家族ぐるみの付き合いであった。アドゥルガッサーの年俸は
450フローリンであったので、大司教はその年俸をそのままモーツァルトに支給することにしたのである。
この辞令交付請願書は署名にいたるまですべて父レオポルトによって書かれている。レオポルト
としてもさすがにこの請願書をモーツァルトに書かせるのは酷であり、無理強いすると「宮廷には
雇用してもらわなくて結構」としてやっと連れ戻したザルツブルクを飛び出して行きかねないと
考えたものであろう。又、レオポルトは、大司教がかなり柔軟性を示し、モーツァルトの要望を
受け入れたとのニュアンスの説明の手紙をモーツァルトに出していたことにもよるであろう。
レオポルトが上記の通り考えざるを得ないほどモーツァルトは大司教、宮廷楽団、ザルツブルクを
嫌っていたのであるが、その理由はモーツァルトのいくつかの手紙から把握することが出来る。
ザルツブルクの父レオポルト宛て(パリ、1778年7月9日)
≪。。。ああ、もし楽団(注:ザルツブルクの楽団のこと)がマンハイムののように人選されていたらなあ!
(中略)あの楽団(注:マンハイム宮廷楽団)では、服従が絶対です!カンナビヒが絶対権をにぎっていて、
あそこではすべてが真剣に行われています。(中略)礼儀作法を心得、みだしなみがよく、
居酒屋へ行っても大酒をくらったりしません。しかし、ザルツブルクではそうはいきません。
君主がお父さんかぼくを信頼して、ぼくらにあらゆる権力を与えてくれたら別ですが。常に楽団には
権力が必要不可欠です。≫
ザルツブルクの親友ヨーゼフ・ブリンガー師宛(パリ、1778年8月7日)
≪。。。最愛の友よ、僕にとってどんなにザルツブルクが嫌悪すべきところか、あなたにはおわかり
でしょう!(中略)ザルツブルクはぼくの才能に向いた土地ではない!第一に、音楽にかかわる人
たちがまったく尊敬されていないこと。第二に、なにも聴くものがありません。劇場もなければ、
オペラハウスもありません!もし本当にオペラを上演しようとしても、一体だれが歌えるのでしょうか?
この5,6年間、ザルツブルクの管弦楽団はいつも無用の長物、余計な連中でいっぱいでした。。。≫
★1775年ザルツブルクに宮廷劇場が誕生しているが、その公演は旅回りの劇団(シカネーダーやベーム一座など)に委ねられた為、
モーツァルトなど地元の作曲家たちの出番はなかった。詳細は「ザルツブルクのモーツァルト19歳(1775年)」ご参照。
ザルツブルクの父レオポルト宛(マンハイム、1778年11月12日付)
≪。。。大司教がもしかするとぼくが戻らないのではないかと案じ、もっとよい給料を与えようと決心する
ように、大いに、強く話して下さい。(中略)大司教はぼくをザルツブルクの奴隷とするのに、どんなに
支払っても充分ということはありえません!あなたにあえると思うとよろこびにあふれるのを感じます。
しかし、あの乞食宮廷にふたたび仕えるかと思うと、まったく腹立たしさと不安を感じます。大司教が
ぼくに対して、以前やっていたような、偉ぶった態度を演じようとすることは許されません。奴の鼻を
明かすことだって、なきにしもあらず!たやすいことですよ。そして、あなたもぼくのよろこびを分かち
合ってくれると確信しています。≫
父レオポルト宛(マンハイム、1778年12月3日付)
≪。。。ああ!ぼくらもクラリネットを持てたらなあ!シンフォニーが、フルートとオーボエとクラリネットを
伴ったらどんなにすばらしい効果をあげるか、ご想像になれないでしょう。ぼくは大司教との最初の
謁見で、たくさんの新情報を伝え、多分なんらかの提案もしてみるつもりです。ああ、大司教が望み
さえすれば、ぼくたちのところの楽団は見違えるほど洗練され、よりよくなるでしょうに。。。≫
父レオポルト宛(ミュンヘン、1779年1月8日)
≪最愛のお父さん、あなたが以前よりもぼくを理解してくれていることがわかったので、
(ザルツブルクではなくて)あなたのもとにかえるのをいまや心から喜んでいます。
ぼくの名誉にかけて誓って言いますが、ぼくはザルツブルクとその住民たち(ぼくの言うのは
生まれながらのザルツブルク出身の連中たち)にもうがまんできません。彼らの語り口、
生活ぶりがまったく耐えがたいのです。(中略)
信じて下さい。ぼくがあなたと愛するお姉さんをふたたび抱擁することを熱望して燃えているのを。
ただし、これがザルツブルクでなかったらなあ!でも、ザルツブルクへ向かわないことには会えない
わけですから、よろこんで行きます。≫ (モーツアルト書簡全集)
かくしてモーツァルトは1779年1月14日又は15日にミュンヘンを発ちザルツブルクに帰郷したのである。
ザルツブルクには親友や支援者もいることでもあり、最後の方の手紙は帰国がだんだん迫り、
ミュンヘンやマンハイムでの就職の思い断ち切れず、ザルツブルクに対する険悪感をいささか誇張して
記述しているとも思われるが、大司教宮廷楽団などはいつでも辞めてやるとの気構えをも
感じさせるのである。
とは言え、モーツァルトがこの時期ザルツブルクで作曲した作品は名曲ぞろいなのである。
『マンハイムとパリ求職の旅』は就職活動の失敗、パリでは母を亡くし、ミュンヘンでは最愛の
アロイジアにはふられるといった苦悩の旅であったわけだが、音楽的にはフォルテ・ピアノとの出会い、
マンハイム楽団(楽派)やパリにおける一流の音楽家達との交流などにより、極めて実り多き旅でも
あったことがうかがえる。
★モーツァルトが失恋した相手であるアロイジア・ヴェーバーはこの年1779年9月ウィーンの宮廷劇場と契約し、
これに伴い家族総出でウィーンに移住している。
ヘルブルン宮の噴水庭園にある『宴のテーブル』と名付けられたびっくり噴水
(各椅子の中央から噴水が飛び出す。)
★ヘルブルン宮:1613年から19年にかけて当時のザルツブルク大司教マルク・ジッティヒ・フォン・ホーエンエムスが
作らせた噴水細工に満ちた離宮。
ザルツブルクに戻ったモーツアルトは1777年12月22日に急死したアドゥルガッサーの後任として年俸
450フローリンで宮廷オルガン奏者に任命されたのであるが、任命されるには辞令交付請願書を
大司教に提出する必要があった。(請願書提出後は直ちに、1月7日付で辞令が交付されている。)
高貴にして慈悲深き大司教猊下!
神聖ローマ帝国の領主大司教猊下!
国王にしてご主君様!
猊下におかせられましては、カイエターン・アドゥルガッサーの逝去後、かたじけなくも、小生を
猊下の楽員としてお取立て下さいました。したがいまして、小生を猊下の宮廷オルガン奏者として
御発令下さいますよう、まことに恐れながらお願いもうしあげます。
ヴォルフガング・アマデー・モーツァルト
★アントン・カイエターン・アドゥルガッサー:Anton Cajetan Adlgasser 1729-77年12月22日。オルガン奏者にして
すぐれた対位法作曲家であり、モーツァルト一家とは家族ぐるみの付き合いであった。アドゥルガッサーの年俸は
450フローリンであったので、大司教はその年俸をそのままモーツァルトに支給することにしたのである。
この辞令交付請願書は署名にいたるまですべて父レオポルトによって書かれている。レオポルト
としてもさすがにこの請願書をモーツァルトに書かせるのは酷であり、無理強いすると「宮廷には
雇用してもらわなくて結構」としてやっと連れ戻したザルツブルクを飛び出して行きかねないと
考えたものであろう。又、レオポルトは、大司教がかなり柔軟性を示し、モーツァルトの要望を
受け入れたとのニュアンスの説明の手紙をモーツァルトに出していたことにもよるであろう。
レオポルトが上記の通り考えざるを得ないほどモーツァルトは大司教、宮廷楽団、ザルツブルクを
嫌っていたのであるが、その理由はモーツァルトのいくつかの手紙から把握することが出来る。
ザルツブルクの父レオポルト宛て(パリ、1778年7月9日)
≪。。。ああ、もし楽団(注:ザルツブルクの楽団のこと)がマンハイムののように人選されていたらなあ!
(中略)あの楽団(注:マンハイム宮廷楽団)では、服従が絶対です!カンナビヒが絶対権をにぎっていて、
あそこではすべてが真剣に行われています。(中略)礼儀作法を心得、みだしなみがよく、
居酒屋へ行っても大酒をくらったりしません。しかし、ザルツブルクではそうはいきません。
君主がお父さんかぼくを信頼して、ぼくらにあらゆる権力を与えてくれたら別ですが。常に楽団には
権力が必要不可欠です。≫
ザルツブルクの親友ヨーゼフ・ブリンガー師宛(パリ、1778年8月7日)
≪。。。最愛の友よ、僕にとってどんなにザルツブルクが嫌悪すべきところか、あなたにはおわかり
でしょう!(中略)ザルツブルクはぼくの才能に向いた土地ではない!第一に、音楽にかかわる人
たちがまったく尊敬されていないこと。第二に、なにも聴くものがありません。劇場もなければ、
オペラハウスもありません!もし本当にオペラを上演しようとしても、一体だれが歌えるのでしょうか?
この5,6年間、ザルツブルクの管弦楽団はいつも無用の長物、余計な連中でいっぱいでした。。。≫
★1775年ザルツブルクに宮廷劇場が誕生しているが、その公演は旅回りの劇団(シカネーダーやベーム一座など)に委ねられた為、
モーツァルトなど地元の作曲家たちの出番はなかった。詳細は「ザルツブルクのモーツァルト19歳(1775年)」ご参照。
ザルツブルクの父レオポルト宛(マンハイム、1778年11月12日付)
≪。。。大司教がもしかするとぼくが戻らないのではないかと案じ、もっとよい給料を与えようと決心する
ように、大いに、強く話して下さい。(中略)大司教はぼくをザルツブルクの奴隷とするのに、どんなに
支払っても充分ということはありえません!あなたにあえると思うとよろこびにあふれるのを感じます。
しかし、あの乞食宮廷にふたたび仕えるかと思うと、まったく腹立たしさと不安を感じます。大司教が
ぼくに対して、以前やっていたような、偉ぶった態度を演じようとすることは許されません。奴の鼻を
明かすことだって、なきにしもあらず!たやすいことですよ。そして、あなたもぼくのよろこびを分かち
合ってくれると確信しています。≫
父レオポルト宛(マンハイム、1778年12月3日付)
≪。。。ああ!ぼくらもクラリネットを持てたらなあ!シンフォニーが、フルートとオーボエとクラリネットを
伴ったらどんなにすばらしい効果をあげるか、ご想像になれないでしょう。ぼくは大司教との最初の
謁見で、たくさんの新情報を伝え、多分なんらかの提案もしてみるつもりです。ああ、大司教が望み
さえすれば、ぼくたちのところの楽団は見違えるほど洗練され、よりよくなるでしょうに。。。≫
父レオポルト宛(ミュンヘン、1779年1月8日)
≪最愛のお父さん、あなたが以前よりもぼくを理解してくれていることがわかったので、
(ザルツブルクではなくて)あなたのもとにかえるのをいまや心から喜んでいます。
ぼくの名誉にかけて誓って言いますが、ぼくはザルツブルクとその住民たち(ぼくの言うのは
生まれながらのザルツブルク出身の連中たち)にもうがまんできません。彼らの語り口、
生活ぶりがまったく耐えがたいのです。(中略)
信じて下さい。ぼくがあなたと愛するお姉さんをふたたび抱擁することを熱望して燃えているのを。
ただし、これがザルツブルクでなかったらなあ!でも、ザルツブルクへ向かわないことには会えない
わけですから、よろこんで行きます。≫ (モーツアルト書簡全集)
かくしてモーツァルトは1779年1月14日又は15日にミュンヘンを発ちザルツブルクに帰郷したのである。
ザルツブルクには親友や支援者もいることでもあり、最後の方の手紙は帰国がだんだん迫り、
ミュンヘンやマンハイムでの就職の思い断ち切れず、ザルツブルクに対する険悪感をいささか誇張して
記述しているとも思われるが、大司教宮廷楽団などはいつでも辞めてやるとの気構えをも
感じさせるのである。
とは言え、モーツァルトがこの時期ザルツブルクで作曲した作品は名曲ぞろいなのである。
『マンハイムとパリ求職の旅』は就職活動の失敗、パリでは母を亡くし、ミュンヘンでは最愛の
アロイジアにはふられるといった苦悩の旅であったわけだが、音楽的にはフォルテ・ピアノとの出会い、
マンハイム楽団(楽派)やパリにおける一流の音楽家達との交流などにより、極めて実り多き旅でも
あったことがうかがえる。
★モーツァルトが失恋した相手であるアロイジア・ヴェーバーはこの年1779年9月ウィーンの宮廷劇場と契約し、
これに伴い家族総出でウィーンに移住している。
ヘルブルン宮の噴水庭園にある『宴のテーブル』と名付けられたびっくり噴水
(各椅子の中央から噴水が飛び出す。)
★ヘルブルン宮:1613年から19年にかけて当時のザルツブルク大司教マルク・ジッティヒ・フォン・ホーエンエムスが
作らせた噴水細工に満ちた離宮。
モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅③(パリ) [モーツァルト]
モーツァルト(22歳)と母アンナ・マリア(57歳)は1778年3月14日にマンハイムを発ち、
9日後の23日にパリに到着した。
「西方大旅行」でパリを訪問した時、拝謁、御前演奏をしたのはルイ15世であったが、
パリは今やルイ16世の時代になっていた。ルイ16世の后はモーツァルトが6歳の時、ウィーンの
シェーンブルン宮殿で「僕と結婚しよう」と言ったとされている1歳年長のマリア・アントニアが
フランス王妃(仏名:マリー・アントワネット)であったが、今回の青年モーツァルトの約6ヶ月のパリ
滞在中に謁見する機会はなかった。
ザルツブルクの父レオポルトは、「西方大旅行」でパリ滞在時非常に世話になった
グリム男爵に、息子をよろしくとの書簡を発信していたが、同男爵は7歳のモーツァルトの
才能には夢中になったが、22歳になったモーツァルトには特に珍しさ、新しさを感じないのか、
かなり冷淡な態度を示した。もっとも当時パリは財政状態が悪化し、グリム男爵のような貴族
でも「30年来の生活苦」に喘いでおり、音楽どころではなかったということも考えられる。
★グリムは、「フランス・オペラ」と「イタリア・オペラ」の優劣をめぐる論争(いわゆる「グルック=ピッチンニ論争」)でパリの聴衆が
二派に分裂しており、その狭間でモーツァルトが成功するのは非常に難しいとも判断していたのである。
(1778年7月27日付グリムよりレオポルト宛書簡)
パリでの就職活動もそんな簡単なものではなかった。唯一もたらされた就職口はヴェルサイユ宮殿の
オルガン奏者の職であったが、ザルツブルクの父レオポルトには「年俸は少ないし、一年の半分も
束縛され、パリで活躍も出来ない」と説明し、この職を断ってしまうのである。
モーツァルトがパリで最高の喜びを得たのは6月18日、コンセール・スピリチュエルが催した
チュイルリー宮のスイスの間で交響曲ニ長調「パリ」K.297が演奏され、大喝采を博した時である。
≪。。。僕はもううれしくって、シンフォニーが終わるとすぐにパレ・ロワイヤルに行って、おいしい
アイスクリームを食べ、願をかけていたロザリオの祈りを唱えて、家へ帰りました。。。≫
★しかしこの喜びは後述するごとく父や姉の心配と悲しみを少しでも和らげる為に語ることになるのである。
モーツァルトの母アンナ・マリアはパリに到着後、過酷な旅がこたえたのであろう体調を崩していた。
知人も限られており、薄暗い宿の一室でモーツァルトの帰りを待つ寂しい生活に耐えていた。彼女は
≪パリで早くモーツァルトが成功し、レオポルトとナンネルがすぐにもパリに来て家族みんなが
一緒に生活出来る様になること≫を神に祈り、ただひたすら寂しさに耐えていたのである。
アンナ・マリアは1778年6月12日ザルツブルクの夫レオポルトに語りかけた。
≪いとしいかた。。。あなたがたがお元気なことを知ってうれしいです。
私もヴォルフガングもおかげさまで元気です。きのう私、瀉血をしてもらいましたので、
今日はあまりたくさん書けません。。。(中略)
ごきげんよう。お二人ともお元気で。あなたがたに幾千回もキスし、あなたの忠実な妻の
モツァルティーンです。もう終わりにします。腕と眼が痛むのです。≫
この手紙がアンナ・マリアがザルツブルクの夫と娘のナンネルに書いた最後の手紙となった。
6月19日病床に伏した彼女は様態が悪化し、意識不明のまま1778年7月3日夜の10時21分
最愛の息子に看取られ57歳でこの世を去ったのである。アンナ・マリアは最後の時を迎えるに際し、
うわごとを言っていたが、モーツァルトが成功し、家族みんなが一同に会し得た喜びを
語っていたのであろうか。。。
★アンナ・マリアは体調が弱っていたにも拘わらず、瀉血(血を抜くこと)療法を受けたのである。当時この瀉血は
一般に広く行われており、かなり大量の血を抜きそれによって造血作用を促すという現代医学では考えられない
治療であった。おそらくこの瀉血療法が致命的となったと思われる。
モーツァルトは最愛の母を亡くした3日夜半から4日にかけて、自分も母と一緒に死んでしまいたいほどの
悲しみをこらえながら父と姉ナンネルに手紙をしたためるのである。
その手紙にはすでに母が亡くなったことは伏せ、まず「重態である」と記した上で、「交響曲パリ」
の成功の模様を語り、そして末尾にはこう語るのである。≪では、ごきげんよう。。。愛するお母さんは
全能の神の御手の中にあります。もしぼくが望むように、なお余命を与えてくだささるなら、神の
恩寵に感謝しましょう。でも、みもとに召されるなら、ぼくらの不安や、絶望はすべて無用です。
神のなさることに理由がないわけはないのですから。。。≫
まずは父と姉に母の死に対する心構えをさせようとするのである。
この手紙のすぐあと、4日の朝2時頃にザルツブルクの親友ブリンガー牧師に「ぼくの母はもういない!
神にめされたのだ。」と母が亡くなったことを告げ、「父と姉には重体であるとしか連絡しておらず、
両人に心構えをさせて欲しい。」と依頼するのである。
★ザルツブルクでモーツァルトよりの「母が重態である」との手紙を受け取った父レオポルトとナンネルは母が既に
この世を去ったことを感知するのである。その夜レオポルトを訪問したブリンガー牧師より真実を告げられたのである。
★モーツァルトが母の死をレオポルトとナンネルに伝えたのは母の死から6日が経過した7月9日付の手紙であった。
妻もこの世を去り、パリでの就職も旨く行きそうにないと判断したレオポルトはモーツァルトを早急に
ザルツブルクに帰郷させ再度宮廷楽団で働ける様大司教に懇願し、モーツァルト帰郷後は
宮廷オルガン奏者に任命するとの内諾を得たのである(1777年よりオルガン奏者に空席があった)。
レオポルトはパリのモーツァルトに帰郷を指示し、あの手この手で帰郷を促すのである。
モーツァルトは当初躊躇していたが、父の執拗な説得にある面根負けし、パリを去ることを
受け入れたのである。グリム男爵としては厄介払いが出来るとの気持ちが大きかったのであろう
早急に馬車の手配をし、モーツァルトを半ば強制的に駅馬車に乗せたのである。
『パリのチュイルリー宮』 1778年6月18日、スイスの間でモーツァルトの交響曲ニ長調「パリ」K.297が演奏され、
大成功を収めた。この宮殿は1564年カトリーヌ・ドゥ・メディシスの命で建設が開始され1572年王妃の命で中断、
アンリ4世が1608年に完成させた。宮殿は1871年5月、パリ・コミューヌにより焼失した。
9日後の23日にパリに到着した。
「西方大旅行」でパリを訪問した時、拝謁、御前演奏をしたのはルイ15世であったが、
パリは今やルイ16世の時代になっていた。ルイ16世の后はモーツァルトが6歳の時、ウィーンの
シェーンブルン宮殿で「僕と結婚しよう」と言ったとされている1歳年長のマリア・アントニアが
フランス王妃(仏名:マリー・アントワネット)であったが、今回の青年モーツァルトの約6ヶ月のパリ
滞在中に謁見する機会はなかった。
ザルツブルクの父レオポルトは、「西方大旅行」でパリ滞在時非常に世話になった
グリム男爵に、息子をよろしくとの書簡を発信していたが、同男爵は7歳のモーツァルトの
才能には夢中になったが、22歳になったモーツァルトには特に珍しさ、新しさを感じないのか、
かなり冷淡な態度を示した。もっとも当時パリは財政状態が悪化し、グリム男爵のような貴族
でも「30年来の生活苦」に喘いでおり、音楽どころではなかったということも考えられる。
★グリムは、「フランス・オペラ」と「イタリア・オペラ」の優劣をめぐる論争(いわゆる「グルック=ピッチンニ論争」)でパリの聴衆が
二派に分裂しており、その狭間でモーツァルトが成功するのは非常に難しいとも判断していたのである。
(1778年7月27日付グリムよりレオポルト宛書簡)
パリでの就職活動もそんな簡単なものではなかった。唯一もたらされた就職口はヴェルサイユ宮殿の
オルガン奏者の職であったが、ザルツブルクの父レオポルトには「年俸は少ないし、一年の半分も
束縛され、パリで活躍も出来ない」と説明し、この職を断ってしまうのである。
モーツァルトがパリで最高の喜びを得たのは6月18日、コンセール・スピリチュエルが催した
チュイルリー宮のスイスの間で交響曲ニ長調「パリ」K.297が演奏され、大喝采を博した時である。
≪。。。僕はもううれしくって、シンフォニーが終わるとすぐにパレ・ロワイヤルに行って、おいしい
アイスクリームを食べ、願をかけていたロザリオの祈りを唱えて、家へ帰りました。。。≫
★しかしこの喜びは後述するごとく父や姉の心配と悲しみを少しでも和らげる為に語ることになるのである。
モーツァルトの母アンナ・マリアはパリに到着後、過酷な旅がこたえたのであろう体調を崩していた。
知人も限られており、薄暗い宿の一室でモーツァルトの帰りを待つ寂しい生活に耐えていた。彼女は
≪パリで早くモーツァルトが成功し、レオポルトとナンネルがすぐにもパリに来て家族みんなが
一緒に生活出来る様になること≫を神に祈り、ただひたすら寂しさに耐えていたのである。
アンナ・マリアは1778年6月12日ザルツブルクの夫レオポルトに語りかけた。
≪いとしいかた。。。あなたがたがお元気なことを知ってうれしいです。
私もヴォルフガングもおかげさまで元気です。きのう私、瀉血をしてもらいましたので、
今日はあまりたくさん書けません。。。(中略)
ごきげんよう。お二人ともお元気で。あなたがたに幾千回もキスし、あなたの忠実な妻の
モツァルティーンです。もう終わりにします。腕と眼が痛むのです。≫
この手紙がアンナ・マリアがザルツブルクの夫と娘のナンネルに書いた最後の手紙となった。
6月19日病床に伏した彼女は様態が悪化し、意識不明のまま1778年7月3日夜の10時21分
最愛の息子に看取られ57歳でこの世を去ったのである。アンナ・マリアは最後の時を迎えるに際し、
うわごとを言っていたが、モーツァルトが成功し、家族みんなが一同に会し得た喜びを
語っていたのであろうか。。。
★アンナ・マリアは体調が弱っていたにも拘わらず、瀉血(血を抜くこと)療法を受けたのである。当時この瀉血は
一般に広く行われており、かなり大量の血を抜きそれによって造血作用を促すという現代医学では考えられない
治療であった。おそらくこの瀉血療法が致命的となったと思われる。
モーツァルトは最愛の母を亡くした3日夜半から4日にかけて、自分も母と一緒に死んでしまいたいほどの
悲しみをこらえながら父と姉ナンネルに手紙をしたためるのである。
その手紙にはすでに母が亡くなったことは伏せ、まず「重態である」と記した上で、「交響曲パリ」
の成功の模様を語り、そして末尾にはこう語るのである。≪では、ごきげんよう。。。愛するお母さんは
全能の神の御手の中にあります。もしぼくが望むように、なお余命を与えてくだささるなら、神の
恩寵に感謝しましょう。でも、みもとに召されるなら、ぼくらの不安や、絶望はすべて無用です。
神のなさることに理由がないわけはないのですから。。。≫
まずは父と姉に母の死に対する心構えをさせようとするのである。
この手紙のすぐあと、4日の朝2時頃にザルツブルクの親友ブリンガー牧師に「ぼくの母はもういない!
神にめされたのだ。」と母が亡くなったことを告げ、「父と姉には重体であるとしか連絡しておらず、
両人に心構えをさせて欲しい。」と依頼するのである。
★ザルツブルクでモーツァルトよりの「母が重態である」との手紙を受け取った父レオポルトとナンネルは母が既に
この世を去ったことを感知するのである。その夜レオポルトを訪問したブリンガー牧師より真実を告げられたのである。
★モーツァルトが母の死をレオポルトとナンネルに伝えたのは母の死から6日が経過した7月9日付の手紙であった。
妻もこの世を去り、パリでの就職も旨く行きそうにないと判断したレオポルトはモーツァルトを早急に
ザルツブルクに帰郷させ再度宮廷楽団で働ける様大司教に懇願し、モーツァルト帰郷後は
宮廷オルガン奏者に任命するとの内諾を得たのである(1777年よりオルガン奏者に空席があった)。
レオポルトはパリのモーツァルトに帰郷を指示し、あの手この手で帰郷を促すのである。
モーツァルトは当初躊躇していたが、父の執拗な説得にある面根負けし、パリを去ることを
受け入れたのである。グリム男爵としては厄介払いが出来るとの気持ちが大きかったのであろう
早急に馬車の手配をし、モーツァルトを半ば強制的に駅馬車に乗せたのである。
『パリのチュイルリー宮』 1778年6月18日、スイスの間でモーツァルトの交響曲ニ長調「パリ」K.297が演奏され、
大成功を収めた。この宮殿は1564年カトリーヌ・ドゥ・メディシスの命で建設が開始され1572年王妃の命で中断、
アンリ4世が1608年に完成させた。宮殿は1871年5月、パリ・コミューヌにより焼失した。
モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅②(マンハイム②) [モーツァルト]
マンハイムの宮廷器楽音楽監督のカンナビヒを中心として宮廷楽団関係者と連日交流を深めていた
モーツァルトは、ザルツブルクにいる最愛の父レオポルトの霊名の祝日と誕生日(11月15日で58歳)
に際し、1777年11月8日の手紙で次の様に語りかけるのである。
≪最愛のお父さん!ぼくは詩的なものを書けません。詩人ではありませんから。ぼくは表現を
巧みに描きわけて影や光を生み出すことはできません。画家ではないからです。そればかりか
ぼくは、ほのめかしや身ぶりでぼくの感情や考えを表すこともできません。ぼくは踊り手では
ありませんから。でも、音でならそれができます。ぼくは音楽家ですから。
そこで、明日はカンナビヒ邸で、お父さんの霊名の祝日と誕生日を祝って、
クラヴィーアを弾きましょう。≫
マンハイムの宮廷楽団はモーツァルトにとっては理想郷であり、最高の就職先であったのだが
就職活動は遅々として進まず、選帝侯との間をとりもってくれていたザヴィオーリ伯爵の答えは
いつでも「肩をすくめること」でしかなかったのである。
ザルツブルクでやきもきしていた父レオポルトも1777年11月13日付の手紙でパリに移動する様に
とのアドバイスを開始したが、モーツァルトはなんとか就職の糸口を見出さんとマンハイムに留まって
いた。 しかし、12月8日になってザヴィオーリ伯爵より、選帝侯としてはモーツァルトの採用は見合す旨の
回答が伝えられたのである。
更に、これに追い討ちをかける事態が起こった。1777年12月30日にミュンヘンのバイエルン選帝侯
マクシミリアン3世ヨーゼフが死去し、マンハイムのブファルツ選帝侯カール・テオドールが
バイエルン候を兼ねることが布告され、1778年1月1日にテオドールはミュンヘンに出発し、
これに伴い、宮廷楽団団員の希望者もミュンヘンに移動することになった。かくして名声を博した
マンハイム宮廷楽団はその歴史を閉じることになったのである。
★かねてからバイエルン併合をねらっていたオーストリア・ハプスブルク家のヨーゼフ2世はバイエルン選帝侯マクシミリアン3世の
死去に乗じ、1778年1月には下バイエルンに兵を駐屯させ、バイエルン継承戦争(~79年5月。俗に言う「じゃがいも戦争」)を
起こしたが、プロイセンの介入で失敗している。この辺のオーストリア軍やプロイセンあるいはロシア、フランスなどの動きについて
レオポルトはモーツァルトとアンナ・マリアに手紙でしばしば連絡している。
宮廷が実質上ミュンヘンに移動したのでこれ以上ミュンヘンに留まる理由はなくなったのであるが、
アロイジアを愛しているモーツァルトは1月17日付の父レオポルトへの手紙で初めてアロイジアを
登場させ、「まったくすばらしく歌をうたう」「美しい澄んだ声をしている」「やっと16歳になった
ばかりである」「彼女に不足しているのは演技力だけである」「デ・アミーチスのためのおそろしく
むつかしいパッセージがいくつもあるアリアを見事に歌う」「伴奏もまったくうまく小曲ならけっこう
弾くことが出来る」「父親は真っ正直なドイツ人」であるなどと語り始めるのである。
★アリア:「第3回イタリア旅行」でミラノで初演した「ルーチョ・シッラ」のプリマ・ドンナ(ジューニア役)のデ・アミーチス夫人(ソプラノ)
が歌ったアリアのことで、「ああ、いとしいひとのおそろしい危険を思うと」”Ah se il crudel periglio del caro bel rammento”。
1月27日に22歳を迎えたモーツァルトは、アロイジアを溺愛し、彼女との結婚を望み、彼女と
その一家と共にイタリアに行き彼女を一流のソプラノにすることで苦境にあるアロイジアの
家族をも救いたいと「愛の夢物語」を父レオポルトに対し綴るのである。(1778年2月4日付書簡)
これに愕然とし激怒したレオポルトは徹夜でモーツァルト宛の手紙をしたため、直ちにパリに赴く様に
指示するのである。(1778年2月12日付書簡、ザルツブルク発)
≪。。。おまえが平々凡々たる音楽家として世間から忘れられてしまうか、それとも有名な楽長として、
後世の人たちにまでも書物のなかで読んでもらえるようになるか、女にうつつを抜かして、子供を
いっぱいかかえて貧乏し、小部屋の藁布団に逼塞しているか、それとも、キリスト教徒として喜びや
名誉や名声にあふれた生涯を送ったあと、おまえの家族のためには万事を整え、世間からは尊敬を
受けて死んでゆくかは、ひたすらおまえの理性と生き方とにかかっているのです。。。
おまえはパリに発つのです!しかもすぐにも。偉大な人たちの傍に身を置いてみるのです。。。
パリからこそ、大きな才能を備えた人物の名声と声価が世界中を通して広まっていくのです。。。≫
モーツァルト書簡全集
マンハイム宮殿(独:Mannheimer Schloss)
★マンハイム宮殿はプファルツ選帝侯の宮廷であった。1720年から1760年に建設された宮殿は、
ヴェルサイユ宮殿に次いでヨーロッパで2番目に大きなバロック建築であった。第二次世界大戦で完全に
破壊された後、簡略化された形で再建された。
モーツァルトは、ザルツブルクにいる最愛の父レオポルトの霊名の祝日と誕生日(11月15日で58歳)
に際し、1777年11月8日の手紙で次の様に語りかけるのである。
≪最愛のお父さん!ぼくは詩的なものを書けません。詩人ではありませんから。ぼくは表現を
巧みに描きわけて影や光を生み出すことはできません。画家ではないからです。そればかりか
ぼくは、ほのめかしや身ぶりでぼくの感情や考えを表すこともできません。ぼくは踊り手では
ありませんから。でも、音でならそれができます。ぼくは音楽家ですから。
そこで、明日はカンナビヒ邸で、お父さんの霊名の祝日と誕生日を祝って、
クラヴィーアを弾きましょう。≫
マンハイムの宮廷楽団はモーツァルトにとっては理想郷であり、最高の就職先であったのだが
就職活動は遅々として進まず、選帝侯との間をとりもってくれていたザヴィオーリ伯爵の答えは
いつでも「肩をすくめること」でしかなかったのである。
ザルツブルクでやきもきしていた父レオポルトも1777年11月13日付の手紙でパリに移動する様に
とのアドバイスを開始したが、モーツァルトはなんとか就職の糸口を見出さんとマンハイムに留まって
いた。 しかし、12月8日になってザヴィオーリ伯爵より、選帝侯としてはモーツァルトの採用は見合す旨の
回答が伝えられたのである。
更に、これに追い討ちをかける事態が起こった。1777年12月30日にミュンヘンのバイエルン選帝侯
マクシミリアン3世ヨーゼフが死去し、マンハイムのブファルツ選帝侯カール・テオドールが
バイエルン候を兼ねることが布告され、1778年1月1日にテオドールはミュンヘンに出発し、
これに伴い、宮廷楽団団員の希望者もミュンヘンに移動することになった。かくして名声を博した
マンハイム宮廷楽団はその歴史を閉じることになったのである。
★かねてからバイエルン併合をねらっていたオーストリア・ハプスブルク家のヨーゼフ2世はバイエルン選帝侯マクシミリアン3世の
死去に乗じ、1778年1月には下バイエルンに兵を駐屯させ、バイエルン継承戦争(~79年5月。俗に言う「じゃがいも戦争」)を
起こしたが、プロイセンの介入で失敗している。この辺のオーストリア軍やプロイセンあるいはロシア、フランスなどの動きについて
レオポルトはモーツァルトとアンナ・マリアに手紙でしばしば連絡している。
宮廷が実質上ミュンヘンに移動したのでこれ以上ミュンヘンに留まる理由はなくなったのであるが、
アロイジアを愛しているモーツァルトは1月17日付の父レオポルトへの手紙で初めてアロイジアを
登場させ、「まったくすばらしく歌をうたう」「美しい澄んだ声をしている」「やっと16歳になった
ばかりである」「彼女に不足しているのは演技力だけである」「デ・アミーチスのためのおそろしく
むつかしいパッセージがいくつもあるアリアを見事に歌う」「伴奏もまったくうまく小曲ならけっこう
弾くことが出来る」「父親は真っ正直なドイツ人」であるなどと語り始めるのである。
★アリア:「第3回イタリア旅行」でミラノで初演した「ルーチョ・シッラ」のプリマ・ドンナ(ジューニア役)のデ・アミーチス夫人(ソプラノ)
が歌ったアリアのことで、「ああ、いとしいひとのおそろしい危険を思うと」”Ah se il crudel periglio del caro bel rammento”。
1月27日に22歳を迎えたモーツァルトは、アロイジアを溺愛し、彼女との結婚を望み、彼女と
その一家と共にイタリアに行き彼女を一流のソプラノにすることで苦境にあるアロイジアの
家族をも救いたいと「愛の夢物語」を父レオポルトに対し綴るのである。(1778年2月4日付書簡)
これに愕然とし激怒したレオポルトは徹夜でモーツァルト宛の手紙をしたため、直ちにパリに赴く様に
指示するのである。(1778年2月12日付書簡、ザルツブルク発)
≪。。。おまえが平々凡々たる音楽家として世間から忘れられてしまうか、それとも有名な楽長として、
後世の人たちにまでも書物のなかで読んでもらえるようになるか、女にうつつを抜かして、子供を
いっぱいかかえて貧乏し、小部屋の藁布団に逼塞しているか、それとも、キリスト教徒として喜びや
名誉や名声にあふれた生涯を送ったあと、おまえの家族のためには万事を整え、世間からは尊敬を
受けて死んでゆくかは、ひたすらおまえの理性と生き方とにかかっているのです。。。
おまえはパリに発つのです!しかもすぐにも。偉大な人たちの傍に身を置いてみるのです。。。
パリからこそ、大きな才能を備えた人物の名声と声価が世界中を通して広まっていくのです。。。≫
モーツァルト書簡全集
マンハイム宮殿(独:Mannheimer Schloss)
★マンハイム宮殿はプファルツ選帝侯の宮廷であった。1720年から1760年に建設された宮殿は、
ヴェルサイユ宮殿に次いでヨーロッパで2番目に大きなバロック建築であった。第二次世界大戦で完全に
破壊された後、簡略化された形で再建された。
モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅①(マンハイム①) [モーツァルト]
宮廷楽団(宮廷楽師長兼第一ヴァイオリン奏者)を辞職した21歳のモーツァルトは母親の
アンナ・マリア(当時56歳)と共に1777年9月23日、ザルツブルクを後にし、翌24日
ミュンヘンに到着した。ミュンヘン滞在は今回で通算5回目となる。
ザルツブルクの宮仕えから解放され嬉しさで元気一杯、前途洋洋たる思いのモーツァルトが、
父レオポルトと約束した今回の旅の目的は「立派な定職をさがすこと、もしそれがうまく
ゆかなければ大きな収入のある大都会に行くこと」であった。(この目的はレオポルトがモーツァルトに
宛てた1778年2月12日付の手紙で再確認されている。)
ミュンヘンでは宮廷劇場総監督ゼーアウ伯爵などの要人経由バイエルン選帝侯マクシミリアン3世への
謁見を依頼したが遅々として進まず、ようやく9月30日になって謁見がかなったが、「生憎、空席がない」
との理由で雇用の件はあっさり断られてしまった。
★選帝侯としては隣国であるザルツブルクの大司教に与えられた宮廷楽師長の職を辞したモーツァルトを即座に
雇用するわけには行かないと、大司教との友好関係をも考慮したものと思われる。又、選帝侯はイタリア音楽家偏重でもあった。
モーツァルトと母のアンナ・マリアはやむなくミュンヘンを10月11日に発ち、同日夜9時、
父レオポルトの故郷アウクスブルクに到着した。
翌日12日にクラヴィーア製作者ヨハン・アンドレアス・シュタインを訪れ、シュタイン製の
フォルテ・ピアノを試奏させてもらった。その素晴らしさにすっかり魅了されたモーツァルトは、
ザルツブルクの父レオポルト宛ての手紙(1777年10月17日付)で、シュタイン製フォルテ・ピアノは
「ダンパーがずっとよくきき」、「音がいつでも一様で」、「エスケープメント」がついており、
「膝ペダルも良く出来ており」このフォルテ・ピアノでソナタ6曲(ニ長調のデュルニッツ・ソナタを含む6曲)を
弾くと「比較にならないほどよく響く」と絶賛しているのである。
★ヨハン・アンドレアス・シュタイン:Johann Andreas Stein (1728-92), モーツァルト一家が「西方への大旅行」の往路
アウクスブルクに立ち寄った際(1763年6月)、旅行用クラヴィーアを彼から一台購入している。「ウイーン式アクション・ピアノ
(フォルテ・ピアノ)」の案出者である。シュタイン製フォルテ・ピアノの当時の価格は一台約300フローリン。
★シュタインとは当時8歳半になる彼の自慢の娘、マリア・アンナ(愛称ナネッテ)のピアノ演奏について「演奏論」を
展開し、シュタインも殆どの点で同意するのである。その後、この娘ナネッテはウィーンでも指折りのピアノ製作者である
シュトライヒァと結婚し、二人で一流ピアノメーカーであるシュタイン社を創設し、ベートーヴェンも同社のピアノを愛用するのである。
★ソナタ6曲:1775年ミュンヘンで作曲した6曲のクラヴィーア・ソナタ:第1番ハ長調(K.279/189d)、第2番ヘ長調(K.280/189e)、
第3番変ロ長調(K.281/189f)、第4番変ホ長調(K.282/189g)、第5番ト長調(K.283/289h)、第6番二長調(K.284/205b)『デュルニッツ』
アウクスブルクには宮廷はなく就職活動はしていないが、伯父の家を訪問し、そこで2歳年少の従妹で
当時19歳のマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトと出会い、たちまち意気投合し、モーツァルトは
彼女を「ベーズレ(小さな従妹ちゃん)」と呼び、父宛の10月17日の手紙に「ぼくらのベーズレは、
美しくて、賢く、愛らしくて、如才がなく陽気です。本当にぼくら二人はすっかり気が合っています。
その上彼女は少しばかりお茶目さんです。ぼくらはみんなを二人してからかっては楽しんでいます。」
と報告している。
天真爛漫、おどけてふざけるのが大好きなモーツァルトは恰好の相棒を見つけ、駄洒落、語呂合わせ、
悪口、それにお尻とかウ●コとかオナラとかスカトロジーもおりまぜ二人は大いにふざけて楽しんだのである。
アウクスブルクをあとにしてからもモーツァルトは旅先から、陽気な糞尿譚的(スカトロジー)書簡を
ベーズレに書き送るのである。(これら書簡が「ベーズレ書簡」と呼ばれている。)
★ベーズレ書簡:18世紀当時極めて親しい間柄にある者同士ではスカトロジーを冗談の種にして笑い転げるといった
習慣があったことより、モーツァルトのスカトロジー書簡をもって下品であるとか人格を疑うとかの批判は適切ではなく、
当時の風俗習慣、現代との常識の相違なども十分考慮する必要がある。モーツァルトがウィーン時代に書いた
カノンにもスカトロジーが表現されるが、モーツァルトの天真爛漫さの表れとして受け止めるべきであろう。
宮廷もなく就職活動も出来ないアウクスブルクに腰を落ち着けるわけには行かない。
モーツァルト母子は10月26日にアウクスブルクを発ち、10月30日に今回の旅の最大の目的地である
マンハイムに到着した。
ライン川とネッカー川が合流する交通の要所として栄えたマンハイムはブファルツ選帝侯
カール・テオドールの宮廷所在地である。マンハイムの宮廷楽団は当時ヨーロッパ随一との評判であった。
モーツァルトは1777年11月4日付の父レオポルト宛の手紙に「オーケストラは実に素晴らしく、
強力です。左右両側にヴァイオリン10ないし11、ヴィオラ4、オーボエ2、フルート2にクラリネット2、
ホルン2、チェロ4、ファゴット4にコントラバス4、それにトランペットとティンパニです。それで快い
演奏をやります」と語り、すっかり魅了されているのである。
宮廷楽団を中心にオペラ、バレエ、演劇が盛んに上演されており、ここマンハイムの宮廷は
モーツァルトにとってはまさに理想郷、最善の就職先であったと言えよう。
モーツァルトはマンハイム到着後、すぐに宮廷楽団の器楽音楽監督のクリスティアン・カンナビヒや
楽長イグナツ・ホルツバウアー(1711-1783)といったマンハイム楽派の指導者たちに会いに行き、
宮廷音楽総監督ルイ・アウレル・ザヴィオーリ伯爵を紹介された。これが奏功し、祝賀行事の
一環として11月6日に催された大音楽会で、クラヴィーア協奏曲とソナタの演奏を披露し、
選帝侯から直接、お褒めの言葉をもらうことができた。
★クリスティアン・カンナビヒ:Christian Cannabich, 1731- 1798マンハイム生まれ。マンハイム楽派の創設者(宮廷楽団楽長)である
ヨハン・シュターミッツ(1717-57)に師事。15歳の時にマンハイムの宮廷楽団に入団。22歳でローマに留学、ヨメルリ(Niccolò Jommelli,
1714-74)に学んだとされている。シュターミッツの後任楽長を経て音楽監督。
他方、モーツァルトは、才能ある駆け出しソプラノ歌手にすっかり心を奪われる。
彼女の名はアロイジア・ヴェーバー。マンハイムの宮廷でバス歌手並びに写譜係として
生計を立てていたフランツ・フリードリン・ヴェーバーの次女、16歳である。
★アロイジア・ヴェーバー:フランツ・フリードリン・ヴェーバー(1760頃-1839)の4人の娘の次女で駆lけ出し歌手として、
すでに宮廷で歌い、選帝侯にも気に入られていた。「魔弾の射手」の作曲家カール・マリア・フォン・ヴェーバー
(1786-1826)はフリードリン・ヴェーバーの甥にあたり、アロイジアとはいとこ同士という関係になる。
マリア・アンナ・テークラ・モーツアルト(1758 - 1841) アロイジア・ヴェーバー(1760-1830)
愛称:ベーズレ 鉛筆画
モーツァルトはアロイジアに声楽やピアノの指導をするとともに、彼女のためにレチタティーボとアリア
≪アルカンドロよ、私は告白するー私は知らぬ、このやさしい愛情がどこからやってくるのか?≫
(K.294)を作曲するのである。
★このアリアは1778年3月12日マンハイム出発を2日後に控えたモーツァルトのための送別演奏会がカンナビヒ邸で催された際、
アロイジアによって披露された。彼女はオペラ「牧人の王」(K.208)のアリア≪穏やかな空気と晴れた日々≫なども歌っている。
アンナ・マリア(当時56歳)と共に1777年9月23日、ザルツブルクを後にし、翌24日
ミュンヘンに到着した。ミュンヘン滞在は今回で通算5回目となる。
ザルツブルクの宮仕えから解放され嬉しさで元気一杯、前途洋洋たる思いのモーツァルトが、
父レオポルトと約束した今回の旅の目的は「立派な定職をさがすこと、もしそれがうまく
ゆかなければ大きな収入のある大都会に行くこと」であった。(この目的はレオポルトがモーツァルトに
宛てた1778年2月12日付の手紙で再確認されている。)
ミュンヘンでは宮廷劇場総監督ゼーアウ伯爵などの要人経由バイエルン選帝侯マクシミリアン3世への
謁見を依頼したが遅々として進まず、ようやく9月30日になって謁見がかなったが、「生憎、空席がない」
との理由で雇用の件はあっさり断られてしまった。
★選帝侯としては隣国であるザルツブルクの大司教に与えられた宮廷楽師長の職を辞したモーツァルトを即座に
雇用するわけには行かないと、大司教との友好関係をも考慮したものと思われる。又、選帝侯はイタリア音楽家偏重でもあった。
モーツァルトと母のアンナ・マリアはやむなくミュンヘンを10月11日に発ち、同日夜9時、
父レオポルトの故郷アウクスブルクに到着した。
翌日12日にクラヴィーア製作者ヨハン・アンドレアス・シュタインを訪れ、シュタイン製の
フォルテ・ピアノを試奏させてもらった。その素晴らしさにすっかり魅了されたモーツァルトは、
ザルツブルクの父レオポルト宛ての手紙(1777年10月17日付)で、シュタイン製フォルテ・ピアノは
「ダンパーがずっとよくきき」、「音がいつでも一様で」、「エスケープメント」がついており、
「膝ペダルも良く出来ており」このフォルテ・ピアノでソナタ6曲(ニ長調のデュルニッツ・ソナタを含む6曲)を
弾くと「比較にならないほどよく響く」と絶賛しているのである。
★ヨハン・アンドレアス・シュタイン:Johann Andreas Stein (1728-92), モーツァルト一家が「西方への大旅行」の往路
アウクスブルクに立ち寄った際(1763年6月)、旅行用クラヴィーアを彼から一台購入している。「ウイーン式アクション・ピアノ
(フォルテ・ピアノ)」の案出者である。シュタイン製フォルテ・ピアノの当時の価格は一台約300フローリン。
★シュタインとは当時8歳半になる彼の自慢の娘、マリア・アンナ(愛称ナネッテ)のピアノ演奏について「演奏論」を
展開し、シュタインも殆どの点で同意するのである。その後、この娘ナネッテはウィーンでも指折りのピアノ製作者である
シュトライヒァと結婚し、二人で一流ピアノメーカーであるシュタイン社を創設し、ベートーヴェンも同社のピアノを愛用するのである。
★ソナタ6曲:1775年ミュンヘンで作曲した6曲のクラヴィーア・ソナタ:第1番ハ長調(K.279/189d)、第2番ヘ長調(K.280/189e)、
第3番変ロ長調(K.281/189f)、第4番変ホ長調(K.282/189g)、第5番ト長調(K.283/289h)、第6番二長調(K.284/205b)『デュルニッツ』
アウクスブルクには宮廷はなく就職活動はしていないが、伯父の家を訪問し、そこで2歳年少の従妹で
当時19歳のマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトと出会い、たちまち意気投合し、モーツァルトは
彼女を「ベーズレ(小さな従妹ちゃん)」と呼び、父宛の10月17日の手紙に「ぼくらのベーズレは、
美しくて、賢く、愛らしくて、如才がなく陽気です。本当にぼくら二人はすっかり気が合っています。
その上彼女は少しばかりお茶目さんです。ぼくらはみんなを二人してからかっては楽しんでいます。」
と報告している。
天真爛漫、おどけてふざけるのが大好きなモーツァルトは恰好の相棒を見つけ、駄洒落、語呂合わせ、
悪口、それにお尻とかウ●コとかオナラとかスカトロジーもおりまぜ二人は大いにふざけて楽しんだのである。
アウクスブルクをあとにしてからもモーツァルトは旅先から、陽気な糞尿譚的(スカトロジー)書簡を
ベーズレに書き送るのである。(これら書簡が「ベーズレ書簡」と呼ばれている。)
★ベーズレ書簡:18世紀当時極めて親しい間柄にある者同士ではスカトロジーを冗談の種にして笑い転げるといった
習慣があったことより、モーツァルトのスカトロジー書簡をもって下品であるとか人格を疑うとかの批判は適切ではなく、
当時の風俗習慣、現代との常識の相違なども十分考慮する必要がある。モーツァルトがウィーン時代に書いた
カノンにもスカトロジーが表現されるが、モーツァルトの天真爛漫さの表れとして受け止めるべきであろう。
宮廷もなく就職活動も出来ないアウクスブルクに腰を落ち着けるわけには行かない。
モーツァルト母子は10月26日にアウクスブルクを発ち、10月30日に今回の旅の最大の目的地である
マンハイムに到着した。
ライン川とネッカー川が合流する交通の要所として栄えたマンハイムはブファルツ選帝侯
カール・テオドールの宮廷所在地である。マンハイムの宮廷楽団は当時ヨーロッパ随一との評判であった。
モーツァルトは1777年11月4日付の父レオポルト宛の手紙に「オーケストラは実に素晴らしく、
強力です。左右両側にヴァイオリン10ないし11、ヴィオラ4、オーボエ2、フルート2にクラリネット2、
ホルン2、チェロ4、ファゴット4にコントラバス4、それにトランペットとティンパニです。それで快い
演奏をやります」と語り、すっかり魅了されているのである。
宮廷楽団を中心にオペラ、バレエ、演劇が盛んに上演されており、ここマンハイムの宮廷は
モーツァルトにとってはまさに理想郷、最善の就職先であったと言えよう。
モーツァルトはマンハイム到着後、すぐに宮廷楽団の器楽音楽監督のクリスティアン・カンナビヒや
楽長イグナツ・ホルツバウアー(1711-1783)といったマンハイム楽派の指導者たちに会いに行き、
宮廷音楽総監督ルイ・アウレル・ザヴィオーリ伯爵を紹介された。これが奏功し、祝賀行事の
一環として11月6日に催された大音楽会で、クラヴィーア協奏曲とソナタの演奏を披露し、
選帝侯から直接、お褒めの言葉をもらうことができた。
★クリスティアン・カンナビヒ:Christian Cannabich, 1731- 1798マンハイム生まれ。マンハイム楽派の創設者(宮廷楽団楽長)である
ヨハン・シュターミッツ(1717-57)に師事。15歳の時にマンハイムの宮廷楽団に入団。22歳でローマに留学、ヨメルリ(Niccolò Jommelli,
1714-74)に学んだとされている。シュターミッツの後任楽長を経て音楽監督。
他方、モーツァルトは、才能ある駆け出しソプラノ歌手にすっかり心を奪われる。
彼女の名はアロイジア・ヴェーバー。マンハイムの宮廷でバス歌手並びに写譜係として
生計を立てていたフランツ・フリードリン・ヴェーバーの次女、16歳である。
★アロイジア・ヴェーバー:フランツ・フリードリン・ヴェーバー(1760頃-1839)の4人の娘の次女で駆lけ出し歌手として、
すでに宮廷で歌い、選帝侯にも気に入られていた。「魔弾の射手」の作曲家カール・マリア・フォン・ヴェーバー
(1786-1826)はフリードリン・ヴェーバーの甥にあたり、アロイジアとはいとこ同士という関係になる。
マリア・アンナ・テークラ・モーツアルト(1758 - 1841) アロイジア・ヴェーバー(1760-1830)
愛称:ベーズレ 鉛筆画
モーツァルトはアロイジアに声楽やピアノの指導をするとともに、彼女のためにレチタティーボとアリア
≪アルカンドロよ、私は告白するー私は知らぬ、このやさしい愛情がどこからやってくるのか?≫
(K.294)を作曲するのである。
★このアリアは1778年3月12日マンハイム出発を2日後に控えたモーツァルトのための送別演奏会がカンナビヒ邸で催された際、
アロイジアによって披露された。彼女はオペラ「牧人の王」(K.208)のアリア≪穏やかな空気と晴れた日々≫なども歌っている。
犬とモーツァルト [モーツァルト]
≪わが家のピンペス嬢はご機嫌いかがですか?≫
モーツァルトが最初に愛犬「ピンペス」を手紙に登場させたのは第3回目のウィーン旅行の時で、
姉のナンネルにこの様に問いかけている。(ウィーン、1773年8月21日付)
ザルツブルクのモーツァルト家では名前は「ビンペス」、愛称は「ピンペルル」という雌の
フォックステリアを飼っていた。「ビンペス嬢」とか「ビンペルル嬢」などと呼ばれて家族間の
手紙やナンネルの日記帳にしばしば登場するのである。
★フォックステリアであることはモーツァルトと共にミュンヘン滞在中の母アンナ・マリアがレオポルトに書いた手紙
(1777年10月2日付)で、≪ビンペルルが(私の望みどおりに)自分の義務を果たし、あなたに体をすりよせてきますように。
だって、良き忠実なフォックステリアなんですもの。≫と記していることから明らかとなっている。
注:上記の文中「自分の義務」とは、フォックステリアの元来の役割である害獣駆除(ネズミ捕獲など)のことであろうと思われる。
★犬の名前が家族それぞれ微妙に異なっているのであるが、モーツァルトと母親のアンナ・マリアは特に語源を気にすることなく、
スペリングも発音もしたのであろうと思われ、父レオポルトと長女のナンネルが使用している「ピンペス」”Pimpes”が名前で
「ピンペルル」”Pimperl”が愛称であると解釈すべきであろう。因みにモーツァルトは「ビンベス」”Bimbes"又は 「ビンベルル」
”Bimberl"と呼び(綴り)、母親は「ビンペス」”Bimpes”又は「ビンペルル」”Bimperl”と呼んで(綴って)いる。
「ピンペス」はモーツァルトと母アンナ・マリアが1777年9月23日「マンハイム・パリ旅行(求職の旅)」に
出発した後の家族間の手紙に頻繁に登場するのである。
まず、母子の出発時のナンネルとピンペスの様子についてレオポルトは次の通りミュンヘンの
モーツァルトに語るのである。
≪ナンネルはまったくびっくりするほど泣いたので、私はあの子を慰めてやるのにひどく苦労した。
あの子は頭痛がすると訴え、しかも胃がおかしくなって、とうとう吐き気を催し、どっと吐いてしまった。
頭を巻いて、ベッドに寝て、雨戸を閉めた。ピンペスも悲しそうにあの子のそばに寝そべっていたよ。≫
(ザルツブルク、1777年9月25日付)
それから3日後の手紙でナンネルはモーツァルトに次の通り語っている。(1777年9月28日付)
≪ピンペス嬢はなおずっと希望のうちに暮らしていて、半時間も門のところに立ったり座ったりして、
あんたがたが今にもやってくるものと思っています。それでも彼女は元気で食べもし、飲みもし、
眠りもし、ウ●チもし、またオシ●コもしています。≫
同年10月12日付の手紙でレオポルトが語るには。。。
≪お天気が良いときは、早いうちに、私たちの忠実なピンペルルといっしょに、毎日散歩に出かけ
ますが、この児はとても陽気で、私たちが二人とも家にいないときだけはとっても悲しげで、しかも
目に見えてものすごくおびえています。というのは、この児はおまえたちがいなくなってしまったので、
今度は私たちも失ってしまうのじゃないかと思っているからです。だから、私たちが舞踏会に出かけて
しまうと、あの児はミツェルルからもう離れようとはしないのです。私たちが仮面をつけているのを
見てしまったからなのです。そして私たちが戻ってくると、ものすごくうれしがるので、息でもつまりは
しないかと思うほどです。それにまた、私たちが外出していると、部屋の自分のベッドにいないで、
扉の傍の女中のところで、地面に坐ったまま眠ろうともしないのです。それどころか、私たちが
戻ってこないかと、ずっと見張っているのです。≫
この「ミュンヘンとパリ旅行」で最初にモーツァルトがザルツブルクの父レオポルトに書いた手紙
(1777年9月23日付ヴァッサーブルク発)で姉ナンネルのことを愛情込めて「わがカナリア姉さん」と
呼び、他方ナンネルはモーツァルトのことを「道化者」そして「ピンペルル」と愛犬名で呼んでいるのである。
≪ママと道化者が陽気で元気だって聞いて満足しています。。。ところでビンペルルは短い
前奏曲を1曲すぐにも送って下さいね。≫ (1777年9月28日ミュンヘンのモーツァルト宛)
★姉ナンネルを「カナリア姉さん」と呼んでいるのは、ナンネルはモーツァルトに言わせると「いちいちつまらないことに
すぐめそめそした」ことからこう呼んだのである。この手紙に限らず、モーツァルトとナンネルはお互いの健康を
気使いながら姉弟愛溢れる手紙の交換をしている。尚、ザルツブルクの家ではカナリアも飼っていた。
レオポルトは1778年4月13日付のパリに宛てた手紙の末尾で、次の通り愛情込めて語っている。
≪ピンペルルはとても元気です。彼はテーブルの上にあがると、一本の前足でまことにお利口さんに
センメルをひっかいて、一つもらうようにし、またナイフをひっかいて、切ってくれるようにするのです。
それにテーブルの上に嗅ぎ煙草いれが四、五個あると、スペイン煙草が入っているのをひっかき、
一本取り出してもらい、その上で彼に指をなめさせるようにさせるのです。≫
★センメル:オーストリアでは定番のパン。外はカラカラで中は柔らかいパン。
モーツァルトはウィーンに移った後もこの犬を気にかけていて、1782年5月8日の父レオポルト宛の
手紙の末尾に、≪ビンペルルにスペインの嗅ぎ煙草を一服ね≫と書き添えている。
★モーツァルトは犬を題材にした楽曲は遺していないが、1782年にピンペルルとコンスタンツェをとりあげたカノンの
スケッチを書いている。コンスタンツェ(モーツァルトの妻、1782年8月挙式)をピンペルルに見立てその愛らしさを
称えようと考えたのであろうか。
フォックス・テリアには現在、スムースヘアーとワイヤーヘアーの二種類が存在しているが、
モーツァルトがザルツブルク時代に両親と姉ナンネルと共に非常に可愛がっていたフォックス・テリア(雌)の
「ビンベルル」はスムース・フォックス・テリアに近い当時の犬種であろうと思われる。
★ワイヤー・フォックス・テリアではないと思われる。この犬種は異種間交配により19世紀に誕生しており、モーツァルトの時代には
誕生していなかった。勿論、交配に使用された剛毛を持った犬はいたわけで、英国では狐を追う犬種をすべて、フォックステリアと
呼んでいた時期もあり、特定することは困難である。
★他方、愛犬はジャーマン・スピッツの中で最も小さい犬種で、ジャーマン・ツヴェルク・スピッツ(German Zwergspitz)
即ち、ポメラニアン(体高20cm前後、体重1.8〜5kg)のことだとする説もあるが特に根拠があるわけでもなさそうである。
スムース・フォックス・テリア フォックス・ハウンド
★スムース・フォックス・テリア=原産地:英国、起源:18世紀、元来の役割:害獣駆除、キツネ狩、体高(雌):40cm、
体重(雌):16~23kg, 寿命:10~13歳。フォックス・ハウンドたちと一緒に貴族のスポーツとしてのキツネ狩に
使われた(穴の中に隠れているキツネを外に追い出す役割。
★フォックス・ハウンド=原産地:英国、起源:18世紀、元来の役割:キツネ狩、体高(雌):58~69cm、体重(雌);25~34kg
モーツァルトが最初に愛犬「ピンペス」を手紙に登場させたのは第3回目のウィーン旅行の時で、
姉のナンネルにこの様に問いかけている。(ウィーン、1773年8月21日付)
ザルツブルクのモーツァルト家では名前は「ビンペス」、愛称は「ピンペルル」という雌の
フォックステリアを飼っていた。「ビンペス嬢」とか「ビンペルル嬢」などと呼ばれて家族間の
手紙やナンネルの日記帳にしばしば登場するのである。
★フォックステリアであることはモーツァルトと共にミュンヘン滞在中の母アンナ・マリアがレオポルトに書いた手紙
(1777年10月2日付)で、≪ビンペルルが(私の望みどおりに)自分の義務を果たし、あなたに体をすりよせてきますように。
だって、良き忠実なフォックステリアなんですもの。≫と記していることから明らかとなっている。
注:上記の文中「自分の義務」とは、フォックステリアの元来の役割である害獣駆除(ネズミ捕獲など)のことであろうと思われる。
★犬の名前が家族それぞれ微妙に異なっているのであるが、モーツァルトと母親のアンナ・マリアは特に語源を気にすることなく、
スペリングも発音もしたのであろうと思われ、父レオポルトと長女のナンネルが使用している「ピンペス」”Pimpes”が名前で
「ピンペルル」”Pimperl”が愛称であると解釈すべきであろう。因みにモーツァルトは「ビンベス」”Bimbes"又は 「ビンベルル」
”Bimberl"と呼び(綴り)、母親は「ビンペス」”Bimpes”又は「ビンペルル」”Bimperl”と呼んで(綴って)いる。
「ピンペス」はモーツァルトと母アンナ・マリアが1777年9月23日「マンハイム・パリ旅行(求職の旅)」に
出発した後の家族間の手紙に頻繁に登場するのである。
まず、母子の出発時のナンネルとピンペスの様子についてレオポルトは次の通りミュンヘンの
モーツァルトに語るのである。
≪ナンネルはまったくびっくりするほど泣いたので、私はあの子を慰めてやるのにひどく苦労した。
あの子は頭痛がすると訴え、しかも胃がおかしくなって、とうとう吐き気を催し、どっと吐いてしまった。
頭を巻いて、ベッドに寝て、雨戸を閉めた。ピンペスも悲しそうにあの子のそばに寝そべっていたよ。≫
(ザルツブルク、1777年9月25日付)
それから3日後の手紙でナンネルはモーツァルトに次の通り語っている。(1777年9月28日付)
≪ピンペス嬢はなおずっと希望のうちに暮らしていて、半時間も門のところに立ったり座ったりして、
あんたがたが今にもやってくるものと思っています。それでも彼女は元気で食べもし、飲みもし、
眠りもし、ウ●チもし、またオシ●コもしています。≫
同年10月12日付の手紙でレオポルトが語るには。。。
≪お天気が良いときは、早いうちに、私たちの忠実なピンペルルといっしょに、毎日散歩に出かけ
ますが、この児はとても陽気で、私たちが二人とも家にいないときだけはとっても悲しげで、しかも
目に見えてものすごくおびえています。というのは、この児はおまえたちがいなくなってしまったので、
今度は私たちも失ってしまうのじゃないかと思っているからです。だから、私たちが舞踏会に出かけて
しまうと、あの児はミツェルルからもう離れようとはしないのです。私たちが仮面をつけているのを
見てしまったからなのです。そして私たちが戻ってくると、ものすごくうれしがるので、息でもつまりは
しないかと思うほどです。それにまた、私たちが外出していると、部屋の自分のベッドにいないで、
扉の傍の女中のところで、地面に坐ったまま眠ろうともしないのです。それどころか、私たちが
戻ってこないかと、ずっと見張っているのです。≫
この「ミュンヘンとパリ旅行」で最初にモーツァルトがザルツブルクの父レオポルトに書いた手紙
(1777年9月23日付ヴァッサーブルク発)で姉ナンネルのことを愛情込めて「わがカナリア姉さん」と
呼び、他方ナンネルはモーツァルトのことを「道化者」そして「ピンペルル」と愛犬名で呼んでいるのである。
≪ママと道化者が陽気で元気だって聞いて満足しています。。。ところでビンペルルは短い
前奏曲を1曲すぐにも送って下さいね。≫ (1777年9月28日ミュンヘンのモーツァルト宛)
★姉ナンネルを「カナリア姉さん」と呼んでいるのは、ナンネルはモーツァルトに言わせると「いちいちつまらないことに
すぐめそめそした」ことからこう呼んだのである。この手紙に限らず、モーツァルトとナンネルはお互いの健康を
気使いながら姉弟愛溢れる手紙の交換をしている。尚、ザルツブルクの家ではカナリアも飼っていた。
レオポルトは1778年4月13日付のパリに宛てた手紙の末尾で、次の通り愛情込めて語っている。
≪ピンペルルはとても元気です。彼はテーブルの上にあがると、一本の前足でまことにお利口さんに
センメルをひっかいて、一つもらうようにし、またナイフをひっかいて、切ってくれるようにするのです。
それにテーブルの上に嗅ぎ煙草いれが四、五個あると、スペイン煙草が入っているのをひっかき、
一本取り出してもらい、その上で彼に指をなめさせるようにさせるのです。≫
★センメル:オーストリアでは定番のパン。外はカラカラで中は柔らかいパン。
モーツァルトはウィーンに移った後もこの犬を気にかけていて、1782年5月8日の父レオポルト宛の
手紙の末尾に、≪ビンペルルにスペインの嗅ぎ煙草を一服ね≫と書き添えている。
★モーツァルトは犬を題材にした楽曲は遺していないが、1782年にピンペルルとコンスタンツェをとりあげたカノンの
スケッチを書いている。コンスタンツェ(モーツァルトの妻、1782年8月挙式)をピンペルルに見立てその愛らしさを
称えようと考えたのであろうか。
フォックス・テリアには現在、スムースヘアーとワイヤーヘアーの二種類が存在しているが、
モーツァルトがザルツブルク時代に両親と姉ナンネルと共に非常に可愛がっていたフォックス・テリア(雌)の
「ビンベルル」はスムース・フォックス・テリアに近い当時の犬種であろうと思われる。
★ワイヤー・フォックス・テリアではないと思われる。この犬種は異種間交配により19世紀に誕生しており、モーツァルトの時代には
誕生していなかった。勿論、交配に使用された剛毛を持った犬はいたわけで、英国では狐を追う犬種をすべて、フォックステリアと
呼んでいた時期もあり、特定することは困難である。
★他方、愛犬はジャーマン・スピッツの中で最も小さい犬種で、ジャーマン・ツヴェルク・スピッツ(German Zwergspitz)
即ち、ポメラニアン(体高20cm前後、体重1.8〜5kg)のことだとする説もあるが特に根拠があるわけでもなさそうである。
スムース・フォックス・テリア フォックス・ハウンド
★スムース・フォックス・テリア=原産地:英国、起源:18世紀、元来の役割:害獣駆除、キツネ狩、体高(雌):40cm、
体重(雌):16~23kg, 寿命:10~13歳。フォックス・ハウンドたちと一緒に貴族のスポーツとしてのキツネ狩に
使われた(穴の中に隠れているキツネを外に追い出す役割。
★フォックス・ハウンド=原産地:英国、起源:18世紀、元来の役割:キツネ狩、体高(雌):58~69cm、体重(雌);25~34kg
ザルツブルクのモーツァルト21歳(求職の旅へ) [モーツァルト]
1777年が明けモーツァルトは1月27日、21歳の誕生日を迎えた。
この頃パリの有名な舞踏家でモーツァルトの親友の一人だったジャン・ジョルジュ・ノヴェールの
娘のヴィクトワール・ジュナミーVictoire Jenamyのために≪クラヴィーア協奏曲(第9番)変ホ長調≫
(K.271)を作曲している。1776年のモーツァルトの3回目のウィーン滞在時に注文が
なされたとされている。
★この協奏曲はフランスのクラヴィーア奏者ヴィクトワール・ジュノム”Victoire Jeunehomme"のために書かれたと
されていたため≪ジュノム協奏曲≫と呼ばれていたが、近年になってヴィクトワール・ジュナミーの為に書かれたことが
確認されたという経緯がある。従い、≪ジュノム協奏曲≫ではなく、≪ジュナミー協奏曲≫ということになる。
この年ザルツブルクを訪問した作曲家フランツ・クサヴァー・ドゥーシェクの夫人ヨゼファ(1754-1824)の
ため、レチタティーボとアリア及びカヴァティーナ(K.272)を作曲している。これを契機として
ドゥーシェク夫妻、特に2歳年上の美しいヨゼファとは非常に気が合い、親密な付き合いが
始まるのである。
★フランツ・クサヴァー・ドゥーシェク(1731-99)は,プラハ在住の作曲家でクラヴィーア奏者。その妻ヨゼファーは、
ソプラノ歌手として、プラハを中心にドイツ・オーストリアで活躍。両人は1776年に結婚。ヨゼファーの母親が、
ザルツブルクの裕福な商人イグナーツ・アントン・ヴァイザーの娘であったことより、夫妻が結婚後1777年にザルツブルクを
訪問、モーツァルトとの交友が始まったのである。
★K.272:≪ああ、私は前からそのことを知っていたの!Ah, lo previdi!ー私の目の前から消え去っておくれ Ah,
t'invola agl' occhi miei ー惨めなこと!彼は虚しく私を求める Misera! Misera! Invan m'adiro,ー
ああ、この波を越えて行かないで下さい Deh, non varcar quell' onda ≫
この頃モーツァルトは宮廷パン焼師、ヨハン・ゲオルク・ファイエルル(1715-1805)の娘でモーツァルトより
1歳年上のマリア・オッティーリェ(1755-96)とかなり親しく付き合っていた。娘の方は真剣に
モーツァルトを愛していた様だが、モーツァルトは結婚までは考えておらず、1777年9月の
マンハイム・パリ旅行を契機にこの娘とは別れるのである。1777年10月23日付でザルツブルクより
レオポルトは、モーツァルトに同行してアウクスブルクに滞在中の妻、アンナ・マリアに宛てた
手紙で次の通り語っている。
≪。。。あの子(注:モーツァルトのこと)と「ツム・シュテルン(星辰亭)」で踊り、あの子にしょっちゅう
とても親密な敬意を表してくれたが、そのあと結局ロレートの修道院に入ってしまった、あの目の
パッチリした宮廷パン焼師の娘さんが、父親の家にまた戻って来たことです。あの娘さんは、
あの子がザルツブルクから旅に出たがっていると聞いて、もう一度あの子に会って、あの子を
引き留めようと思ったのです。だからあの子は、修道院に入るのに費やした派手な衣装や相当な
仕度の費用の全額を父親に代わって払ってあげるほうがいいだろう≫ モーツァルト書簡全集
★上記父レオポルトよりの手紙に対し、モーツァルトは「なんの異議もないので修道院関連経費を自分がザルツブルクに戻るまで
立替払いをし、真剣にことを鎮めて欲しい」と依頼するのである。アウクスブルクより1777年10月24日付書簡
いずれにせよ、付き合っていた女性の修道院経費の負担に同意し、父親にその立替と、事態の
沈静化を依頼するというのは、この女性、マリア・オッティーリェとは相当深い付き合いをしていた
結果であると思わせるのである。
それから丁度10年後の1787年、≪ドン・ジョヴァンニ≫に捨てられたドンナ・エルヴィーラがそれでも
ドン・ジョヴァンニを愛し、ドン・ジョヴァンニ亡き後は「修道院」に入ると語る第2幕(終幕)フィナーレで、
モーツァルトはマリア・オッティーリェのことを思い出すのであろうか。。。
★Donna Elvira:.....................ドンナ・エルヴィーラ
Io men vado in un ritiro......わたくしは隠遁の場(修道院)へまいり
A finir la vita mia..............わたくしの生涯を終えましょう。
21歳のモーツァルトの肖像画 ミラベル宮(大司教の夏の居城)の庭園からの展望
≪黄金拍車勲章をつけたモーツァルト≫
★21歳のモーツァルトの肖像画「黄金拍車勲章をつけたモーツァルト」については「第1回イタリア旅行(その1)」 ご参照。
★黄金拍車勲章:1770年7月5日、当時14歳のモーツァルトはローマ教皇より黄金拍車勲章を受けたが、ザルツブルク
帰着後、肖像画を描く最適な画家に巡りあえず結局7年後、21歳の時にザルツブルクの画家に描かせ、ボローニャの
マルティーニ神父に寄贈された。
★肖像画についてレオポルトは1777年12月22日付の書簡(後述)で同神父に「本人にそっくりであり、まったく
瓜二つで、モーツァルトは本当に絵のとおりである」と述べている。
この頃パリの有名な舞踏家でモーツァルトの親友の一人だったジャン・ジョルジュ・ノヴェールの
娘のヴィクトワール・ジュナミーVictoire Jenamyのために≪クラヴィーア協奏曲(第9番)変ホ長調≫
(K.271)を作曲している。1776年のモーツァルトの3回目のウィーン滞在時に注文が
なされたとされている。
★この協奏曲はフランスのクラヴィーア奏者ヴィクトワール・ジュノム”Victoire Jeunehomme"のために書かれたと
されていたため≪ジュノム協奏曲≫と呼ばれていたが、近年になってヴィクトワール・ジュナミーの為に書かれたことが
確認されたという経緯がある。従い、≪ジュノム協奏曲≫ではなく、≪ジュナミー協奏曲≫ということになる。
この年ザルツブルクを訪問した作曲家フランツ・クサヴァー・ドゥーシェクの夫人ヨゼファ(1754-1824)の
ため、レチタティーボとアリア及びカヴァティーナ(K.272)を作曲している。これを契機として
ドゥーシェク夫妻、特に2歳年上の美しいヨゼファとは非常に気が合い、親密な付き合いが
始まるのである。
★フランツ・クサヴァー・ドゥーシェク(1731-99)は,プラハ在住の作曲家でクラヴィーア奏者。その妻ヨゼファーは、
ソプラノ歌手として、プラハを中心にドイツ・オーストリアで活躍。両人は1776年に結婚。ヨゼファーの母親が、
ザルツブルクの裕福な商人イグナーツ・アントン・ヴァイザーの娘であったことより、夫妻が結婚後1777年にザルツブルクを
訪問、モーツァルトとの交友が始まったのである。
★K.272:≪ああ、私は前からそのことを知っていたの!Ah, lo previdi!ー私の目の前から消え去っておくれ Ah,
t'invola agl' occhi miei ー惨めなこと!彼は虚しく私を求める Misera! Misera! Invan m'adiro,ー
ああ、この波を越えて行かないで下さい Deh, non varcar quell' onda ≫
この頃モーツァルトは宮廷パン焼師、ヨハン・ゲオルク・ファイエルル(1715-1805)の娘でモーツァルトより
1歳年上のマリア・オッティーリェ(1755-96)とかなり親しく付き合っていた。娘の方は真剣に
モーツァルトを愛していた様だが、モーツァルトは結婚までは考えておらず、1777年9月の
マンハイム・パリ旅行を契機にこの娘とは別れるのである。1777年10月23日付でザルツブルクより
レオポルトは、モーツァルトに同行してアウクスブルクに滞在中の妻、アンナ・マリアに宛てた
手紙で次の通り語っている。
≪。。。あの子(注:モーツァルトのこと)と「ツム・シュテルン(星辰亭)」で踊り、あの子にしょっちゅう
とても親密な敬意を表してくれたが、そのあと結局ロレートの修道院に入ってしまった、あの目の
パッチリした宮廷パン焼師の娘さんが、父親の家にまた戻って来たことです。あの娘さんは、
あの子がザルツブルクから旅に出たがっていると聞いて、もう一度あの子に会って、あの子を
引き留めようと思ったのです。だからあの子は、修道院に入るのに費やした派手な衣装や相当な
仕度の費用の全額を父親に代わって払ってあげるほうがいいだろう≫ モーツァルト書簡全集
★上記父レオポルトよりの手紙に対し、モーツァルトは「なんの異議もないので修道院関連経費を自分がザルツブルクに戻るまで
立替払いをし、真剣にことを鎮めて欲しい」と依頼するのである。アウクスブルクより1777年10月24日付書簡
いずれにせよ、付き合っていた女性の修道院経費の負担に同意し、父親にその立替と、事態の
沈静化を依頼するというのは、この女性、マリア・オッティーリェとは相当深い付き合いをしていた
結果であると思わせるのである。
それから丁度10年後の1787年、≪ドン・ジョヴァンニ≫に捨てられたドンナ・エルヴィーラがそれでも
ドン・ジョヴァンニを愛し、ドン・ジョヴァンニ亡き後は「修道院」に入ると語る第2幕(終幕)フィナーレで、
モーツァルトはマリア・オッティーリェのことを思い出すのであろうか。。。
★Donna Elvira:.....................ドンナ・エルヴィーラ
Io men vado in un ritiro......わたくしは隠遁の場(修道院)へまいり
A finir la vita mia..............わたくしの生涯を終えましょう。
21歳のモーツァルトの肖像画 ミラベル宮(大司教の夏の居城)の庭園からの展望
≪黄金拍車勲章をつけたモーツァルト≫
★21歳のモーツァルトの肖像画「黄金拍車勲章をつけたモーツァルト」については「第1回イタリア旅行(その1)」 ご参照。
★黄金拍車勲章:1770年7月5日、当時14歳のモーツァルトはローマ教皇より黄金拍車勲章を受けたが、ザルツブルク
帰着後、肖像画を描く最適な画家に巡りあえず結局7年後、21歳の時にザルツブルクの画家に描かせ、ボローニャの
マルティーニ神父に寄贈された。
★肖像画についてレオポルトは1777年12月22日付の書簡(後述)で同神父に「本人にそっくりであり、まったく
瓜二つで、モーツァルトは本当に絵のとおりである」と述べている。
ザルツブルクのモーツァルト20歳(1776年) [モーツァルト]
モーツァルト(当時20歳)のザルツブルクでの生活は公務としては、宮廷楽師長としての
大聖堂での教会音楽の演奏、大司教宮廷での各種行事における演奏、宮廷が催す晩餐会での
食卓音楽(ターフェルムジーク)としてのディヴェルティメントなどの演奏と、それらに必要な
楽曲を作ることであった。
★ミヒャエル・ハイドン(当時39歳)が第一楽師長であり、モーツァルトは次席楽師長兼第一バイオリン奏者
宮廷楽団はベネディクト会の大学の講堂(大学劇場)で学期末に行われていた「学校劇」と
呼ばれる歌と劇あるいは踊りに学生と児童も参加する「音楽劇」の作曲と演奏も担当していた。
★学校劇はミヒャエル・ハイドンなどモーツァルト以外の宮廷作曲家が担当していた。
又、同大学の各課程修了を祝し、教師達に学生が感謝の意を表す為のセレナード
(フィナール・ムジーク)の作曲と演奏も受け持っていた。
★フィナール・ムジーク(最終音楽):例えばセレナード 二長調 K.204(213a) 1775年8月作曲。
私生活面では親しい貴族や名家の友人の誕生日や霊名祝日を祝う為の音楽そして結婚式
祝賀用の音楽(セレナータ)或いは貴族や名家の家族が趣味として弾いているクラヴィーアの
ための楽曲を作曲をしたりしていた。その他、市内外の教会の礼拝に毎日出かけ、友人同士で
奏楽をしたり、ダンスやカード、射的、ケーゲルシュタット(九柱戯。当時のボーリングの様な遊び)
などに興じたり、仮面舞踏会にでかけたりといった日常であった。又、モーツァルト一家はペットに
「ピンペス」という名の雌犬(フォックステリア種)や小鳥(カナリア、シジュウカラ、鳩)を飼っており、
しばしば旅先と家族間の手紙で「ピンペス嬢はお元気ですか?」とか「ピンペルルと散歩に出かけた」
「小鳥たちは元気ですか」などと言及されている。動物好きのモーツァルトは馬も大好きで
宮廷の厩舎にもよく遊びに行くのである。
ザルツブルクは当時人口1万6千人ほどで、中世以来ローマ教皇によって任命される大司教が
支配する大司教領という独立した宗教国家の首都であった。
ザルツ”Salz”(塩)+ブルク”Burg”(城砦)=Salzburg(塩の城砦)の名前が示す通り、周辺の
塩坑から産出する岩塩の集散地であるが故に財政的にも豊かな町であった。
★当時のハプスブルク帝国の首都ウィーンの人口は約20万人、隣国バイエルン選帝侯領の首府ミュンヘンが約3万人、
ブダペスト:5万人、プラハ:8万人、パリ:60万人、ロンドン:86万人 であった。
モーツァルトそして父レオポルトにとっては、風光明媚なザルツブルクの平穏な生活は、音楽的には
刺激のない、単調な毎日の繰り返しとしか思えなかったのである。
ザルツブルクにいては、本当にやりたいこと即ちオペラの作曲の機会はなく、このままでは才能を
うずもらせてしまうのではないかと将来のことを考えると憂鬱になっていた。 又、大司教コロレド伯は
イタリア人音楽家偏重の姿勢を崩さず、楽長にはイタリア人を雇い、モーツァルトの才能をあまり認めず、
単なる使用人としての扱いであり、モーツァルトの不満は鬱積していた。さらに大司教コロレド伯は
大聖堂の行事の簡素化を図り、教会音楽などの時間短縮を命じたのである。
モーツァルトはこういったザルツブルクでの満たされぬ思いをボローニャのマルティーニ神父宛て
1776年9月4日付の書簡で次の様に訴えているのである。
★この内容は前記事(ミュンヘン旅行)末尾に記載したオッフェルトリウム≪ミセリコルディアス・ドミニ≫を送付し意見を求めたと同じ
書簡に書かれたものであり、父レオポルトが本文を書き、モーツァルトが署名している。
≪当地では音楽はまことに恵まれぬ命運にあります。。。劇場については歌手が不足しており、
うまく行っておらず、カストラートもおりません。。。私は室内用と教会用の曲を書くのを楽しんで
おります。。。私の父は大司教聖堂の楽長でありますが、父はすでに36年も当宮廷に仕えて
おりまして、ここの大司教が年配者を理解することもできず、また、望みもしないのを知って
おりますので、宮廷での仕事をせずに、自分の好きな研究の文献に没頭しております。。。
私どもの教会音楽は、イタリアのそれとは大いに異なっているばかりか、いっそうそれが強まり、
キリエ、グローリア、クレード、ソナタ、アレビストラ、オッフェルトリオ、あるいはモテット、サンクトゥス、
それにアニュス・デイを含むミサ、さらにもっとも荘厳なミサですら、大司教ご自身がじきじきに
とりおこないますときには、一番長くてさえ45分以上にわたって続いてはならないのです。それに
あらゆる楽器ー軍隊用トランペット、ティンパニ等を伴ったミサ曲であることが要求されます。。。≫ モーツァルト書簡全集
青春の苦悩ありとはいいながら、この時期1775年3月から1777年9月(マンハイム・パリ旅行に
出発)までの2年半で約66曲を作曲しているのである。
★66曲の主たる曲数:宗教曲17曲、ディヴェルティメントとセレナード14曲、ヴァイオリン協奏曲5曲(他にロンドと
アダージョの2曲)、クラヴィーア協奏曲4曲(第6番~9番)、オペラ1曲(牧人の王K.208)、コンサート・アリア7曲など。
ミラベル宮(大司教の夏の居城)の庭園からの展望。大聖堂の鐘楼と円蓋、その上方にホーエンザルツブルク城を望む。
大聖堂での教会音楽の演奏、大司教宮廷での各種行事における演奏、宮廷が催す晩餐会での
食卓音楽(ターフェルムジーク)としてのディヴェルティメントなどの演奏と、それらに必要な
楽曲を作ることであった。
★ミヒャエル・ハイドン(当時39歳)が第一楽師長であり、モーツァルトは次席楽師長兼第一バイオリン奏者
宮廷楽団はベネディクト会の大学の講堂(大学劇場)で学期末に行われていた「学校劇」と
呼ばれる歌と劇あるいは踊りに学生と児童も参加する「音楽劇」の作曲と演奏も担当していた。
★学校劇はミヒャエル・ハイドンなどモーツァルト以外の宮廷作曲家が担当していた。
又、同大学の各課程修了を祝し、教師達に学生が感謝の意を表す為のセレナード
(フィナール・ムジーク)の作曲と演奏も受け持っていた。
★フィナール・ムジーク(最終音楽):例えばセレナード 二長調 K.204(213a) 1775年8月作曲。
私生活面では親しい貴族や名家の友人の誕生日や霊名祝日を祝う為の音楽そして結婚式
祝賀用の音楽(セレナータ)或いは貴族や名家の家族が趣味として弾いているクラヴィーアの
ための楽曲を作曲をしたりしていた。その他、市内外の教会の礼拝に毎日出かけ、友人同士で
奏楽をしたり、ダンスやカード、射的、ケーゲルシュタット(九柱戯。当時のボーリングの様な遊び)
などに興じたり、仮面舞踏会にでかけたりといった日常であった。又、モーツァルト一家はペットに
「ピンペス」という名の雌犬(フォックステリア種)や小鳥(カナリア、シジュウカラ、鳩)を飼っており、
しばしば旅先と家族間の手紙で「ピンペス嬢はお元気ですか?」とか「ピンペルルと散歩に出かけた」
「小鳥たちは元気ですか」などと言及されている。動物好きのモーツァルトは馬も大好きで
宮廷の厩舎にもよく遊びに行くのである。
ザルツブルクは当時人口1万6千人ほどで、中世以来ローマ教皇によって任命される大司教が
支配する大司教領という独立した宗教国家の首都であった。
ザルツ”Salz”(塩)+ブルク”Burg”(城砦)=Salzburg(塩の城砦)の名前が示す通り、周辺の
塩坑から産出する岩塩の集散地であるが故に財政的にも豊かな町であった。
★当時のハプスブルク帝国の首都ウィーンの人口は約20万人、隣国バイエルン選帝侯領の首府ミュンヘンが約3万人、
ブダペスト:5万人、プラハ:8万人、パリ:60万人、ロンドン:86万人 であった。
モーツァルトそして父レオポルトにとっては、風光明媚なザルツブルクの平穏な生活は、音楽的には
刺激のない、単調な毎日の繰り返しとしか思えなかったのである。
ザルツブルクにいては、本当にやりたいこと即ちオペラの作曲の機会はなく、このままでは才能を
うずもらせてしまうのではないかと将来のことを考えると憂鬱になっていた。 又、大司教コロレド伯は
イタリア人音楽家偏重の姿勢を崩さず、楽長にはイタリア人を雇い、モーツァルトの才能をあまり認めず、
単なる使用人としての扱いであり、モーツァルトの不満は鬱積していた。さらに大司教コロレド伯は
大聖堂の行事の簡素化を図り、教会音楽などの時間短縮を命じたのである。
モーツァルトはこういったザルツブルクでの満たされぬ思いをボローニャのマルティーニ神父宛て
1776年9月4日付の書簡で次の様に訴えているのである。
★この内容は前記事(ミュンヘン旅行)末尾に記載したオッフェルトリウム≪ミセリコルディアス・ドミニ≫を送付し意見を求めたと同じ
書簡に書かれたものであり、父レオポルトが本文を書き、モーツァルトが署名している。
≪当地では音楽はまことに恵まれぬ命運にあります。。。劇場については歌手が不足しており、
うまく行っておらず、カストラートもおりません。。。私は室内用と教会用の曲を書くのを楽しんで
おります。。。私の父は大司教聖堂の楽長でありますが、父はすでに36年も当宮廷に仕えて
おりまして、ここの大司教が年配者を理解することもできず、また、望みもしないのを知って
おりますので、宮廷での仕事をせずに、自分の好きな研究の文献に没頭しております。。。
私どもの教会音楽は、イタリアのそれとは大いに異なっているばかりか、いっそうそれが強まり、
キリエ、グローリア、クレード、ソナタ、アレビストラ、オッフェルトリオ、あるいはモテット、サンクトゥス、
それにアニュス・デイを含むミサ、さらにもっとも荘厳なミサですら、大司教ご自身がじきじきに
とりおこないますときには、一番長くてさえ45分以上にわたって続いてはならないのです。それに
あらゆる楽器ー軍隊用トランペット、ティンパニ等を伴ったミサ曲であることが要求されます。。。≫ モーツァルト書簡全集
青春の苦悩ありとはいいながら、この時期1775年3月から1777年9月(マンハイム・パリ旅行に
出発)までの2年半で約66曲を作曲しているのである。
★66曲の主たる曲数:宗教曲17曲、ディヴェルティメントとセレナード14曲、ヴァイオリン協奏曲5曲(他にロンドと
アダージョの2曲)、クラヴィーア協奏曲4曲(第6番~9番)、オペラ1曲(牧人の王K.208)、コンサート・アリア7曲など。
ミラベル宮(大司教の夏の居城)の庭園からの展望。大聖堂の鐘楼と円蓋、その上方にホーエンザルツブルク城を望む。
ザルツブルクのモーツァルト19歳(1775年) [モーツァルト]
1775年1月13日ミュンヘンの宮廷劇場において大好評を博した「偽の女庭師」の上演の
旅から同年3月7日ザルツブルクに帰郷した19歳のモーツァルトは、1777年8月に出発する
「マンハイム・パリ旅行」までの約2年半を故郷で過ごすことになる。この2年半という期間が
5歳(6歳直前)で最初の旅(マンハイム)に出た1762年までの幼年期間を除けば、モーツァルトが
故郷ザルツブルクに連続して留まった最長期間である。
1775年4月23日、ウィーンの女帝マリア・テレジアの末子(第16子)マクシミリアン・フランツ大公が
イタリアへの旅行の途上ザルツブルクを訪問した。これを祝しモーツァルトが作曲した2幕の
音楽劇(祝典劇=セレナータ)≪牧人の王≫(K.208)がレジデンツ(大司教宮廷)で
演奏会形式で初演された。
★「牧人の王」:邦題では「羊飼いの王」とか「羊飼いの王様」とか呼称されてもいる。
★マクシミリアン・フランツは1756年12月8日、マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世の間に第16子(末子)として
ウィーンに生まれた。聖職者としての道を歩み、1780年に叔父カール・アレクサンダーの後を嗣いでドイツ騎士団総長に、
1784年4月15日にはケルン大司教となリ、ボンに居住した。ボンで1770年に生まれたベートーヴェンを宮廷楽団で雇用し、
楽才を磨くべくなにかと便宜をはかるなどベートーヴェンを庇護した。「太っちょのマクシィ」と愛称された。
★モーツァルトはマクシミリアン・フランツより2ヶ月程後で生まれており、最初のウィーン旅行でマリア・テレジアより贈られた
大礼服はこのマクシミリアン・フランツ用の大礼服であった。
6月から12月までの間に、4曲のヴァイオリン協奏曲(第2番K.211から第5番K.219)が作曲された。
モーツァルト自身がヴァイオリンを弾くために作曲されたと考えられている。
★ヴァイオリン協奏曲:(第2番)二長調K.211(6月14日作曲)、(第3番)ト長調K.216(9月12日作曲)、(第4番)二長調
K.218(10月)、(第5番)イ長調K.219「トルコ風」(12月20日作曲)
この年ザルツブルグに宮廷劇場が誕生した。大司教コロレド伯がハンニバルガルテン
(現マカルト広場)にあった舞踏会場を改築し、公開の宮廷劇場としたのである。
引越ししたモーツァルト一家のすぐ近くであったこともあり、一家はこの劇場によくかよっている。
この劇場はザルツブルクにおける演劇やオペラの拠点となったがその公演は旅回りの劇団
(シカネーダーやベーム一座など)に委ねられた為、モーツァルトなど地元の作曲家たちの
出番はなかった。
★シカネーダー・一座:エマヌエル・シカネーダー(Emanuel Schikaneder, 1751-1812)の率いる一座。詳細は
弊記事「猫とモーツァルト」ご参照。
★ベーム一座:ヨハン・ハインリヒ・べ一ム(1740/50-1792)を座長とする一座。1779年と1780年にザルツブルクに、
来演した折、≪偽の女庭師≫が、この一座のためにジングシュピール版に改作された。ジングシュピール版は
ザルツブルクでは上演されず、べーム一座が1780年5月頃、父レオポルトの生まれ故郷アウクスブルクで初演した。
モーツァルトがパリからザルツブルクの友人のブリンガー師に1778年8月7日付で書いた
手紙に「ザルツブルクには劇場もなければオペラハウスもない」と語っているのは
「自分の活躍し得る劇場やオペラハウスがない」という意味なのであろう。
★この宮廷劇場が現在のSalzburger Landestheater (ザルツブルク州立劇場)で、1893年に大改築され
モーツァルトのオペラ・セリア「皇帝ティトの慈悲」(K.621)でこけら落としが行われた。
現在のSalzburger Landestheater (ザルツブルク州立劇場)
旅から同年3月7日ザルツブルクに帰郷した19歳のモーツァルトは、1777年8月に出発する
「マンハイム・パリ旅行」までの約2年半を故郷で過ごすことになる。この2年半という期間が
5歳(6歳直前)で最初の旅(マンハイム)に出た1762年までの幼年期間を除けば、モーツァルトが
故郷ザルツブルクに連続して留まった最長期間である。
1775年4月23日、ウィーンの女帝マリア・テレジアの末子(第16子)マクシミリアン・フランツ大公が
イタリアへの旅行の途上ザルツブルクを訪問した。これを祝しモーツァルトが作曲した2幕の
音楽劇(祝典劇=セレナータ)≪牧人の王≫(K.208)がレジデンツ(大司教宮廷)で
演奏会形式で初演された。
★「牧人の王」:邦題では「羊飼いの王」とか「羊飼いの王様」とか呼称されてもいる。
★マクシミリアン・フランツは1756年12月8日、マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世の間に第16子(末子)として
ウィーンに生まれた。聖職者としての道を歩み、1780年に叔父カール・アレクサンダーの後を嗣いでドイツ騎士団総長に、
1784年4月15日にはケルン大司教となリ、ボンに居住した。ボンで1770年に生まれたベートーヴェンを宮廷楽団で雇用し、
楽才を磨くべくなにかと便宜をはかるなどベートーヴェンを庇護した。「太っちょのマクシィ」と愛称された。
★モーツァルトはマクシミリアン・フランツより2ヶ月程後で生まれており、最初のウィーン旅行でマリア・テレジアより贈られた
大礼服はこのマクシミリアン・フランツ用の大礼服であった。
6月から12月までの間に、4曲のヴァイオリン協奏曲(第2番K.211から第5番K.219)が作曲された。
モーツァルト自身がヴァイオリンを弾くために作曲されたと考えられている。
★ヴァイオリン協奏曲:(第2番)二長調K.211(6月14日作曲)、(第3番)ト長調K.216(9月12日作曲)、(第4番)二長調
K.218(10月)、(第5番)イ長調K.219「トルコ風」(12月20日作曲)
この年ザルツブルグに宮廷劇場が誕生した。大司教コロレド伯がハンニバルガルテン
(現マカルト広場)にあった舞踏会場を改築し、公開の宮廷劇場としたのである。
引越ししたモーツァルト一家のすぐ近くであったこともあり、一家はこの劇場によくかよっている。
この劇場はザルツブルクにおける演劇やオペラの拠点となったがその公演は旅回りの劇団
(シカネーダーやベーム一座など)に委ねられた為、モーツァルトなど地元の作曲家たちの
出番はなかった。
★シカネーダー・一座:エマヌエル・シカネーダー(Emanuel Schikaneder, 1751-1812)の率いる一座。詳細は
弊記事「猫とモーツァルト」ご参照。
★ベーム一座:ヨハン・ハインリヒ・べ一ム(1740/50-1792)を座長とする一座。1779年と1780年にザルツブルクに、
来演した折、≪偽の女庭師≫が、この一座のためにジングシュピール版に改作された。ジングシュピール版は
ザルツブルクでは上演されず、べーム一座が1780年5月頃、父レオポルトの生まれ故郷アウクスブルクで初演した。
モーツァルトがパリからザルツブルクの友人のブリンガー師に1778年8月7日付で書いた
手紙に「ザルツブルクには劇場もなければオペラハウスもない」と語っているのは
「自分の活躍し得る劇場やオペラハウスがない」という意味なのであろう。
★この宮廷劇場が現在のSalzburger Landestheater (ザルツブルク州立劇場)で、1893年に大改築され
モーツァルトのオペラ・セリア「皇帝ティトの慈悲」(K.621)でこけら落としが行われた。
現在のSalzburger Landestheater (ザルツブルク州立劇場)
モーツァルトのミュンヘン旅行≪「偽の女庭師」作曲・上演の旅≫ [モーツァルト]
1774年12月6日、モーツァルト父子はミュンヘンに向けて旅立った。
この年の夏、バイエルン選帝侯マクシミリアン3世からヴォルフガングに謝肉祭用オペラの
作曲依頼があり、それに応えるために再び大司教から休暇許可を得たのである。
モーツァルトはすでに18歳、あと二ヶ月程で19歳を迎えるところであった。
★マクシミリアン3世ヨーゼフ(Maximilian III. Joseph, 1727年3月28日 - 1777年12月30日):バイエルン選帝侯
(在位:1745年 – 1777年)。全名はマクシミリアン・ヨーゼフ・カール(Maximilian Joseph Karl)。
キュヴィリエ劇場(ミュンヘンにあるロココ式劇場/独: Cuvilliés-Theater)建設をフランソワ・ド・キュヴィリエに命じた
(1753年完成)ほか自身も作曲や演奏を行なうなど芸術にも親しんでいた。この劇場で1781年1月29日モーツァルトの
「クレタ王イドメネオ」が初演された。
ミュンヘンを目的地とする旅は今回が2回目である。
第1回目の旅は、モーツァルトが6歳に満たない時、1762年1月12日ザルツブルクを発っての
ミュンヘン旅行であった(約3週間同地滞在)。この時もバイエルン選帝侯マクシミリアン3世に
御前演奏を行っている。≪モーツァルトはこの旅行中に6歳の誕生日(1月27日生まれ)を迎えた。≫
★ミュンヘンに立ち寄り滞在したのは1763年6月、モーツァルトが7歳の時、≪西方への大旅行(パリ・ロンドン≫
の往路、ミュンヘンに立ち寄り、離宮ニュンフェンブルクでマクシミリアン3世に演奏を披露している。
尚、「西方への大旅行」の復路にも立ち寄っているのでミュンヘンに滞在するのは今回で通算4回目となる。
父子二人で出発したが、姉のナンネルが弟ヴォルフガングのオペラを聴くために、
初演日(1775年1月13日)の9日前、1月4日午後2時前にミュンヘンに到着している。
★ザルツブルクからミュンヘン(距離は約140km)への馬車による行程は通常一泊二日の旅で18時間かかり、道中ヴァッサーブルクで
宿をとった。父子の場合はヴァッサーブルクに夜9時に着き、翌日8時に出発、ミュンヘンに午後3時半に到着している。
今回の作品である全3幕の≪偽の女庭師 "La finta giardiniera"≫(K.196)は、1768年ウィーンで
作曲し、翌年ザルツブルクで上演した≪ラ・フィンタ・センブリチェ≫以来のオペラ・ブッファである。
★偽の女庭師:イタリア語(原点版)”La finta giardiniera"と1780年にアウクスブルクで上演されたジングシュピール版
≪ドイツ語タイトル:"Die verstellte Gartnerin (偽装した女庭師)≫がある。但し、その後ドイツ語の表題は
”Die Gartnerin aus Liebe"(愛の女庭師)となっている。
ヴォルフガングの父レオポルトの実家はアウクスブルク(現在のドイツ連邦共和国バイエルン州南西部に位置する郡独立市)
にあり、ここで1780年に偽の女庭師のジングシュピール版が上演されたわけだが、アウクスブルクは、
ドイツの医学者であり解剖学者でもある ヨーハン・アダム・クルムス(Johann Adam Kulmus, 1687–1745)の
『解剖学図表”Anatomische Tabellen”』の印刷を行った町でもある(印刷はドイツ各地で行われてはいるが)。
レオポルトの父親のヨハン・ゲオルク・モーツァルト(1679-1736)は製本師であったので
『解剖学図表”Anatomische Tabellen”』の製本を行っているかも知れない。
★『解剖学図表”Anatomische Tabellen”』は、初心者にも分かり易いように28枚の図表について解説した医学書で、
初版は1722年にダンツィヒ(現在のポーランド、グダニスク)で出版された。その後、ドイツ国内の出版社で多く
版が重ねられた。また、この書物はオランダ語をはじめフランス語、ラテン語などにも翻訳された。
”Anatomische Tabellen"(解剖学図表)はオランダ語では”Ontleedkundige Tafelen”であり、
このオランダ語版の日本語翻訳版(1774年)が、「解体新書」通称「ターヘルアナトミア」である。
1732年のドイツ語版がオランダ人医師ヘラルト・ディクテン(Gerard Dicten)によって1734年に
オランダ語に翻訳された『ターヘルアナトミア(解剖学図表)』 がオランダ東印度会社を通じて
日本へ運ばれ、杉田玄白や前野良沢、中川淳庵らが翻訳をおこない『解体新書』として
1774年(安永3年)、世に出された。
まさにこの年モーツァルトは「偽の女庭師」の作曲を行っていたのである。
「偽の女庭師」は1775年1月13日ザルヴァトールプラッツ(広場)のザルヴァトールプラッツ劇場で
初演された。この劇場はミュンヘンの中流階級の観客の好みに合わせた、オペラ・ブッファの
大衆劇場であり、ザルヴァトール教会(Salvatorkirche)の向かい側のザルヴァトール広場の
北東の角に、1654年に建てられてから1799年に閉鎖を余儀なくされるまで、オペラを
上演しつづけた。
バイエルン選帝侯マクシミリアン3世 1777以前 ミュンヘンのフラウエン教会 (Frauenkirche、左)と市庁舎の塔(右)
この年の夏、バイエルン選帝侯マクシミリアン3世からヴォルフガングに謝肉祭用オペラの
作曲依頼があり、それに応えるために再び大司教から休暇許可を得たのである。
モーツァルトはすでに18歳、あと二ヶ月程で19歳を迎えるところであった。
★マクシミリアン3世ヨーゼフ(Maximilian III. Joseph, 1727年3月28日 - 1777年12月30日):バイエルン選帝侯
(在位:1745年 – 1777年)。全名はマクシミリアン・ヨーゼフ・カール(Maximilian Joseph Karl)。
キュヴィリエ劇場(ミュンヘンにあるロココ式劇場/独: Cuvilliés-Theater)建設をフランソワ・ド・キュヴィリエに命じた
(1753年完成)ほか自身も作曲や演奏を行なうなど芸術にも親しんでいた。この劇場で1781年1月29日モーツァルトの
「クレタ王イドメネオ」が初演された。
ミュンヘンを目的地とする旅は今回が2回目である。
第1回目の旅は、モーツァルトが6歳に満たない時、1762年1月12日ザルツブルクを発っての
ミュンヘン旅行であった(約3週間同地滞在)。この時もバイエルン選帝侯マクシミリアン3世に
御前演奏を行っている。≪モーツァルトはこの旅行中に6歳の誕生日(1月27日生まれ)を迎えた。≫
★ミュンヘンに立ち寄り滞在したのは1763年6月、モーツァルトが7歳の時、≪西方への大旅行(パリ・ロンドン≫
の往路、ミュンヘンに立ち寄り、離宮ニュンフェンブルクでマクシミリアン3世に演奏を披露している。
尚、「西方への大旅行」の復路にも立ち寄っているのでミュンヘンに滞在するのは今回で通算4回目となる。
父子二人で出発したが、姉のナンネルが弟ヴォルフガングのオペラを聴くために、
初演日(1775年1月13日)の9日前、1月4日午後2時前にミュンヘンに到着している。
★ザルツブルクからミュンヘン(距離は約140km)への馬車による行程は通常一泊二日の旅で18時間かかり、道中ヴァッサーブルクで
宿をとった。父子の場合はヴァッサーブルクに夜9時に着き、翌日8時に出発、ミュンヘンに午後3時半に到着している。
今回の作品である全3幕の≪偽の女庭師 "La finta giardiniera"≫(K.196)は、1768年ウィーンで
作曲し、翌年ザルツブルクで上演した≪ラ・フィンタ・センブリチェ≫以来のオペラ・ブッファである。
★偽の女庭師:イタリア語(原点版)”La finta giardiniera"と1780年にアウクスブルクで上演されたジングシュピール版
≪ドイツ語タイトル:"Die verstellte Gartnerin (偽装した女庭師)≫がある。但し、その後ドイツ語の表題は
”Die Gartnerin aus Liebe"(愛の女庭師)となっている。
ヴォルフガングの父レオポルトの実家はアウクスブルク(現在のドイツ連邦共和国バイエルン州南西部に位置する郡独立市)
にあり、ここで1780年に偽の女庭師のジングシュピール版が上演されたわけだが、アウクスブルクは、
ドイツの医学者であり解剖学者でもある ヨーハン・アダム・クルムス(Johann Adam Kulmus, 1687–1745)の
『解剖学図表”Anatomische Tabellen”』の印刷を行った町でもある(印刷はドイツ各地で行われてはいるが)。
レオポルトの父親のヨハン・ゲオルク・モーツァルト(1679-1736)は製本師であったので
『解剖学図表”Anatomische Tabellen”』の製本を行っているかも知れない。
★『解剖学図表”Anatomische Tabellen”』は、初心者にも分かり易いように28枚の図表について解説した医学書で、
初版は1722年にダンツィヒ(現在のポーランド、グダニスク)で出版された。その後、ドイツ国内の出版社で多く
版が重ねられた。また、この書物はオランダ語をはじめフランス語、ラテン語などにも翻訳された。
”Anatomische Tabellen"(解剖学図表)はオランダ語では”Ontleedkundige Tafelen”であり、
このオランダ語版の日本語翻訳版(1774年)が、「解体新書」通称「ターヘルアナトミア」である。
1732年のドイツ語版がオランダ人医師ヘラルト・ディクテン(Gerard Dicten)によって1734年に
オランダ語に翻訳された『ターヘルアナトミア(解剖学図表)』 がオランダ東印度会社を通じて
日本へ運ばれ、杉田玄白や前野良沢、中川淳庵らが翻訳をおこない『解体新書』として
1774年(安永3年)、世に出された。
まさにこの年モーツァルトは「偽の女庭師」の作曲を行っていたのである。
「偽の女庭師」は1775年1月13日ザルヴァトールプラッツ(広場)のザルヴァトールプラッツ劇場で
初演された。この劇場はミュンヘンの中流階級の観客の好みに合わせた、オペラ・ブッファの
大衆劇場であり、ザルヴァトール教会(Salvatorkirche)の向かい側のザルヴァトール広場の
北東の角に、1654年に建てられてから1799年に閉鎖を余儀なくされるまで、オペラを
上演しつづけた。
バイエルン選帝侯マクシミリアン3世 1777以前 ミュンヘンのフラウエン教会 (Frauenkirche、左)と市庁舎の塔(右)
ザルツブルクのモーツァルト17-18歳(1773-74年) [モーツァルト]
1773年9月24日モーツァルト父子は第3回目の旅となったウィーンを発ち、故郷ザルツブルクに
戻ったのである。
モーツァルト父子がウィーンを発つ約2週間程前の、1773年9月10日、オーストリアにおける
イエズス会の解散が実行されている。これに先立つ同年7月21日ローマ教皇クレメンス14世は
小勅令を発し、イエズス会教団の廃止を命じている。この状況についてレオポルトはウィーンから、
妻のアンナ・マリアに1773年9月4日付の手紙で次の通り語っている。
≪もう貧しいイエズス会士たちは破滅です!私は彼らを貧しいって言ったが、つまり高い地位に
ついていたものたち、とりわけラビたち、それに宗団全体は金持ちだと言えたからです。それに
属する個人個人は無一文だったのです。
今月16日にアム・ホーフのイエズス会修道院は空になっていなければなりません。
ここの教会の建物、葡萄酒のつまった貯蔵室、要するに彼らの財産はもう差し押さえられ、教団は
解散させられたのです。彼らは教区付司祭として僧服をつけることは許されるし、それに噂では
それぞれ毎年300フロリーンもらえるとのこと。これはけっしてそう悪いものではありません!。。。≫
★1534年8月15日、イグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学友だったスペイン出身のフランシスコ・ザビエル他6名の同志が
モンマルトルの丘(仏)の教会に集まり神への生涯忠誠を誓いイエズス会を創立した。フランシスコ・ザビエルは1549年に来日、
二年滞在して困難な宣教活動に従事した。天正遣欧少年使節(1582~1590)を計画したのはイエズス会(耶穌会)の東洋管区の
巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノであった。ローマ教皇に対する忠実という精神から発展したイエズス会であったが
そのあまりに過激な国境を無視した活動により特にスペイン、ポルトガルなどが内政干渉であると反発しローマ教皇に
イエズス会をとるか諸国との関係をとるかとの圧力をかけ、教皇をして解散を命じざるを得なくしたのである。
★その後1814年に教皇ピウス7世の小書簡『カトリケ・フィデイ』によってイエズス会の復興が許可され今日に至っている。
1773年晩秋には一家はゲトライデ街にあるハーゲナウアー家の借家からハンニバル広場
(現在のマカルト広場)8番地のさらに部屋数の多い大きな借家「タンツマイスターハウス」に引越している。
★「タンツマイスターハウス”Tanzmeisterhaus”」とは「舞踏教師の家」という意味でここにそうした人物が住んでいたことによる。
一家は2階の8部屋を借り入れた。現存するこの建物は「モーツァルトの住居 Mozart Wohnhaus」と呼ばれモーツァルト博物館となっている。
他方、ハーゲナウアー家の借家は「モーツァルトの生家”Mozart Geburtshaus”」と呼ばれ「モーツァルトの記念館」となっている。
1774年の夏、バイエルン選帝侯マクシミリアン3世からヴォルフガングに1775年の
謝肉祭用オペラの作曲依頼があり、これを受けて1774年12月6日、ミュンヘンに向けて旅立つ
のであるが、それまでの間ザルツブルクにおいて特に器楽曲でいくつかの名曲が生れている。
1770年頃に、ドイツの文学を軸とする芸術分野で≪シュトルム・ウント・ドランク(独:Sturm und Drang)
=疾風怒涛(直訳は「嵐と衝動」≫の潮流が起こり、理性に対する感情の優越を主張し、激しい
感情表現を目指そうとした。ゲーテやシラーが中心となり、反理性的で極端に主観的な判断に
重点をおくことがその特徴である。音楽界にも強い影響を与え、中期のハイドンなどがその影響を
受けている。モーツァルトもこの疾風怒涛の影響を受けた作風を3回目のウィーン旅行中に吸収し、
交響曲第25番ト短調などに反映して行くのである。
★ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ((Johann Wolfgang von Goethe、1749年8月28日 - 1832年3月22日)は
1774年に『若きウェルテルの悩み”Die Leiden des jungen Werthers”』を刊行した。
ウィーン旅行より帰郷した1773年晩秋から年末にかけ、モーツァルトとして初の弦楽五重奏曲
変ロ長調(K174)を作曲し、更にクラヴィーア協奏曲二長調(K.175)と「16曲のメヌエット」
(K.176)を作曲した。
交響曲では、第25番ト短調(K.183/173dB)と第29番イ長調(K.201/186a)という二大傑作を
含む、計5曲の作品が生まれている。第25番はウィーンから帰郷後1ヶ月程後で第24番変ロ長調
(K.182/173dA)と殆ど同時期に作曲している。1774年1月27日モーツァルトは18歳となったが、
この年の春頃、第29番イ長調を作曲しその後第30番ニ長調(K,202/186b)と第28番ハ長調
(K.200/189k)を作曲したのである。
この他、1774年春には二曲の協奏作品「二つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネ ハ長調」
(K.190/186e)と「ファゴット協奏曲変ロ長調」(K.191/K186e)が作曲されている。
また、「セレナード ニ長調」(K.203/189b)、「四手のためのクラヴィーア・ソナタ」ニ長調
(K.381/123a)と変ロ長調(K.358/186)や「ヨハン・クリスティアン・フィッシャーのメヌエットによる
クラヴィーアのための12の変奏曲 ハ長調」(K.179/189a)もこの時期に作曲された。
★「四手のためのクラヴィーア・ソナタ(ニ長調と変ロ長調)」はモーツァルトと5歳年上の姉ナンネルとの連弾のための
作品であろうと考えられている。
こうした器楽曲の多彩な創作活動に加え、大司教宮廷に仕える教会音楽家として、
教会音楽作品の作曲活動もこの頃活発に行われたのである。
★教会音楽作品:「聖母マリアのためのリタニア ニ長調」(K.195/186d)、「ミサ・プレヴィス へ長調」(K.192/186f)、
「ミサ・プレヴィス ニ長調」(K.194/186h)
ザルツブルク(中央手前は大学教会、その右側向こうに大聖堂、右背後はホーエンザルツブルク城)
戻ったのである。
モーツァルト父子がウィーンを発つ約2週間程前の、1773年9月10日、オーストリアにおける
イエズス会の解散が実行されている。これに先立つ同年7月21日ローマ教皇クレメンス14世は
小勅令を発し、イエズス会教団の廃止を命じている。この状況についてレオポルトはウィーンから、
妻のアンナ・マリアに1773年9月4日付の手紙で次の通り語っている。
≪もう貧しいイエズス会士たちは破滅です!私は彼らを貧しいって言ったが、つまり高い地位に
ついていたものたち、とりわけラビたち、それに宗団全体は金持ちだと言えたからです。それに
属する個人個人は無一文だったのです。
今月16日にアム・ホーフのイエズス会修道院は空になっていなければなりません。
ここの教会の建物、葡萄酒のつまった貯蔵室、要するに彼らの財産はもう差し押さえられ、教団は
解散させられたのです。彼らは教区付司祭として僧服をつけることは許されるし、それに噂では
それぞれ毎年300フロリーンもらえるとのこと。これはけっしてそう悪いものではありません!。。。≫
★1534年8月15日、イグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学友だったスペイン出身のフランシスコ・ザビエル他6名の同志が
モンマルトルの丘(仏)の教会に集まり神への生涯忠誠を誓いイエズス会を創立した。フランシスコ・ザビエルは1549年に来日、
二年滞在して困難な宣教活動に従事した。天正遣欧少年使節(1582~1590)を計画したのはイエズス会(耶穌会)の東洋管区の
巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノであった。ローマ教皇に対する忠実という精神から発展したイエズス会であったが
そのあまりに過激な国境を無視した活動により特にスペイン、ポルトガルなどが内政干渉であると反発しローマ教皇に
イエズス会をとるか諸国との関係をとるかとの圧力をかけ、教皇をして解散を命じざるを得なくしたのである。
★その後1814年に教皇ピウス7世の小書簡『カトリケ・フィデイ』によってイエズス会の復興が許可され今日に至っている。
1773年晩秋には一家はゲトライデ街にあるハーゲナウアー家の借家からハンニバル広場
(現在のマカルト広場)8番地のさらに部屋数の多い大きな借家「タンツマイスターハウス」に引越している。
★「タンツマイスターハウス”Tanzmeisterhaus”」とは「舞踏教師の家」という意味でここにそうした人物が住んでいたことによる。
一家は2階の8部屋を借り入れた。現存するこの建物は「モーツァルトの住居 Mozart Wohnhaus」と呼ばれモーツァルト博物館となっている。
他方、ハーゲナウアー家の借家は「モーツァルトの生家”Mozart Geburtshaus”」と呼ばれ「モーツァルトの記念館」となっている。
1774年の夏、バイエルン選帝侯マクシミリアン3世からヴォルフガングに1775年の
謝肉祭用オペラの作曲依頼があり、これを受けて1774年12月6日、ミュンヘンに向けて旅立つ
のであるが、それまでの間ザルツブルクにおいて特に器楽曲でいくつかの名曲が生れている。
1770年頃に、ドイツの文学を軸とする芸術分野で≪シュトルム・ウント・ドランク(独:Sturm und Drang)
=疾風怒涛(直訳は「嵐と衝動」≫の潮流が起こり、理性に対する感情の優越を主張し、激しい
感情表現を目指そうとした。ゲーテやシラーが中心となり、反理性的で極端に主観的な判断に
重点をおくことがその特徴である。音楽界にも強い影響を与え、中期のハイドンなどがその影響を
受けている。モーツァルトもこの疾風怒涛の影響を受けた作風を3回目のウィーン旅行中に吸収し、
交響曲第25番ト短調などに反映して行くのである。
★ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ((Johann Wolfgang von Goethe、1749年8月28日 - 1832年3月22日)は
1774年に『若きウェルテルの悩み”Die Leiden des jungen Werthers”』を刊行した。
ウィーン旅行より帰郷した1773年晩秋から年末にかけ、モーツァルトとして初の弦楽五重奏曲
変ロ長調(K174)を作曲し、更にクラヴィーア協奏曲二長調(K.175)と「16曲のメヌエット」
(K.176)を作曲した。
交響曲では、第25番ト短調(K.183/173dB)と第29番イ長調(K.201/186a)という二大傑作を
含む、計5曲の作品が生まれている。第25番はウィーンから帰郷後1ヶ月程後で第24番変ロ長調
(K.182/173dA)と殆ど同時期に作曲している。1774年1月27日モーツァルトは18歳となったが、
この年の春頃、第29番イ長調を作曲しその後第30番ニ長調(K,202/186b)と第28番ハ長調
(K.200/189k)を作曲したのである。
この他、1774年春には二曲の協奏作品「二つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネ ハ長調」
(K.190/186e)と「ファゴット協奏曲変ロ長調」(K.191/K186e)が作曲されている。
また、「セレナード ニ長調」(K.203/189b)、「四手のためのクラヴィーア・ソナタ」ニ長調
(K.381/123a)と変ロ長調(K.358/186)や「ヨハン・クリスティアン・フィッシャーのメヌエットによる
クラヴィーアのための12の変奏曲 ハ長調」(K.179/189a)もこの時期に作曲された。
★「四手のためのクラヴィーア・ソナタ(ニ長調と変ロ長調)」はモーツァルトと5歳年上の姉ナンネルとの連弾のための
作品であろうと考えられている。
こうした器楽曲の多彩な創作活動に加え、大司教宮廷に仕える教会音楽家として、
教会音楽作品の作曲活動もこの頃活発に行われたのである。
★教会音楽作品:「聖母マリアのためのリタニア ニ長調」(K.195/186d)、「ミサ・プレヴィス へ長調」(K.192/186f)、
「ミサ・プレヴィス ニ長調」(K.194/186h)
ザルツブルク(中央手前は大学教会、その右側向こうに大聖堂、右背後はホーエンザルツブルク城)
モーツァルトの3度目のウィーン旅行 [モーツァルト]
モーツァルトの第2回目のイタリア(ミラノ)旅行において、フェルディナント大公(ミラノ総督)の
婚姻式典でオペラ「アルバのアスカーニョ」を作曲・上演、大成功を収め、第3回目のイタリア(ミラノ)
旅行でも、謝肉祭用オペラ「ルーチョ・シッラ」が連日続演されるなど称賛を得たモーツァルト父子は
当然フェルディナント大公よりヴォルフガングの宮廷音楽家としての採用について声がかかる
ものと期待していたのである。実際、「アルバのアスカーニョ」の成功に際し、フェルディナント大公
よりその可能性をほのめかす話があったのである。
フェルディナント大公としてはミラノ宮廷によるモーツァルトの雇用を考え、母堂であるウィーンの
ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアに相談したのであるが、マリア・テレジアよりはアスカーニョの
最後の上演から約1.5ヶ月後位に次の返事(1771年12月12日付)が届いていたのである。
≪あなたは若いザルツブルク人を自分のために雇うのを求めていますね。私にはどうしてだか
解らないし、あなたが作曲家とか無用の人間を必要としているとは信じられません。けれど、
もしそれがあなたを喜ばせることになるのなら、私は邪魔をしたくはないのです。あなたに無用な
人間を養わないように、そして決してあなたの元で働くようなこうした人たちに肩書きなど
与えてはなりません。乞食のように世の中を渡り歩いているような人たちは、奉公人たちに
悪影響を及ぼすことになります。彼はそのうえ大家族です。≫ モーツァルト書簡全集
女帝マリア・テレジアは四男のフェルディナントがミラノの総督としてうまく統率出来るかどうかを
非常に心配しており、総督としてスタートしたばかりの時期にこういう雇用は見合わせるべきである
との考えに立ってのアドバイスかとも思われるが、モーツァルト父子はこういった事情は知る由もなく、
ミラノ宮廷による採用を期待していたのである。
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
第3回目のイタリア旅行、即ちミラノの謝肉祭における「ルーチョ・シッラ」上演の旅より
1773年3月13日にザルツブルクに帰郷したモーツァルト父子は早くも4ヶ月後の1773年7月14日
ザルツブルクを発ち、ウィーンに向かうのである。約4年半ぶり3回目のウィーン訪問である。
ウィーンに発つ3ヶ月前(イタリア旅行から帰郷して1ヶ月後)の4月14日にモーツァルトは
初のヴァイオリン協奏曲(第1番)変ロ長調(K.207)を作曲している(本記事末尾に音源)。
★モーツァルトは全5曲のヴァイオリン協奏曲を作曲したが、これらの曲はザルツブルクの宮廷楽団をバックに自分自身
あるいは同僚のブルネッティが独奏するために作曲されたと考えられている。ヴァイオリン協奏曲(第1番)変ロ長調は
散失したトランペット協奏曲K647cを除けば、モーツァルトが遺した最初の協奏曲である。
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
今回の旅の目的は、ウィーン宮廷への求職活動であった。8月5日に女帝マリア・テレジアに
拝謁したが、その結果についてレオポルトはザルツブルクの妻に8月12日付の手紙で、「皇太后は
わたしたちにとても好意をお持ちでした。でもそれですべてでした。帰ってからおまえに直接
話をしましょう。。。」と語っているのである。
★謁見はラクセンブルク城館で行われたとされている。
★ウィーン宮廷楽長のフローリアン・レオポルト・ガスマン(1729-1774)が重病に陥ったことから、後任人事が
おこなわれるとの判断をし、ヴォルフガング採用の可能性を追求したものと思われる。ガスマンは翌年1月20日に
死亡し、ボンノが宮廷楽長に、サリエリがイタリア・オペラ楽長兼宮廷作曲家に任命された。
★ジュセッペ・ボンノ: Giuseppe Bonno (1711 – 1788) イタリア系ウィーン生れ
★アントニオ・サリエリ:Antonio Salieri (1750 – 1825) イタリア、ヴェネツィア生れ
★8月12日にはザルツブルクの大司教コロレード伯が女帝マリア・テレジアを表敬訪問している。大司教はジールンドルフ
(ウィーンの北方)の城館に居住する父親を訪問していた。
シェーンブルン宮殿 銅版画 カール・シュッツ作 1783年
婚姻式典でオペラ「アルバのアスカーニョ」を作曲・上演、大成功を収め、第3回目のイタリア(ミラノ)
旅行でも、謝肉祭用オペラ「ルーチョ・シッラ」が連日続演されるなど称賛を得たモーツァルト父子は
当然フェルディナント大公よりヴォルフガングの宮廷音楽家としての採用について声がかかる
ものと期待していたのである。実際、「アルバのアスカーニョ」の成功に際し、フェルディナント大公
よりその可能性をほのめかす話があったのである。
フェルディナント大公としてはミラノ宮廷によるモーツァルトの雇用を考え、母堂であるウィーンの
ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアに相談したのであるが、マリア・テレジアよりはアスカーニョの
最後の上演から約1.5ヶ月後位に次の返事(1771年12月12日付)が届いていたのである。
≪あなたは若いザルツブルク人を自分のために雇うのを求めていますね。私にはどうしてだか
解らないし、あなたが作曲家とか無用の人間を必要としているとは信じられません。けれど、
もしそれがあなたを喜ばせることになるのなら、私は邪魔をしたくはないのです。あなたに無用な
人間を養わないように、そして決してあなたの元で働くようなこうした人たちに肩書きなど
与えてはなりません。乞食のように世の中を渡り歩いているような人たちは、奉公人たちに
悪影響を及ぼすことになります。彼はそのうえ大家族です。≫ モーツァルト書簡全集
女帝マリア・テレジアは四男のフェルディナントがミラノの総督としてうまく統率出来るかどうかを
非常に心配しており、総督としてスタートしたばかりの時期にこういう雇用は見合わせるべきである
との考えに立ってのアドバイスかとも思われるが、モーツァルト父子はこういった事情は知る由もなく、
ミラノ宮廷による採用を期待していたのである。
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
第3回目のイタリア旅行、即ちミラノの謝肉祭における「ルーチョ・シッラ」上演の旅より
1773年3月13日にザルツブルクに帰郷したモーツァルト父子は早くも4ヶ月後の1773年7月14日
ザルツブルクを発ち、ウィーンに向かうのである。約4年半ぶり3回目のウィーン訪問である。
ウィーンに発つ3ヶ月前(イタリア旅行から帰郷して1ヶ月後)の4月14日にモーツァルトは
初のヴァイオリン協奏曲(第1番)変ロ長調(K.207)を作曲している(本記事末尾に音源)。
★モーツァルトは全5曲のヴァイオリン協奏曲を作曲したが、これらの曲はザルツブルクの宮廷楽団をバックに自分自身
あるいは同僚のブルネッティが独奏するために作曲されたと考えられている。ヴァイオリン協奏曲(第1番)変ロ長調は
散失したトランペット協奏曲K647cを除けば、モーツァルトが遺した最初の協奏曲である。
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
今回の旅の目的は、ウィーン宮廷への求職活動であった。8月5日に女帝マリア・テレジアに
拝謁したが、その結果についてレオポルトはザルツブルクの妻に8月12日付の手紙で、「皇太后は
わたしたちにとても好意をお持ちでした。でもそれですべてでした。帰ってからおまえに直接
話をしましょう。。。」と語っているのである。
★謁見はラクセンブルク城館で行われたとされている。
★ウィーン宮廷楽長のフローリアン・レオポルト・ガスマン(1729-1774)が重病に陥ったことから、後任人事が
おこなわれるとの判断をし、ヴォルフガング採用の可能性を追求したものと思われる。ガスマンは翌年1月20日に
死亡し、ボンノが宮廷楽長に、サリエリがイタリア・オペラ楽長兼宮廷作曲家に任命された。
★ジュセッペ・ボンノ: Giuseppe Bonno (1711 – 1788) イタリア系ウィーン生れ
★アントニオ・サリエリ:Antonio Salieri (1750 – 1825) イタリア、ヴェネツィア生れ
★8月12日にはザルツブルクの大司教コロレード伯が女帝マリア・テレジアを表敬訪問している。大司教はジールンドルフ
(ウィーンの北方)の城館に居住する父親を訪問していた。
シェーンブルン宮殿 銅版画 カール・シュッツ作 1783年
モーツァルトの第3回イタリア旅行 [モーツァルト]
モーツァルト父子が第2回イタリア(ミラノ)旅行よりザルツブルクに帰郷した翌日、
1771年12月16日ザルツブルク大司教のシュラッテンバッハ伯ジークムント3世が
74歳で逝去した。
★シュラッテンバッハ伯ジークムント3世:Siegmund III. Graf von Schrattenbach 在位1753年 - 1771年。
モーツァルト父子の楽才を認め、なにかと便宜を与えた。
1772年3月14日後任大司教にはコロレド伯ヒエロニュムス(当時39歳)が選ばれ、4月29日に
ザルツブルク入場の儀式が挙行された。新大司教着任の祝典に際し、モーツァルトは
劇的セレナータ≪シピオーネの夢" Il sogno di Scipione" ≫(K.126)を用意し、
演奏会形式で上演したとされている(但し、上演されたという確証はのこされていない)。
★コロレド伯ヒエロニュムス:Hieronymus Graf von Colloredo 1732-1812。
★シピオーネの夢:台本はメタスタージオ。原作は共和政ローマ期の文人キケロ(紀元前106年 - 紀元前43年)の
「スキピオの夢」。シピオーネはカルタゴを征服したローマの武将である。紀元前2世紀頃、ローマ軍司令官の
シピオーネ(T)の夢に貞節の女神コスタンツァ(S)と幸運の女神フォルトゥーナ(S)が現れ結婚をせまる。
シピオーネがコスタンツァを選ぶとフォルトゥーナが怒り狂い嵐を起こす。。。そしてシピオーネは目覚め、
夢は教訓であったことに気がつく。
モーツァルト(当時16歳)は新大司教により、8月21日付で有給(年給150フローリン)の宮廷楽師長に
任命された。これは第1回のイタリア旅行に出る前に無給の宮廷楽師長に前大司教より任命されたが、
イタリアよりの帰国後は同じ肩書きで有給に切り替えることが公文書にて約されており、その約束が
新大司教により果たされたものである。
★宮廷楽師長はコンサート・マスターであり、楽長、副楽長(父レオポルト)に次ぐ三番目の役職。宮廷楽団全体を
統率・指揮する首席奏者(モーツァルトの場合は首席ヴァイオリン奏者)。
★副楽長の父レオポルトの年給(諸手当込み)は当時354フローリンであった。
★第三回イタリア旅行に出発するまでの約10ヶ月のザルツブルク滞在中に、9曲の交響曲≪ハ長調(第9番)K.73,イ長調
(第14番)K.114, ト長調(第15番)K.124, ハ長調(第16番)K.128, ト長調(第17番)K.129、ヘ長調(第18番)K.130,
変ホ長調(第19番)K.132,ニ長調(第20番)K.133, イ長調(第21番)K.134)のほか≪リタニア≫変ロ長調(K.125)、
≪レジナ・チェリ”Regina Coeli”≫変ロ長調(K.127)を含む教会音楽や数曲のディヴェルティメント(ニ長調 K.136/125a,
変ロ長調K.137/125b, ヘ長調K.138/125c、ニ長調K.131)などを作曲している。
★★★★★ ★★★★★ ★★★★ ★
1772年10月24日、16歳のモーツァルトはミラノの謝肉祭用オペラ作曲・演奏指導の為、第3回目の
イタリア旅行に父レオポルトと共に旅立ち、今回もインスブルック、トレント、ロヴェレート、ヴェローナを
経由し、11月4日にミラノに到着した。
第1回イタリア旅行中に依頼された今回のミラノの謝肉祭用オペラは≪ルーチョ・シッラ≫
”Lucio Silla” 3幕の音楽劇である。台本はミラノの若い劇場付詩人ジョヴァンニ・デ・ガメッラ
(メタスタージョが補筆)によるものであった。
このオペラは二年前の≪ポントの王、ミトリダーテ≫と同様、謝肉祭シーズンの第一オペラであり、
メインとなる第二オペラにはパイジェッロの≪モンゴルのシスマーノ≫が同じガメッラの台本で
予定されていた。
★ミラノでは謝肉祭シーズンに2曲の新作オペラが上演されることになっており、シーズン幕開けに上演されるのが
第一オペラであり、第二オペラがいわばシーズンのメインで第二オペラは有名なベテラン作曲家に任されていた。
台本と配役表は予め夏頃にはザルツブルクに送られていたと思われるので、モーツァルトはオペラの
全体構成やレチタティーヴォの作曲はミラノ到着前にある程度準備していたものと思われる。
ルーチョ・シッラについて
ルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクス(ラテン語: Lucius Cornelius Sulla Felix、 紀元前138年 - 紀元前78年)は、
共和政ローマ期の軍人・政治家。単にスッラと呼ばれることが多い。イタリア語ではルーチョ・シッラとなる。
スッラは二度ローマへ自らの軍を率いて侵入し、最終的に独裁官(ディクタトル)に就任、領土を拡大したローマを
治める寡頭制政府としての機能を失いかけていた元老院体制の改革を行った。しかしこの改革は強力な独裁官の
権限をもって反対勢力を一網打尽に粛清するという方法も含んでいたために多くの血が流れる事となった。
一連の改革を終えたスッラは無期限の独裁官を辞任し、引退後は政界との関わりを絶ち、ローマから離れた
別荘にて余生を送った。元老院主導の寡頭政を維持するのがスッラの改革の目的であったため、改革をなしえた以上は
自らは退いて元老院に政権を譲るのは当然の帰結であった。
コロレド伯ヒエロニュムス,ザルツブルク大司教 スッラ(シッラ)の頭像
ザルツブルク博物館蔵 ミュンヘン、グリュプトテーク(古代彫刻美術館)蔵
★グリュプトテーク (Glyptothek) は、ドイツのミュンヘンにある古代彫刻専門の美術館である。
同じミュンヘン市内にあるアルテ・ピナコテーク(旧絵画館)と同様、バイエルン国王・ルートヴィヒ1世(在位1825年-
1848年)が設立した美術館である。「グリュプトテーク」はギリシャ語で「彫刻館」の意。
アルテ・ピナコテーク(1836年開館)より若干早く、1830年に開館した。
1771年12月16日ザルツブルク大司教のシュラッテンバッハ伯ジークムント3世が
74歳で逝去した。
★シュラッテンバッハ伯ジークムント3世:Siegmund III. Graf von Schrattenbach 在位1753年 - 1771年。
モーツァルト父子の楽才を認め、なにかと便宜を与えた。
1772年3月14日後任大司教にはコロレド伯ヒエロニュムス(当時39歳)が選ばれ、4月29日に
ザルツブルク入場の儀式が挙行された。新大司教着任の祝典に際し、モーツァルトは
劇的セレナータ≪シピオーネの夢" Il sogno di Scipione" ≫(K.126)を用意し、
演奏会形式で上演したとされている(但し、上演されたという確証はのこされていない)。
★コロレド伯ヒエロニュムス:Hieronymus Graf von Colloredo 1732-1812。
★シピオーネの夢:台本はメタスタージオ。原作は共和政ローマ期の文人キケロ(紀元前106年 - 紀元前43年)の
「スキピオの夢」。シピオーネはカルタゴを征服したローマの武将である。紀元前2世紀頃、ローマ軍司令官の
シピオーネ(T)の夢に貞節の女神コスタンツァ(S)と幸運の女神フォルトゥーナ(S)が現れ結婚をせまる。
シピオーネがコスタンツァを選ぶとフォルトゥーナが怒り狂い嵐を起こす。。。そしてシピオーネは目覚め、
夢は教訓であったことに気がつく。
モーツァルト(当時16歳)は新大司教により、8月21日付で有給(年給150フローリン)の宮廷楽師長に
任命された。これは第1回のイタリア旅行に出る前に無給の宮廷楽師長に前大司教より任命されたが、
イタリアよりの帰国後は同じ肩書きで有給に切り替えることが公文書にて約されており、その約束が
新大司教により果たされたものである。
★宮廷楽師長はコンサート・マスターであり、楽長、副楽長(父レオポルト)に次ぐ三番目の役職。宮廷楽団全体を
統率・指揮する首席奏者(モーツァルトの場合は首席ヴァイオリン奏者)。
★副楽長の父レオポルトの年給(諸手当込み)は当時354フローリンであった。
★第三回イタリア旅行に出発するまでの約10ヶ月のザルツブルク滞在中に、9曲の交響曲≪ハ長調(第9番)K.73,イ長調
(第14番)K.114, ト長調(第15番)K.124, ハ長調(第16番)K.128, ト長調(第17番)K.129、ヘ長調(第18番)K.130,
変ホ長調(第19番)K.132,ニ長調(第20番)K.133, イ長調(第21番)K.134)のほか≪リタニア≫変ロ長調(K.125)、
≪レジナ・チェリ”Regina Coeli”≫変ロ長調(K.127)を含む教会音楽や数曲のディヴェルティメント(ニ長調 K.136/125a,
変ロ長調K.137/125b, ヘ長調K.138/125c、ニ長調K.131)などを作曲している。
★★★★★ ★★★★★ ★★★★ ★
1772年10月24日、16歳のモーツァルトはミラノの謝肉祭用オペラ作曲・演奏指導の為、第3回目の
イタリア旅行に父レオポルトと共に旅立ち、今回もインスブルック、トレント、ロヴェレート、ヴェローナを
経由し、11月4日にミラノに到着した。
第1回イタリア旅行中に依頼された今回のミラノの謝肉祭用オペラは≪ルーチョ・シッラ≫
”Lucio Silla” 3幕の音楽劇である。台本はミラノの若い劇場付詩人ジョヴァンニ・デ・ガメッラ
(メタスタージョが補筆)によるものであった。
このオペラは二年前の≪ポントの王、ミトリダーテ≫と同様、謝肉祭シーズンの第一オペラであり、
メインとなる第二オペラにはパイジェッロの≪モンゴルのシスマーノ≫が同じガメッラの台本で
予定されていた。
★ミラノでは謝肉祭シーズンに2曲の新作オペラが上演されることになっており、シーズン幕開けに上演されるのが
第一オペラであり、第二オペラがいわばシーズンのメインで第二オペラは有名なベテラン作曲家に任されていた。
台本と配役表は予め夏頃にはザルツブルクに送られていたと思われるので、モーツァルトはオペラの
全体構成やレチタティーヴォの作曲はミラノ到着前にある程度準備していたものと思われる。
ルーチョ・シッラについて
ルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクス(ラテン語: Lucius Cornelius Sulla Felix、 紀元前138年 - 紀元前78年)は、
共和政ローマ期の軍人・政治家。単にスッラと呼ばれることが多い。イタリア語ではルーチョ・シッラとなる。
スッラは二度ローマへ自らの軍を率いて侵入し、最終的に独裁官(ディクタトル)に就任、領土を拡大したローマを
治める寡頭制政府としての機能を失いかけていた元老院体制の改革を行った。しかしこの改革は強力な独裁官の
権限をもって反対勢力を一網打尽に粛清するという方法も含んでいたために多くの血が流れる事となった。
一連の改革を終えたスッラは無期限の独裁官を辞任し、引退後は政界との関わりを絶ち、ローマから離れた
別荘にて余生を送った。元老院主導の寡頭政を維持するのがスッラの改革の目的であったため、改革をなしえた以上は
自らは退いて元老院に政権を譲るのは当然の帰結であった。
コロレド伯ヒエロニュムス,ザルツブルク大司教 スッラ(シッラ)の頭像
ザルツブルク博物館蔵 ミュンヘン、グリュプトテーク(古代彫刻美術館)蔵
★グリュプトテーク (Glyptothek) は、ドイツのミュンヘンにある古代彫刻専門の美術館である。
同じミュンヘン市内にあるアルテ・ピナコテーク(旧絵画館)と同様、バイエルン国王・ルートヴィヒ1世(在位1825年-
1848年)が設立した美術館である。「グリュプトテーク」はギリシャ語で「彫刻館」の意。
アルテ・ピナコテーク(1836年開館)より若干早く、1830年に開館した。
モーツァルトの第2回イタリア旅行 [モーツァルト]
モーツァルト父子は1771年8月13日にザルツブルクを貸馬車で発ち、インスブルック、
トレント、ヴェローナを経て同月21日今回のイタリア旅行の目的地ミラノに到着した。
前回の第一回イタリア旅行より3月28日に帰国してから約4ヶ月半をザルツブルクで
過ごしたことになる。
★この間パドヴァで依頼を受けたオラトリオ≪救われたベトゥーリア≫K.118/74cの他交響曲(第12番)ト長調K.110/75bや
≪レジナ・チェリ Regina Coeli「天の女王」ハ長調 K.108(74d)を含む教会音楽数曲を作曲している。
★≪レジナ・チェリ≫とは聖母マリアにキリストの復活を祝う音楽の一つで、モーツァルトにはこの他にK.127と
K.276(321b)の計3作品がある。
今回のミラノでの目的は、この年の10月に、女帝マリア・テレジアの四男である
フェルディナンド大公とモデナ大公女マリア・ヴェアトリーチェ・リッチャルダ・デステの婚儀が
ミラノで挙行されることになり、その為の祝典劇の作曲をすることである。
★祝典劇:フェスタ・テアトラーレ。レオポルトはその書簡の中では「劇場用セレナータ」だとしている。
★フェルディナント・フォン・エスターライヒ:Ferdinand von Österreich, 1754年6月1日 - 1806年12月24日
オーストリア女帝マリア・テレジアの四男。オーストリア大公(後にオーストリア=エステ大公)。
結婚と同時にミラノの総督、その後1780年長兄の神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世によりロンバルディア総督(副王)に
任命された。ロンバルディア大公国(首都ミラノ)は当時ハプスブルク家所轄領。
★祝典劇作曲の打診は前回(第一回)のイタリア旅行で帰路立ち寄ったヴェローナ滞在中にあり、その正式な
依頼状がザルツブルクに帰郷後もたらされたのである。
15歳のモーツァルトはミラノ到着後8月24日に5歳年上の姉、ナンネルに今回の馬車の旅に
ついて 手紙で次の通り語っている。
≪最愛のお姉さん!旅の間ずっと、ひどい暑さをがまんしました。その上、砂ぼこりがしじゅう
無遠慮にぼくらを悩まし続けたので、もし賢明に振舞わなかったら、きっと息がつまって、疲れ
はてたことでしょう。当地はまるひと月、雨が降っていません(とミラノの人たちが言っています。)≫
モーツァルト書簡全集
ウィーンの台本作者ジュゼッペ・パリー二による祝典劇「アルバのアスカーニョ」の台本は、
8月29日にミラノのモーツァルトに届けられた。その後台本の一部改定もありバリーニに返却
されたりしており、最終稿は9月初頭に届いた。初演は10月17日であり、前回のオペラ
「ポントの王ミトリダーテ」と同様非常に限られた時間での作曲を余儀なくされたが、前回の
経験を大いに生かしながら作曲を続けた。アスカーニョ役はロンドンでモーツァルトに歌唱
指導をしてくれたカストラート歌手のマンツオーリであり、アチェステ役のテノールも第二回
ウィーン旅行からの知り合いであったジュゼッペ・ティバルディであったことは今回の作曲に
好影響を及ぼしたであろう。
祝典劇は祝典行事の中心となるオペラ・セリアに続いて上演されることになっており、今回の
オペラ・セリアは当時72歳の老大家ヨハン・アドルフォ・ハッセ(1699- 1783)がウィーンの女帝
マリア・テレジアにより推挙され、「ルジェーロ」(台本:メタスタージョ)を作曲したのである。
★ヨハン・アドルフォ・ハッセ:Johann Adolf Hasse 1737年には女帝マリア・テレジア(当時20歳)の音楽教師を
しており、マリア・テレジアが彼の作品を高く評価している。
★オペラ「ルッジェロ」は16世紀の詩人アリオスト(LodovicoAriosto)の「オルランド・フリオーソ」から題材をとった伝統的で
重厚なオペラ・セリアである。但し、婚姻祝賀用としてはあまりにも重厚で レチタティーヴォが長すぎ、評価は好ましくなかった。
婚礼式典が開かれた。10月15日夕刻、フェルディナント大公が到着、ミラノ大聖堂(ドゥオモ)での
婚礼に続き宮廷での祝宴、そして16日にハッセ作曲のオペラ・セリア「ルジェーロ」が上演された。
翌日10月17日15歳のモーツァルト作曲によるセレナータ「アルバのアスカーニョ」が上演された
のである。
フェルディナント総督 1790年頃 ミラノの大聖堂の最高峰に輝く黄金のマリア像
作者不明 完成・一般公開:1774年12月30日
★ミラノの大聖堂(ドゥオーモ”Duomo”)は1386年に建設が開始され公式には1965年に完成したとされている。
一番高い位置に黄金のマリア像(La Madonnina)が輝いている。このマリア像が完成、一般公開されたのは1774年
12月30日で、フェルディナントの婚礼式より約3年後であった。従い、モーツァルトはこのマリア像は見ていない。
トレント、ヴェローナを経て同月21日今回のイタリア旅行の目的地ミラノに到着した。
前回の第一回イタリア旅行より3月28日に帰国してから約4ヶ月半をザルツブルクで
過ごしたことになる。
★この間パドヴァで依頼を受けたオラトリオ≪救われたベトゥーリア≫K.118/74cの他交響曲(第12番)ト長調K.110/75bや
≪レジナ・チェリ Regina Coeli「天の女王」ハ長調 K.108(74d)を含む教会音楽数曲を作曲している。
★≪レジナ・チェリ≫とは聖母マリアにキリストの復活を祝う音楽の一つで、モーツァルトにはこの他にK.127と
K.276(321b)の計3作品がある。
今回のミラノでの目的は、この年の10月に、女帝マリア・テレジアの四男である
フェルディナンド大公とモデナ大公女マリア・ヴェアトリーチェ・リッチャルダ・デステの婚儀が
ミラノで挙行されることになり、その為の祝典劇の作曲をすることである。
★祝典劇:フェスタ・テアトラーレ。レオポルトはその書簡の中では「劇場用セレナータ」だとしている。
★フェルディナント・フォン・エスターライヒ:Ferdinand von Österreich, 1754年6月1日 - 1806年12月24日
オーストリア女帝マリア・テレジアの四男。オーストリア大公(後にオーストリア=エステ大公)。
結婚と同時にミラノの総督、その後1780年長兄の神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世によりロンバルディア総督(副王)に
任命された。ロンバルディア大公国(首都ミラノ)は当時ハプスブルク家所轄領。
★祝典劇作曲の打診は前回(第一回)のイタリア旅行で帰路立ち寄ったヴェローナ滞在中にあり、その正式な
依頼状がザルツブルクに帰郷後もたらされたのである。
15歳のモーツァルトはミラノ到着後8月24日に5歳年上の姉、ナンネルに今回の馬車の旅に
ついて 手紙で次の通り語っている。
≪最愛のお姉さん!旅の間ずっと、ひどい暑さをがまんしました。その上、砂ぼこりがしじゅう
無遠慮にぼくらを悩まし続けたので、もし賢明に振舞わなかったら、きっと息がつまって、疲れ
はてたことでしょう。当地はまるひと月、雨が降っていません(とミラノの人たちが言っています。)≫
モーツァルト書簡全集
ウィーンの台本作者ジュゼッペ・パリー二による祝典劇「アルバのアスカーニョ」の台本は、
8月29日にミラノのモーツァルトに届けられた。その後台本の一部改定もありバリーニに返却
されたりしており、最終稿は9月初頭に届いた。初演は10月17日であり、前回のオペラ
「ポントの王ミトリダーテ」と同様非常に限られた時間での作曲を余儀なくされたが、前回の
経験を大いに生かしながら作曲を続けた。アスカーニョ役はロンドンでモーツァルトに歌唱
指導をしてくれたカストラート歌手のマンツオーリであり、アチェステ役のテノールも第二回
ウィーン旅行からの知り合いであったジュゼッペ・ティバルディであったことは今回の作曲に
好影響を及ぼしたであろう。
祝典劇は祝典行事の中心となるオペラ・セリアに続いて上演されることになっており、今回の
オペラ・セリアは当時72歳の老大家ヨハン・アドルフォ・ハッセ(1699- 1783)がウィーンの女帝
マリア・テレジアにより推挙され、「ルジェーロ」(台本:メタスタージョ)を作曲したのである。
★ヨハン・アドルフォ・ハッセ:Johann Adolf Hasse 1737年には女帝マリア・テレジア(当時20歳)の音楽教師を
しており、マリア・テレジアが彼の作品を高く評価している。
★オペラ「ルッジェロ」は16世紀の詩人アリオスト(LodovicoAriosto)の「オルランド・フリオーソ」から題材をとった伝統的で
重厚なオペラ・セリアである。但し、婚姻祝賀用としてはあまりにも重厚で レチタティーヴォが長すぎ、評価は好ましくなかった。
婚礼式典が開かれた。10月15日夕刻、フェルディナント大公が到着、ミラノ大聖堂(ドゥオモ)での
婚礼に続き宮廷での祝宴、そして16日にハッセ作曲のオペラ・セリア「ルジェーロ」が上演された。
翌日10月17日15歳のモーツァルト作曲によるセレナータ「アルバのアスカーニョ」が上演された
のである。
フェルディナント総督 1790年頃 ミラノの大聖堂の最高峰に輝く黄金のマリア像
作者不明 完成・一般公開:1774年12月30日
★ミラノの大聖堂(ドゥオーモ”Duomo”)は1386年に建設が開始され公式には1965年に完成したとされている。
一番高い位置に黄金のマリア像(La Madonnina)が輝いている。このマリア像が完成、一般公開されたのは1774年
12月30日で、フェルディナントの婚礼式より約3年後であった。従い、モーツァルトはこのマリア像は見ていない。
モーツァルトの第1回イタリア旅行(その2) [モーツァルト]
1770年7月10日にローマを駅馬車で発ったモーツァルト(14歳)と父レオポルトは往路とは
異なるルートをとり、ロレート経由アドリア海沿岸を北上し、一路ボローニャを目指した。
悪路の為に馬車の揺れが非常に激しく、レオポルトの足の傷口が開いてしまうといった
過酷な旅の末、7月20日に無事ボローニャに到着した。
ボローニャではモーツァルトが変声期となり、父レオポルトは次の様にザルツブルクの妻
アンナ・マリアに語っている。
≪今、あの子は声を出して歌えません。歌う声がまったく出なくなり、低い音と高い音も
出ず、きれいな音は五つとありません。これはあの子をたいへんいらだたせていることです。
自分でしょっちゅう歌いたがっている自分の曲が歌えないのですから。≫
レオポルトよりザルツブルクの妻に ボローニャ、1770年8月25日 モーツァルト書簡全集
前回のボローニャ滞在時にも世話になった伯爵が郊外の別荘を提供してくれたおかげで親子は
8月10日から9月末までこの別荘で過ごし、レオポルトは足の治療にじっくり取り組むことができた。
別荘からボローニャの町に戻ったあと、前回と同様マルティーニ神父に伝統的な古様式を集中的に
学んだ。勉強を終えたヴォルフガングは、同神父の計らいで名誉あるボローニャの音楽協会
アカデミア・フィラルモニカの入会試験を受け、入会を認められたのである。
★入会試験で作曲した曲:≪まず神の御国を求めよ”Quarite primum regnum Dei”≫K.86/73w
試験は閉じ込められた室内でその場で選ばれたグレゴリオ聖歌旋律ー曲題のアンティフォナをバス声部におき
厳格な対位法様式による4声体に仕立てることであった。
ボローニャ滞在中の7月27日、ミラノからオペラの台本と配役表を受け取っている。
オペラの題名は≪ポントの王ミトリダーテ≫。
★≪ポントの王ミトリダーテ≫:台本はヴィットーリオ・アメデオ・チーニャーサンティ作。すでに三年前にトリノで
クィリーノ・ガスパーニ(1721-1778)によって作曲・上演され大成功をおさめていた。モーツァルトに渡されたのは
その台本に改定を加えたものであった。
親子はボローニャを10月13日頃に発ち、パルマ、ビアチェンツァを経て18日にミラノに到着した。
モーツァルトは早速レチタティーヴォの作曲にとりかかった。当時のオペラはプリマ・ドンナ、プリモ・
ウォーモ、そしてテノール歌手(主要三役)の声の特性を最大限引き出せる様に歌手の注文も
聞きながら作曲しなければならなかった。
歌手のミラノ到着が遅れたり、厳しい要求があったりして紆余曲折もあったが、12月17日には
60名強のフル編成のオーケストラの練習、19日から2回の劇場での練習と1回のレチタティーヴォ
の練習が行われ、23日には劇場での通し稽古(prova generale)となった。
そして。。。
ミラノの大公家宮廷劇場(Teatro Regio Ducale)
1747年当時の同劇場での仮面舞踏会の銅版画(マルカントニオ・ダル・レ作)の一部
★ポント王ミトリダテ Mitridate, re di Ponto K.87(74a) が1770年12月26日初演された。
その後「アルバのアスカーニョ」(1771年10月15日)と「ルッチョ・シッラ」(1772年12月26日)も初演されている。
★1776年2月25日、謝肉祭のガラ・コンサート後に焼失し、女帝マリア・テレジアの承認を得て新劇場は以前
サンタ・マリア・アラ・スカラ教会のあった場所に建設され、これが劇場の名称となった。教会は取り壊され、
ピエトロ・マルリアーニ、ピエトロ・ノゼッテイ、アントニオおよびジュゼッペ・フェが2年を費やして新劇場を完成した。
新劇場は「公国立スカラ新劇場(Nuovo Regio Ducal Teatro alla Scala)」の名で1778年 8月3日に落成し、
アントニオ・サリエリ作の 「見出されたエウローパ Europa Riconosciuta (エウロパ・リコノシウータ」で
こけら落しを行った。今日の『スカラ座』の誕生である。
異なるルートをとり、ロレート経由アドリア海沿岸を北上し、一路ボローニャを目指した。
悪路の為に馬車の揺れが非常に激しく、レオポルトの足の傷口が開いてしまうといった
過酷な旅の末、7月20日に無事ボローニャに到着した。
ボローニャではモーツァルトが変声期となり、父レオポルトは次の様にザルツブルクの妻
アンナ・マリアに語っている。
≪今、あの子は声を出して歌えません。歌う声がまったく出なくなり、低い音と高い音も
出ず、きれいな音は五つとありません。これはあの子をたいへんいらだたせていることです。
自分でしょっちゅう歌いたがっている自分の曲が歌えないのですから。≫
レオポルトよりザルツブルクの妻に ボローニャ、1770年8月25日 モーツァルト書簡全集
前回のボローニャ滞在時にも世話になった伯爵が郊外の別荘を提供してくれたおかげで親子は
8月10日から9月末までこの別荘で過ごし、レオポルトは足の治療にじっくり取り組むことができた。
別荘からボローニャの町に戻ったあと、前回と同様マルティーニ神父に伝統的な古様式を集中的に
学んだ。勉強を終えたヴォルフガングは、同神父の計らいで名誉あるボローニャの音楽協会
アカデミア・フィラルモニカの入会試験を受け、入会を認められたのである。
★入会試験で作曲した曲:≪まず神の御国を求めよ”Quarite primum regnum Dei”≫K.86/73w
試験は閉じ込められた室内でその場で選ばれたグレゴリオ聖歌旋律ー曲題のアンティフォナをバス声部におき
厳格な対位法様式による4声体に仕立てることであった。
ボローニャ滞在中の7月27日、ミラノからオペラの台本と配役表を受け取っている。
オペラの題名は≪ポントの王ミトリダーテ≫。
★≪ポントの王ミトリダーテ≫:台本はヴィットーリオ・アメデオ・チーニャーサンティ作。すでに三年前にトリノで
クィリーノ・ガスパーニ(1721-1778)によって作曲・上演され大成功をおさめていた。モーツァルトに渡されたのは
その台本に改定を加えたものであった。
親子はボローニャを10月13日頃に発ち、パルマ、ビアチェンツァを経て18日にミラノに到着した。
モーツァルトは早速レチタティーヴォの作曲にとりかかった。当時のオペラはプリマ・ドンナ、プリモ・
ウォーモ、そしてテノール歌手(主要三役)の声の特性を最大限引き出せる様に歌手の注文も
聞きながら作曲しなければならなかった。
歌手のミラノ到着が遅れたり、厳しい要求があったりして紆余曲折もあったが、12月17日には
60名強のフル編成のオーケストラの練習、19日から2回の劇場での練習と1回のレチタティーヴォ
の練習が行われ、23日には劇場での通し稽古(prova generale)となった。
そして。。。
ミラノの大公家宮廷劇場(Teatro Regio Ducale)
1747年当時の同劇場での仮面舞踏会の銅版画(マルカントニオ・ダル・レ作)の一部
★ポント王ミトリダテ Mitridate, re di Ponto K.87(74a) が1770年12月26日初演された。
その後「アルバのアスカーニョ」(1771年10月15日)と「ルッチョ・シッラ」(1772年12月26日)も初演されている。
★1776年2月25日、謝肉祭のガラ・コンサート後に焼失し、女帝マリア・テレジアの承認を得て新劇場は以前
サンタ・マリア・アラ・スカラ教会のあった場所に建設され、これが劇場の名称となった。教会は取り壊され、
ピエトロ・マルリアーニ、ピエトロ・ノゼッテイ、アントニオおよびジュゼッペ・フェが2年を費やして新劇場を完成した。
新劇場は「公国立スカラ新劇場(Nuovo Regio Ducal Teatro alla Scala)」の名で1778年 8月3日に落成し、
アントニオ・サリエリ作の 「見出されたエウローパ Europa Riconosciuta (エウロパ・リコノシウータ」で
こけら落しを行った。今日の『スカラ座』の誕生である。
モーツァルトの第1回イタリア旅行(その1) [モーツァルト]
モーツァルトは第2回目のウィーン旅行から帰郷後、イタリアへの旅に出るまでの
約11ヶ月をザルツブルクで過ごしている。
この期間中(1769年1月5日~12月12日)、ウィーンでは実現できなかったモーツァルトの
最初のオペラ・ブッファである「ラ・フィンタ・センプリチェ(偽りの馬鹿娘)」の上演を
ザルツブルクの大司教宮廷で行い(1769年5月)、ミサ曲や数曲の管弦楽セレナードと
カッサシオンやメヌエットなどを作曲している。
★ラ・フィンタ・センプリチェについては弊記事「モーツァルトの2度目のウィーン旅行」ご参照。
★カッサシオン(Kassation(独)cassazione(伊)cassation(仏・英))とは、17/18世紀に流行した管弦楽曲の
形式の1つ。セレナーデやディヴェルティメントと同様、小曲を連ねた多楽章の形式をとり、晩餐会などのパーティで
演奏された娯楽・祝典音楽(食卓音楽を含む)の1つである。ディヴェルティメント、カッサシオン、セレナーデの区別は
明確ではなく、三者は実質的にほぼ同じものであると考えられ、快活な性格をもつ小編成の音楽である。
当時の大司教シュラッテンバッハ伯ジークムント3世の特別の計らいでイタリアへの旅行の
許可がおり、同時にヴォルフガングには宮廷コンツェルトマイスター(宮廷楽師長)の称号が
与えられた(但し無給。イタリア旅行においてこうした肩書きが有効であるとの判断があったのであろう)。
更に、親子に対し120ドゥカーテンが与えられている。又、帰国後は同じ肩書きで有給に
切り替えることを約すとの公文書も作成されている。
★シュラッテンバッハ伯ジークムント3世(Siegmund III. Graf von Schrattenbach)在位1753年 - 1771年
★宮廷楽師長:当時もう一人の楽師長はミヒャエル・ハイドン(32歳)であった。
★ヨハン・ミヒャエル・ハイドン(Johann Michael Haydn, 1737年9月14日 - 1806年8月10日)は、オーストリアの
ローラウに生まれ、ザルツブルクで没した古典派の作曲家。フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの5歳下の弟。
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
1769年12月13日父レオポルトと共に12歳のヴォルフガングは貸馬車でザルツブルクを発ち、
インスブルックを経てブレンナー峠を越えトレント経由で、12月27日にヴェローナに着いた。
翌年1770年1月5日にヴェローナのアカデミア・フィラルモニカで開催した演奏会は大成功を
おさめ、同地に滞在した記念に、ダッラ・ローザという画家がヴォルフガングの肖像画を描いた(左側画像)。
ヴェローナには1月10日まで滞在し、その後、マントヴァに立ち寄った。ここでも演奏会を催し、
絶賛を博した。マントバをあとにした親子はクレモナに着き、これまでに滞在した各地と同様
クレモナでもオペラを聴きにでかけ、1月23日にミラノに到着した。
ミラノでも親子はオペラを聴きに劇場にかよったのである。又、前古典派を代表する長老作曲家
ジョヴァン二・バッティスタ・サンマルティーニをはじめとする高名な音楽家と親しく交流した。
★ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ:Giovanni Battista Sammartini(1700-1775)イタリアの作曲家 、
オルガニスト、聖歌隊指揮者と教師。
ミラノでの最大の成果は、ヴォルフガングが謝肉祭シーズンに上演されるオペラ・セリアの
作曲依頼を受けたことであろう。世話になっていたフェルミアン伯爵邸でオペラ作曲の契約書を
締結した親子は3月15日にミラノを発ちローディに一泊した。
ローディにおいて、最初の弦楽四重奏曲ト長調K.80(73f)が作曲された(詳細は本記事末尾に)。
その後、パルマ、モデナを経て3月24日にボローニャに到着した。
ボローニャでも音楽会を開催し、イタリア随一の音楽理論家・作曲家として尊敬されていた
ジョヴァンニ ・バッティスタ・マルティーニ神父と知り合い、二度にわたって、フーガ作曲の
指導を受けた。
★ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ:Giovanni Battista Martini, 1706年4月24日 - 1784年8月3日、
ボローニャの傑出した音楽理論家、作曲家。ヨハン・クリスティアン・バッハやヨゼフ・ミスリヴェチェク、アンドレ=エルネスト=
モデスト・グレトリらに厳格対位法を指導した。
親子は3月29日にボローニャを発ち翌日フィレンツェに着き、到着後間もなくハプスブルク家
出身のトスカーナ大公レオポルトに謁見した。ウィーンの女帝マリア・テレジアの次男であり、
神聖ローマ皇帝ヨーゼフ二世の弟にあたり、後に、皇帝レオポルト二世となるこの大公とは、
モーツァルト親子は、すでに、第一回ウィーン旅行の折の御前演奏で面識があった。
謁見の翌日、離宮ヴィッラ・ディ・ポッジョ・インペリアーレ(Villa di Poggio Imperiale)に
招かれ演奏した。
モーツァルト親子はフィレンツェを4月上旬には出発し、さらに南下を続けシエナ、ヴィテルボを
経由してローマに着いた。両人は同日カトリックの総本山であるサン・ピエトロ大聖堂を訪れ、
パッラヴィッチーニ枢機卿に初めて会っている。この枢機卿はその後何かと親子の世話を
してくれることになる。
★サン・ピエトロ大聖堂のイタリア語名称:Basilica di San Pietro in Vaticano(ヴァティカーノ丘陵にある聖ペテロのバシリカ)
ヴェローナのモーツァルト(14歳) 黄金拍車勲章をつけたモーツァルト(21歳)
チェンバロの前に広げられた楽譜は未完のモルトアレグロ
K.72a ト長調
★黄金拍車勲章:1770年7月5日、当時14歳のモーツァルトは教皇より黄金拍車勲章を受けたが、ザルツブルク
帰着後、肖像画を描く最適な画家に巡りあえず結局7年後、21歳の時にザルツブルクの画家に描かせ、ボローニャの
マルティーニ神父に寄贈された。
約11ヶ月をザルツブルクで過ごしている。
この期間中(1769年1月5日~12月12日)、ウィーンでは実現できなかったモーツァルトの
最初のオペラ・ブッファである「ラ・フィンタ・センプリチェ(偽りの馬鹿娘)」の上演を
ザルツブルクの大司教宮廷で行い(1769年5月)、ミサ曲や数曲の管弦楽セレナードと
カッサシオンやメヌエットなどを作曲している。
★ラ・フィンタ・センプリチェについては弊記事「モーツァルトの2度目のウィーン旅行」ご参照。
★カッサシオン(Kassation(独)cassazione(伊)cassation(仏・英))とは、17/18世紀に流行した管弦楽曲の
形式の1つ。セレナーデやディヴェルティメントと同様、小曲を連ねた多楽章の形式をとり、晩餐会などのパーティで
演奏された娯楽・祝典音楽(食卓音楽を含む)の1つである。ディヴェルティメント、カッサシオン、セレナーデの区別は
明確ではなく、三者は実質的にほぼ同じものであると考えられ、快活な性格をもつ小編成の音楽である。
当時の大司教シュラッテンバッハ伯ジークムント3世の特別の計らいでイタリアへの旅行の
許可がおり、同時にヴォルフガングには宮廷コンツェルトマイスター(宮廷楽師長)の称号が
与えられた(但し無給。イタリア旅行においてこうした肩書きが有効であるとの判断があったのであろう)。
更に、親子に対し120ドゥカーテンが与えられている。又、帰国後は同じ肩書きで有給に
切り替えることを約すとの公文書も作成されている。
★シュラッテンバッハ伯ジークムント3世(Siegmund III. Graf von Schrattenbach)在位1753年 - 1771年
★宮廷楽師長:当時もう一人の楽師長はミヒャエル・ハイドン(32歳)であった。
★ヨハン・ミヒャエル・ハイドン(Johann Michael Haydn, 1737年9月14日 - 1806年8月10日)は、オーストリアの
ローラウに生まれ、ザルツブルクで没した古典派の作曲家。フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの5歳下の弟。
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
1769年12月13日父レオポルトと共に12歳のヴォルフガングは貸馬車でザルツブルクを発ち、
インスブルックを経てブレンナー峠を越えトレント経由で、12月27日にヴェローナに着いた。
翌年1770年1月5日にヴェローナのアカデミア・フィラルモニカで開催した演奏会は大成功を
おさめ、同地に滞在した記念に、ダッラ・ローザという画家がヴォルフガングの肖像画を描いた(左側画像)。
ヴェローナには1月10日まで滞在し、その後、マントヴァに立ち寄った。ここでも演奏会を催し、
絶賛を博した。マントバをあとにした親子はクレモナに着き、これまでに滞在した各地と同様
クレモナでもオペラを聴きにでかけ、1月23日にミラノに到着した。
ミラノでも親子はオペラを聴きに劇場にかよったのである。又、前古典派を代表する長老作曲家
ジョヴァン二・バッティスタ・サンマルティーニをはじめとする高名な音楽家と親しく交流した。
★ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ:Giovanni Battista Sammartini(1700-1775)イタリアの作曲家 、
オルガニスト、聖歌隊指揮者と教師。
ミラノでの最大の成果は、ヴォルフガングが謝肉祭シーズンに上演されるオペラ・セリアの
作曲依頼を受けたことであろう。世話になっていたフェルミアン伯爵邸でオペラ作曲の契約書を
締結した親子は3月15日にミラノを発ちローディに一泊した。
ローディにおいて、最初の弦楽四重奏曲ト長調K.80(73f)が作曲された(詳細は本記事末尾に)。
その後、パルマ、モデナを経て3月24日にボローニャに到着した。
ボローニャでも音楽会を開催し、イタリア随一の音楽理論家・作曲家として尊敬されていた
ジョヴァンニ ・バッティスタ・マルティーニ神父と知り合い、二度にわたって、フーガ作曲の
指導を受けた。
★ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ:Giovanni Battista Martini, 1706年4月24日 - 1784年8月3日、
ボローニャの傑出した音楽理論家、作曲家。ヨハン・クリスティアン・バッハやヨゼフ・ミスリヴェチェク、アンドレ=エルネスト=
モデスト・グレトリらに厳格対位法を指導した。
親子は3月29日にボローニャを発ち翌日フィレンツェに着き、到着後間もなくハプスブルク家
出身のトスカーナ大公レオポルトに謁見した。ウィーンの女帝マリア・テレジアの次男であり、
神聖ローマ皇帝ヨーゼフ二世の弟にあたり、後に、皇帝レオポルト二世となるこの大公とは、
モーツァルト親子は、すでに、第一回ウィーン旅行の折の御前演奏で面識があった。
謁見の翌日、離宮ヴィッラ・ディ・ポッジョ・インペリアーレ(Villa di Poggio Imperiale)に
招かれ演奏した。
モーツァルト親子はフィレンツェを4月上旬には出発し、さらに南下を続けシエナ、ヴィテルボを
経由してローマに着いた。両人は同日カトリックの総本山であるサン・ピエトロ大聖堂を訪れ、
パッラヴィッチーニ枢機卿に初めて会っている。この枢機卿はその後何かと親子の世話を
してくれることになる。
★サン・ピエトロ大聖堂のイタリア語名称:Basilica di San Pietro in Vaticano(ヴァティカーノ丘陵にある聖ペテロのバシリカ)
ヴェローナのモーツァルト(14歳) 黄金拍車勲章をつけたモーツァルト(21歳)
チェンバロの前に広げられた楽譜は未完のモルトアレグロ
K.72a ト長調
★黄金拍車勲章:1770年7月5日、当時14歳のモーツァルトは教皇より黄金拍車勲章を受けたが、ザルツブルク
帰着後、肖像画を描く最適な画家に巡りあえず結局7年後、21歳の時にザルツブルクの画家に描かせ、ボローニャの
マルティーニ神父に寄贈された。
モーツァルトの2度目のウィーン旅行 [モーツァルト]
1767年9月11日モーツァルト一家は従僕のベルンハントを伴い、再びウィーンに向けて馬車を駆った。
モーツァルト(11歳)、父レオポルト(47歳)、母アンナ・マリア(46歳)、姉ナンネル(16歳)である。
★ハプスブルク君主国の首都ウィーンへの第一回目の旅行は1762年9月18日ー1763年1月5日
今回の旅は、前年ザルツブルクに帰国した約3年半に及ぶパリ・ロンドン中心の「西方への大旅行」
(1763年6月9日ー1766年11月29日)に次ぐ神童モーツァルトの通算4回目の旅である。
西方への大旅行から帰郷し、今回、二度目のウィーンへの旅にでるまでの約9ヶ月の間、
モーツァルトは故郷ザルツブルクにおいて、いくつかの作品を手がけているが、この時期の
代表的な作品としては次の2作品があげられる。
①宗教的ジングシュピール「第一戒律の責務"Die Schuldigkeit des ersten Gebots(第一部)」K.35
★1767年3月12日にザルツブルクで初演されたオラトリオであり、内容は宗教的な逸話で、全体は3部に分かれる。
第1部をモーツァルト(11歳)が作曲し、 第2部は当時宮廷楽師長のミハエル・ハイドン(30歳)が作曲、第3部は
宮廷オルガン奏者アードルガッサー(38歳)が作曲した。
★この様な大作を10歳の子供が作曲したとは大司教も信じられず、モーツァルトを1週間閉じ込め宗教的なカンタータを
作曲させ、楽才を試したのである。尚、この時作曲されたのがドイツ語カンタータ「聖墓の音楽”Grabmusik”」(K.42/35a)である。
②ラテン語音楽劇(喜劇)「アポロとヒアチントゥス”Apollo et Hyacinthus”」K.38
★11歳になったばかりのモーツァルトが作曲した この音楽劇は前奏曲(イントラーダ)をいれると全体で10曲 から
構成されている。ザルツブル大学恒例の学年末の授賞式に際して上演された。ギリシャ神話に取材して
書かれている。アポロ(羊飼いの装い)やヒアチントゥス(ラケダイモンの王の息子)が登場する。神話では美少年の
ヒアチントゥスを競うが、この音楽劇では王の娘メリアの愛をアポロとゼフィリスが競う物語としている。
今回のウィーンへの旅の主たる目的は女帝(皇太后)マリア・テレジアの第九皇女である、
マリア・ヨゼファ・ガブリエラ(当時16歳)とナポリ王フェルディナント(当時16歳)の婚礼に
合わせて、ヴォルクガングと姉のナンネルを王侯貴族に披露することであった。
一家は1767年9月15日にウィーンに到着した。
ところが折から流行し始めていた天然痘に花嫁であるマリア・ヨゼファが感染し婚礼をまたずして
10月6日に昇天してしまったのである。
★ナポリ王フェルディナント:フェルディナンド1世(Ferdinando I, 1751年1月12日 - 1825年1月4日)は、両シチリア王国の
最初の王(在位:1815年 - 1825年)。シチリア王としてはフェルディナンド3世(在位:1759年 - 1815年)、ナポリ王としては
フェルディナンド4世(在位:1759年 - 1806年、1815年)を名乗っていた。スペイン王カルロス3世の三男、カルロス4世の弟。
結局、神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの娘でフランス王妃マリー・アントワネット(第11女)の姉であり、
急逝したマリア・ヨゼファー(第9女)の妹(第10女)であるマリア・カロリーナと結婚し16子をもうけた。
ウィーンに滞在していては感染しかねないことを危惧したモーツァルト一家は急遽ウィーンを離れ、
オルミュッツに避難したが、時すでに遅く、ヴォルフガングが発病し、更にナンネルも感染した。
ヴォルフガングの病状は重く、生死の境をさまよったが、一家に好意的なオルミュッツの
ポトシュターツキー伯爵邸に引き取られ適切な治療を受けることが出来たおかげで一命を
とりとめた。この為、一家は12月20日過ぎまで同地に留まることを余儀なくされた。
★オルミュッツ:独語でオルミュッツ(Olmütz)、チェコ語でオロモウツ(Olomouc)。現在のチェコ第5の都市。
当時はモラヴィア(独:メーレン)の都市でハプスブルク家所領(オーストラリア領)。
モーツァルト(当時11歳)の最初の手紙がオルミュッツ滞在中に書かれているが、
残念ながらこの手紙は失われている。
★最初の手紙:1767年11月10日付の父レオポルトよりザルツブルクの住居の大家ハーゲナウアーに 宛てた書簡で、
モーツァルトの手紙(ハーゲナウアーの息子のイグナーツ・ヨーゼフ宛)を同封する旨記載している。この手紙が
レオポルトの書簡に言及されている最初のモーツァルトの手紙ではある。但し、記録には残されていないが、恐らく
モーツアルトはもっと前に故郷ザルツブルクで手紙を書いているものと思われる。
1768年1月10日にウィーンに戻り、1月19日に皇太后マリア・テレジアとその長男で神聖ローマ皇帝
ヨーゼフ2世に謁見したが、皇太后より極めて親しく接して頂いただけで、それ以上のことは特に
なかった。これは皇太后が約3年前に最愛の夫君フランツ1世を失くし(1765年8月18日崩御)、
更には第九王女を失くしたことで喪に伏していたこと、緊縮財政政策をとっていたことなども
重なった為と思われるが、レオポルトにとっては不本意な結果となったのである。
唯一のなぐさめはヨーゼフ2世より「オペラの作曲」を勧められたことである。
女帝マリア・テレジア 1759年 神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世 1764年頃
マルティン・ファン マイテンス作 Pierre Joseph Lion作
ウィーン造形美術アカデミー付属美術館蔵 Private collection
モーツァルト(11歳)、父レオポルト(47歳)、母アンナ・マリア(46歳)、姉ナンネル(16歳)である。
★ハプスブルク君主国の首都ウィーンへの第一回目の旅行は1762年9月18日ー1763年1月5日
今回の旅は、前年ザルツブルクに帰国した約3年半に及ぶパリ・ロンドン中心の「西方への大旅行」
(1763年6月9日ー1766年11月29日)に次ぐ神童モーツァルトの通算4回目の旅である。
西方への大旅行から帰郷し、今回、二度目のウィーンへの旅にでるまでの約9ヶ月の間、
モーツァルトは故郷ザルツブルクにおいて、いくつかの作品を手がけているが、この時期の
代表的な作品としては次の2作品があげられる。
①宗教的ジングシュピール「第一戒律の責務"Die Schuldigkeit des ersten Gebots(第一部)」K.35
★1767年3月12日にザルツブルクで初演されたオラトリオであり、内容は宗教的な逸話で、全体は3部に分かれる。
第1部をモーツァルト(11歳)が作曲し、 第2部は当時宮廷楽師長のミハエル・ハイドン(30歳)が作曲、第3部は
宮廷オルガン奏者アードルガッサー(38歳)が作曲した。
★この様な大作を10歳の子供が作曲したとは大司教も信じられず、モーツァルトを1週間閉じ込め宗教的なカンタータを
作曲させ、楽才を試したのである。尚、この時作曲されたのがドイツ語カンタータ「聖墓の音楽”Grabmusik”」(K.42/35a)である。
②ラテン語音楽劇(喜劇)「アポロとヒアチントゥス”Apollo et Hyacinthus”」K.38
★11歳になったばかりのモーツァルトが作曲した この音楽劇は前奏曲(イントラーダ)をいれると全体で10曲 から
構成されている。ザルツブル大学恒例の学年末の授賞式に際して上演された。ギリシャ神話に取材して
書かれている。アポロ(羊飼いの装い)やヒアチントゥス(ラケダイモンの王の息子)が登場する。神話では美少年の
ヒアチントゥスを競うが、この音楽劇では王の娘メリアの愛をアポロとゼフィリスが競う物語としている。
今回のウィーンへの旅の主たる目的は女帝(皇太后)マリア・テレジアの第九皇女である、
マリア・ヨゼファ・ガブリエラ(当時16歳)とナポリ王フェルディナント(当時16歳)の婚礼に
合わせて、ヴォルクガングと姉のナンネルを王侯貴族に披露することであった。
一家は1767年9月15日にウィーンに到着した。
ところが折から流行し始めていた天然痘に花嫁であるマリア・ヨゼファが感染し婚礼をまたずして
10月6日に昇天してしまったのである。
★ナポリ王フェルディナント:フェルディナンド1世(Ferdinando I, 1751年1月12日 - 1825年1月4日)は、両シチリア王国の
最初の王(在位:1815年 - 1825年)。シチリア王としてはフェルディナンド3世(在位:1759年 - 1815年)、ナポリ王としては
フェルディナンド4世(在位:1759年 - 1806年、1815年)を名乗っていた。スペイン王カルロス3世の三男、カルロス4世の弟。
結局、神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの娘でフランス王妃マリー・アントワネット(第11女)の姉であり、
急逝したマリア・ヨゼファー(第9女)の妹(第10女)であるマリア・カロリーナと結婚し16子をもうけた。
ウィーンに滞在していては感染しかねないことを危惧したモーツァルト一家は急遽ウィーンを離れ、
オルミュッツに避難したが、時すでに遅く、ヴォルフガングが発病し、更にナンネルも感染した。
ヴォルフガングの病状は重く、生死の境をさまよったが、一家に好意的なオルミュッツの
ポトシュターツキー伯爵邸に引き取られ適切な治療を受けることが出来たおかげで一命を
とりとめた。この為、一家は12月20日過ぎまで同地に留まることを余儀なくされた。
★オルミュッツ:独語でオルミュッツ(Olmütz)、チェコ語でオロモウツ(Olomouc)。現在のチェコ第5の都市。
当時はモラヴィア(独:メーレン)の都市でハプスブルク家所領(オーストラリア領)。
モーツァルト(当時11歳)の最初の手紙がオルミュッツ滞在中に書かれているが、
残念ながらこの手紙は失われている。
★最初の手紙:1767年11月10日付の父レオポルトよりザルツブルクの住居の大家ハーゲナウアーに 宛てた書簡で、
モーツァルトの手紙(ハーゲナウアーの息子のイグナーツ・ヨーゼフ宛)を同封する旨記載している。この手紙が
レオポルトの書簡に言及されている最初のモーツァルトの手紙ではある。但し、記録には残されていないが、恐らく
モーツアルトはもっと前に故郷ザルツブルクで手紙を書いているものと思われる。
1768年1月10日にウィーンに戻り、1月19日に皇太后マリア・テレジアとその長男で神聖ローマ皇帝
ヨーゼフ2世に謁見したが、皇太后より極めて親しく接して頂いただけで、それ以上のことは特に
なかった。これは皇太后が約3年前に最愛の夫君フランツ1世を失くし(1765年8月18日崩御)、
更には第九王女を失くしたことで喪に伏していたこと、緊縮財政政策をとっていたことなども
重なった為と思われるが、レオポルトにとっては不本意な結果となったのである。
唯一のなぐさめはヨーゼフ2世より「オペラの作曲」を勧められたことである。
女帝マリア・テレジア 1759年 神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世 1764年頃
マルティン・ファン マイテンス作 Pierre Joseph Lion作
ウィーン造形美術アカデミー付属美術館蔵 Private collection