モーツァルトの第1回イタリア旅行(その1) [モーツァルト]
モーツァルトは第2回目のウィーン旅行から帰郷後、イタリアへの旅に出るまでの
約11ヶ月をザルツブルクで過ごしている。
この期間中(1769年1月5日~12月12日)、ウィーンでは実現できなかったモーツァルトの
最初のオペラ・ブッファである「ラ・フィンタ・センプリチェ(偽りの馬鹿娘)」の上演を
ザルツブルクの大司教宮廷で行い(1769年5月)、ミサ曲や数曲の管弦楽セレナードと
カッサシオンやメヌエットなどを作曲している。
★ラ・フィンタ・センプリチェについては弊記事「モーツァルトの2度目のウィーン旅行」ご参照。
★カッサシオン(Kassation(独)cassazione(伊)cassation(仏・英))とは、17/18世紀に流行した管弦楽曲の
形式の1つ。セレナーデやディヴェルティメントと同様、小曲を連ねた多楽章の形式をとり、晩餐会などのパーティで
演奏された娯楽・祝典音楽(食卓音楽を含む)の1つである。ディヴェルティメント、カッサシオン、セレナーデの区別は
明確ではなく、三者は実質的にほぼ同じものであると考えられ、快活な性格をもつ小編成の音楽である。
当時の大司教シュラッテンバッハ伯ジークムント3世の特別の計らいでイタリアへの旅行の
許可がおり、同時にヴォルフガングには宮廷コンツェルトマイスター(宮廷楽師長)の称号が
与えられた(但し無給。イタリア旅行においてこうした肩書きが有効であるとの判断があったのであろう)。
更に、親子に対し120ドゥカーテンが与えられている。又、帰国後は同じ肩書きで有給に
切り替えることを約すとの公文書も作成されている。
★シュラッテンバッハ伯ジークムント3世(Siegmund III. Graf von Schrattenbach)在位1753年 - 1771年
★宮廷楽師長:当時もう一人の楽師長はミヒャエル・ハイドン(32歳)であった。
★ヨハン・ミヒャエル・ハイドン(Johann Michael Haydn, 1737年9月14日 - 1806年8月10日)は、オーストリアの
ローラウに生まれ、ザルツブルクで没した古典派の作曲家。フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの5歳下の弟。
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
1769年12月13日父レオポルトと共に12歳のヴォルフガングは貸馬車でザルツブルクを発ち、
インスブルックを経てブレンナー峠を越えトレント経由で、12月27日にヴェローナに着いた。
翌年1770年1月5日にヴェローナのアカデミア・フィラルモニカで開催した演奏会は大成功を
おさめ、同地に滞在した記念に、ダッラ・ローザという画家がヴォルフガングの肖像画を描いた(左側画像)。
ヴェローナには1月10日まで滞在し、その後、マントヴァに立ち寄った。ここでも演奏会を催し、
絶賛を博した。マントバをあとにした親子はクレモナに着き、これまでに滞在した各地と同様
クレモナでもオペラを聴きにでかけ、1月23日にミラノに到着した。
ミラノでも親子はオペラを聴きに劇場にかよったのである。又、前古典派を代表する長老作曲家
ジョヴァン二・バッティスタ・サンマルティーニをはじめとする高名な音楽家と親しく交流した。
★ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ:Giovanni Battista Sammartini(1700-1775)イタリアの作曲家 、
オルガニスト、聖歌隊指揮者と教師。
ミラノでの最大の成果は、ヴォルフガングが謝肉祭シーズンに上演されるオペラ・セリアの
作曲依頼を受けたことであろう。世話になっていたフェルミアン伯爵邸でオペラ作曲の契約書を
締結した親子は3月15日にミラノを発ちローディに一泊した。
ローディにおいて、最初の弦楽四重奏曲ト長調K.80(73f)が作曲された(詳細は本記事末尾に)。
その後、パルマ、モデナを経て3月24日にボローニャに到着した。
ボローニャでも音楽会を開催し、イタリア随一の音楽理論家・作曲家として尊敬されていた
ジョヴァンニ ・バッティスタ・マルティーニ神父と知り合い、二度にわたって、フーガ作曲の
指導を受けた。
★ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ:Giovanni Battista Martini, 1706年4月24日 - 1784年8月3日、
ボローニャの傑出した音楽理論家、作曲家。ヨハン・クリスティアン・バッハやヨゼフ・ミスリヴェチェク、アンドレ=エルネスト=
モデスト・グレトリらに厳格対位法を指導した。
親子は3月29日にボローニャを発ち翌日フィレンツェに着き、到着後間もなくハプスブルク家
出身のトスカーナ大公レオポルトに謁見した。ウィーンの女帝マリア・テレジアの次男であり、
神聖ローマ皇帝ヨーゼフ二世の弟にあたり、後に、皇帝レオポルト二世となるこの大公とは、
モーツァルト親子は、すでに、第一回ウィーン旅行の折の御前演奏で面識があった。
謁見の翌日、離宮ヴィッラ・ディ・ポッジョ・インペリアーレ(Villa di Poggio Imperiale)に
招かれ演奏した。
モーツァルト親子はフィレンツェを4月上旬には出発し、さらに南下を続けシエナ、ヴィテルボを
経由してローマに着いた。両人は同日カトリックの総本山であるサン・ピエトロ大聖堂を訪れ、
パッラヴィッチーニ枢機卿に初めて会っている。この枢機卿はその後何かと親子の世話を
してくれることになる。
★サン・ピエトロ大聖堂のイタリア語名称:Basilica di San Pietro in Vaticano(ヴァティカーノ丘陵にある聖ペテロのバシリカ)
ヴェローナのモーツァルト(14歳) 黄金拍車勲章をつけたモーツァルト(21歳)
チェンバロの前に広げられた楽譜は未完のモルトアレグロ
K.72a ト長調
★黄金拍車勲章:1770年7月5日、当時14歳のモーツァルトは教皇より黄金拍車勲章を受けたが、ザルツブルク
帰着後、肖像画を描く最適な画家に巡りあえず結局7年後、21歳の時にザルツブルクの画家に描かせ、ボローニャの
マルティーニ神父に寄贈された。
ローマからレオポルトがザルツブルクの妻宛てに出した最初の手紙には、サン・ピエトロ大聖堂の
門外不出で、復活祭前週の最後の三日間にこの礼拝堂でしか聴けない天下の秘曲である
無伴奏合唱曲ミセレーレをヴォルフガングが一回聴いただけで覚え、宿に帰ってからすべて
楽譜に書き取ってしまったという、エピソードが語られている。
★ミセレーレ:ヴァティカンのシスティーナ礼拝堂でかって活躍した作曲家であり歌手のグレゴリオ・アッレグリ
Gregorio Allegri(1582-1652)の作曲による無伴奏合唱曲。
≪おまえはたぶんローマの有名な『ミセレーレ』のことがよく話題になっているのを聞いたことが
あるだろう。この曲はたいへん尊重されているので、礼拝堂の歌手たちには、パート譜を一枚でも
礼拝堂から持ち出したり、写譜したり、あるいは誰かにやったりすることは、破門をもって禁じられて
いるのです。ところが、私たちはもうそれを手に入れてしまっているのだ、ヴォルフガングは
もうそれをすっかり書き取ってしまった。。。≫
(1770年4月14日付レオポルトよりザルツブルクの妻宛てローマ発書簡 モーツァルト書簡全集)
ローマを5月8日に発ち、オペラの一大拠点であるナポリに14日に着いた。親子は早速
ヨメッリの新作オペラ「見棄てられたアルミーダ」をサン・カルロ劇場に聴きに出かけている。
親子はナポリにおいて当時の著名なオペラ作曲家ジョヴァンニ・パイジェッロなどと交流している。
★ニコロ・ヨンメッリ:Niccolò Jommelli, 1714年9月10日 - 1774年8月25日、イタリア古典派音楽の作曲家。
ヨメッリとも呼ぶ。
★ジョヴァンニ・パイジエッロ:Giovanni Paisiello, 1740年5月9日 - 1816年6月5日、18世紀後半のイタリアの
オペラ作曲家。セミセリア様式と呼ばれるオペラの代表的作曲家である。
ナポリを6月25日に発つまで、親子は風光明媚なナポリ生活を堪能している。モーツァルトが
晩年、オペラ・ブッファ『コシ・ファン・トゥッテ』(伊:Così fan tutte)K.588を作曲する時には、
この美しいナポリの光景を思い出すことであろう。
ナポリからローマには往路に6日間もかけた行程をわずか27時間という強行軍で再びローマに
戻った。レオポルトはローマ到着寸前に馬車が転倒し、ヴォルフガングを庇った為に右足に大怪我を
負ってしまった。
ローマではヴォルフガングが教皇クレメンス14世から「黄金拍車勲章」を授けられた
(上段右側画像と説明ご参照)。7月5日パッラヴィッチーニ枢機卿から勲章と剣、拍車を受け取り、
8日にサンタ・マリア・マッジョーレ宮で教皇クレメンス14世に拝謁した。
★この叙勲は音楽家ではルネッサンスの大作家オルランド・ディ・ラッソ以来という名誉ある叙勲なのである。
レオポルトは早速この一件をザルツブルク大司教に報告している。
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
モーツァルト(当時14歳)が1770年3月ローディにおいて作曲したモーツァルトの最初の
弦楽四重奏曲ト長調(作曲地に因み通例「ローディ」と呼ばれる)に話は戻るが、
ローディとはミラノから南東約30kmほどのところにある瀟洒な町で、前述の通り、
ミラノからボローニャに向かう際にここに一泊した。約7週間滞在したミラノで得た
数々の経験からインスピレーションを得ての作曲であろう。
モーツァルト自身もこの曲には相当の愛着を持っていたと思われ、
約7年後、1777年9月のマンハイムとパリ旅行にも
この曲を携えて行くのである。
★「ローディ」は当初、イタリア風にメヌエットで終わる3楽章作品として書かれた。フランス風の第四楽章は1773年から
75年にウィーン又はザルツブルクで作曲され、ウィーン風の4楽章形式に拡大された。
弦楽四重奏曲(第1番)ト長調 K.80(73f) 「ローディ」
第一楽章アダージョ 第四楽章 ロンドー アレグロ
イタリア弦楽四重奏団 Quartetto Italiano
構成:ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ
★弦楽四重奏についてはモーツァルトより7歳ほど年上の文豪ゲーテが次の様に書き残し、終生にわたる
その愛好を表している。
≪弦楽四重奏は器楽の中でももっともわかりやすいものだ。これを聴いていると、まるで分別ある4人の人たちが
互いに熱を込めて語り合っているように思える。≫
★モーツァルトは23曲の弦楽四重奏曲を完全な形で遺しているが、24歳年長の「弦楽四重奏曲の父」フランツ・
ヨーゼフ・ハイドンなどの影響を消化しながら独自の語法を探って行くのである。
天才少年音楽家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(当時14歳)と
父レオポルトはこの年1770年7月10日にローマを発ちボローニャ再訪を
目指すのである。。。
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レクイエム
モーツァルト生誕254周年
モーツァルトの馬車の旅
モーツァルトの西方大旅行①(パリ)
モーツァルトの西方大旅行②(ロンドン①)
モーツァルトの西方大旅行③(ロンドン②)
猫とモーツァルト
モーツァルトの西方大旅行④(フランドルとオランダ)
モーツァルトの2度目のウィーン旅行
モーツァルトの第1回イタリア旅行(その2)
モーツァルトの第2回イタリア旅行
モーツァルトの第3回イタリア旅行
ザルツブルクのモーツァルト17-18歳(1773-74年)
モーツァルトのミュンヘン旅行≪「偽の女庭師」作曲・上演の旅≫
ザルツブルクのモーツァルト19歳(1775年)
ザルツブルクのモーツァルト20歳(1776年)
ザルツブルクのモーツァルト21歳(求職の旅へ)
犬とモーツァルト
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モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅②(マンハイム②)
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ザルツブルクのモーツァルト23歳(1779年)
モーツァルト24歳・ザルツブルク在住最後の年(1780年)
モーツァルトのミュンヘン旅行(「イドメネオ」作曲と上演の旅)
モーツァルト25歳の独立とウィーン時代の幕開け(1781年)
モーツァルト26歳の結婚と「後宮からの誘拐」(ウィーン②1782年)モーツァルト27歳・演奏会の成功とザルツブルク里帰り(ウィーン③1783年)
ピアノ・ソナタ(第13番)変ロ長調 と動物たち(1783年ザルツブルクの帰途立ち寄ったリンツ関連)
モーツァルト28歳・演奏活動絶頂期(ウィーン④1784年)
モーツァルトと小鳥たち (クラビーア協奏曲(第17番)ト長調(K.453)第三楽章の主題を歌うムクドリとモーツァルト)
父レオポルト、絶頂期のモーツァルト29歳を訪問(ウィーン⑤1785年)
モーツァルト30歳・「劇場支配人」と「フィガロの結婚」(ウィーン⑥1786年)
フィガロの結婚(その1)序曲+第一幕第一景第一曲
モーツァルト31歳・父レオポルトの死と「ドン・ジョヴァンニ」(ウィーン⑦1787年)
ドン・ジョヴァンニ(その1)
モーツァルト32歳・三大交響曲とブフベルク書簡(ウィーン⑧1788年)
モーツァルト33歳・プロイセン(北ドイツ)への旅(ウィーン⑨1789年)
モーツァルト34歳・「コシ・ファン・トゥッテ」(ウィーン⑩1790年)
モーツァルト35歳前半・「皇帝ティートの慈悲」(ウィーン⑪1791年前半)
モーツァルト35歳後半「魔笛」と「レクイエム」(ウィーン⑫1791年後半)
約11ヶ月をザルツブルクで過ごしている。
この期間中(1769年1月5日~12月12日)、ウィーンでは実現できなかったモーツァルトの
最初のオペラ・ブッファである「ラ・フィンタ・センプリチェ(偽りの馬鹿娘)」の上演を
ザルツブルクの大司教宮廷で行い(1769年5月)、ミサ曲や数曲の管弦楽セレナードと
カッサシオンやメヌエットなどを作曲している。
★ラ・フィンタ・センプリチェについては弊記事「モーツァルトの2度目のウィーン旅行」ご参照。
★カッサシオン(Kassation(独)cassazione(伊)cassation(仏・英))とは、17/18世紀に流行した管弦楽曲の
形式の1つ。セレナーデやディヴェルティメントと同様、小曲を連ねた多楽章の形式をとり、晩餐会などのパーティで
演奏された娯楽・祝典音楽(食卓音楽を含む)の1つである。ディヴェルティメント、カッサシオン、セレナーデの区別は
明確ではなく、三者は実質的にほぼ同じものであると考えられ、快活な性格をもつ小編成の音楽である。
当時の大司教シュラッテンバッハ伯ジークムント3世の特別の計らいでイタリアへの旅行の
許可がおり、同時にヴォルフガングには宮廷コンツェルトマイスター(宮廷楽師長)の称号が
与えられた(但し無給。イタリア旅行においてこうした肩書きが有効であるとの判断があったのであろう)。
更に、親子に対し120ドゥカーテンが与えられている。又、帰国後は同じ肩書きで有給に
切り替えることを約すとの公文書も作成されている。
★シュラッテンバッハ伯ジークムント3世(Siegmund III. Graf von Schrattenbach)在位1753年 - 1771年
★宮廷楽師長:当時もう一人の楽師長はミヒャエル・ハイドン(32歳)であった。
★ヨハン・ミヒャエル・ハイドン(Johann Michael Haydn, 1737年9月14日 - 1806年8月10日)は、オーストリアの
ローラウに生まれ、ザルツブルクで没した古典派の作曲家。フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの5歳下の弟。
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
1769年12月13日父レオポルトと共に12歳のヴォルフガングは貸馬車でザルツブルクを発ち、
インスブルックを経てブレンナー峠を越えトレント経由で、12月27日にヴェローナに着いた。
翌年1770年1月5日にヴェローナのアカデミア・フィラルモニカで開催した演奏会は大成功を
おさめ、同地に滞在した記念に、ダッラ・ローザという画家がヴォルフガングの肖像画を描いた(左側画像)。
ヴェローナには1月10日まで滞在し、その後、マントヴァに立ち寄った。ここでも演奏会を催し、
絶賛を博した。マントバをあとにした親子はクレモナに着き、これまでに滞在した各地と同様
クレモナでもオペラを聴きにでかけ、1月23日にミラノに到着した。
ミラノでも親子はオペラを聴きに劇場にかよったのである。又、前古典派を代表する長老作曲家
ジョヴァン二・バッティスタ・サンマルティーニをはじめとする高名な音楽家と親しく交流した。
★ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ:Giovanni Battista Sammartini(1700-1775)イタリアの作曲家 、
オルガニスト、聖歌隊指揮者と教師。
ミラノでの最大の成果は、ヴォルフガングが謝肉祭シーズンに上演されるオペラ・セリアの
作曲依頼を受けたことであろう。世話になっていたフェルミアン伯爵邸でオペラ作曲の契約書を
締結した親子は3月15日にミラノを発ちローディに一泊した。
ローディにおいて、最初の弦楽四重奏曲ト長調K.80(73f)が作曲された(詳細は本記事末尾に)。
その後、パルマ、モデナを経て3月24日にボローニャに到着した。
ボローニャでも音楽会を開催し、イタリア随一の音楽理論家・作曲家として尊敬されていた
ジョヴァンニ ・バッティスタ・マルティーニ神父と知り合い、二度にわたって、フーガ作曲の
指導を受けた。
★ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ:Giovanni Battista Martini, 1706年4月24日 - 1784年8月3日、
ボローニャの傑出した音楽理論家、作曲家。ヨハン・クリスティアン・バッハやヨゼフ・ミスリヴェチェク、アンドレ=エルネスト=
モデスト・グレトリらに厳格対位法を指導した。
親子は3月29日にボローニャを発ち翌日フィレンツェに着き、到着後間もなくハプスブルク家
出身のトスカーナ大公レオポルトに謁見した。ウィーンの女帝マリア・テレジアの次男であり、
神聖ローマ皇帝ヨーゼフ二世の弟にあたり、後に、皇帝レオポルト二世となるこの大公とは、
モーツァルト親子は、すでに、第一回ウィーン旅行の折の御前演奏で面識があった。
謁見の翌日、離宮ヴィッラ・ディ・ポッジョ・インペリアーレ(Villa di Poggio Imperiale)に
招かれ演奏した。
モーツァルト親子はフィレンツェを4月上旬には出発し、さらに南下を続けシエナ、ヴィテルボを
経由してローマに着いた。両人は同日カトリックの総本山であるサン・ピエトロ大聖堂を訪れ、
パッラヴィッチーニ枢機卿に初めて会っている。この枢機卿はその後何かと親子の世話を
してくれることになる。
★サン・ピエトロ大聖堂のイタリア語名称:Basilica di San Pietro in Vaticano(ヴァティカーノ丘陵にある聖ペテロのバシリカ)
ヴェローナのモーツァルト(14歳) 黄金拍車勲章をつけたモーツァルト(21歳)
チェンバロの前に広げられた楽譜は未完のモルトアレグロ
K.72a ト長調
★黄金拍車勲章:1770年7月5日、当時14歳のモーツァルトは教皇より黄金拍車勲章を受けたが、ザルツブルク
帰着後、肖像画を描く最適な画家に巡りあえず結局7年後、21歳の時にザルツブルクの画家に描かせ、ボローニャの
マルティーニ神父に寄贈された。
ローマからレオポルトがザルツブルクの妻宛てに出した最初の手紙には、サン・ピエトロ大聖堂の
門外不出で、復活祭前週の最後の三日間にこの礼拝堂でしか聴けない天下の秘曲である
無伴奏合唱曲ミセレーレをヴォルフガングが一回聴いただけで覚え、宿に帰ってからすべて
楽譜に書き取ってしまったという、エピソードが語られている。
★ミセレーレ:ヴァティカンのシスティーナ礼拝堂でかって活躍した作曲家であり歌手のグレゴリオ・アッレグリ
Gregorio Allegri(1582-1652)の作曲による無伴奏合唱曲。
≪おまえはたぶんローマの有名な『ミセレーレ』のことがよく話題になっているのを聞いたことが
あるだろう。この曲はたいへん尊重されているので、礼拝堂の歌手たちには、パート譜を一枚でも
礼拝堂から持ち出したり、写譜したり、あるいは誰かにやったりすることは、破門をもって禁じられて
いるのです。ところが、私たちはもうそれを手に入れてしまっているのだ、ヴォルフガングは
もうそれをすっかり書き取ってしまった。。。≫
(1770年4月14日付レオポルトよりザルツブルクの妻宛てローマ発書簡 モーツァルト書簡全集)
ローマを5月8日に発ち、オペラの一大拠点であるナポリに14日に着いた。親子は早速
ヨメッリの新作オペラ「見棄てられたアルミーダ」をサン・カルロ劇場に聴きに出かけている。
親子はナポリにおいて当時の著名なオペラ作曲家ジョヴァンニ・パイジェッロなどと交流している。
★ニコロ・ヨンメッリ:Niccolò Jommelli, 1714年9月10日 - 1774年8月25日、イタリア古典派音楽の作曲家。
ヨメッリとも呼ぶ。
★ジョヴァンニ・パイジエッロ:Giovanni Paisiello, 1740年5月9日 - 1816年6月5日、18世紀後半のイタリアの
オペラ作曲家。セミセリア様式と呼ばれるオペラの代表的作曲家である。
ナポリを6月25日に発つまで、親子は風光明媚なナポリ生活を堪能している。モーツァルトが
晩年、オペラ・ブッファ『コシ・ファン・トゥッテ』(伊:Così fan tutte)K.588を作曲する時には、
この美しいナポリの光景を思い出すことであろう。
ナポリからローマには往路に6日間もかけた行程をわずか27時間という強行軍で再びローマに
戻った。レオポルトはローマ到着寸前に馬車が転倒し、ヴォルフガングを庇った為に右足に大怪我を
負ってしまった。
ローマではヴォルフガングが教皇クレメンス14世から「黄金拍車勲章」を授けられた
(上段右側画像と説明ご参照)。7月5日パッラヴィッチーニ枢機卿から勲章と剣、拍車を受け取り、
8日にサンタ・マリア・マッジョーレ宮で教皇クレメンス14世に拝謁した。
★この叙勲は音楽家ではルネッサンスの大作家オルランド・ディ・ラッソ以来という名誉ある叙勲なのである。
レオポルトは早速この一件をザルツブルク大司教に報告している。
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
モーツァルト(当時14歳)が1770年3月ローディにおいて作曲したモーツァルトの最初の
弦楽四重奏曲ト長調(作曲地に因み通例「ローディ」と呼ばれる)に話は戻るが、
ローディとはミラノから南東約30kmほどのところにある瀟洒な町で、前述の通り、
ミラノからボローニャに向かう際にここに一泊した。約7週間滞在したミラノで得た
数々の経験からインスピレーションを得ての作曲であろう。
モーツァルト自身もこの曲には相当の愛着を持っていたと思われ、
約7年後、1777年9月のマンハイムとパリ旅行にも
この曲を携えて行くのである。
★「ローディ」は当初、イタリア風にメヌエットで終わる3楽章作品として書かれた。フランス風の第四楽章は1773年から
75年にウィーン又はザルツブルクで作曲され、ウィーン風の4楽章形式に拡大された。
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第一楽章アダージョ 第四楽章 ロンドー アレグロ
イタリア弦楽四重奏団 Quartetto Italiano
構成:ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ
★弦楽四重奏についてはモーツァルトより7歳ほど年上の文豪ゲーテが次の様に書き残し、終生にわたる
その愛好を表している。
≪弦楽四重奏は器楽の中でももっともわかりやすいものだ。これを聴いていると、まるで分別ある4人の人たちが
互いに熱を込めて語り合っているように思える。≫
★モーツァルトは23曲の弦楽四重奏曲を完全な形で遺しているが、24歳年長の「弦楽四重奏曲の父」フランツ・
ヨーゼフ・ハイドンなどの影響を消化しながら独自の語法を探って行くのである。
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おはようございます。イタリアに赴いても、息継ぐ間もないようなスケジュールですね。14歳にして宮廷楽士長の肩書きをもらえたり、勲章をもらうなど、恐るべき能力を持った少年ですね。レオポルトが身を挺して息子を守るのもうなずけます。
by whitered (2010-04-29 10:05)
先程は、誕生日のお祝いのお言葉、
ありがとうございました(^^)。
これからも、何卒・・・よろしくお願い致します。
by kontenten (2010-04-29 13:53)
旅する事でよりモーツァルトの才能に
磨きがかかっていくんですね♪
あの時代に旅をするって大変だと思いますが、
それでも旅する事によって若いモーツァルトが
吸収する事がいっぱいあったんでしょうね。
今の時代にいたらどうなったんでしょうね♪♪
by バロックが好き (2010-04-29 20:53)
小さいのに忙しかったのですね。モーツアルトは80年
位かかって成し遂げる事を35年でやってしまったのですから
充実した毎日だったでしょうね。14歳で一回聴いただけの音楽を
譜面にさらさらと書き写す事が出来るなんて格好良過ぎですね^^!
by pegasas (2010-04-29 21:30)
whiteredさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
黄金拍車勲章というのはバチカンが軍人と民間人に対して叙勲し得る最高位の勲章です☆すごいですよね☆
by アマデウス (2010-04-30 06:50)
kontentenさん!こんにちは~☆
こちらこそこれからも宜しくお願い致します☆
by アマデウス (2010-04-30 06:55)
バロックが好き さん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
モーツァルトが今の時代にいれば。。。
①クラシカル・クロスオーバー(クラシック音楽とポピュラー音楽がクロスオーバーしたサウンド)のジャンルで大流行作曲家になっていたのでは。。。
②ロンドンに住み自家用ジェットで世界を飛び回る大富豪、大流行作曲家。。
③ミュージカルも作曲し世界中でロングラン記録を更新。。。
④過去に作曲した作品(約700曲)の著作権収入だけでも大富豪!
モーツァルト財団を設立し世界の音楽振興に寄与。。。
by アマデウス (2010-04-30 07:09)
pegasasさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
まさに「疾走するモーツァルト」ですよね☆
絶対音感で一度聴いたらいかなる曲でも脳裏に刻み、いつでも取り出せる能力が備わっていたのですね☆
by アマデウス (2010-04-30 07:14)
たびたびコメントを頂戴して恐縮しております。ありがとうございました。
私方こそ今後ともどうかよろしくお願い申し上げます。
by 塩 (2010-04-30 10:23)
Dr.塩!こんにちは~☆
こちらこそ種々ありがとうございます!
これからも宜しくお願い致します☆
by アマデウス (2010-04-30 12:32)
K・333には未だに悩まされています。同じようなフレーズでも、違うんです。2回目のリズムがビミョウに。うっかり弾けないのが天才の作曲家の作品ですね。クレメンティとは決定的に違いますね。
B♭メジャーがクラリネットを想わせ、彼が何よりも好きだった音色だったようですね。
いったんはフルートのために書いたメロディをクラリネットのために書き換えている曲ももありますし、そういう点でもK・333はおそらく彼も想いを込めた曲だったのでしょう。
ミセレーレのエピソードは有名ですね。いろんなエピソードが残っていますね。
また、アマデウスさんの記事楽しみにしています。さて、また練習です。
by Esther (2010-04-30 15:52)
Estherさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
K.333あと一息といったところですね☆大いに楽しみながら練習にお励み下さい☆「モーツァルトとクラリネット」という記事が書けないか考えて見ますね☆
by アマデウス (2010-05-01 11:03)
Λ_Λ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ・∀・)< 天下の秘曲である無伴奏合唱曲ミセレーレ、
_φ___⊂)_ \ 脳内メモリーから全部書き写しました。w
/旦/三/ /| \_______________
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| |
|愛媛みかん|/
何だかスパイみたいだけどw、とにかくモーツァルトは本当にスゴイですね。w
(^ー^)ノシ
by モッズパンツ (2010-05-06 22:41)
モッズパンツさん!こんにちは~☆
いつも楽しいAAコメントありがとうございます☆♪ヽ(∩。∩゛ヽ)
脳内メモリーからミセレーレを書き取るよりこのAAを書く方が難しいのでは。。。
by アマデウス (2010-05-07 06:24)