モーツァルトのマンハイムとパリ求職の旅②(マンハイム②) [モーツァルト]
マンハイムの宮廷器楽音楽監督のカンナビヒを中心として宮廷楽団関係者と連日交流を深めていた
モーツァルトは、ザルツブルクにいる最愛の父レオポルトの霊名の祝日と誕生日(11月15日で58歳)
に際し、1777年11月8日の手紙で次の様に語りかけるのである。
≪最愛のお父さん!ぼくは詩的なものを書けません。詩人ではありませんから。ぼくは表現を
巧みに描きわけて影や光を生み出すことはできません。画家ではないからです。そればかりか
ぼくは、ほのめかしや身ぶりでぼくの感情や考えを表すこともできません。ぼくは踊り手では
ありませんから。でも、音でならそれができます。ぼくは音楽家ですから。
そこで、明日はカンナビヒ邸で、お父さんの霊名の祝日と誕生日を祝って、
クラヴィーアを弾きましょう。≫
マンハイムの宮廷楽団はモーツァルトにとっては理想郷であり、最高の就職先であったのだが
就職活動は遅々として進まず、選帝侯との間をとりもってくれていたザヴィオーリ伯爵の答えは
いつでも「肩をすくめること」でしかなかったのである。
ザルツブルクでやきもきしていた父レオポルトも1777年11月13日付の手紙でパリに移動する様に
とのアドバイスを開始したが、モーツァルトはなんとか就職の糸口を見出さんとマンハイムに留まって
いた。 しかし、12月8日になってザヴィオーリ伯爵より、選帝侯としてはモーツァルトの採用は見合す旨の
回答が伝えられたのである。
更に、これに追い討ちをかける事態が起こった。1777年12月30日にミュンヘンのバイエルン選帝侯
マクシミリアン3世ヨーゼフが死去し、マンハイムのブファルツ選帝侯カール・テオドールが
バイエルン候を兼ねることが布告され、1778年1月1日にテオドールはミュンヘンに出発し、
これに伴い、宮廷楽団団員の希望者もミュンヘンに移動することになった。かくして名声を博した
マンハイム宮廷楽団はその歴史を閉じることになったのである。
★かねてからバイエルン併合をねらっていたオーストリア・ハプスブルク家のヨーゼフ2世はバイエルン選帝侯マクシミリアン3世の
死去に乗じ、1778年1月には下バイエルンに兵を駐屯させ、バイエルン継承戦争(~79年5月。俗に言う「じゃがいも戦争」)を
起こしたが、プロイセンの介入で失敗している。この辺のオーストリア軍やプロイセンあるいはロシア、フランスなどの動きについて
レオポルトはモーツァルトとアンナ・マリアに手紙でしばしば連絡している。
宮廷が実質上ミュンヘンに移動したのでこれ以上ミュンヘンに留まる理由はなくなったのであるが、
アロイジアを愛しているモーツァルトは1月17日付の父レオポルトへの手紙で初めてアロイジアを
登場させ、「まったくすばらしく歌をうたう」「美しい澄んだ声をしている」「やっと16歳になった
ばかりである」「彼女に不足しているのは演技力だけである」「デ・アミーチスのためのおそろしく
むつかしいパッセージがいくつもあるアリアを見事に歌う」「伴奏もまったくうまく小曲ならけっこう
弾くことが出来る」「父親は真っ正直なドイツ人」であるなどと語り始めるのである。
★アリア:「第3回イタリア旅行」でミラノで初演した「ルーチョ・シッラ」のプリマ・ドンナ(ジューニア役)のデ・アミーチス夫人(ソプラノ)
が歌ったアリアのことで、「ああ、いとしいひとのおそろしい危険を思うと」”Ah se il crudel periglio del caro bel rammento”。
1月27日に22歳を迎えたモーツァルトは、アロイジアを溺愛し、彼女との結婚を望み、彼女と
その一家と共にイタリアに行き彼女を一流のソプラノにすることで苦境にあるアロイジアの
家族をも救いたいと「愛の夢物語」を父レオポルトに対し綴るのである。(1778年2月4日付書簡)
これに愕然とし激怒したレオポルトは徹夜でモーツァルト宛の手紙をしたため、直ちにパリに赴く様に
指示するのである。(1778年2月12日付書簡、ザルツブルク発)
≪。。。おまえが平々凡々たる音楽家として世間から忘れられてしまうか、それとも有名な楽長として、
後世の人たちにまでも書物のなかで読んでもらえるようになるか、女にうつつを抜かして、子供を
いっぱいかかえて貧乏し、小部屋の藁布団に逼塞しているか、それとも、キリスト教徒として喜びや
名誉や名声にあふれた生涯を送ったあと、おまえの家族のためには万事を整え、世間からは尊敬を
受けて死んでゆくかは、ひたすらおまえの理性と生き方とにかかっているのです。。。
おまえはパリに発つのです!しかもすぐにも。偉大な人たちの傍に身を置いてみるのです。。。
パリからこそ、大きな才能を備えた人物の名声と声価が世界中を通して広まっていくのです。。。≫
モーツァルト書簡全集
マンハイム宮殿(独:Mannheimer Schloss)
★マンハイム宮殿はプファルツ選帝侯の宮廷であった。1720年から1760年に建設された宮殿は、
ヴェルサイユ宮殿に次いでヨーロッパで2番目に大きなバロック建築であった。第二次世界大戦で完全に
破壊された後、簡略化された形で再建された。
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
マンハイム滞在中、モーツァルトは宮廷器楽音楽監督のクリスティアン・カンナビヒ邸に
毎日のように出向き、宮廷楽団員と交友をもったのであるが、非常に親しくなったオーボエ奏者の
フリードリヒ・ラムにはオーボエ協奏曲K.314(285d)の楽譜を贈り狂喜させている。
同じ様に親しくなったフルート奏者のヨハン・ヴェンドリングからはフェルディナント・ドジャンという
オランダ人医師でアマチュア音楽家を紹介され、この医師よりフルート協奏曲とフルート四重奏曲の
作曲依頼を受け、次の作品を仕上げたのである。
①フルート協奏曲(第1番)K.313(285a)。
②前述のオーボエ協奏曲K.314(285d)をフルート用に編曲(第2番)。
③フルート四重奏曲二長調K..285。
④フルートとオーケストラのためのアンダンテK.315/285e
★原曲のオーボエ協奏曲K.314はマンハイム・パリ旅行以前にザルツブルクで書かれたとされている。
★フルート楽曲の依頼者であるドジャンからは曲数が少ないということで約束の半額以下の金額しか貰えなかった。
約束を守らなかったことで父レオポルトから叱責され、「気に入らない楽器(フルート)故に気が乗らなかった。」と
説明しているが、多分にこれは言い訳けであり、確かに当時のフルートは音程が狂いやすかったらしいが、これをもって
「モーツァルトはフルートが嫌い」との説が一人歩きした感がある。すべてのフルート曲が名曲ぞろいであることから、
果たして本当にフルートが嫌いであったのかとの疑問が生ずるのである。
テノール歌手のアントン・ラーフのためにコンサート・アリア≪もし私の唇を信じないのなら
”Se al labbro mio non credi"≫K.295を作曲している。
★アントン・ラーフ:Anton Raaf(1714-97)は1781年ミュンヘンで初演したモーツァルトのオペラ 「イドメネオ」で
タイトルロールを歌うことになる。
ヴァイオリン・ソナタ ホ短調 K.304(300c)の作曲を手がけたのもミュンヘン滞在中であると
されている(完成はパリ)。
ヴァイオリン・ソナタ ホ短調 K.304(300c) フルート四重奏曲 二長調 K.285
第一楽章 アレグロ 第二楽章 アダージョ
ホリー・クック Holly Cook(フルート)
ヴァイオリン・ソナタ中、唯一の短調曲。「作品 I 」の第4番 弦のピッツィカートの伴奏でフルートの独奏が美しい。
マンハイムで着手され、パリで完成されたと考えられている。
フルート協奏曲 (第1番) ト長調 K.313 オーボエ協奏曲 ハ長調(K.314/285d)
第一楽章 アレグロ・マエストーソ 第三楽章 ロンドー アレグロ
エマニュエル・パユ Emmanuel Pahud カルロ・ロマーノ Carlo Romano
モーツァルトの唯一の完成されたオーボエ協奏曲。
第3楽章の第1主題は、ジングシュピール「後宮からの誘拐」
K.384 第2幕のブロンデ(S)のアリア「何というよろこび」
"Welche Wonne, welche Lust"の旋律と酷似している。
★モーツァルトは今回の旅行に出発する前ザルツブルクで作曲したオーボエ協奏曲 ハ長調をフルート用に長2度高く
移調しフルート用に編曲、フルート協奏曲第2番二長調としたのである。尚、オーボエ協奏曲はザルツブルク宮廷楽団の
オーボエ奏者フェルレンディスのために書かれた「フェルレンディス協奏曲」である可能性が強い。
★フルート協奏曲第2番 ニ長調 K. 314はこちら(NAXOS Music Library)で全楽章(I.Allegro aperto,
II.Andante ma non tropo, III.Allegro)試聴出来ます。
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
モーツァルトは父親の説得をしぶしぶ受け入れパリに発つことを決断するのであった。
ザルツブルクより乗ってきた自家用馬車を馬車屋に40フロリンで売却する話もつき、
同じ馬車屋が11ルイ・ドール(121フロリン)で同じ馬車でパリまで運んでくれることに
なったのである。(即ちパリまでの2人分の運賃は自家用馬車を渡して81フローリンを払えば良くなったということ。)
出発の2日前の3月12日にカンナビヒ邸でおわかれの音楽会が開かれ、≪3台のクラヴィーアの
ための協奏曲≫(第4番)へ長調「ロードロン協奏曲」K.242がモーツァルトの3人の美しい女弟子に
よって演奏された。第1クラヴィーアをローザ・カンナビヒ、第2クラヴィーアを最愛のアロイジア・
ヴェーバー、第3クラヴィーアをモーツァルトが「我々の家の妖精」と呼んでいた当時15歳の可憐な
テレーゼ・ピエロンが受け持ったのである。
★アロイジア・ヴェーバーはモーツァルトから贈られたレチタティーヴォとアリア≪アルカンドロよ、私は告白する、
このやさしい愛情がどこからやってくるのか≫K.294とオペラ≪牧人の王≫K.208のアリア≪穏やかな空気と
晴れた日々≫を歌ったのである。
出発の前日13日にモーツァルトはヴェーバー一家に別れを告げたのであるが、アロイジアは
モーツァルトに彼女自身が編んだレースの袖口飾りを2組贈り、アロイジアの父フリードリン・
ヴェーバーはモリエールの喜劇全集のドイツ語版を贈り、涙の別れとなったのである。
就職活動は不首尾に終わったが、当時のヨーロッパ随一とされた宮廷音楽家とほぼ半年間交流し
音楽的には極めて有意義であったマンハイムを発ちパリに向かうのである。
1778年3月14日、馬車で旅立つ22歳のモーツァルトと母アンナ・マリア(57歳)の姿があった。
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モーツァルト24歳・ザルツブルク在住最後の年(1780年)
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モーツァルト25歳の独立とウィーン時代の幕開け(1781年)
モーツァルト26歳の結婚と「後宮からの誘拐」(ウィーン②1782年)
モーツァルト27歳・演奏会の成功とザルツブルク里帰り(ウィーン③1783年)
ピアノ・ソナタ(第13番)変ロ長調 と動物たち(1783年ザルツブルクの帰途立ち寄ったリンツ関連)
モーツァルト28歳・演奏活動絶頂期(ウィーン④1784年)
モーツァルトと小鳥たち (クラビーア協奏曲(第17番)ト長調(K.453)第三楽章の主題を歌うムクドリとモーツァルト)
父レオポルト、絶頂期のモーツァルト29歳を訪問(ウィーン⑤1785年)
モーツァルト30歳・「劇場支配人」と「フィガロの結婚」(ウィーン⑥1786年)
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モーツァルト31歳・父レオポルトの死と「ドン・ジョヴァンニ」(ウィーン⑦1787年)
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モーツァルト33歳・プロイセン(北ドイツ)への旅(ウィーン⑨1789年)
モーツァルト34歳・「コシ・ファン・トゥッテ」(ウィーン⑩1790年)
モーツァルト35歳前半・「皇帝ティートの慈悲」(ウィーン⑪1791年前半)
モーツァルト35歳後半「魔笛」と「レクイエム」(ウィーン⑫1791年後半)
モーツァルトは、ザルツブルクにいる最愛の父レオポルトの霊名の祝日と誕生日(11月15日で58歳)
に際し、1777年11月8日の手紙で次の様に語りかけるのである。
≪最愛のお父さん!ぼくは詩的なものを書けません。詩人ではありませんから。ぼくは表現を
巧みに描きわけて影や光を生み出すことはできません。画家ではないからです。そればかりか
ぼくは、ほのめかしや身ぶりでぼくの感情や考えを表すこともできません。ぼくは踊り手では
ありませんから。でも、音でならそれができます。ぼくは音楽家ですから。
そこで、明日はカンナビヒ邸で、お父さんの霊名の祝日と誕生日を祝って、
クラヴィーアを弾きましょう。≫
マンハイムの宮廷楽団はモーツァルトにとっては理想郷であり、最高の就職先であったのだが
就職活動は遅々として進まず、選帝侯との間をとりもってくれていたザヴィオーリ伯爵の答えは
いつでも「肩をすくめること」でしかなかったのである。
ザルツブルクでやきもきしていた父レオポルトも1777年11月13日付の手紙でパリに移動する様に
とのアドバイスを開始したが、モーツァルトはなんとか就職の糸口を見出さんとマンハイムに留まって
いた。 しかし、12月8日になってザヴィオーリ伯爵より、選帝侯としてはモーツァルトの採用は見合す旨の
回答が伝えられたのである。
更に、これに追い討ちをかける事態が起こった。1777年12月30日にミュンヘンのバイエルン選帝侯
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バイエルン候を兼ねることが布告され、1778年1月1日にテオドールはミュンヘンに出発し、
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死去に乗じ、1778年1月には下バイエルンに兵を駐屯させ、バイエルン継承戦争(~79年5月。俗に言う「じゃがいも戦争」)を
起こしたが、プロイセンの介入で失敗している。この辺のオーストリア軍やプロイセンあるいはロシア、フランスなどの動きについて
レオポルトはモーツァルトとアンナ・マリアに手紙でしばしば連絡している。
宮廷が実質上ミュンヘンに移動したのでこれ以上ミュンヘンに留まる理由はなくなったのであるが、
アロイジアを愛しているモーツァルトは1月17日付の父レオポルトへの手紙で初めてアロイジアを
登場させ、「まったくすばらしく歌をうたう」「美しい澄んだ声をしている」「やっと16歳になった
ばかりである」「彼女に不足しているのは演技力だけである」「デ・アミーチスのためのおそろしく
むつかしいパッセージがいくつもあるアリアを見事に歌う」「伴奏もまったくうまく小曲ならけっこう
弾くことが出来る」「父親は真っ正直なドイツ人」であるなどと語り始めるのである。
★アリア:「第3回イタリア旅行」でミラノで初演した「ルーチョ・シッラ」のプリマ・ドンナ(ジューニア役)のデ・アミーチス夫人(ソプラノ)
が歌ったアリアのことで、「ああ、いとしいひとのおそろしい危険を思うと」”Ah se il crudel periglio del caro bel rammento”。
1月27日に22歳を迎えたモーツァルトは、アロイジアを溺愛し、彼女との結婚を望み、彼女と
その一家と共にイタリアに行き彼女を一流のソプラノにすることで苦境にあるアロイジアの
家族をも救いたいと「愛の夢物語」を父レオポルトに対し綴るのである。(1778年2月4日付書簡)
これに愕然とし激怒したレオポルトは徹夜でモーツァルト宛の手紙をしたため、直ちにパリに赴く様に
指示するのである。(1778年2月12日付書簡、ザルツブルク発)
≪。。。おまえが平々凡々たる音楽家として世間から忘れられてしまうか、それとも有名な楽長として、
後世の人たちにまでも書物のなかで読んでもらえるようになるか、女にうつつを抜かして、子供を
いっぱいかかえて貧乏し、小部屋の藁布団に逼塞しているか、それとも、キリスト教徒として喜びや
名誉や名声にあふれた生涯を送ったあと、おまえの家族のためには万事を整え、世間からは尊敬を
受けて死んでゆくかは、ひたすらおまえの理性と生き方とにかかっているのです。。。
おまえはパリに発つのです!しかもすぐにも。偉大な人たちの傍に身を置いてみるのです。。。
パリからこそ、大きな才能を備えた人物の名声と声価が世界中を通して広まっていくのです。。。≫
モーツァルト書簡全集
マンハイム宮殿(独:Mannheimer Schloss)
★マンハイム宮殿はプファルツ選帝侯の宮廷であった。1720年から1760年に建設された宮殿は、
ヴェルサイユ宮殿に次いでヨーロッパで2番目に大きなバロック建築であった。第二次世界大戦で完全に
破壊された後、簡略化された形で再建された。
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
マンハイム滞在中、モーツァルトは宮廷器楽音楽監督のクリスティアン・カンナビヒ邸に
毎日のように出向き、宮廷楽団員と交友をもったのであるが、非常に親しくなったオーボエ奏者の
フリードリヒ・ラムにはオーボエ協奏曲K.314(285d)の楽譜を贈り狂喜させている。
同じ様に親しくなったフルート奏者のヨハン・ヴェンドリングからはフェルディナント・ドジャンという
オランダ人医師でアマチュア音楽家を紹介され、この医師よりフルート協奏曲とフルート四重奏曲の
作曲依頼を受け、次の作品を仕上げたのである。
①フルート協奏曲(第1番)K.313(285a)。
②前述のオーボエ協奏曲K.314(285d)をフルート用に編曲(第2番)。
③フルート四重奏曲二長調K..285。
④フルートとオーケストラのためのアンダンテK.315/285e
★原曲のオーボエ協奏曲K.314はマンハイム・パリ旅行以前にザルツブルクで書かれたとされている。
★フルート楽曲の依頼者であるドジャンからは曲数が少ないということで約束の半額以下の金額しか貰えなかった。
約束を守らなかったことで父レオポルトから叱責され、「気に入らない楽器(フルート)故に気が乗らなかった。」と
説明しているが、多分にこれは言い訳けであり、確かに当時のフルートは音程が狂いやすかったらしいが、これをもって
「モーツァルトはフルートが嫌い」との説が一人歩きした感がある。すべてのフルート曲が名曲ぞろいであることから、
果たして本当にフルートが嫌いであったのかとの疑問が生ずるのである。
テノール歌手のアントン・ラーフのためにコンサート・アリア≪もし私の唇を信じないのなら
”Se al labbro mio non credi"≫K.295を作曲している。
★アントン・ラーフ:Anton Raaf(1714-97)は1781年ミュンヘンで初演したモーツァルトのオペラ 「イドメネオ」で
タイトルロールを歌うことになる。
ヴァイオリン・ソナタ ホ短調 K.304(300c)の作曲を手がけたのもミュンヘン滞在中であると
されている(完成はパリ)。
ヴァイオリン・ソナタ ホ短調 K.304(300c) フルート四重奏曲 二長調 K.285
第一楽章 アレグロ 第二楽章 アダージョ
ホリー・クック Holly Cook(フルート)
ヴァイオリン・ソナタ中、唯一の短調曲。「作品 I 」の第4番 弦のピッツィカートの伴奏でフルートの独奏が美しい。
マンハイムで着手され、パリで完成されたと考えられている。
フルート協奏曲 (第1番) ト長調 K.313 オーボエ協奏曲 ハ長調(K.314/285d)
第一楽章 アレグロ・マエストーソ 第三楽章 ロンドー アレグロ
エマニュエル・パユ Emmanuel Pahud カルロ・ロマーノ Carlo Romano
モーツァルトの唯一の完成されたオーボエ協奏曲。
第3楽章の第1主題は、ジングシュピール「後宮からの誘拐」
K.384 第2幕のブロンデ(S)のアリア「何というよろこび」
"Welche Wonne, welche Lust"の旋律と酷似している。
★モーツァルトは今回の旅行に出発する前ザルツブルクで作曲したオーボエ協奏曲 ハ長調をフルート用に長2度高く
移調しフルート用に編曲、フルート協奏曲第2番二長調としたのである。尚、オーボエ協奏曲はザルツブルク宮廷楽団の
オーボエ奏者フェルレンディスのために書かれた「フェルレンディス協奏曲」である可能性が強い。
★フルート協奏曲第2番 ニ長調 K. 314はこちら(NAXOS Music Library)で全楽章(I.Allegro aperto,
II.Andante ma non tropo, III.Allegro)試聴出来ます。
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
モーツァルトは父親の説得をしぶしぶ受け入れパリに発つことを決断するのであった。
ザルツブルクより乗ってきた自家用馬車を馬車屋に40フロリンで売却する話もつき、
同じ馬車屋が11ルイ・ドール(121フロリン)で同じ馬車でパリまで運んでくれることに
なったのである。(即ちパリまでの2人分の運賃は自家用馬車を渡して81フローリンを払えば良くなったということ。)
出発の2日前の3月12日にカンナビヒ邸でおわかれの音楽会が開かれ、≪3台のクラヴィーアの
ための協奏曲≫(第4番)へ長調「ロードロン協奏曲」K.242がモーツァルトの3人の美しい女弟子に
よって演奏された。第1クラヴィーアをローザ・カンナビヒ、第2クラヴィーアを最愛のアロイジア・
ヴェーバー、第3クラヴィーアをモーツァルトが「我々の家の妖精」と呼んでいた当時15歳の可憐な
テレーゼ・ピエロンが受け持ったのである。
★アロイジア・ヴェーバーはモーツァルトから贈られたレチタティーヴォとアリア≪アルカンドロよ、私は告白する、
このやさしい愛情がどこからやってくるのか≫K.294とオペラ≪牧人の王≫K.208のアリア≪穏やかな空気と
晴れた日々≫を歌ったのである。
出発の前日13日にモーツァルトはヴェーバー一家に別れを告げたのであるが、アロイジアは
モーツァルトに彼女自身が編んだレースの袖口飾りを2組贈り、アロイジアの父フリードリン・
ヴェーバーはモリエールの喜劇全集のドイツ語版を贈り、涙の別れとなったのである。
就職活動は不首尾に終わったが、当時のヨーロッパ随一とされた宮廷音楽家とほぼ半年間交流し
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>当時のフルートは音程が狂いやすかったらしいが
木製だったのでしょうか?音程は唇、歌口の角度、指の押さえ方で調整出来たのではないかと思いますが。不思議な気がします。
by アヨアン・イゴカー (2010-07-22 08:10)
おはようございます。モーツァルトが成人するには、恋の苦悩や就活の苦労などがたくさんあって、幅広い作曲のこやしとなっていくのですね。それとアロイジアの編んだレースの袖口飾り、どんなだったろうなと興味があります。
by whitered (2010-07-22 09:07)
今日もまた仕事場の机の上で聴かせていただきました。心地よく仕事ができます。いつもありがとうございます。
by 塩 (2010-07-22 09:50)
アヨアン・イゴカーさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
ご指摘の通り、フルートは木管楽器に分類されており、モーツァルトの時代は、黄楊、黒檀、ローズウッドなどがその材料に使われていました★
当時のフルートは1キイ・フルートが主体で基本調性である二長調から遠隔な調の演奏には特殊な技巧と熟練が必要でした★
「音程が狂いやすい」という点ですが「当時のフルートは正確な音程が得難かった。」その後フルートはキイの付加(例えば4キイ)と音域の拡張が行われた。。。と理解しております★勿論、ヴェンドリングのようにフルートの名手もいたわけで、モーツァルトが「気が乗らなかった」のはドジャンという「素人が相手のフルート曲の作曲であったから」ということかとも思われます★
いずれにせよ、モーツァルトは当時のフルートの特性も十分考慮し、名曲を遺してくれたわけですね★
by アマデウス (2010-07-23 06:09)
whiteredさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
アロイジアの編んだレースの袖口飾りに興味を引かれるとはさすがwhiteredさんですね☆多分現在でも女性用のブラウス?の袖口についているギザギザした飾りの様なものだと思いますが、判明すればお知らせします☆
by アマデウス (2010-07-23 06:17)
Dr.塩!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
モーツァルティアンのDr.塩に仕事場(笑)でもお聴き頂いており
嬉しい限りです☆
by アマデウス (2010-07-23 06:21)
whiteredさん☆
アロイジアの編んだレースの袖口飾りはこんな感じだったのかもしれませんね:(Antique handmade lace cuffs)
http://www.legacyinlace.com/images/products/98.jpg
by アマデウス (2010-07-23 08:00)
私が自分のお金で買った最初のモーツアルトのLPが,「フルート協奏曲 1番」でした.
それまでモーツアルトには全く興味が持てなかったのですが,この曲が,私がモーツアルトにのめり込む最初のきっかけになりました.
たしかLPのジャケット裏の解説も,アマデウスさんがおっしゃるように「フルート嫌い」に触れていたと記憶しています.私も漫然とその解説を受け入れていましたが,今回示された疑問には私も共感できる点が多いように思います.
この間も近所のスーパーの食品売り場でフルート四重奏曲のBGMが流れていましたが,思わずじっくり聞き入ってしまいました.
by トラの父 (2010-07-23 22:00)
トラの父さん!こんにちは~☆
ご訪問&コメントありがとうございます!
フルート協奏曲(第1番)ト長調K.313は思い出の名曲なのですね☆
第2番K.314はオーボエ協奏曲よりの編曲であることを考慮すると第1番が唯一オリジナルなフルート協奏曲ということになりますよね☆スーパーの食品売り場で流れているフルート四重奏曲を思わずじっくり聴き入ってしまわれた由、心温まるお話をありがとうございます☆
by アマデウス (2010-07-24 06:09)
お父さんの手紙の内容が、何だか必死になって来ましたね。w (^ω^)b
自家用馬車を馬車屋に売却しておりますが、売却した方がお得だったのでしょうか? (´∀`)ノ
(^ー^)ノシ
by モッズパンツ (2010-07-24 07:05)
モッズパンツさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
ザルツブルクの父レオポルトとも相談し、マンハイムで自家用馬車を売却した方が得策であるとの判断をしています★主たる理由は;
①パリまで馬車を操る御者の手配が困難。
②所持金が140フローリンで、パリでの生活を考慮すると所持金を増やしておきたい★(パリで長期滞在することをベースとしての考え)
③駅馬車(乗り合い馬車)はマンハイムから25km離れたシュトラスブルクからパリ行が出ていた。ここまでの馬車代も含めマンハイムーパリ間を駅馬車で行くと交通費だけで約100フローリン(2名分)はかかる。
④駅馬車は乗り合いであることよりスペースの問題から荷物の持ち込み制限(超過料金をとられる)や他の乗客に気をつかう必要もある。
by アマデウス (2010-07-24 10:32)
この時代にも、素敵な曲を沢山作曲なされていたんですね。
声楽中心にしか知らなかったことに、気づきました。
by LittleMy (2010-07-26 11:01)
LittleMyさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
LittleMyさんは声楽がご専門ですから当然声楽中心になりますよね★
ところでご参考までですが、極めて荒っぽい計算ながら、紛失した曲、断片しかのこされていない曲も含めるとモーツァルトは5歳から35歳までで786曲を作曲しているとのことですから、5歳から亡くなった35歳(36歳寸前)までの一年平均作曲数は26.2曲となります★20歳から23歳までの作曲数をみると;
1776年(20歳)34曲、1777年(21歳)22曲、1778年(22歳)43曲、1779年(23歳)24曲。最も作曲数の多い年は1782年(26歳)で60曲★
by アマデウス (2010-07-27 06:25)
お早うございます。成人したモーツアルトには色々の
試練が待っていますね。でも素敵なマンハイムの生活と
フルートやオーボエなどの多くの作曲も手掛けて、この地を
離れるのはモーツアルトにとっても辛かった事でしょうね。
就活もうまくいきませんね。作曲数も多くなっていますが、
作曲しただけではあまりお金にはならなかったのでしょうか?
by pegasas (2010-07-27 09:44)
pegasasさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
今回の旅行でのモーツァルトはクラヴィーア演奏やクラヴィーア教師として或いはと作曲をして旅費・生活費を稼ぎ出せる状況にはありませんでした★オペラの作曲をすれば相当まとまった作曲料が入るわけですが、今回の旅行では宮廷からオペラ作曲の依頼をとりつけることが出来ませんでした★貴族邸でクラヴィーアの演奏をしても金時計(高価な品ではあっても直ぐに換金出来ず)を貰うことが多かった様です★尚、今回のマンハイム・パリで作曲した作品の一部は後になってウィーンに定住してから1782年頃より出版販売をしています★ウィーンでの作曲料価格は交響曲1曲が約6ドゥカーテン(約8万円)であった様です★
by アマデウス (2010-07-28 07:10)
コメントは初めまして
モ-ツアルトは好きな作曲家の一人なので細かい軌跡興味深く読ませて頂きました。
猫が好きなので猫とモーツアルトのエピソードも楽しく読ませて頂きました。
nice!とコメントありがとうございました^^
by mikoto (2010-07-28 08:05)
mikotoさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
「猫とモーツァルト」含め色々お読み頂き、ありがとうございます!
また時々遊びに起こし下さいね~☆(=^・^=)
by アマデウス (2010-07-28 13:07)