モーツァルトのミュンヘン旅行(「イドメネオ」作曲と上演の旅) [モーツァルト]
モーツァルト(当時24歳)は1780年11月5日にザルツブルクを発ち、ミュンヘンへと駅馬車で旅立った。
初めての一人旅であり、バイエルン選帝侯カール・テオドール(在位:1777年 - 1799年)の要請を受け、
翌年の謝肉祭用のオペラ「クレタの王イドメネオ」の作曲と演奏指導の旅である。
★ミュンヘンにおける謝肉祭用オペラ作曲と演奏指導は今回で二度目となる。一度目は、モーツァルトが19歳の時、
1775年1月13日初演した3幕のドラマ・ジョコーソ(オペラ・ブッファ)「偽の女庭師」であった。尚、当時のバイエルン選帝侯は
マクシミリアン3世ヨーゼフ(1727年 - 1777年)で、今回はカール・テオドール(在位:1777年 - 1799年)。
ミュンヘンには翌日6日午後1時に無事到着したのであるが、非常に辛い駅馬車の旅を余儀なくされた。
11月8日付ミュンヘンよりザルツブルクの父宛の第一報には次の通り述べている。(「モーツァルトの馬車の旅」でも
引用した。)
≪。。。ぼくらのうち(注:駅馬車に乗り合わせた乗客を含めぼくらとしている)誰ひとりとして、夜の間、一分でさえも
眠れませんでした。あの馬車では魂が放り出されます!そして座席ときたら!石の様に固いのです!
(中略)二つの駅の間ずっと、クッションに両手を突っ込んで、お尻を宙に浮かせていました。(中略)
これからは原則として、駅馬車で行くよりは、むしろ徒歩で行ったほうがよさそうです。≫
上記の様な報告をしたあと、「イドメネオ」の台本を書いたヴァレスコ師にイーリアのアリアの修正を依頼
する様父レオポルトに頼み、イーリア役のドロテーア・ヴェンドリング夫人は彼女のシェーナ(イーリアの別の
アリア)に最高に満足していると語るのである。
その後何度となくモーツァルトは父レオポルトに台詞、台本の修正が必要な箇所とその理由を説明し
レオポルトはこれを受けてヴァレスコ師にその必要性を説得するなど、モーツァルトとレオポルトは、
これら台本の修正作業を通じ、親子の息がぴったり合った時期を過ごすのである。モーツァルトは
台詞や歌詞を極力短く、簡潔にし、音楽で最大の効果を引き出すべきであると繰り返し主張するのである。
これらレオポルト宛の複数の手紙には、いかにモーツァルトがこのオペラに注力していたか、
さらにはモーツァルトがいかに深く作詞に関与したかが如実に示されているのである。
★モーツァルトは翌年ウィーン定住後も「イドメネオ」の上演を行うべく修正版を作成することになる。
モーツァルトが歌手の中で最も問題視したのはカストラート歌手のヴィンチェンツォ・デル・プラート
(1756-1828)であり、彼にはオペラ全体を教え込む必要があると同時に声にもむらがあり、発声
をも指導することになった。
他方、ザルツブルクを出発する前にシカネーダーから依頼を受けていたアリアを作曲し、11月22日
ザルツブルクで冬の興行中のシカネーダーにレオポルト経由送付した。
★送付したアリアはシカネーダーの喜劇「眠れぬ二夜、別名、騙されて幸せ」への挿入曲であろうとされている。
ヴァレスコ師のイタリア語台本をドイツ語に翻訳したのはヨハン・アンドレアス・シャハトナー。
モーツァルトはミュンヘン宮廷劇場総監督のゼーアウ伯爵の要請に応じ、ヴァレスコのイタリア語
台本作成及びシャハトナーの翻訳サービス契約をモーツァルトの名において締結し、ゼーアウ伯爵は
報酬を一括モーツァルトに支払っている。
★父レオポルトはヴァレスコが度重なる台本の修正により報酬の増額あるいは早期支払いを要求してきた際、彼との契約は
ゼーアウ伯爵との別契約とすべきであったとモーツァルトにコメントしている。
1780年11月29日にオーストリア・ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアが崩御し、帝国領内での
興行は6週間中止となった。ミュンヘンもザルツブルクも3ヶ月の服喪期間を設定してはいるが、
ミュンヘンでは劇場を一時閉鎖するとかの措置はとられず、「ぼくのオペラには、女帝の死はまったく
影響ありません。どの劇場も全然閉鎖されておらず、芝居はいつものようにずっと続けられて
いますから。」と連絡するのである。(ミュンヘンのモーツァルトよりザルツブルクの父レオポルト宛1780年12月5日付書簡)
★亡きバイエルン選帝侯マクシミリアン3世の喪は6週間であったにも拘わらず、女帝の喪を3ヶ月としたのは多分に
バイエルン継承問題に伴う政治的配慮(オーストリアへの従順を示すという配慮)があったのであろう。
12月23日に第三回のオーケストラ伴奏によるリハーサルが行われ、この結果についてモーツァルトは
父レオポルトに次の通り報告している。(1780年12月27日付、ミュンヘン発)
≪最後にやった総稽古は見事でした。それは宮廷の大広間で行われ、選帝侯も列席しました。
今回は、フル・オーケストラで(もちろん、歌劇場に関係している全員で)稽古が行われました。
第一幕が終わると、選帝侯は大きな声で「ブラヴォー!」とぼくに言われました。そして、ぼくが
選帝侯の手にキスをしに行くと、こう言われました。「このオペラはすばらしいものとなるだろう。
間違いなく、君の名誉となるにちがいない。」≫
★バイエルン選帝侯カール・テオドール:カール4世フィリップ・テオドール(Karl IV. Philipp Theodor、1724年12月12日 -
1799年2月16日)は、プファルツ選帝侯(在位:1743年 - 1777年)、後にバイエルン選帝侯(在位:1777年 - 1799年)。
バイエルン選帝侯としてはカール・テオドール(またはカール2世テオドール)。ヴィッテルスバッハ家は14世紀以降
バイエルン系(ルートヴィヒ4世が祖)とプファルツ系(ルドルフ1世が祖)に家系が分かれていたが、プファルツ系の
カール・テオドールがバイエルン選帝侯を継承した事で統合された。
1781年が明け、1月25日父レオポルトと姉ナンネルがザルツブルクを発ち、翌日ミュンヘンに到着した。
勿論、目的はモーツァルトの「イドメネオ」初演に立ち会うためである。
1781年1月27日、モーツァルトの25歳の誕生日に最後の総稽古が行われ、1月29日、
ミュンヘン宮廷劇場(現キュヴィリエ劇場)で初演された。
★キュヴィリエ劇場(ミュンヘンにあるロココ式劇場/独: Cuvilliés-Theater)は前任バイエルン選帝侯 (在位:1745年 – 1777年)の
マクシミリアン3世ヨーゼフ(Maximilian III. Joseph, 1727年3月28日 - 1777年12月30日)が、建設をフランソワ・ド・
キュヴィリエに命じ、1753年完成した宮廷(レジデンツ)にある劇場。オペラ・セリアだけが上演された。
バイエルン選帝侯カール・テオドール キュヴィリエ劇場内部
歌劇 『クレタの王,イドメネオ』 "Idomeneo, rè di Creta" K.366
背景など:
★仏語原作「イドメネ」は紀元前1250年頃、小アジアのトロイア(現在はトルコの領土)に対してギリシャのミケーネ
(ミュケナイ)を中心とするアカイア人の遠征軍が行ったギリシア神話上の戦争である「トロイア戦争」直後を題材とし、
古代ギリシアにおける、ホメーロスの英雄叙事詩『イーリアス』、『オデュッセイア』のほか、『キュプリア』、『アイティオピス』、
などから題材を得ている。
★仏語原作(台本)ではイドメネオがイダマンテを殺し、悲しみの中でイーリアも死を選ぶという悲惨な結末となっているが、
ヴァレスコ師のモーツァルト用の台本では、「あらすじ」の通りハッピーエンドで終わらせているのである。
★台本ではイドメネオはアルゴスの王として登場するが、古代アルゴスはミケーネ文明の時代には重要な要塞であった。
ミケーネは現在、ギリシャのペロポネソス半島東部にあるアルゴリア県の都市であるが、1872年ハインリッヒ・
シュリーマンによって遺跡が発掘され古代ギリシャ以前の文明、所謂ミケーネ文明が発見された。
作詞者:
アントワーヌ・ダンシェ(Antoine Danchet 1671~1748)の原作(仏語、5幕)を、ザルツブルク宮廷礼拝堂付司祭
ジャンバティスタ・ヴァレスコ(Giambattista Varesco 1736~1805)がイタリア語で3幕に書き改めた。
初演時の主たる配役表
イドメネオ(クレタの王):アントン・ラーフ(T)
イダマンテ(その息子) :ヴィンチェンツォ・デル・プラート(S.カストラート)★
イーリア(トロイアの王女、プリアモスの娘):ドロテア・ヴェンドリング夫人(S)
エレットラ(ミケーネ王アガメムノーンの王女):エリザペッタ・ヴェンドリング夫人(S)
アルバーチェ(王の腹心):ジョヴァンニ・ヴァレージ(T)
★1786年3月13日におこなわれたウィーンでの愛好家たちによる上演用にモーツァルトはイダマンテのパートを
テノール声部用に書き直している。
舞台設定:
紀元前1250年頃のトロイア(現在はトルコの領土)とギリシアの戦争(トロイア戦争)終結直後(ギリシャ軍が勝利)の、
クレタ(ギリシャ)の首都シドン。
あらすじ:
トロイアの王プリアモスの王女イーリアは、クレタの首都シドンに囚われの身となっているが、敵であるクレタ王イドメネオの
息子イダマンテと相愛の仲となっている。他方、アルゴス(ミケーネ)の王アガメムノーンの王女エレットラも王子を愛している。
イドメネオはトロイア戦争で勝利を収め帰還の途中、嵐に遭い、遭難しかかるが、海神ネプチューンに助けられる。
彼は海神に、浜辺で最初に出遭った者を生贄に捧げると誓うが、最初に会うのは自分の息子イダマンテであった。
王は親友アルバーチェの進言もあり、イダマンテをエレットラと共にアルゴス(ミケーネ)に逃がそうとする。
しかし二人が乗船しようとすると、激しい嵐が起こる。海神の怒りである。イダマンテは自分が犠牲にならなければならない
ことを知る。イドメネオが息子の胸に剣を突き刺さんとした時、イリアが現れ自らを生贄として捧げるよう申し出る。
すると突然、神託の声が響き渡り、愛の神の勝利が宣言され、「イドメネオが王位を退き、イダマンテが王位に、イリアは
その妃となること」が告げられる。イドメネオは神託に従い、イダマンテの戴冠を行う。
(戴冠式の模様はパントマイムで行われ、祝典バレエが踊られる。)
祝典バレエ:オペラ「イドメネオ」へのバレエ音楽 K.367
カール・テオドール選帝侯はフランスのオペラに親しんでいたこともあり、「イドメネオ」の第1幕と第3幕のフィナーレ
(或いは第3幕フィナーレのみであったかも知れないが)でバレエが上演されたとされているが、正確なバレエ
上演の箇所については確証がない。尚、バレエ音楽はシャコンヌ、パ・スール、パスピエ、ガヴォット、パッサカリアの5曲から構成されている。
管弦楽伴奏付レチタティーヴォとイーリアのアリア
序曲 私の悲惨なこの運命はいつ終わるのだろう…
指揮:ジェームズ・レヴァイン James Levine 父よ,兄よ,さようなら!
メトロポリタン歌劇場管弦楽団 ”Quando avran fine omai” ”Padre, germani, addio!”
The Metropolitan Opera Orchestra イーリア:イレアナ・コトルバスIleana Cotrubas
★イーリアのレチタティーヴォとアリア:レチタティーヴォでは自分の不幸な運命を嘆くと同時に敵方の皇子を恋している
感情を表す。アリアでは敵方のギリシャ人の皇子に恋している自分の罪を歌う。
エレットラのアリア「この心の中に感じるものすべては」 イドメネオのアリア「わしは自分のまわりに見ることになろう。」
"Tutte nel cor vi sento" ”Vedrommi intorno”
ヒルデガルド・ベーレンス Hildegard Behrens(ソプラノ) イドメネオ:ルチアーノ・パヴァロッティ Luciano Pavarotti
ドイツのソプラノ歌手H.ベーレンスさんは2009年8月草津
国際音楽アカデミー&フェスティバルに出演する為に来日
していたが、8月17日から体調不良を訴え東京都港区の
病院に入院していた処、8月18日に動脈瘤破裂などにより
72歳の生涯を閉じられました。
★エレットラのアリア:王の娘たるエレットラが恋敵としてトロイアの女奴隷を持つこと事態に激しい怒りを覚える
エレットラは、恋人(イダマンテ)の心を奪ったイーリアに復讐と残忍な仕打ちを与えてやると歌う。
★イドメネオのアリア:海岸で最初に出会った者を海神ネプチューンへの生贄として差し出すことを条件に嵐を避け、
無事クレタの海岸に戻ったイドメネオが、「悲しげな亡霊を自分のまわりにみることになろう。」「突き刺された胸の中に、
自分が犯した罪を飛び散った血潮が示すことになろう。」と忌まわしい誓約をしてしまった自分を責めながら歌う。
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
モーツァルトは1781年初頭、ミュンヘン宮廷楽団の名オーボエ奏者で友人の
フリードリヒ・ラムのためにオーボエ四重奏曲へ長調 K.370を作曲している。
オーボエ四重奏曲 へ長調 K.370
第一楽章 アレグロ
カルロ・ロマーノ Carlo Romano(オーボエ)
1781年初頭、ミュンヘン宮廷楽団の名オーボエ奏者
フリードリヒ・ラムのために書かれた。
モーツァルトが大司教コロレード伯より得ていた休暇は6週間であり12月18日までとの期限付で
あったが、特に休暇延長申請もせずミュンヘンに留まり、作曲と演奏指導を続け初演にこぎつけ、
さらにミュンヘンに留まり続けていたのである。
他方、大司教は1781年1月20日、家臣の一部を連れウィーンに向けてザルツブルクを出発した。
父親の帝国副宰相ルードルフ・ヨーゼフ・コロレード=メルス・ウント・ヴァルゼー(1706-88)の病気
見舞いをその目的としていた。
★同行させた従者の中にはブルネッティ(コンサート・マスター)やチェッカレッリ(カストラート歌手)も含まれており、
大司教のウィーン生活には音楽も必要であったことがわかる。
モーツァルトと父レオポルトそして姉ナンネルは「イドメネオ」の上演がすんでもミュンヘンに滞在し、
父レオポルトの故郷アウクスブルクまで足を延ばしていた。
★この年(1780年)「偽の女庭師イタリア語”La finta giardiniera"」のジングシュピール版≪ドイツ語版タイトル:
"Die verstellte Gartnerin (偽装した女庭師)≫がアウクスブルクでベーム一座により上演されており、同地訪問はこの上演の
ためかとも思われる。尚、その後ドイツ語の表題は”Die Gartnerin aus Liebe"(愛の女庭師)と改題されている。
ミュンヘンのモーツァルトに対し、ウィーン滞在中の大司教より直ちにウィーンに来るようにとの命令が
下った。大司教が開催する夕食会或いはコンサートにクラヴィーアの名手モーツァルトが必要なのである。
1781年3月12日モーツァルトはミュンヘンを旅発ちウィーンに直行した。ザルツブルクの北方を
通過しての馬車の旅である。
★モーツァルトは5日目の3月16日午前9時ウィーンに到着している。
★ザルツブルクに戻らず、ミュンヘンよりウィーンに直行することになったモーツァルトはウィーンで定住を決断することになる。
従い、ミュンヘンを出発した段階でモーツァルトのザルツブルク時代、即ち彼の生涯の前半を終えることになるのである。
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初めての一人旅であり、バイエルン選帝侯カール・テオドール(在位:1777年 - 1799年)の要請を受け、
翌年の謝肉祭用のオペラ「クレタの王イドメネオ」の作曲と演奏指導の旅である。
★ミュンヘンにおける謝肉祭用オペラ作曲と演奏指導は今回で二度目となる。一度目は、モーツァルトが19歳の時、
1775年1月13日初演した3幕のドラマ・ジョコーソ(オペラ・ブッファ)「偽の女庭師」であった。尚、当時のバイエルン選帝侯は
マクシミリアン3世ヨーゼフ(1727年 - 1777年)で、今回はカール・テオドール(在位:1777年 - 1799年)。
ミュンヘンには翌日6日午後1時に無事到着したのであるが、非常に辛い駅馬車の旅を余儀なくされた。
11月8日付ミュンヘンよりザルツブルクの父宛の第一報には次の通り述べている。(「モーツァルトの馬車の旅」でも
引用した。)
≪。。。ぼくらのうち(注:駅馬車に乗り合わせた乗客を含めぼくらとしている)誰ひとりとして、夜の間、一分でさえも
眠れませんでした。あの馬車では魂が放り出されます!そして座席ときたら!石の様に固いのです!
(中略)二つの駅の間ずっと、クッションに両手を突っ込んで、お尻を宙に浮かせていました。(中略)
これからは原則として、駅馬車で行くよりは、むしろ徒歩で行ったほうがよさそうです。≫
上記の様な報告をしたあと、「イドメネオ」の台本を書いたヴァレスコ師にイーリアのアリアの修正を依頼
する様父レオポルトに頼み、イーリア役のドロテーア・ヴェンドリング夫人は彼女のシェーナ(イーリアの別の
アリア)に最高に満足していると語るのである。
その後何度となくモーツァルトは父レオポルトに台詞、台本の修正が必要な箇所とその理由を説明し
レオポルトはこれを受けてヴァレスコ師にその必要性を説得するなど、モーツァルトとレオポルトは、
これら台本の修正作業を通じ、親子の息がぴったり合った時期を過ごすのである。モーツァルトは
台詞や歌詞を極力短く、簡潔にし、音楽で最大の効果を引き出すべきであると繰り返し主張するのである。
これらレオポルト宛の複数の手紙には、いかにモーツァルトがこのオペラに注力していたか、
さらにはモーツァルトがいかに深く作詞に関与したかが如実に示されているのである。
★モーツァルトは翌年ウィーン定住後も「イドメネオ」の上演を行うべく修正版を作成することになる。
モーツァルトが歌手の中で最も問題視したのはカストラート歌手のヴィンチェンツォ・デル・プラート
(1756-1828)であり、彼にはオペラ全体を教え込む必要があると同時に声にもむらがあり、発声
をも指導することになった。
他方、ザルツブルクを出発する前にシカネーダーから依頼を受けていたアリアを作曲し、11月22日
ザルツブルクで冬の興行中のシカネーダーにレオポルト経由送付した。
★送付したアリアはシカネーダーの喜劇「眠れぬ二夜、別名、騙されて幸せ」への挿入曲であろうとされている。
ヴァレスコ師のイタリア語台本をドイツ語に翻訳したのはヨハン・アンドレアス・シャハトナー。
モーツァルトはミュンヘン宮廷劇場総監督のゼーアウ伯爵の要請に応じ、ヴァレスコのイタリア語
台本作成及びシャハトナーの翻訳サービス契約をモーツァルトの名において締結し、ゼーアウ伯爵は
報酬を一括モーツァルトに支払っている。
★父レオポルトはヴァレスコが度重なる台本の修正により報酬の増額あるいは早期支払いを要求してきた際、彼との契約は
ゼーアウ伯爵との別契約とすべきであったとモーツァルトにコメントしている。
1780年11月29日にオーストリア・ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアが崩御し、帝国領内での
興行は6週間中止となった。ミュンヘンもザルツブルクも3ヶ月の服喪期間を設定してはいるが、
ミュンヘンでは劇場を一時閉鎖するとかの措置はとられず、「ぼくのオペラには、女帝の死はまったく
影響ありません。どの劇場も全然閉鎖されておらず、芝居はいつものようにずっと続けられて
いますから。」と連絡するのである。(ミュンヘンのモーツァルトよりザルツブルクの父レオポルト宛1780年12月5日付書簡)
★亡きバイエルン選帝侯マクシミリアン3世の喪は6週間であったにも拘わらず、女帝の喪を3ヶ月としたのは多分に
バイエルン継承問題に伴う政治的配慮(オーストリアへの従順を示すという配慮)があったのであろう。
12月23日に第三回のオーケストラ伴奏によるリハーサルが行われ、この結果についてモーツァルトは
父レオポルトに次の通り報告している。(1780年12月27日付、ミュンヘン発)
≪最後にやった総稽古は見事でした。それは宮廷の大広間で行われ、選帝侯も列席しました。
今回は、フル・オーケストラで(もちろん、歌劇場に関係している全員で)稽古が行われました。
第一幕が終わると、選帝侯は大きな声で「ブラヴォー!」とぼくに言われました。そして、ぼくが
選帝侯の手にキスをしに行くと、こう言われました。「このオペラはすばらしいものとなるだろう。
間違いなく、君の名誉となるにちがいない。」≫
★バイエルン選帝侯カール・テオドール:カール4世フィリップ・テオドール(Karl IV. Philipp Theodor、1724年12月12日 -
1799年2月16日)は、プファルツ選帝侯(在位:1743年 - 1777年)、後にバイエルン選帝侯(在位:1777年 - 1799年)。
バイエルン選帝侯としてはカール・テオドール(またはカール2世テオドール)。ヴィッテルスバッハ家は14世紀以降
バイエルン系(ルートヴィヒ4世が祖)とプファルツ系(ルドルフ1世が祖)に家系が分かれていたが、プファルツ系の
カール・テオドールがバイエルン選帝侯を継承した事で統合された。
1781年が明け、1月25日父レオポルトと姉ナンネルがザルツブルクを発ち、翌日ミュンヘンに到着した。
勿論、目的はモーツァルトの「イドメネオ」初演に立ち会うためである。
1781年1月27日、モーツァルトの25歳の誕生日に最後の総稽古が行われ、1月29日、
ミュンヘン宮廷劇場(現キュヴィリエ劇場)で初演された。
★キュヴィリエ劇場(ミュンヘンにあるロココ式劇場/独: Cuvilliés-Theater)は前任バイエルン選帝侯 (在位:1745年 – 1777年)の
マクシミリアン3世ヨーゼフ(Maximilian III. Joseph, 1727年3月28日 - 1777年12月30日)が、建設をフランソワ・ド・
キュヴィリエに命じ、1753年完成した宮廷(レジデンツ)にある劇場。オペラ・セリアだけが上演された。
バイエルン選帝侯カール・テオドール キュヴィリエ劇場内部
歌劇 『クレタの王,イドメネオ』 "Idomeneo, rè di Creta" K.366
背景など:
★仏語原作「イドメネ」は紀元前1250年頃、小アジアのトロイア(現在はトルコの領土)に対してギリシャのミケーネ
(ミュケナイ)を中心とするアカイア人の遠征軍が行ったギリシア神話上の戦争である「トロイア戦争」直後を題材とし、
古代ギリシアにおける、ホメーロスの英雄叙事詩『イーリアス』、『オデュッセイア』のほか、『キュプリア』、『アイティオピス』、
などから題材を得ている。
★仏語原作(台本)ではイドメネオがイダマンテを殺し、悲しみの中でイーリアも死を選ぶという悲惨な結末となっているが、
ヴァレスコ師のモーツァルト用の台本では、「あらすじ」の通りハッピーエンドで終わらせているのである。
★台本ではイドメネオはアルゴスの王として登場するが、古代アルゴスはミケーネ文明の時代には重要な要塞であった。
ミケーネは現在、ギリシャのペロポネソス半島東部にあるアルゴリア県の都市であるが、1872年ハインリッヒ・
シュリーマンによって遺跡が発掘され古代ギリシャ以前の文明、所謂ミケーネ文明が発見された。
作詞者:
アントワーヌ・ダンシェ(Antoine Danchet 1671~1748)の原作(仏語、5幕)を、ザルツブルク宮廷礼拝堂付司祭
ジャンバティスタ・ヴァレスコ(Giambattista Varesco 1736~1805)がイタリア語で3幕に書き改めた。
初演時の主たる配役表
イドメネオ(クレタの王):アントン・ラーフ(T)
イダマンテ(その息子) :ヴィンチェンツォ・デル・プラート(S.カストラート)★
イーリア(トロイアの王女、プリアモスの娘):ドロテア・ヴェンドリング夫人(S)
エレットラ(ミケーネ王アガメムノーンの王女):エリザペッタ・ヴェンドリング夫人(S)
アルバーチェ(王の腹心):ジョヴァンニ・ヴァレージ(T)
★1786年3月13日におこなわれたウィーンでの愛好家たちによる上演用にモーツァルトはイダマンテのパートを
テノール声部用に書き直している。
舞台設定:
紀元前1250年頃のトロイア(現在はトルコの領土)とギリシアの戦争(トロイア戦争)終結直後(ギリシャ軍が勝利)の、
クレタ(ギリシャ)の首都シドン。
あらすじ:
トロイアの王プリアモスの王女イーリアは、クレタの首都シドンに囚われの身となっているが、敵であるクレタ王イドメネオの
息子イダマンテと相愛の仲となっている。他方、アルゴス(ミケーネ)の王アガメムノーンの王女エレットラも王子を愛している。
イドメネオはトロイア戦争で勝利を収め帰還の途中、嵐に遭い、遭難しかかるが、海神ネプチューンに助けられる。
彼は海神に、浜辺で最初に出遭った者を生贄に捧げると誓うが、最初に会うのは自分の息子イダマンテであった。
王は親友アルバーチェの進言もあり、イダマンテをエレットラと共にアルゴス(ミケーネ)に逃がそうとする。
しかし二人が乗船しようとすると、激しい嵐が起こる。海神の怒りである。イダマンテは自分が犠牲にならなければならない
ことを知る。イドメネオが息子の胸に剣を突き刺さんとした時、イリアが現れ自らを生贄として捧げるよう申し出る。
すると突然、神託の声が響き渡り、愛の神の勝利が宣言され、「イドメネオが王位を退き、イダマンテが王位に、イリアは
その妃となること」が告げられる。イドメネオは神託に従い、イダマンテの戴冠を行う。
(戴冠式の模様はパントマイムで行われ、祝典バレエが踊られる。)
祝典バレエ:オペラ「イドメネオ」へのバレエ音楽 K.367
カール・テオドール選帝侯はフランスのオペラに親しんでいたこともあり、「イドメネオ」の第1幕と第3幕のフィナーレ
(或いは第3幕フィナーレのみであったかも知れないが)でバレエが上演されたとされているが、正確なバレエ
上演の箇所については確証がない。尚、バレエ音楽はシャコンヌ、パ・スール、パスピエ、ガヴォット、パッサカリアの5曲から構成されている。
管弦楽伴奏付レチタティーヴォとイーリアのアリア
序曲 私の悲惨なこの運命はいつ終わるのだろう…
指揮:ジェームズ・レヴァイン James Levine 父よ,兄よ,さようなら!
メトロポリタン歌劇場管弦楽団 ”Quando avran fine omai” ”Padre, germani, addio!”
The Metropolitan Opera Orchestra イーリア:イレアナ・コトルバスIleana Cotrubas
★イーリアのレチタティーヴォとアリア:レチタティーヴォでは自分の不幸な運命を嘆くと同時に敵方の皇子を恋している
感情を表す。アリアでは敵方のギリシャ人の皇子に恋している自分の罪を歌う。
エレットラのアリア「この心の中に感じるものすべては」 イドメネオのアリア「わしは自分のまわりに見ることになろう。」
"Tutte nel cor vi sento" ”Vedrommi intorno”
ヒルデガルド・ベーレンス Hildegard Behrens(ソプラノ) イドメネオ:ルチアーノ・パヴァロッティ Luciano Pavarotti
ドイツのソプラノ歌手H.ベーレンスさんは2009年8月草津
国際音楽アカデミー&フェスティバルに出演する為に来日
していたが、8月17日から体調不良を訴え東京都港区の
病院に入院していた処、8月18日に動脈瘤破裂などにより
72歳の生涯を閉じられました。
★エレットラのアリア:王の娘たるエレットラが恋敵としてトロイアの女奴隷を持つこと事態に激しい怒りを覚える
エレットラは、恋人(イダマンテ)の心を奪ったイーリアに復讐と残忍な仕打ちを与えてやると歌う。
★イドメネオのアリア:海岸で最初に出会った者を海神ネプチューンへの生贄として差し出すことを条件に嵐を避け、
無事クレタの海岸に戻ったイドメネオが、「悲しげな亡霊を自分のまわりにみることになろう。」「突き刺された胸の中に、
自分が犯した罪を飛び散った血潮が示すことになろう。」と忌まわしい誓約をしてしまった自分を責めながら歌う。
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★
モーツァルトは1781年初頭、ミュンヘン宮廷楽団の名オーボエ奏者で友人の
フリードリヒ・ラムのためにオーボエ四重奏曲へ長調 K.370を作曲している。
オーボエ四重奏曲 へ長調 K.370
第一楽章 アレグロ
カルロ・ロマーノ Carlo Romano(オーボエ)
1781年初頭、ミュンヘン宮廷楽団の名オーボエ奏者
フリードリヒ・ラムのために書かれた。
モーツァルトが大司教コロレード伯より得ていた休暇は6週間であり12月18日までとの期限付で
あったが、特に休暇延長申請もせずミュンヘンに留まり、作曲と演奏指導を続け初演にこぎつけ、
さらにミュンヘンに留まり続けていたのである。
他方、大司教は1781年1月20日、家臣の一部を連れウィーンに向けてザルツブルクを出発した。
父親の帝国副宰相ルードルフ・ヨーゼフ・コロレード=メルス・ウント・ヴァルゼー(1706-88)の病気
見舞いをその目的としていた。
★同行させた従者の中にはブルネッティ(コンサート・マスター)やチェッカレッリ(カストラート歌手)も含まれており、
大司教のウィーン生活には音楽も必要であったことがわかる。
モーツァルトと父レオポルトそして姉ナンネルは「イドメネオ」の上演がすんでもミュンヘンに滞在し、
父レオポルトの故郷アウクスブルクまで足を延ばしていた。
★この年(1780年)「偽の女庭師イタリア語”La finta giardiniera"」のジングシュピール版≪ドイツ語版タイトル:
"Die verstellte Gartnerin (偽装した女庭師)≫がアウクスブルクでベーム一座により上演されており、同地訪問はこの上演の
ためかとも思われる。尚、その後ドイツ語の表題は”Die Gartnerin aus Liebe"(愛の女庭師)と改題されている。
ミュンヘンのモーツァルトに対し、ウィーン滞在中の大司教より直ちにウィーンに来るようにとの命令が
下った。大司教が開催する夕食会或いはコンサートにクラヴィーアの名手モーツァルトが必要なのである。
1781年3月12日モーツァルトはミュンヘンを旅発ちウィーンに直行した。ザルツブルクの北方を
通過しての馬車の旅である。
★モーツァルトは5日目の3月16日午前9時ウィーンに到着している。
★ザルツブルクに戻らず、ミュンヘンよりウィーンに直行することになったモーツァルトはウィーンで定住を決断することになる。
従い、ミュンヘンを出発した段階でモーツァルトのザルツブルク時代、即ち彼の生涯の前半を終えることになるのである。
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いつもご丁寧なコメントをいただきありがとうございます。
イドメネオとオーボエ四重奏曲聞かせていただきました。朝モーツァルトを映像とともに聞かせていただくと気持ちよく仕事に入れます。
by 塩 (2010-08-19 09:27)
こんにちは
オペラの方は実際観てみないと良く判らない感じです^^;
が、パヴァロッティの歌声は素晴らしいですね~
オーボエ四重奏曲 へ長調は
暑い今の季節に涼風を届けてくれるようでウットリです♪
いつも丁寧なコメント感謝です~^^☆
by mikoto (2010-08-19 14:53)
ニックネーム変えたわけではありませんが・・・。
トラブルです。。。
マイパネルでは、「バロックが好き」のままなんです。。。
H.ベーレンスさん
御冥福をお祈りいたします。
とても72歳には見えない歌いっぷりですね。
急な事でお気の毒です。
by no_nickname (2010-08-19 15:18)
こんにちは。ギリシャ悲劇を題材にしたオペラは、スケールが大きいですね。パバロッティさんもH・ベーレンスさんも今は亡き人、惜しい人をなくしましたね。ところで、モーツァルトは、いよいよウィーン入りですか。大司教と和解ができることを願っています。
by whitered (2010-08-19 19:24)
Dr.塩!こんにちは~☆
こちらこそいつもご訪問頂きありがとうございます☆
朝のモーツァルトは気分が爽快になりますよね☆
by アマデウス (2010-08-20 06:05)
mikotoさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
確かにオペラは全幕を観て聴くのが一番ですね☆
オーボエ四重奏曲へ長調 K.370でクーラーは不要になって、
ブルー・ソーダー・シャーベットを召し上がった気持ちになりましたか。。。☆♪
by アマデウス (2010-08-20 06:13)
no_nicknameと出てしまった。。。
「バロックが好き」さん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
不思議な事態ですが、なにか良いことのある前兆かも知れませんよ☆
by アマデウス (2010-08-20 06:18)
whiteredさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
今回でモーツァルトのザルツブルク時代(彼の生涯の前半)を終えました☆
次回からはいよいよウィーン時代に入ります☆これからも宜しくお願い致します☆
by アマデウス (2010-08-20 06:23)
ケルビーノとかのズボン役してた時にお話いただいて、演奏会形式でイダマンテをさせてもらいました。
とっても難しかったのですが、やりがいがありました。
懐かしく拝見させていただきました。
by LittleMy (2010-08-21 07:57)
お父さん宛の手紙を拝見して,振動と衝撃が繰り返される馬車旅は荒波での船酔いを催す船旅と同じか,あるいはそれよりも酷そうな印象を受けました.
たしかモーツアルトが早世した理由の1つに,どなたかが子供の頃からの長旅を挙げられていましたが,それもなるほどと思われました.
モーツアルト自身も大変だったでしょうが,パリで亡くなった高齢のお母さんにとって長旅は,もっと辛かったでしょうね.
「イドメネオ」は,どこかで舞台にかかっていれば一度は観てみたいオペラです.
リンクで聴かせていただいたように,端正で,若々しい力の漲った音楽に溢れていますね.後期の有名オペラと同じくらいに,私は好きです.
by トラの父 (2010-08-21 22:37)
LittleMyさん!こんにちは~☆
清純にして優雅で勇敢なイダマンテ役!素晴らしいですね☆\(^ ^)/
LittleMyさんのアリア”Non ho colpa”の音源をイーリアのレチタティーヴォとアリア(”Quando avran fine omai” ”Padre, germani, addio!”)の次に貼り付けて(そのつもりになって)楽しませて頂きます☆
コメントありがとうございます☆
by アマデウス (2010-08-22 06:44)
トラの父さん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
当時の馬車はサスペンションもショックアブゾーバーもなく、特に、雨や雪の降った後の舗装もないガタガタ道を馬車で駆けるのは内臓が飛び出す程の酷さであった様ですね☆オペラもお好きなことがわかり嬉しいです☆モーツァルトが全霊を込めて作曲したオペラ「イドメネオ」、全幕お聴きになれる機会が早く来ると良いですね☆
by アマデウス (2010-08-22 06:54)
ザルツブルクからミュンヘンは馬車でも一日で行っていたのですね。相当お尻が痛そうな感じで、ちょっと大変な旅のようですが。w (;^ω^)b
(^ー^)ノシ
by モッズパンツ (2010-08-24 23:15)
もう24歳になり一人旅ですね。大人になりましたね。
駅馬車の旅は相当疲れるようですね。日本の籠よりは
ましでしょうか。ベーレンスさんが日本でなくなったのは
お気の毒な事でしたね。オーボエ四重奏曲はモーツアルト
にとっても力が入った曲でしょうね。
by pegasas (2010-08-24 23:42)
モッズパンツさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
現在は車でも列車でもザルツブルクからミュンヘンまでは2時間程で行けるわけですが、モーツァルトの駅馬車の旅は本当に厳しい旅だったのですよね☆もっとも季節によって道路の状態も異なり馬車の種類によっても振動の激しさには差があったわけですが。。。☆
by アマデウス (2010-08-25 06:14)
pegasasさん!こんにちは~☆
コメントありがとうございます!
「神童の馬車の旅は振動の旅」でもあったわけですね☆
日本の籠も早籠となるとものすごく揺れて大変だったでしょうね☆
オーボエ四重奏曲 へ長調 K.370は軽快にして繊細、名曲ですよね☆
当代随一のオーボエ奏者とも言われた友人のフリードリヒ・ラムを念頭におきながら非常に楽しく作曲したのであろうと思えます☆
by アマデウス (2010-08-25 06:21)