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モーツァルト32歳・三大交響曲とブフベルク書簡(ウィーン⑧1788年) [モーツァルト]

前年1787年12月、皇帝ヨーゼフ2世より皇王室宮廷音楽家(作曲家)に任命されたモーツァルトは新年早々、初仕事として数曲の舞曲を作曲するのである。
★宮廷作曲家としての任務は宮廷で催される舞踏会用の舞曲、即ち、メヌエット、ドイツ舞曲、コントルダンスを作曲することであった。

ヨーゼフ2世は2月5日をもってケルントナートーア劇場(ブルク劇場に次ぐ第二の宮廷劇場)閉鎖した。最後の出し物は『後宮からの誘拐』であった。この閉鎖は、オスマン帝国との戦争が間近に迫ったことによる緊縮財政措置の一環として実施されたのである。
★ケルントナートーア劇場では1785年10月16日以来、ドイツ語オペラがブルク劇場と交替で上演されていた。ケルントナートーア劇場は2月5日から閉鎖され1791年11月16日、即ちモーツァルトが死の床に伏す数日前まで、わずかな例外を除いて使用されることはなかった。

2月9日、ハプスブルク君主国(オーストリア)は同盟国ロシア帝国(エカチェリーナ大帝)を支援するため、対オスマン帝国(トルコ)戦争に参戦した。ヨーゼフ2世は2月28日には自らこの戦争のため、セルビア=クロアチア地方のゼムリン"Semlin"(セムン)に赴き、そこで滞留したのである。
★ヨーゼフ2世は9ヶ月以上、かの地に滞留し、ウィーンに戻ったのは12月5日となった。

皇帝ヨーゼフ2世は、3月1日付をもって病弱な宮廷楽長のジュゼッペ・ボンノ(1710年1月29日−1788年4月15日)を退任させ、その後任楽長としてアントニオ・サリエーリ(Antonio Salieri、1750 - 1825)を就任させている。

この年の四旬節はケルントナートーア劇場(独: Theater am Kärntnertor)閉鎖に加え、オスマン帝国との開戦により主だった貴族が戦地に赴いたり、領地に戻ったりしたこともあり、モーツァルトの演奏会はほとんど開催されていない。

5月7日、ブルク劇場『ドン・ジョヴァン二』ウィーン初演が行われた。すでに『後宮からの誘拐』『フィガロの結婚』初演が行われた劇場である。ウィーン初演でのポスターには「イタリア語によるジングシュピール」と記載されている。

『ドン・ジョヴァンニ』のウィーン初演については、音楽が歌には難しすぎるとか、退屈したとかの批判もあり、評価が分かれている。この様子を滞留地(ゼムリン)で報告を受けた皇帝ヨーゼフ2世は、宮廷劇場総監督のローゼンベルク伯爵に書簡で「モーツァルトの音楽はまこと歌にはむずかしすぎる。」と記述している。
12月5日、ヨーゼフ2世が戦地から帰還し、12月15日には『ドン・ジョヴァンニ』を観劇した。『ドン・ジョヴァンニ』はこの年1788年に計15回上演されている。7ヶ月間で15回の上演というのは当時の慣習からすれば少ない上演回数ではないが、『ドン・ジョヴァンニ』はこのヨーゼフ2世の観劇を最後に演目から外され, これ以降モーツァルトの生前にウィーンで上演されることはなかったのである。

プラハで上演した『ドン・ジョヴァンニ』の報酬が同地から送金されるのが遅れていたこともあり、この頃からモーツァルトのキャッシュ・フローに狂いが生じ始めた。即ち、家計の出金に対する現金入金不足である。
予約演奏会や貴族邸での個人演奏会の開催回数が激減し、これに伴う現金収入も当然ながら激減したのである。年間を通じてみれば、それなりの収入はあったのであるが、あてにしていた入金がなかったり、遅延したりで、資金繰りに狂いが生じたのである。
★因に、宮廷作曲家としての年間報酬額800グルテンの支払いは年3回均等払いであった。

6月には友人でフリーメイソンの会員であったミヒャエル・ブフベルクに現存する最初の借金依頼の手紙が書かれている。
★ミヒャエル・ブフベルク:1741年生まれ。ウィーンの裕福で音楽好きの織物商。
《最愛の同士よ!あなたの真の友情と兄弟愛にすがって、厚かましくもあなたの絶大なる御好意をお願いします。あなたには、まだ8ドゥカーテンを借りています。いまのところ、それをお返しすることができない状態にあるのに加えて、さらに、あなたを深く信頼するあまり、ほんの来週まで(その時にはカジノで私の演奏会が始まるので)、100フローリンを融通して助けてくださるよう、あえてお願いする次第です。その時までには、必ず予約金が手に入りますし、そうなればこの上なく熱い感謝の念をこめて136フローリンをきわめて容易にお返しできるでしょう。。。(略)あなたのこの上なく献身的同士 W.A.モーツァルト》
★この手紙の欄外にはブフベルク自筆で「100フローリン送金」と書かれている。
★ブフベルクに宛てたこの種借金依頼の手紙は1788年6月に3通、7月初めに1通、合計4通、1789年にも同じく4通、90年には9通もの手紙がかかれ、91年最後の年にも3通、総計20通もの手紙が書かれているのである。さらに紛失した借金依頼状があるものとされている。ブフベルクは通常、借金依頼状を受け取ると、依頼金額より低い額をその都度送金し、依頼状にいくら送金したかを書き留めておくのである。

6月29日には長女マリア・テレジアがわずか半年の命で昇天し、ヴェーリング墓地に埋葬されている。
7月初めには《家計がぎりぎりまで追いつめられて、心労と不安が絶えません。》と、ブフベルク宛に再度金銭的支援(借金)依頼の手紙を書くのであった。

経済的に緊迫してきたとは言え、この時期モーツァルトの創作意欲は旺盛で、6月から8月にかけて精力的に器楽曲を作曲するのである。この器楽曲を代表するのが三大交響曲なのである(後述)。

また、宮廷作曲家としてこの年後半にもメヌエットや舞曲、室内楽曲を完成させるのである。


Don_Giovanni_Playbill_Vienna_Premiere_1788.jpg
ドン・ジョヴァンニのブルク劇場(ウィーン)初演のポスター
正式タイトルは『罰せられた放蕩者、あるいは、ドン・ジョヴァンニ』”Il dissoluto punito, o sia il Don Giovanni”


この年作曲された主たる作品は次の通りである。

クラヴィーアのためのアレグロとアンダンテ へ長調 K.533
1月3日完成。モーツァルトのソナタ全集のほとんどはこのK.533を第一・第二楽章とし、1786年に作曲されたロンド ヘ長調 K.494を第三楽章としてとりまとめている。これはモーツァルトが自身が承認したホフマイスター版に従うものである。

コントルダンス ニ長調「雷雨」K.534 (1月14日作曲)とハ長調「戦闘」K.535 (1月23日作曲)

6つのドイツ舞曲 K.536 (1月27日作曲)
★2曲のコントルダンスK.534/535とドイツ舞曲K.536はいずれも宮廷作曲家としての作品である。

クラヴィーア協奏曲(第26番)ニ長調 「戴冠式」 K.537
2月24日完成。この年ウィーンで演奏する機会はなかったが、翌年1789年にドレスデンで初演されている。さらに、1990年、ヨーゼフ2世崩御に伴うレオポルト2世(ヨーゼフ2世の弟)のフランクフルトでの戴冠式にあわせ、モーツァルトは自費で同地に駆けつけ演奏会を開催、ここで演奏されたことより「戴冠式」の愛称がついた。同時に演奏された第19番も「第二戴冠式」と呼ばれる。

ドイツ語軍歌「我は皇帝たらんもの"Ich mochte wohl den Kaiser sein"」K.539
3月5日作曲。オスマン帝国とロシア帝国との戦争にロシアとの同盟に従い、この年2月にハプスブルク(オーストリア)帝国も参戦したが、戦意高揚の為の軍歌として作曲された(これも宮廷作曲家としての公務であった)。

「ドン・ジョヴァンニ」ブルク劇場での初演用アリアと二重唱
5月7日、ブルク劇場で『ドン・ジョヴァン二』のウィーン初演が行われたが、初演の役割表は次の通りであった。
ドン・ジョヴァンニ:フランチェスコ・アルベルタレッリ
騎士団管区長(騎士長):ジュゼッペ・ロッリ
ドンナ・アンナ:アロイジア・ランゲ
ドン・オッタヴィオ:フランチェスコ・モレッラ
ドンナ・エルヴィーラ:カタリーナ・カヴァリエーリ
レポレッロ:フランチェスコ・ベヌッチ
マゼット:フランチェスコ・プッサーニ
ツェルリーナ:ルイーザ・ラスキ=モムベッリ
★上記中、ドン・オッタヴィオを歌ったフランチェスコ・モレッラ(Francesco Morella)が第21曲のアリアが難しすぎるとして代替アリアを要求したことから次のアリアが作曲された。 *アリア「私の心の安らぎはあの人にかかっている "Dalla sua pace la mia dipende"」K.540a
★第21曲が歌われなくなった為にその代わりに作曲されたのが次のツェルリーナとレポレッロの二重唱である。
*二重唱「この小さな手に免じて"Per queste tue manine"」K.540b
★ドンナ・エルヴィーラを歌ったカタリーナ・カヴァリエーリのために追加作曲された。
レチタティーヴォとアリア「なんとひどいことを"In quali eccessi", あの恩知らずの心は私を裏切ったのよ"Mi tradi quell'alma ingrata" K.540c

交響曲(第39番)変ホ長調 K.543
6月26日完成。この年3ヶ月間で作曲された「モーツァルトの三大交響曲」の第1曲である。三大交響曲はモーツァルトの多様性を集約した作品群であると言える。変ホ長調は極めて荘厳な序奏から開始される。

クラヴィーア・ソナタ ハ長調 K.545
6月26日作曲。第15番(新全集第16番)のソナチネである。このチャーミングな曲想のソナタはモーツァルト自身が「初心者のための小さなソナタ(ソナチネ)」と呼んだ通り、弟子のレッスン用に書かれた作品であろうとされているが、誰のために書かれたのかなど詳細は不明。

ヴァイオリン・ソナタ ヘ長調 K.547
7月10日作曲。「初心者のためのヴァイオリン付きのソナタ」と自作品目録に記載されている。ハ長調のクラヴィーア・ソナタ K.545と対をなす作品。3楽章ともヘ長調。

クラヴィーア三重奏曲 ハ長調 K.548
7月14日作曲。この年6月から10月にかけて3曲のクラヴィーア三重奏曲が作曲された。いずれもブフベルク家での小さな音楽会のための作品であろうとされている。後の2つはホ長調 K.542(6月22日作曲)とト長調 K.564 (10月27日作曲)

交響曲(第40番)ト短調 K.550
7月25日完成。モーツァルトの交響曲の中でわずか2曲しかない短調交響曲(あとの一つは第25番 K.183/173B)でモーツァルトの全作品中でも最もポピュラーで、永遠の名曲である。

交響曲(第41番)ハ長調 「ジュピター」K.551
8月10日完成。モーツァルト最後の交響曲であり、ギリシャの最高神ゼウス(=ジュピター)の名がふさわしい。

カノン
8月と9月には「プラター公園に行こう、狩り場に行こう」K.558を含め約10曲のカノンが作られている。

ディヴェルティメント 変ホ長調 K.563
9月27日作曲。晩年の多くの室内楽作品中の傑作。


交響曲(第39番)変ホ長調 K.543                  交響曲(第40番)ト短調 K.550
第一楽章 アダージョ                          第一楽章 モルト・アレグロ
カール・ベーム Karl Böhm                      リボル・ペシェク Libor Pesek
ウィーン交響楽団 Wiener Symphoniker              スロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団
     
                                    Slovak Philharmonic Orchestra



交響曲(第41番)ハ長調 K.551「ジュピター」            ディヴェルティメント 変ホ長調 K.563
第四楽章 モルト・アレグロ                       第一楽章 アレグロ
ジェフリー・テイト Jeffrey Tate                     グリュミオー・トリオ Grumiaux Trio
イギリス室内管弦楽団 English Chamber Orchestra
     



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whitered

おはようございます。王立劇場の閉鎖やオスマントルコとの戦いなど、モーツァルトにとって、辛く不安な時期がやってきましたね。31歳と言うと、体力や精神力が卓越している時期なのに、受け入れる側がボロボロ状態ですね。にもかかわらず、「交響曲第40番」や「交響曲第41番」という傑作が生まれたのは、一方ではじっくりと創作に取り組める環境があったのでしょうか。
by whitered (2010-10-14 09:03) 

mikoto

こんにちはアマデウスさん
いよいよ芸術家にとって苦しいご時世になってきましたね。
この頃サリエーリが宮廷楽長の就任しているのですね。

「ジュピター」威厳はあるがフットワークの軽いギリシャ神話でよく見る性格の
ジュピターらしい軽快な感じに良くあっていますね~^^

by mikoto (2010-10-14 11:17) 

塩

いつもありがとうございます。
また楽しませていただきます。
by (2010-10-14 20:09) 

トラの父

キャッシュフローが平準でないと黒字倒産が起きやすくなりますが,モーツアルトもその例外ではなかったのですね.

ドイツ語軍歌「我は皇帝たらんもの"Ich mochte wohl den Kaiser sein"」K.539を拝聴しました.この曲は映画「アマデウス」の仮装パーティーのシーンでの,椅子取りゲームのBGMだったことを思い出しました.

by トラの父 (2010-10-14 22:06) 

アマデウス

whiteredさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます!
この年(1788年)6月17日から翌年1789年1月初旬まで静かな郊外の借家に住んでおり、モーツァルト自身がブフベルクに宛てた6月27日付の手紙で①新しい借家は快適で居心地が良く、おまけに安い②来客に煩わされることなく仕事ができるので、ここに移り住んで10日の間に以前の住居(ウィーン市内)の2ヶ月分の仕事が出来る。。。と語っているので三大交響曲を書く「物理的環境」には恵まれていた様です★但し、これら交響曲をウィーンで発表する機会には恵まれなかったとされています★
by アマデウス (2010-10-15 06:54) 

アマデウス

mikotoさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます☆
サリエーリはこの年1788年から1824年(死亡の前年)まで宮廷楽長を務めています★この間、ベートーヴェン(1770 - 1827)やシューベルト(1797 - 1828)、更にはモーツァルトの次男(モーツァルト最後の年に生まれた)フランツ・クサヴァー(1791-1844)の指導もしていますよ☆

by アマデウス (2010-10-15 07:11) 

アマデウス

Dr.塩!こんにちは☆
お元気そうなので嬉しい限りです☆
わざわざご訪問頂きありがとうございます!
by アマデウス (2010-10-15 07:14) 

アマデウス

トラの父さん!こんにちは☆
コメントありがとうございます☆
借金依頼のモーツァルト書簡を読む限りでは、年を追うごとに事態は深刻になって行きますが、この背景にはいろんな特殊経費(フリーメイソンの分団設立費用など)が潜んでいるのではとする説もありますね★
軍歌K.539はご指摘の通りです☆さすがですね!!!
こちら↓のシーンで2:40-4:10あたりでK.539のBGMが流れますよね☆
http://www.youtube.com/watch?v=0dUZ413n2nk&feature=related
by アマデウス (2010-10-15 07:33) 

LittleMy

思わずドンジョバンニのDVD引っ張り出してみてしまいました。
by LittleMy (2010-10-16 11:01) 

pegasas

もう32歳で残り少ない命になってしまいましたね。ここで
時間が止まれば良かったのに・・・三大交響曲はこの時期
に出来上がるのですね。でもお金にはご縁がなかったのが
可哀想ですね。随分稼いでいるようですが、出るものも多かった
のでしょうね。サリエーリが出て来ましたが、映画のように
モーツアルトの死に関係しているのでしょうか?
by pegasas (2010-10-16 21:35) 

アマデウス

LittleMyさん!こんにちは☆
ドン・ジョヴァンニ役はやはりサムエル・レイミーのDVDなのでしょうね☆以前レイミーがお好きだとコメント頂いたことを思い出しました☆
by アマデウス (2010-10-17 06:46) 

アマデウス

pegasasさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます☆
モーツァルトの死因については病死と他殺説、そしてそれぞれの説に各種憶測がなされていますが、モーツァルトの遺体が紛失してしまっていることより、未来永劫続く論争でしょうね★サリエリによる殺害説は宮廷楽長であるサリエリを追放しようとして流されたでっちあげであろうとも思えます★1820年代にこの噂が流れ、これを題材にしてロシアの詩人で小説家のプーシュキンが1830年、その詩劇『モーツァルトとサリエーリ」を書き上げ毒殺説の根拠を作ったようなものですが、いろんな角度から見ても宮廷楽長にまでなった立派な音楽家アントニオ・サリエーリにモーツァルトの死因に関与する様な動機はないと思われます★
by アマデウス (2010-10-17 07:09) 

バロックが好き

ディヴェルティメント 変ホ長調 K.563
が、一番好きだったです♫
by バロックが好き (2010-10-17 23:24) 

アマデウス

バロックが好きさん!こんにちは☆
コメントありがとうございます☆
ディヴェルティメント 変ホ長調 K.563はモーツァルトの唯一の完成したヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの弦楽三重奏曲ですね☆お好きなことがわかり嬉しいです☆
by アマデウス (2010-10-18 07:33) 

モッズパンツ

戦争になるとヤパーリどこも緊縮財政になってしまいますね。モーツァルトの自転車操業も戦争が遠因にあるのでしょうね。w (^ω^)b
戦争は世の中のあらゆるものを狂わせてしまいますね。戦争は良くありませんね。平和な世界が良いですね。w (´∀`)ノ

(^ー^)ノシ
by モッズパンツ (2010-10-19 22:11) 

アマデウス

モッズパンツさん!こんにちは☆
貴コメントにまったく同感です!
戦争はすべてを狂わせ、破壊してしまいます☆
平和な世界、美しい世界を未来永劫存続させなければなりませんよね☆
コメントありがとうございます!
by アマデウス (2010-10-20 06:24) 

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