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モーツァルトの西方大旅行④(フランドルとオランダ) [モーツァルト]

モーツァルト一家は約1年3ヶ月にわたって滞在したロンドンを1765年7月24日に発ち、
カンタベリーを経てドーヴァに着き再び英仏海峡を渡り、8月1日にカレーに戻り、ここから、
フランドル(現在のベルギー)を経由してオランダに向かうのである。
神童モーツァルト9歳であった。

このオランダへの旅はレオポルトの当初の計画には含まれていなかったのであるが、
在英国オランダ大使より、デン・ハーグのオランニエ公ヴィレム5世夫妻よりの強い訪問要請が
伝達され、これを受けてモーツァルト一家はフランドル経由オランダへの旅に出発したのである。

★オランニエ公ヴィレム5世:オランダ総督 Willem V, 1748-1807、当時18歳

リルでヴォルフガングとレオポルトが病(悪性の風邪?)に倒れるという
ハプニングもあったが、一家は無事ヘント経由、アントウェルペンに到着している。

★アントウェルペン(オランダ語: Antwerpen/フランス語: Anvers/ 英語: Antwerp)は現在はベルギーの
フランデレン地域・アントウェルペン州の州都で、ベルギー第2の都市

ヘントアントワープ(アントヴェルペ)についてレオポルトはザルツブルクのハーゲナウアー氏に
次の通り手紙で語っている。

ヘントは大きいけれど人口は多くない町です。ヴォルフガングは、午後、
聖ベルナルド修道院の新しい大オルガンを弾きました。

アントヴェルペには、日曜日だったので二日滞在しました。
ヴォルフガングが大聖堂の大オルガンを弾きました。。。(中略)

≪。。。ここではなかんずく、まこと選り抜きの絵画のことをお話しすべきでしょう。
アントヴェルペはことさらそうした土地です。私どもは教会という教会を走りまわりました。
私は当地とブリュッセルでほどたくさんの白大理石に黒大理石、それにおびただしい
すぐれた絵画、なかでもリューベンスのものにお目にかかったことはいちどもありません。
とりわけアントヴェルペの大聖堂の『十字架よりの降下』はリューベンスの作品ですが、
想像力のすべてを凌駕しています。
デン・ハーク、1765年9月19日 レオポルトよりザルツブルクのローレンツ・ハーゲナウアー宛書簡/モーツァルト書簡全集

★ピーテル・パウル・ルーベンス:Peter Paul Rubens, 1577年6月28日 - 1640年5月30日、バロック期のフランドルの画家
及び外交官。「ルーベンス」はドイツ語読みで、オランダ語では「リューベンス」と発音する。



キリスト降下.jpg
十字架よりの降下(キリスト降下)1611-14年 420,5 × 320 cm
ピーテル・パウル・ルーベンス作
アントウェルペン大聖堂                       クリック拡大

★関連記事
外交官画家ルーベンス

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猫とモーツァルト [モーツァルト]

動物好きのモーツァルトが犬や小鳥を飼っていたことは既述(弊記事「モーツァルトと小鳥たち」
通りですが、についてもエピソードや作品が残されています。

★ザルツブルクで家族で飼っていた: 犬、カナリア、シジュウカラ、鳩、馬(レオポルトが馬車用に。普段は宮廷厩舎に)
★モーツァルトがウィーンで飼っていた: 馬(乗馬用)、犬、ムクドリ、カナリア

モーツァルト一家がロンドン滞在中、法律家兼自然科学者であったデインズ・バリントン
(1727-1800)が1765年6月に、ヴォルフガングの楽才を試した。その時の模様が
詳細に報告書に纏められ、1770年2月15日学士院で朗読され、報告書はその後
学士院刊行の「哲学紀要」に掲載されている。

同報告書では当時8歳のヴォルフガングの非凡能力について言及すると同時に挙動
すべては同年代の子供とかわらない点を述べており、この中にが登場するのである。

著名な作曲家であります〔ヨハン・クリスティアン・〕バッハが、フーガを弾きはじめ、これを
突然中断いたしますと、幼いモーツァルトがただちにそれを取り上げ、まことに見事な仕方で
仕上げたことがそれです。

これら非凡事実のほとんどを私自身目撃いたしましたので、私は、彼の父親が少年の
ほんとうの年齢については嘘をついているものと疑わざるをえませんでした。
それでも彼はたいへん子供っぽい様子をしていたばかりでなく、同様に挙動のすべてが
この生涯の時期にふさわしいものでありました。

たとえば、彼が私のために演奏してくれていた最中に、お気に入りの猫が入ってくると、
彼はすぐにハープシコードを離れてしまいまして、長い間私どもは彼を連れ戻すことが
できませんでした。。。                            モーツァルト書簡全集

ひとたびハープシコードに向かえば神童を見つければ普通の子供演奏中断し、
を追いかけて行ってしまうのである。。。

         ♪(=^・^=)♪(=^・^=)♪(=^・^=)♪(=^・^=)♪(=^・^=)♪(=^・^=)♪         

が関連するモーツァルト作品としては、エマヌエル・シカネーダーが台本と歌詞を作った
ジングシュピール(ドイツ語歌芝居)、「賢者の石」"Der Stein der Weisen"の第2幕第4場に
歌われた、バスとソプラノの二重唱「さあ、愛しい僕の奥さん、僕と行こう
”Num, liebes Weibchen, ziehst mit mir” K.625( 592a) がある。

★エマヌエル・シカネーダー(Emanuel Schikaneder, 1751年9月1日 - 1812年9月21日)はオーストリア、ドイツで
活躍した俳優・歌手にして劇場支配人、台本作家である。モーツァルトのオペラ『魔笛』の台本を手がけ、自らも
パパゲーノ役で出演したことで有名。
シカネーダー一座の座長として自ら台本を書き、俳優、歌手、演出家を兼任し、旅回りの一座を経てウィーンの
劇場支配人となり、大衆向けの興行師として多くの作品を上演した。
★『賢者の石、または魔法の島』”Der Stein der Weisen, oder Die Zauberinse”は、1790年初演の
ジングシュピール(歌芝居)。作曲は1790年8月頃か?
★ジングシュピール:Singspiel、ドイツ語で「歌う芝居」の意。18世紀後半に北ドイツで始まったドイツ語による
一種のオペラ。レチタティーボによらず、話される地の台詞をもち,喜劇的な内容が特色。



DSC02492.JPG        DSC00637.JPG
葉の上に座る魔法猫                                やがて眠る。。。



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モーツァルトの西方大旅行③(ロンドン②) [モーツァルト]

モーツァルト(当時8~9歳)が家族全員でロンドンに滞在していた頃も約5年前に没したヘンデルの人気は
高く、モーツァルトの演奏会でもヘンデルの曲をその演目に加えているのである。

★ヘンデルの曲:オペラ「アチスとガラテア(Acis and Galatea) 」とオラトリオ「アレクサンダーの饗宴(Alexander's feast)」よりの合唱曲。
★ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル:Georg Friedrich Händel 1685年2月23日 - 1759年4月14日、ドイツ生まれで
イギリスに帰化した作曲家(イギリスに帰化していることから、英語名 George Frideric Handel に従い
ジョージ・フリデリク・ハンドル(ハンデル) とも呼ぶ。大バッハと並ぶバロック音楽最大の作曲家。

当時ロンドンで活躍していた音楽家には既述(弊記事ロンドン①)ヨハン・クリスティアン・バッハ
他にカール・フリードリヒ・アーベルがいた。二人共ドイツ生まれであるが、音楽の新天地を求めて
ロンドンに移り住んでいた。 

二人は1765年1月23日、ソーホー・スクエアのカーライルハウスで「バッハ=アーベル・コンサート
と呼ばれる公開演奏会を開始し、以後1781年まで定期的に演奏会を催し、人気を博した。

★カール・フリードリヒ・アーベル:Carl Friedrich Abel, 1723年12月22日 - 1787年6月20日、ドイツの古典派音楽の作曲家。
ヴィオラ・ダ・ガンバの音楽史上最後の名手であり、そのための貴重な音楽を作曲した。

モーツァルトはアーベルとバッハ両者と極めて親しくなり両者の新作交響曲を聴く機会に
恵まれたのである。


                   
Abel_Gainsborough_1777.jpg     Johann_Christian_Bach.jpg          
カール・フリードリヒ・アーベル  1777                   ヨハン・クリスティアン・バッハ  1776 
(持っている楽器はヴィオラ・ダ・ガンバ)                      ボローニャ国際博物館&音楽図書館蔵
ハンティントン・ライブラリー蔵(サンマリノ、カリフォルニア)




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モーツァルトの西方大旅行②(ロンドン①) [モーツァルト]

ヴォルフガング(当時8歳)の父レオポルトはパリからロンドンに行くことを決め、1764年4月10日
一家はパリを発ち、馬車でカレー(Calais、仏の港町)に向かった。カレーからドーバー海峡を渡り、
ロンドンに着いたのは4月23日であった。海峡を渡る際、全員が酷い船酔いになやまされたと、
レオポルトはザルツブルクのハーゲナウアー氏宛の手紙で語っている。

★レオポルトはザルツブルクを発った時はパリから帰国の途につくかロンドンまで足を伸ばすか決めかねていたわけだが、
パリにおいても関係者から強くロンドン行きを勧められ、これを決断したのであった。

早くも到着5日後の4月27日に一家はバッキンガム宮殿に招待され、国王ジョージ3世
シャーロット王妃に謁見し、御前演奏を行った。

その時の模様についてレオポルトは次の様に語っている。

≪国王はあの子の前にヴァーゲンザイルの曲ばかりでなく、バッハ、アーベル、それに
ヘンデルの曲も差し出されましたが、全部をあの子は初見で弾きとばしたのです。

あの子は国王のオルガンで、みんなが彼のオルガン演奏をクラヴィーアを弾くよりも
ずっと高く評価するほどみごとに演奏しました。それからあの子は王妃のお歌いになる
アリアや横笛奏者の独奏に伴奏をつけました。

最後にあの子は偶然そこに置いてあったヘンデルのアリアのヴァイオリンの譜面を取り上げて、
そっけないバスの上に、まことに美しい旋律を奏したので、一同全くびっくりしてしまったのです。

要するに、私どもがザルツブルクを発ったときにあの子が知っていたものは、現在あの子が
知っているものからすれば、まったくの影にすぎないのです。それは想像力という想像力を
踏み越えるものです。≫
(レオポルトよりザルツブルクのハーゲナウアー宛て書簡。ロンドン、1764年5月28日付       モーツァルト書簡全集)



George_III_in_Coronation_Robes-1.jpg         Charlotte_Sophia_of_Mecklenburg-Strelitz_by_studio_of_Allan_Ramsay-1.jpg     
ジョージ3世     1761-62年                              シャーロット王妃     1762年
147 x 106 cm  画:Allan Ramsay                                画:Allan Ramsay
National Portrait Gallery, London                       National Portrait Gallery, London



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モーツァルトの西方大旅行①(パリ) [モーツァルト]

モーツァルト最初の旅行は1762年1月12日ザルツブルクを発ってのミュンヘン旅行であり、
3週間の同地滞在期間中バイエルン選帝侯に御前演奏を行ったのである。
モーツァルトは旅行中に6歳の誕生日(1月27日生まれ)を迎えた。

★当時のバイエルン選帝侯はマクシミリアン3世ヨーゼフ(Maximilian III. Joseph, 1727年3月28日 -
1777年12月30日)であった(在位:1745年 – 1777年)。

★ザルツブルクに帰着後、1762年7月16日、6歳のモーツァルトは後に「パリ・ソナタ」K6として親しまれる
クラビーアとヴァイオリン・ソナタの第三楽章となるメヌエット ハ長調を作曲し「ナンネルの楽譜帳」に父レオポルトにより記譜された。

第二回目の旅行はハプスブルク帝国の首都ウイーンへの旅行である。
1762年9月18日ザルツブルクを家族全員で出発、パッサウからは、リンツを経由するドナウ河の
河船を利用し10月6日ウィーンに到着した。
ウィーンではオーストリア女帝マリア・テレジア並びに夫君である神聖ローマ皇帝フランツ1世、
そしてその家族臨席のもと、御前演奏を行った。

★マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ:Maria Theresia von Österreich, 1717年5月13日 - 1780年11月29日、
神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの皇后、オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、
ベーメン女王(在位:1743年 - 1780年)。

御前演奏に際しての神童モーツァルトのエピソードが種々伝えられているが、音楽的には、
当時の高名な宮廷音楽家であるヴァーゲンザイルを「あの方は音楽のわかる方ですから」と、
名指しで呼び出し、ヴァーゲンザイルに、「僕、これからあなたの協奏曲を弾きます。
譜めくりをして下さい。」と依頼したことである。

★ゲオルク・クリストフ・ヴァーゲンザイル:Georg Christoph Wagenseil 1715年1月29日 - 1777年3月1日、
ウィーンの作曲家、鍵盤楽器(ハープシコードとオルガン)奏者。1739年ハプスブルク家 宮廷作曲家になり、以後、
生涯を通して宮廷に仕えた。

ウィーン滞在中、連日多数の貴族に招かれ、演奏会が催され、神童モーツァルトの名は
たちまちのうちにウィーン中に広まったのである。
(弊記事:モーツァルト生誕254周年ご参照)

父レオポルトはウィーン旅行中に立ち寄ったプレスブルク(現スロバキアのブラティスラヴァ)で
次回の旅行に備えて自家用馬車を一台購入し、1763年1月5日ザルツブルクに帰着したのである。
約3ヶ月半に亘る有意義な旅であった。

★馬車(馬は含まず)の値段は23ドゥカーテン(現在の日本円で約100万円程度と思われる。)
馬2頭は貸し馬(御者共)を利用し、目的地についたら御者が馬を連れ帰るという制度があった。


        ★★★★★         ★★★★★         ★★★★★

西方への大旅行


第三回目の「研鑽と才能披露の旅」に向け、1763年6月9日モーツァルト一家は
ザルツブルクをあとにした。一家が乗っているのは上述のウィーン旅行の際に購入した
自家用馬車である。この旅には従僕のS.ヴィンターが同行した。

★2頭の馬はザルツブルクからミュンヘンまでは御者付の借り馬を手配した。ミュンヘンからマインツまでは
再度借り馬(御者付)を手配し、マインツで馬車を旅館に預けている。 マインツからフランクフルトそしてフランクフルトから
マンハイムに戻るまではライン河の水路を利用した河船での旅行となった。その後は駅馬車を利用し、パリに到着するのである。

今回はドイツ各地、ベルギー(当時はフランドル)、フランスイギリスオランダそしてスイスにまで
及び、ザルツブルクには1766年11月29日に戻るという、約3年半にも亘る旅となるのであった。

この旅行はモーツァルト親子が経験した最大規模の旅行となり、俗に「西方への大旅行」と
称されている。モーツァルトは7歳でこの旅行に出発し、故郷ザルツブルクに帰着した時には
10歳と10ヶ月になっていた。

この旅行中、ウィーンのハプスブルク家では、女帝マリア・テレジアの夫君、神聖ローマ皇帝
フランツ1世が1765年8月18日崩御し、長男のヨーゼフ2世が即位している。

★女帝マリア・テレジア(ハプスブルク家)の夫君、神聖ローマ皇帝フランツ一世はロートリンゲン家出身であることより、
正式には「ハプスブルク=ロートリンゲン家」と称する。
★ヨーゼフ2世はフランクフルトで1765年4月2日神聖ローマ皇帝の戴冠を行っている。1765年9月17日ヨーゼフ2世は
母である皇太后マリア・テレジアとハプスブルク家所領の共同統治をすることになった。
≪ハプスブルク家所領については弊記事「ドン・ジョヴァンニ(その2)」ご参照。≫


Maria_Theresia_Familie.jpg     joseph ii.jpg
女帝マリア・テレジアとその家族                        ヨーゼフ2世(右)
左端;フランツ1世(神聖ローマ皇帝) 1754年              弟レオポルト2世(左)  1769年
シェーンブルン宮殿蔵                                    ウィーン美術史美術館蔵

★画家
女帝マリア・テレジアとその家族:Martin van Meytens (1695年6月24日ストックホルムー1770年3月23日ウィーン)
ヨーゼフ2世とレオポルト2世: Pompeo Girolamo Batoni (1708年1月25日イタリア – 1787年2月4日)



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ピアノ・ソナタ(第13番)変ロ長調 と動物たち [モーツァルト]

モーツァルトピアノ・ソナタ(第13番)変ロ長調 K333を聴くと、青空の下、の~んびり
草を食むひつじやぎうしうまろばさんたち、さらには、あひるがちょうさんたち、あるいは
やさしく、おとなしい子犬のまわりで踊りを楽しむ七面鳥にわとりさんたちのほのぼのとした
光景が思い浮かぶのです。

この変ロ長調のピアノ・ソナタは1783年末モーツァルトが27歳の時、美しい田園風景の広がる
ドナウ川河畔の都市リンツ(Linz、オーストリア)で交響曲(第36番)ハ長調 K.425 『リンツ』に
次いで作曲しました。

★リンツはモーツァルトの故郷ザルツブルグとウィーンの中間に位置するドナウ川河畔の都市。
モーツァルトはザルツブルク時代の2度のウィーン旅行(1769年と1773年)に際しリンツに立ち寄っている。

ウィーンで父レオポルトの反対を押し切ってヴェーバー家の三女コンスタンツェと結婚した
モーツァルトが結婚後初めて妻(当時21歳)をつれて父と姉の住むザルツブルク帰郷し、
約3ヶ月同地に滞在後、ウィーンに戻る途中でリンツに10月30日立ち寄り、そこで
音楽愛好家として知られる旧知のヨハン・ヨーゼフ・アントン・トゥーン伯爵の邸宅に
招かれました。

モーツァルト夫妻は10月31日伯爵邸を訪問し、伯爵一家の手厚いもてなしを受け、約1ヶ月を
伯爵邸で過ごすことになるのです。

★リンツの劇場は早速11月4日に演奏会を開くことになり、伯爵は交響曲の演奏を所望するが、モーツアルトはあいにく、
その持ち合わせがなく、大急ぎで作曲に取りかかり、4日間で全曲を完成させた。演奏会場はリンツの旧市庁舎。
リンツの貴族や名士、市民が集まる社交場だった。
★「交響曲」第36番ハ長調<リンツ>(K425)はこの様な状況下、4日間という極めて短期間で作曲されたにもかかわらず、
完成度の高いモーツアルト中期を代表する傑作であり、披露された途端、大喝采を浴びた。
★ヨハン・ヨーゼフ・アントン・トゥーン伯爵:(1711-1788)。ベーメン(ボヘミア)系の家系の長として、プラハと
リンツに居を構えていた。彼はリンツのフリーメイスン分団≪七賢人≫の主席であった。



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みんなで踊るメヌエット



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モーツァルトと小鳥たち [モーツァルト]

モーツァルトは幼少の頃から小鳥や犬、猫などの動物が大好きであった。
犬はザルツブルク時代にも(最初の犬はフォックステリア)、ウィーン時代にもペットにしており
35年の生涯で3匹の犬を飼っている。

ザルツブルク時代、14歳~21歳の頃とウィーン時代で30~35歳の頃にカナリアを飼っており、
カナリアのさえずりを旋律にしている。

1791年1月29日に6つのドイツ舞曲(6 Deutsche Tänze)K.600を作曲したがこの内第5曲
ト長調ではフルートとヴァイオリンの軽快なトリルでカナリアのさえずりを表現した。

1784年5月27日、当時28歳のモーツァルトは一羽のムクドリを34クロイツァーで購入したと
出納帳に記載している。出納帳には購入に先立つ4月12日にモーツァルトが作曲した
「クラビーア協奏曲(第17番)ト長調」(K.453)第三楽章主題も記載されており、
"Vogel Stahrl 34 Kr.(椋鳥 34クロイツァー) ... Das war schön!(お見事!)
と付記されている。

★モーツァルトが採譜したムクドリのさえずりは第三楽章の主題と比べると多少異なるが(♯一個所間違えて歌っていた)、
「お見事!」であることには違いない。

ムクドリにはドイツ語で「ナフ」"Narr"(道化師)という名前がつけられ、その後約3年間
第三楽章の主題をさえずり続けたという。

★”Narr"には「愚人」という意味と「宮廷お抱えの道化師」の意味があり、モーツァルトは「道化師」という意味で
名前をつけた。英語の「ジェスター」”Jester"のことである。

モーツァルトはムクドリを購入する前に、ムクドリのいる鑑賞用の鳥の売買を商売にしている
者の家(店)にしばしば立ち寄り、口笛で第三楽章の主題を教えたのであろう。

★口笛ではなくリコーダーを使ったかも知れない。リコーダー英: recorderはエアーリード(無簧)の木管楽器(縦笛)
ドイツ語名:ブロックフレーテ”Blockflöte”

モーツァルトとムクドリ屋との会話を再現すると。。。(フィクションです)

ムクドリ屋:モーツァルトさん!このムクドリは若いからすぐに覚えますよ。モーツァルトさんの曲を
       さえずる様に仕込んで見ては。。。うまくさえずることが出来たらお買い求め頂ければ。。。

モーツァルト:わかった。これからしばらく立ち寄って仕込んでみよう。。。(口笛で主題を吹く)


1787年6月4日、この椋鳥が死んだとき、モーツァルトは鳥を埋葬し、後述するユーモアを交えた
一遍の哀悼詩を捧げるのである。心やさしいモーツァルトの性格の片鱗がうかがえる。

ムクドリが死んでから約4年後の1791年にモーツァルトはジングシュピール≪魔笛
” Die Zauberflöte”K.620を作曲することになるが、それに登場する鳥刺し 「パパゲーノ」が
笛を吹いて鳥を呼び寄せる仕草をしながら歌うアリアでは、可愛がっていたムクドリを
思い出したに違いない。

★パパゲーノのアリア:「俺は鳥刺し」 ”Der Vogelfänger bin ich ja”

ムクドリについて;

★日本を含む東アジアに生息するムクドリは:学名Sturnus cineraceus、スズメ目
ムクドリ科、英名は White-cheeked Starling または Gray Starling(左側画像)。
★モーツァルトがペットとして飼ったムクドリは近縁の欧米に生息するホシムクドリ(星椋鳥):
学名:Sturnus vulgaris、スズメ目ムクドリ科、英名:Common Starling(右側画像)。



DSC01063.JPG        Common_starling_in_london.jpg
ムクドリ                                         ホシムクドリ




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モーツァルトの馬車の旅 [モーツァルト]

モーツァルトは3歳で極めて鋭い音感を現わし、5歳の時に作曲を開始するのであるが、
幼い息子の才能をいち早く見抜いた父レオポルトは、息子の才能を伸ばす為には音楽の中心地に
向かっての修業旅行が必要と判断すると同時に息子と娘ナンネルの類稀なる才能を出来る限り
多くの人々に示したいと考え、モーツァルトが満6歳にもならない時から、1780年末、25歳で
ウィーンに定住を決断するまでのザルツブルク時代に全11回、延べ10年あまりに及ぶ
旅行をするのである。

1回の旅行期間は3週間程度のものから、数年に及ぶものもあり、西はマンハイム、パリ、
ロンドンまで南はローマ、ナポリに至るのである。

これらの旅行を通してモーツァルトの楽才と感性は着実に磨かれて行くのであるが、
自動車や鉄道のないこの時代の主たる交通手段は馬車によるものであった。

馬車の歴史は極めて古く、遠くは古代ローマ帝国時代から馬車は利用されていた。
因みにオープンカーのことを指す「カブリオレ」とか、荷物を多く積める「ワゴン」とか、
「クーペ」などの単語が自動車業界で使われているが、これらの言葉はいずれも本来
馬車に使われていた言葉である。

★カブリオレ(cabriolet) - 1頭立ての2輪幌馬車
★ワゴン(wagon) - 通常2頭立て以上の4輪荷馬車
★クーペ(coupe) - 2人乗りの4輪箱型馬車

モーツァルト没後76年が経過した1867年に、車輪の外周にゴムを取り付ける手法が
もちいられるようになり、それまでの金属、木の車輪から脱皮する事になる。

★1888年にイギリスの獣医師ジョン・ボイド・ダンロップが自転車用の空気入りタイヤを実用化した。
それまでのゴムタイヤは空気入りではなく、ソリッドゴム(総ゴム)タイヤであった。

馬車の時代の舗装は市街地であればローマ時代からの石畳の舗装があったが、ひとたび市外に
出れば全くの未舗装道路であり、現代の自動車でも古い町並みの石畳を走るとそれなりに
揺れるわけで、ましてや全木製或いは木製のホイールに接地面だけ鉄を貼り付けた車輪をつけ、
ショックアブゾーバーもない馬車で走れば、例え平均時速11~15kmだとしても想像を絶する
振動であり、腰、尻はもとより全身がおかしくなりそうである。

父レオポルトや息子のヴォルフガング・アマデウスはその手紙の中で馬車の激しい振動や
愛想の悪い乱暴に馬を操る御者、馬車の転倒によるレオポルトの負傷、厳寒の冬の辛さ
などについて言及している。但し、中には御者の腕が良く快適な旅であったとしている手紙もあるが、
これは旅行をした季節、道路事情や使用した馬車の種類の違いなどにもよると思われる。



DSC01113-1.JPGfigbakc.jpg



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モーツァルト生誕254周年 [モーツァルト]

1月27日(水)はモーツァルト254回目誕生日です。

★ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト:Wolfgang Amadeus Mozart 1756年1月27日-1791年12月5日

今から4年前、生誕250年記念の年となった2006年は「モーツァルト年 」"Mozart Year 2006"
として生誕地のザルツブルクはもとより世界各地で盛大な記念行事が挙行されたことは
記憶に新しいところです。

ザルツブルク大聖堂の洗礼者名簿(教区記録)にはモーツァルトの洗礼名と生年月日は
次の通り記載されています。

ヨハンネス・クリュソストムス・ヴォルフガングス・テオーフィルス・モーツァルト:
Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart
1756年1月27日夜8時に誕生、1756年1月28日朝10:30洗礼。

最初のJohannes Chrysostomusはラテン語の聖人の名前でモーツァルトの
生まれた1月27日がこの聖人の祝日なのでカトリック教会の習慣により
この聖人名が冠された(モーツァルトはこの名前は殆ど使用していない)。

ラテン語でWolfgangusという名前はドイツ語読みにしてWolfgang(ヴォルフガング)として使用した。
尚、この名前はモーツァルトの母方の祖父の名前である。

Theophilusはギリシャ語でラテン語のAmadeus(神に愛される、又は神を愛す)を意味し、
モーツァルト自身は、”イタリア語式に”Wolfgango Amadeo”、又は”Wolfgang Amadè”、
或いはドイツ語で”Wolfgang Gottlieb”,更にはフランス語文中では”Wolfgang Amadèe”などと
使いわけているが、現在残っているモーツァルトの曲の手稿譜には”Amadeus” と書かれた署名は
存在しないとされている。

モーツァルトの時代は楽長職にイタリア人が圧倒的多数を占め、イタリア音楽全盛の時代で
あったこともあり、自らの名前もイタリア名にする風潮があり、”Wolfgango Amadeo”或いは
”Wolfgang Amadè”というのはペンネームと言うよりは、実名のイタリア語表記という
当時の習慣に従ったものと思われる。

レオポルト・モーツァルトはザルツブルクの宮廷楽団の有能なヴァイオリン奏者
にして作曲家、そしてヴァイオリン奏法の優れた指導者でもあった。整理されたヴァイオリンの
合理的教授法は音楽史上にその名を残すことになる「ヴァイオリン教程」に表されている。

★ヨーハン・ゲオルク・レオポルト・モーツァルト:Johann Georg Leopold Mozart, 1719年11月14日 - 1787年5月28日
★「ヴァイオリン教程」:Versuch einer gründlichen Violinschule:この教則本は奇しくもモーツァルトの生まれた年に出版された。

母親のアンナ・マリア・モーツァルトはレオポルトとは一つ年下で楽天的で、家事を良くし、
真面目で几帳面なレオポルトとは対照的で夫婦仲は睦ましかった。

★アンナ・マリア・ワルブルガ・モーツァルト:Anna Maria Walburga Mozart, 1720年12月25日 — 1778年7月3日、
旧姓ペルトゥル (Pertl)。

七番目の末っ子としてヴォルフガング・アマデウスは生まれた。他の五人は幼児期に死亡し、
唯一、5歳年上の姉マリア・アンナ・ワルブルガ・イグナーツィア愛称「ナンネル」だけが育っていた。

★マリア・アンナ・ワルブルガ・イグナーツィア・モーツァルト:Maria Anna Walburga Ignatia Mozart, 1751年7月30日 -
1829年10月29日、愛称ナンネルまたはナンネルル(Nannerl)

3歳のときから クラヴィーア(ピアノ発明以前の鍵盤楽器の総称。ここではチェンバロを指す)
弾き始め、5歳のときには 最初の作曲を行った(≪アンダンテ ハ長調1a≫)

★モーツァルトが活躍した18世紀後半は、鍵盤音楽の交替の時期に当たっていた。
バロック時代以前から長く使われていたチェンバロは徐々にすたれ、新しい楽器であるピアノフォルテにとって替わられていった。
又、ドイツを中心に、小型でよりパーソナルな楽器であるクラヴィコードも使われていた。当時のドイツ語圏の人々は、
主にこの3種類の鍵盤楽器を「クラヴィーア」(clavier)と呼んでいた。
★モーツァルトの初期の音楽はチェンバロであるとされている。
cembalo(チェンバロ;伊語)、harpsichord(ハープシコード;英語)、clavecin(クラヴサン;仏語)

父親レオポルトは息子ヴォルフガングの才能を伸ばし、その天分を出来るだけ多くの国の
人々に示したいと考え、まず手始めに1762年1月、5歳のヴォルフガングと姉のナンネル(10歳)
だけをつれミュンヘン(当時はバイエルンの都)に旅立つのである。3週間の滞在中、ヴォルフガングと
ナンネルはバイエルン選帝侯に御前演奏を行い、一大センセーションを巻き起こしたのである。
神童ヴォルフガングはミュンヘン滞在中に6歳の誕生日を迎えている。

ミュンヘンでの成功を機に、レオポルトは同年9月妻のアンナ・マリアと従者を含め家族全員で
ウィーンに向かうのである。レオポルトは息子の類稀なる音楽家としての才能は神から
与えられたものでありこれを伸ばすのが自分の人生での役割であると信じたのである。

★10月13日、 シェーンブルン宮殿でマリア・テレジア女帝に御前演奏した際、宮殿の床で滑って転んでしまい、
6歳のモーツァルトはその時手を取った7歳のマリア・アントーニアのちのマリー・アントワネット(マリア・テレジアの娘)に
将来の結婚を約束したという逸話がある。

これら旅行に続き、イタリア(計3回)、マンハイム、パリ(2回)、ロンドン、ミュンヘン、
フランドル、ウィーン(計4回)など、ヴォルフガングが25歳になリ
ウィーン定住を決意し実行するまで延べ10年以上に渡る
馬車の旅が繰り返されるのである。


Wolfgang_Leopold_Nannerl-1.jpg
神童8歳、ナンネル13歳、父レオポルト45歳
≪銅版彫刻師のメーヒェルさんは、アマチュア画家のカルモンテ氏が
たいへん見事に絵にかいてくれた私どもの肖像画を大急ぎで版刻する 
仕事をしています。ヴォルフガング坊やがクラヴィーアを弾き、私はその椅子のうしろに
立ってヴァイオリンを弾き、ナンネルは片腕でクラヴサンに寄りかかり、もう一方の手で
楽譜を持ち、 歌っているようなふりをしています。≫
(レオポルト・モーツァルトよりザルツブルクのローレンツ・ハーゲナウアー宛の書簡。
パリ、1764年4月1日付。白水社モーツァルト書簡全集より引用)





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レクイエム [モーツァルト]

12月5日(土)はモーツァルトの218年目の命日です。

モーツァルトは1791年11月20日病床につきますが、弟子のフランツ・クサヴァー・
ジュスマイヤー((1766-1803)に手伝わせながら、レクイエムRequiem 二短調
K.626 の作曲を続け、第3曲セクエンツィアSequenz(続唱)の第6部ラクリモサ
Lacrimosa(涙の日)二短調の第8小節で中断、同年12月5日月曜日午前0時55分、
35年と10ヶ月余りの短い生涯をウィーンで閉じたのです。

★中断:"judicandus homo reus:”まで。9小節以降はジュスマイヤーが補筆。但し、モーツァルトは死の前日、
ジュスマイヤーに対し自分が完成出来ない場合に備え種々指示をしていた。
★モーツァルトの死や葬儀に関して種々逸話や憶測がありますが、本記事では敢えてとりあげないこととします。

1991年12月5日ウィーンの聖シュテファン大聖堂
「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト没後200年記念レクイエム・ミサ
が捧げられ、モーツァルトが作曲したレクイエムが演奏されました。

★レクイエム・ミサ:故人の安息を神に願うカトリック教会のミサ
★1782年8月4日モーツァルト(当時26歳)は妻コンスタンツェ(当時20歳)との
結婚式を聖シュテファン大聖堂で行っている。

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聖シュテファン大聖堂(独Stephansdom)、 ウィーン、 オーストリア


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モーツァルトで一日が始まり一日が終わる [モーツァルト]

そうなんです!朝起きると珈琲を飲みながらモーツァルトの
バイオリン協奏曲1番から5番を聴きつつ新聞を読みます☆

Officeでは適宜モーツァルトを聴きながら仕事をしますが
ピアノソナタを聴くことが多いです☆



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